三、砂漠の夜、旅をする者たち
夜になると砂漠はひどく冷え込んだ。それでも太陽に焼かれながら移動するよりはましだ、とエルザは言った。
かれはどちらでもよかった。熱さも寒さも感じはするが、機械仕掛けの身でそれを「つらい」と認識する能力は与えられていなかった。
しいてどちらかを選ぶなら機械油が固まりかねない寒気よりは暑熱を選択する。ただ、動いていれば関節が動かなくなる心配は少なかった。
エルザは星を見て北西に進んでいた。
風もなく、空は澄み渡っていた。彼女たちの頭上に数万の星々が輝いていた。
馬の吐く息は白く漂い、蹄が砂を掻く音は広大な空間に反響もなく消えていく。
かれはエルザの馬の左側にぴったりついて走っていた。
馬に比べて速くなることも遅くなることもなかった。傀儡は疲れないし、単調さを苦にすることもない。
防砂用マントのフードを深く下ろし、目は地平線上の一点を睨んでいた。どこへ向かっているのかは聞かされていなかった。
かれは、砂漠を旅するのは初めてではなかった。
――ぼくは何度となく砂漠を旅した……はずだ。
かれの意識のスクリーンには、幾つものイメージが重なり合うようにして、映っているのだった。
……今夜のような冷たい水のような月の光に照らされて、重い背嚢を背負って歩き続ける。
まっすぐ前を向いて、見えるのは前を歩く仲間の背嚢だけ。
足の下の砂は心もとなく、転んで隊列を乱すことがないよう、慎重にバランスをとって歩く。
……あるいは、空から溶け出してきたような太陽の下、すぐ後ろで爆発する砲弾の音を聞きながら、まだ見えない砦を目指して全力疾走を続ける。
砲弾はひゅるひゅると鳴きながら飛んできて、落ちて爆発するたびに盛大に砂を噴き飛ばす。
それがシャワーのように頭や肩へ降りかかり、シャッ、シャッ、と何かを炒っているような音を立てる。
ときどきそこに仲間の腕や脚が混ざる。
どれが先とも後ともわからない。どうしてそんなことになっているのかも覚えてはいない。
ただ折り重なった映像の中に、他のどれともちがうイメージがある。
そこではかれは大型の砂漠航行用車輌の脇を走っている。
航行車輌は白く塗られ、マストには三本のクローバーの紋章が染め抜かれた旗がはためいている。
そして、甲板には日傘をさした白いサマードレスの美しい少女が、額に汗のつぶを浮かべて、かれに手を振っている。
なぜだろう、このイメージを想い浮かべるときだけ、胴体中心の駆動系に小さな振動が走り、大歯車が熱を帯びる感じがする。
「お前に名前をつけようと思うんだ」
退屈になったのか、エルザがふいに言葉を発した。
かれは〈思い出〉から現実へと引き戻された。
「名がないと、いろいろと不便だからな。たとえば〈トール〉というのはどうだ? あたしの故郷の言葉でのっぽって意味だ。おまえはチビだからな」
どうだと言われてもかれの方は話せないのだから答えようがない。
「ああ、喉が壊れているんだったな。じゃあ、気に入ったときは、あたしの脚を二回叩け。嫌なら一回。わかったか? それでいまの〈トール〉はどうだったんだ?」
かれはエルザに寄って一回だけその膝を叩いた。
「ははは、嫌か。そうか、はは。……人形のくせに生意気なやつだな」
「昔、トミーという犬を飼っていたんだ。トミーじゃどうだ? いい名だろう?」
「おまえは渓谷の岩の割れ目に挟まっていたからな。割れ目ってどう? 名前らしくないか?」
「マッチの先っちょってのは面白くないか? マッチの先っちょ。気に入らないか? いやあ、おまえの頭を見てたら、マッチの先っちょに似てるなとふと思ったんでな……」
「じゃあ、おまえ、小銃だ。もうこれで決まり。嫌とは言わせないよ。何てったっておまえの左腕には、長年あたしが生死を共にしてきたカラビーナが仕込んであるんだからね。つまり、おまえはあたしのカラビーナなんだよ。いいね? おまえは今からカラビーナだ。カラビーナ。カラビーナ。いい名前じゃないか」
エルザは考えるのが面倒になったらしくまた黙り込んだ。
かれは、カラビーナ、カラビーナ、と新しい名を胸の中で反芻した。たしかに悪くはない。だが、本当の名前ではなかった。
――本当の名前の方がずっといい。
しかし、それを思い出せなかった。
この夜、砂漠を旅していたのはエルザたちだけではなかった。
彼女たちから一〇リーグほど東を南下している二騎があった。
鶏がらのように痩せた男と、脂身をタコ糸でギュッと縛り上げたように肥満した男。しかし、乗っている馬は痩せた方が栗毛の若馬なのに、太った方はところどころ毛の禿げている老いた痩せ馬だった。
これでは、どうしたって太った方の馬が遅れる。痩せた方はそれが気に入らないようで、しきりに振り返っては文句を言う。太った方も負けじと言い返してはいるものの、口では痩せたのに敵わないようだ。
痩せた方が乾燥地域農業改良巡回監督官マンフレード・シモネッティ。太った方がその補佐フェルナンド・フラスカーニである。
もっとも、この乾燥地域農業改良巡回監督官という肩書はカムフラージュで、その正体は帝国内務尚書直属の秘密諜報員ということになっている。
なっている、といわざるをえないのは、帝都を出発して以来、このふたりときたら諜報員らしいことなんて何もしていなかったからだ。もちろん乾燥地域農業改良巡回監督官らしいこともしていないわけで、厳密には〈何者でもないふたり組〉というのが一番正しい。
「報告書は書いたの、キミ?」
シモネッティが落馬しそうなほど身体をひねって後ろに怒鳴った。怒鳴らなければならないほど二騎は離れていない。
「報告書ですか? シモネッティ、それはアナタの仕事じゃないですか」
「やだよ、アタシは。誰のせいでこんなことになったと思ってるの? キミのせいでしょ。キミが南部一キレイな姐ちゃんがいると評判の酒場に行きたいって、それで三日も遠回りしてしまったからじゃないの」
「南部一キレイな姐ちゃんがいると評判の酒場があるって言ったのはアナタでしたよ」
「アタシはキミに情報を伝えただけ。行こうとも行きたいとも言ってないから。行きたいって言ったのはキミだから。わかってる? 遠回りになるともアタシは言ったよねえ。それでも行きたいって、フェルナンド・フラスカーニ、その口が言ったんだからね。覚えてる?」
「ええ、ええ、言いました、言いましたとも。でも、三日もかかるとは教えてくれなかったじゃないですか、アナタ」
「言い訳だね、それは。キミがキレイな姐ちゃんのとこに行きたがったせいで、お宝を取り逃しちゃったんだから。まっすぐあの村に行ってれば今ごろ意気揚々と帝都に帰れたのにさ」
ふたりがボルゴ村に着いたとき、その小村はすでに焼かれたあとだった。藁屋根は燃え落ち、全焼した納屋がくすぶっていた。
馬小屋の残骸に焼死した馬の死骸があった。
目に染みる異臭をたどって村の中央に小さな広場へ入っていったふたりは、そこで全身の血を凍りつかせた。
……村中の人間が広場の中央に山積みにされていた。
男も女も子どもも年寄りも、そこに積み重ねられて焼け焦げていた。
村にはひとりの生存者もいなかった。
この村ではいったい何があったのか?
なぜ村人は皆殺しにされなければならなかったのか?
わからないことだらけの中に、ただひとつだけわかっていることがあった。
ふたりが探していた人間はもうここにはいない。誰かに連れ去られたのだ。
誰かに先を越されたということなのだ。
「いやあ、そこなんですよ、アナタ」
フラスカーニは痩せ馬の腹を蹴って、シモネッティとくつわを並べた。
「失敗したんだからもう都に帰ったらどうなんです? 何で南に向かうんです?」
「南にはキレイな姐ちゃんが――」
「いるんですか? へへへへ。」
「いるわけないじゃないの、キミ。まったく懲りない男だねえ。いい、キミ? 今帝都に帰ったらどうなるかわからないかなあ? キミは任務に失敗したのよ――」
「アタシだけじゃないです」
「へっ?」
「任務に失敗したのはアタシだけじゃないです。アタシとアナタですから」
「細っかい! そんなんじゃ出世しないよ。はいはい、わかった、わかった。ボクも失敗したよ、キミのせいでね」
「結局そこですか。何だかんだ言ってアナタも結構細かいです」
「うるさいね。人がせっかく説明しようとしているのに、何で腰を折るかなあ。最後まで黙って聞きなさいよ」
「腰を折らざるをえないようなこと言うのがいけないんですよ」
「もういいよ。まあ、聞きなさいよ。このまま帝都に帰って内務尚書の前に出てごらんなさいよ、よくって左遷、悪けりゃ刑務所行きよ。それぐらいのことがわからないかなあ?」
「それで逃げるわけですか」
「やだねえ、人聞きの悪い。誰が逃げてんのよ? キミは逃げているわけ?」
「だって、これは帝都から逃げているんでしょ?」
「何言ってるんですか。全然違いますよ、キミ。ボクらはね、今、対象を追跡しているのよ」
「えええっ! そうだったんですか、アナタ」
「そうなのよ。ワレワレは対象を連れ去った敵を追走中なの」
「ぜんっぜん知らなかった! さすがシモネッティさん、転んでもただじゃ起きませんね。すると、この先には対象がいるってわけで……」
「うむ……いると言えばいるし、いないと言えばいないってとこだな」
「いないんですか」
「いないと思う?」
「えええ? いないの?」
「どうかなあ。いるかもしれない。まあ、いてもいなくてもいいのよ」
「わからない……シモネッティさんの言うことがわからない……」
「うん、キミは馬鹿だからね。ちょっとこの話は難しすぎるかもしれない。まあ、報告書を書きなさいよ。目的の村に着いたときには対象はひと足違いで連れ去られたあとだったが、我々はあきらめることなく果敢に対象を追跡中であると――」
「つまり、ウソですよね?」
「ウソじゃないのよ。実際この先に対象はいるかもしれないんだから」
「うわあああ、アナタは最低だあ」
「ひどいなあ、キミは。まあ、一年ぐらいこうしてそこらをブラブラしていたら、ほとぼりも冷めるってもんです」
遠くから近づいてくる蹄の音を、カラビーナは聞いた。
やがて、砂の山の稜線に影が現れ、斜面を下ってくるのが見えた。
しばらくして、エルザが気づき、それを指差して、迎えだ、と言った。
近づいてくるのは鹿毛の馬に乗った男だった。亜麻色のターバンの下の日に焼けた顔が、青白い月の光を受けて病人のように見える。
男は白い歯を見せて笑いながら近づいてきた。
「お帰り、エルザ。そろそろ戻る頃合だと思ったんだ。勘が当たった」
「ただいま。みんなは無事かい? 問題はない?」
「みんな元気だ。この先のオアシスで久しぶりにのんびりしているよ。あんたときたら、また随分と可愛いのを連れて帰ってきたな」
「西ゴベシャル渓谷で拾ったんだ。アリキの町に寄り道して、昔の知り合いに修理してもらったんでね、ちょっと遅くなった。こいつ、カラビーナってんだ」
「変な名前をつけたな」と男は笑った。
「カラビーナ、この兄さんはアントーニオだ。ほら、挨拶しな」
カラビーナはフードを取って頭を下げた。
「へえ、礼儀なんか知ってんだ。珍しいな。帝国の歩兵だね。十年くらい前の型式だ。通称〈大豆あたま〉って呼ばれてるタイプだね」
「くわしいな、アントーニオ」
「そりゃこいつら〈大豆あたま〉が現役だったころ、おれはまだ軍隊にいたからなあ」
「そういえば、アントーニオは昔〈帝国の犬〉だったんだっけね」
エルザは背を丸めて、くくく、と笑った。
「生まれつきの盗賊なんていないんだから、そういう言い方はやめてくれるかな。それを言ったらエルザだって〈反乱軍の豚ども〉のひとりじゃないか」
アントーニオも楽しそうに言い返す。
ふたりはこんな罵り合いをもう何年も楽しんできたのだろう、とカラビーナは思った。
「あたしは太ってないから豚じゃないよ」
「気に入らないのはそこかい!」
かわいた笑いが広い空にすうっと吸い込まれていった。
「そういえば、エルザ、さっきから気になっていたんだが、あんた、銃をどうした?」
「まあ、いろいろとあってさ」
「なくしたのか? 思い入れのある銃だったろ?」
「仕方ないさ」
どうやらエルザは、自分の銃をカラビーナの左腕に仕込んだことを、アントーニオには隠しておきたいようだった。
ふたりと一体は、水の中にいるような月光の下、砂の山を越えてオアシスを目指し進んだ。
大きな深緑の葉を垂らした灌木が周囲を囲むオアシスに着いたのは、東の空が白々明るくなりつつある頃だった。