五、魔女の誕生
ボルゴ村を出てから寝られない日が続いていた。食欲もなかった。焼けた肉の匂いを嗅いだだけで吐きそうになる。
――死にたい。
リーサは新しい一日の始まりを告げる太陽の光が息苦しかった。ベッドに横たわり目を閉じたが、そうするとまぶたの裏に浮かぶのは、ボルゴの村人たちが虐殺される姿だった。
夜が明ける前の一番深い闇の中。村は奇襲を受けた。
村人たちが眠る家には火がかけられ、誰も逃げ出せないように馬が殺された。
寝惚け眼の村人たちは小鬼のような傀儡兵たちに追い回され、銃の餌食になった。
何が起きたかわかっていたのは何人くらいいたのだろう。
農閑期には山を下りて盗賊を営む半農半盗の小村だったが、女子どもまで殺める必要があったのだろうか。
盗みをするのだって、山奥にわずかな痩せた土地しか持たないあの人たちには、仕方のないことではなかったのか。
リーサは惨劇のすべてを見たわけではなかった。
むしろ何も見なかったと言ってもいい。
突然、閉じ込められていた部屋の扉が開いて、背の高い隊長が「助けにまいりました」と胸を張った。
隊長の背後に、紅蓮の炎が小屋の壁を焼いているのが見えた。その足元には、看守役だった意地悪なおばさんが背中から血を流して倒れていた。
隊長はリーサを濡れたマントで包み込むと、小脇に抱えるようにして先に村を離れた。何も見えなかったが、バチバチと木が燃えて爆ぜる音と、男の叫び声や女の泣き声が耳を刺した。
馬に乗せられて山を下っていくとき、振り返ると村のあるところがひとかたまりの炎に変わっていた。
谷間の川のほとりで待っていると、村を襲撃した人や傀儡兵たちが戻ってきた。
リーサはその人たちの話の端々から、村人は皆殺しにされたらしいと察した。
――わたしの、せいだ。
誘拐され監禁されていたリーサが同情してやる必要はないのかもしれない。
「自業自得というものです。あなたが気になさる必要などないのです」
隊長はふさぎ込んでいる彼女を慰めた。しかし、そう言う隊長自身が自分たちを隊商に偽装しているのはなぜなのか。
襲われることを恐れているからではないのか。リーサに関わることは危険だと考えているからではないのか。
リーサは優しいことを言う隊長の目に、「この疫病神め!」とまるで逆の罵倒が浮かんでいることに気づいていた。
――そのとおり。わたしは疫病神よ。生きとし生ける者すべてに忌避される呪い神だわ。
もはや泣く気にもならない。自分のために流す涙などとうに涸れ果てた。
はじまりは十五年前、帝都の退廃貴族が領地の美しい娘を見初めたときだった。娘の父親は呑んだくれのごくつぶしだったが、侯爵の義父になれるぞという甘言を信じ込んで、娘をまるで物のように侯爵に差し出した。
侯爵は娘を帝都に連れ帰ったが、屋敷にはすでに正妻と五人の子がいて、娘は七番目の愛人として劇場街の一角に一室を与えられただけだった。
しかも、侯爵の娘に対する興味は長続きしなかった。彼女の美しさは都会では輝かない種類のものだったのかもしれない。彼女が身籠ると侯爵の足は遠のいた。
替わりに奥方様からのお見舞いと称するお使いが頻繁に訪れるようになった。奥方は彼女が男児を出産することを警戒していたのだった。
結局、生まれたのは女児だったから、その点では奥方は安心したのだったが。
赤ん坊が生まれた日は朝から不穏な雷雲が帝都の空へ集まってきていた。それはその季節の帝都では珍しい天気だった。
魔術省の上級術士の何人かは異常に感づいていた。彼らは額を寄せ合い声をひそめて話し合ったが、何が起きているのかはわからなかった。とりあえず帝都のどこかに魔力の異常な集中が生じているのではないかと予想したにとどまった。
赤ん坊が産声を上げたとき、帝都中の照明装置が魔力の供給過剰で焼けつき、市街全域が闇に包まれた。自動車の駆動機関の回転数もレッドゾーンへ振り切り、中には爆発した例もあった。およそ魔力を使って動いているものはすべて壊れた。
そして、帝都で一番高い聖ダイヤモンド教会の鐘楼に落雷し、建物は全焼した。
この時点ではまだ、何が起きたのか理解できた者は皆無だった。
それからも毎日繰り返される異常事態に帝都はパニックに陥り、皇帝は魔術省に全力を挙げて解決にあたるよう命じた。魔術省は帝国全土から魔力制御の権威を集めて原因の究明にあたった。
考えられるのは制御下にない大量の魔力が帝都に発生しているということだった。が、その魔力の総量はひとりやふたりの魔女の出力をはるかに超えていた。十人以上の魔女が同時に行っていると考えなければ説明できないレベルの魔力発生だった。
しかし、どの魔女の血統にもそんな余力はないはずだった。
年々魔力の湧出総量は落ちていて、数十年後には枯渇するかもしれないと言われている状況で、誰がそんな無駄使いをするだろう。
秘密に魔力の増強実験が行われているのではないかという意見もあった。
それらしい実験を試みそうな市井の魔術士を調査したが、結果は惨憺たるものだった。彼らの半分は夢を見ているのであり、もう半分は詐欺師だった。
異常の原因に最初に気づいたのは赤ん坊の母親である娘だった。彼女は自分の赤ん坊がむずかるたびに帝都の機能が麻痺することに気づいた。しかし、それは黙っていた。
娘は赤ん坊――リーサを奪われることを恐れたのだ。
結局、侯爵家に雇われているメイドが告げ口して、事実は侯爵の知るところとなった。
侯爵は自分に火の粉が降りかからぬよう、秘密裏に娘とリーサを領地へ戻し、長らく使っていなかった別荘に幽閉した。
それによって帝都は様々な魔力トラブルからは解放されたが、代わりに侯爵領が異常気象に見舞われることとなった。季節外れの嵐のせいで果樹の花は受粉前に落とされ、穀物は実が入る前になぎ倒された。
領民たちは突然の不幸になす術もなくうなだれるばかりだった。
魔術省最高顧問魔術士アルポ・ヨンネ・トゥイッカは、その頃ひとつの結論に達していた。そして、それを皇帝が各省の大臣を招集した緊急の秘密会議で披瀝した。
「つまり、そちはこれら一連の異常事態の原因が、五世紀ぶりの新しい魔女血統の誕生によるものだというのだな?」
皇帝はトウモロコシのひげのような黄色く固い頭髪を撫でた。それは判断に迷っているときの彼の癖だった。
「さようでございます、陛下。しかも、この魔女は既存の四血統とは別の源泉から魔力を引き出していると考えられます」
「新しい資源――しかも、まだ誰も手をつけていない資源ということか?」
目を輝かせてそう訊ねたのは皇帝側近のパウリ・ハヴカイネンだった。やがて内務尚書に出世して帝国の内政を牛耳ることとなるこの男も、まだ青年と呼ばれる時期を過ぎたばかりの年頃だった。
トゥイッカは長いあごひげをしごきながら答えた。
「物事にはつねに良い面と悪い面がございます。良い面はたしかに今ハヴカイネン様がおっしゃられたとおり、帝国は新たな魔力の供給元を入手できる可能性がございます。しかも、この魔力の湧出量は四血統の魔女たちが提供できる魔力の総量に対抗しうる……いえ、それをしのぐものでございましょう。新しい魔女を我々の保護下に置ければ、帝国は古い魔女たちの干渉から完全に自由になることが可能となります」
「おおお!」
列席の大貴族たちから喜びの声が上がった。
皇帝は片手を上げて興奮している諸侯を制した。
「良い面はわかった。だが、悪い面もあるということだな。ふむ、新しい魔女がもたらすものに比べれば、大抵の問題は我慢できそうだぞ。魔術士よ、その悪い面というのを申してみよ。どうせ費用がかかるとか、そんなことであろう?」
トゥイッカは目を伏せた。まるでこれから口にすることで自分が罰せられるのを恐れているかのようだった。
「悪い面と申しますのは……場合によっては、世界が滅びてしまうかもしれません」
「朕の国が滅びると申すか」
「帝国のみではございません。蛮族どもの国もふくめてすべての国土、すべての山河、海の果て、空の果てまで、この世界のすべてが無に帰してしまうかもしれないのでございます」
「荒涼とした大地だけになってしまうと?」
「いえ、何もなくなります。真実の無でございます」
「想像もつかないが……。なぜそのようなことになるのだ?」
「それには、まず魔力とは何かというところから説明させていただかなければなりません。我々がこの五百年にわたって享受しております魔力という力は、本来この世界に存在しているものではありません。この力はこの我々の世界とは別に存在する世界から流れ込んでくる力だと考えられております。また、近年の研究によって、魔力は別の世界に存在する力というより、別の世界そのものが我々の世界との接触点において――これすなわち魔女でございますが――魔力という力に変質しているらしいとわかってきました。魔力の枯渇ということが言われて久しいですが、これは我々が魔力を消費することで魔力の源である異世界を滅ぼしつつあるということでございます」
「異世界そのものがなくなりつつあるのだな。では、この我らの世界も同じようになくなってしまうとそちは申すのか」
「いえ、魔力の枯渇とこの世界が滅びるかもしれないということは、また別の話でございます。魔女はよく井戸と釣瓶に譬えられますね。強い魔力を出せる魔女は〈深い井戸〉だと言われますし、一度に大量の魔力を出せる者は〈釣瓶桶が大きい〉と言われたりします。わたくしも上手い譬えだと思ってまいりましたが、このたびの新しい魔女はどうやらその譬えにはふさわしくありません。譬えるならば井戸ではなく、大河の堤防に空いた穴とそれを塞いでいるバルブというべきでしょう」
「汲み出さなくても噴き出してくるというのかね?」
「さようでございます。この魔女はまだ魔力を制御できておりません。おそらく生まれたばかりか非常に幼いのだろうと思われます。いずれこの者もおのれの力の制御を身につけることでございましょう。しかし、問題はこの者の身に何かあった場合です」
「何かあるとは?」
「若い魔女が事故などで死亡したとき、どんなことが起こるかご存知の方はいらっしゃいますか」
警察長官が手を上げて答えた。
「たしか――爆発するのではありませんでしたかな?」
「そうそう、皆さんは十年前の中央駅の事故を覚えていらっしゃいませんか?」
警察長官は誇らしげに一同を見渡した。
「あれは雑踏に押された若い魔女が、ちょうど構内に入ってきた汽車の前へ転げ落ちてしまったのです。大爆発でした。百名近い死者と数百名の負傷者。一番線と二番線が壊滅状態で、駅舎の屋根まで噴き飛ばされていたのを覚えております。すべての修復工事が終わったのがようやく三年前のことでしたよ。当時わたくしは先の皇帝陛下にお仕えして帝都の警護隊長を務めておりましたが、あの事故の日にはたまたま非番でございまして――」
トゥイッカはうやうやしく警察長官に頭を下げた。止めなければどこまでも自分の思い出話を続けそうだった。
「魔力は魔女の肉体を通じてこの世界に現れます。それを制御しているのが魔女の精神です。実は魔女が死ぬとき、このふたつは同時に停止するわけではありません。本当に一刹那ですがズレがあります。それはごく短いラグですが先に精神が停止するのです。すると、その一瞬、水門が開いたように魔力が肉体を通じて出てまいります。老衰や病死ならば先に肉体が衰弱しておりますので、そこを通ってくる魔力も大した量ではありません。周囲にはほとんど何の影響もないでしょう。しかし、これが若い健康体の魔女だった場合、今警察長官がおっしゃられたような爆発になります」
「五世紀ぶりの魔女が爆発したらこの世界が滅ぶと――?」
「それはもう爆発などという言葉ではすまされないでしょう。この世界の許容限度を超えた魔力が一気に流れ込む可能性があります」
長い沈黙があった。
誰かが何かを言わなければいけないのに、みんなそれを恐ろしい罰のように感じているのだった。
皇帝が銅の盃に注がれた強い葡萄酒をあおった。
「あくまでも可能性なのだな?」
「はい。実際のところどうなるかわかりません。しかし、わたくしなら試してみようなどとは毛頭考えませぬ」
「朕もそんな蛮勇は持ち合わせん。我らは何を置いてもこの五世紀ぶりの魔女を保護するのだ。一分一秒の猶予もならん。それから、一同わかっていることと思うが、このことは四血統には絶対に秘密にしておかなければ――よいな?」
侯爵領の天候不順はすぐに魔術省の知るところとなった。秘密警察は、侯爵の七番目の愛人が娘を産んだあと消息不明になっていることも調べ上げた。
侯爵が秘密警察の本拠である通称ペスト庁に連行された三日後、所領ならびに爵位を長男に相続させるという勅令書が奥方の元に届けられた。
とうとう侯爵は戻らなかったが、自分の子に家督を継がせることができた奥方はそれだけで満足だった。
侯爵は欲をかきすぎたのだった。娘の価値を知った彼は、魔力の所有権を主張して、皇帝の不興を買った。彼の死骸は細切れにされて、帝都の地下に張り巡らされている下水道へ棄てられた。
リーサと母親は魔術省の手によって皇帝直轄領のひとつに移された。先代皇帝が建築した夏用の宮殿が彼女たちの新しい住まいになった。
そこでは、彼女たちが足を踏み入れる部屋はすべて燦々と輝いていた。高価なミスリル銀で壁も天井も覆われていたのである。
しかし、それは彼女たちを歓待するための内装ではなかった。ミスリル銀には、魔力を通さないという特性があったからである。
〈夏の宮殿〉は言ってみればリーサ専用のミスリル銀製の檻だった。
彼女たちはそこで何不自由なく暮らすことはできたものの、一歩たりとも外へ出ることは許されなかった。
リーサには〈夏の宮殿〉の記憶はほとんどない。
母親の記憶もほとんどない。愛されていなかったのかと疑うこともある。覚えている母親は、少し離れたところから冷たい目で彼女を見つめている姿だった。
あの眼は恨みがこもっているようだった、とリーサは思う。
彼女は知らなかったが、実際、それは間違いではなかった。
〈夏の宮殿〉で彼女たちは孤独ではなかった。彼女たちのためにそこでは百人近い人間が働いていたのである。彼女たちのすぐそばにもメイドや乳母、魔術士たちが何人もいた。
しかし、リーサの母親にとってそこでの暮らしは退屈以外の何ものでもなかった。彼女はまだ若く、未来を捨てて隠棲者のように生きていく覚悟はなかった。
リーサの母親は帝都に戻りたがった。愛人でしかなかったとはいえ、劇場街の片隅で暮らしていたときの方が面白かった。
キラキラ輝く宮殿は見かけこそ豪華だが、リーサの母親にとっては人生を窒息させる牢獄でしかなかった。毎日悲嘆にくれるようになり……結果、その原因であるリーサを憎むようになった。
リーサさえいなければ楽しい生活を続けられたはずなのだ。
母親はリーサを捨てた。月に一度様子を見に〈夏の宮殿〉を訪れるトゥイッカに、自分だけ都に戻してくれるよう懇願した。
老魔術士は、考えてみましょう、と言った。もちろん、彼に母親を解放するつもりはなかった。
母親から五百年ぶりの魔女誕生の秘密が漏れるのを警戒したということと、もうひとつ理由があった。
トゥイッカが〈夏の宮殿〉を去って間もなく、若い衛士長が赴任してきた。
金髪で、軍人なんかよりも役者にしたいような美貌の持ち主。衛士長といっても誰が攻めてくるわけでもなかったから、彼の務めは専らリーサの母親の相手だった。
ふたりの親密さは徐々に増していき、やがて傍目にもただならぬ関係だとわかるようになった。しかし、それで衛士長が咎められることはなかった。何をしても許される家柄なんだ、と元は田舎娘にすぎないリーサの母親は考えた。
しかし、衛士長の家柄なんてようやく貴族の末席に潜り込んでいる程度。しかも、三男坊で、彼には身分も力も何もなかった。あるのはただ美貌だけ。そして、そのために彼は〈夏の宮殿〉へ送り込まれたのだった。
衛士長が咎められるはずがなかった。むしろ評価されてしかるべきだったのである。彼が〈夏の宮殿〉で与えられていた任務は城の警護などではなく、リーサの母親の籠絡であり、最終的には妊娠させることだった。
リーサが三歳の春に妹が生まれた。妹は普通の赤ん坊だった。魔女ではなかった。
それから二か月後、衛士長は突然の転属命令で帝都へ帰っていった。
リーサの母親はついて行きたがったが、衛士長にすげなく断られた。彼の〈夏の宮殿〉での仕事は終わったのだ。結果は不首尾――彼に求められていたのは新しい魔女を産ませることだったから。
新しい衛士長は不細工な中年男だったが、魔術士の工房に新しい見習いが入った。その魔術士はリーサの教育係を言いつかった。
一年後、リーサの母親は男の子を出産した。魔術士は北部の工房で新たに設けられた研究チームに抜擢されて城を去った。母親はまた置き去りになった。
リーサの新しい教育係には、黒い髪をして日に焼けた肌の、魔術士らしからぬ男が送られてきた。トゥイッカは母親の愛人には魔術士と決めたようだった。
さすがに母親も何のためにあとからあとから男が送られてくるのか気づいていた。そして、男を自分の許にとどめたかったら、娘を、しかもリーサのような魔力を持つ娘を産まなければならないのだということもわかっていた。
リーサが八歳になった夏、彼女には弟と妹がふたりずついた。どの子も普通の子だった。
じきに三人目の弟か妹が生まれることになっていた。
リーサはほぼ自分の意志で魔力を制御できるようになっていた。ただ、まだ感情が昂ると魔力を暴発させてしまうのだった。
それがなくなれば、外へ連れて行ってあげる、と言われていた。外の世界はリーサの憧れだった。
三人目の妹はリーサと同じ銀色の髪を持って生まれた。しかし、同じなのは髪の色だけだった。
「そんなに外へ出たいかい?」
その日、三人目の妹の父親でもある教育係が訊いてきたので、彼女は「お庭で遊びたい」と答えた。
二週間後、教育係の魔術士へ帝都からふたつのものが届けられた。ひとつは彼に、帝都へ戻ってくるように、という魔術省からの指示書だった。もうひとつは彼がリーサのために魔具職人に特別にあつらえさせた品物だった。
彼はリーサを呼んで、これがあれば外へ出られる、と言った。
それはキラキラ輝くミスリル銀で造られていた。まだ小さなリーサの頭部をすっぽりと包む仮面。
リーサは大喜びで受け取り、妹たちと鬼ごっこをするため庭へ出ていった。
その夜、リーサの母親は魔術師を刺し殺し、〈夏の宮殿〉に火をつけた。