二、魔女よりの使者
扉が開いた。
うつむいて入ってきた黒衣の女は顔を上げるなり、失望の表情に変わった。
ガエターノ・フェノアルテアは執務机から白粉を厚塗りした女に冷たい視線を送った。
――領主様が待っているとでも思っていたか。
落胆を取り繕うとしている女に、ガエターノは爆笑してしまいそうだった。
たかが使者ごときがディ・チッコ侯に拝謁できると考えること自体が笑止だった。
だいたい、領主が実務にはまったく興味を持たずすべて配下任せだというのは、ギッチオの人間なら誰でも知っていた。
領主を引っ張り出したければ戦でも起こすしかない。ディ・チッコ侯アブラーモが自ら望んで行きたがるのは戦場だけだ。
「ようこそ、ギッチオへ。使者殿は当地は初めてですか」
ガエターノは女たちには評判のいい笑顔をつくってみせた。
「家令殿、〈ゲルトラウデの血統に連なるアデーレ〉は、ご当家の工房が上げた成果に重大な関心を寄せております」
黒衣の女は刺すような目でガエターノを見つめた。
女は魔女〈ゲルトラウデの血統に連なるアデーレ〉の使者だった。アデーレはギッチオではなじみの薄い魔女だ。
この地で幅を利かしているのは〈ビルギッタの血統に連なるエルネスタ〉〈ビルギッタの血統に連なるアントーニア〉〈レーニの血統に連なるフリーデ〉〈イングリットの血統に連なるウルズラ〉の四人。
ビルギッタ、レーニ、イングリット、ゲルトラウデ――魔女の四血統のうち、ゲルトラウデだけがこの地に進出できずにいた。
世界で最初の魔女はビルギッタだと伝えられている。五百年前のこの農家の主婦が、世界で初めて望むときに望むだけの、安定した魔力を湧出させた。
もちろん、それ以前から世界には魔法も魔力も存在していた。しかし、それはいつも行き当たりばったりの、あてにならない〈不思議な力〉でしかなかった。
病は必ず治るとはかぎらず、火球は必ず敵陣に飛ぶとはかぎらなかった。
物体を何もない空間へ出現させることも、消滅させることも可能だったが、百回やって一度できるかどうか。
当時の魔術はしょせん見世物の域を出なかった。
安定して魔力を湧出させる魔女の誕生は世界を変えた。
たまたまビルギッタの住んでいた地方の領主であったにすぎないリュンガー侯フリードリヒは、彼女の魔力を戦争に用い、八十年の生涯で世界の三分の一を手に入れた。
諸侯はビルギッタのような魔女を望み、世界中に魔女探しの熱風が吹き荒れた。各地で魔女と魔法使いが発見されたが、そのほとんどが偽物だった。また、魔力を湧出させる力を持ってはいても安定した力は引き出せなかった。
結局、その後の半世紀の間に見つかった魔女は三人だけだった。
ビルギッタ。
レーニ。
イングリット。
ゲルトラウデ。
安定した魔力を湧出させる能力は、この四人の直系の娘にしか出現しなかった。また、すべての娘に能力が引き継がれるわけではなかった。
世代が下るにつれて魔女の数は増えていったが、それでも全体で百人を超えることはなかった。
魔女たちは血統ごとにギルドをつくり、諸侯の下を離れて彼らと対等、もしくはそれ以上の位置に立った。
そして、現在、魔女たちは帝国、〈神の光教団〉と並ぶ勢力となっているのだったが――。
――ゲルトラウデとしては何とかこの地に足がかりを作りたい、ということなのだろうよ。
ガエターノはアデーレの使者を見つめ返した。
「うちの工房が何をしたというんです?」
「人工魔石の開発に成功したそうですね。おとぼけにならないでください。ご当家がまだ隠しておきたい事情はわかりますが」
「帝都ではそんな噂が広まっているのでしょうか。困ったことです」
ガエターノは使者から目を背けた。たぶんこれで嘘をついていると見えるはずだ。
「まだ噂にはなっておりませんが、いずれ近いうちに帝都じゅうに知れ渡るでしょう。そうなれば魔石鉱山を領内に抱える家は黙っていない」
「そんなあてにならない噂ごときで鉱山を持つような大家が動きますかね?」
「ただの噂なら根も葉もない噂にとどめておきたいというのが彼らの希望でしょう」
「つまり?」
「工房の技師がいなくなれば人工魔石の開発はやめざるをえなくなりますよ。方法はいくらでもあります。技師を買収してもいいですし、誘拐したっていい。いちばん簡単なのは暗殺することですね」
「そいつは大変だ。アマートに注意してやらねば――」
女の目が光った。
「技師の方はアマート様とおっしゃいますのね?」
――かかったな。
ガエターノは十数年来の目論見がようやく成功の兆しを見せ始めていることにほくそ笑んだ。
辺境ではないにしても、これといった産業を持たないギッチオがどうやって金と力を手に入れるか。
そこで目をつけたのが人工魔石の開発だった。
魔女が引き出した魔力も、魔石がなければその場限りのものでしかない。魔石に蓄えることによって移動や保管が可能になった。
魔石の発見が全産業に革命的な変化をもたらしたのは二百年前のことだ。
魔石に蓄えられた魔力が、魔女のいない場所でも、魔道具を機能させる。魔石と魔道具の組み合わせが、すべての人間を魔法使いに変えたのだ。
魔力の供給を支配する魔女血統。
魔石鉱山を所有する大諸侯家。
魔力の使用技術を独占する魔術師学会。
魔道具を生産する各種職人ギルド。
これら魔法産業のどこか一画にでも食い込むことができれば、ディ・チッコ家は弱小諸侯から有力家の一つに仲間入りできるだろう。
もしも、安価で人工魔石を供給できることになれば、鉱山所有の諸侯家に流れていた金は一気にギッチオへ流れ込み、ディ・チッコ家は大諸侯家の地位を奪うことになるかもしれない。
「そんなに大騒ぎするようなものじゃない。まだ実用化にはほど遠いのですよ」
ガエターノは手を拍って大笑した。
すると、黒衣の女は、まるで家庭教師が出来の悪い生徒の答えを聞いたときのように、大げさに首を振った。
「だからこそ今なのではありませんか」
「ほう?」
「家令殿、アデーレは……そして〈ゲルトラウデの血統に連なる者たち〉はご当家の利益を保護する用意をしております。あとはそちらがそれを望まれるかどうか」
「技師のひとりくらいわれわれだけで守れますよ」
「はたしてそうでしょうか?」
そのとき、ガエターノの執務室の扉が激しく叩かれた。
黒衣の女は秘密をふくんだ笑みを浮かべてガエターノを見た。
しばらく前――
厩の前には二台の箱馬車が停められていた。
一台の馬車は濁った葡萄酒のような色で塗られていたが、側面の窓の下に、角のある魚を象ったゲルトラウデの紋章が、金絵具で描かれていた。
もう片方の馬車は全面を鉄板で覆われており、紋章もなくただ深夜のように漆黒に塗られていた。
どちらも馬は繋がれていなかった。
そばには、ゲルトラウデの紋章が染め抜かれたマントを羽織ったふたりの護衛兵が番をしていた。城に着くなり休憩も与えられず見張り番に立たされたふたりは、空腹を紛らわせるために隊長の悪口を並べて時間を潰していた。
黒衣の女がぬかるんだ地面に足をとられそうになりながらやってきた。
この女はガエターノの前にいる女よりもずっと若い。ようやく子どもの時代を終えたばかりというところ。
護衛兵が声をかけたが、黒衣の少女は無視して漆黒の箱馬車へ歩いていった。
馬車の後部の観音扉を開けて、彼女はその中へ乗り込んだ。
相手にされなかった護衛兵はまた無駄話に戻り、箱馬車が細かく振動し始めたのに気づかなかった。
心臓が千度拍つよりは早く、黒衣の少女は箱馬車から降りてきた。
彼女のうしろに全身銀色の傀儡が続いて現れた。
少女が小さいこともあるが、傀儡はかなり大きい。護衛兵が駆け寄ってきたが、彼らよりも頭ひとつ背が高かった。
胴回りも、腕も太い。かなりの重量があるのだろう、足元は足首まで泥の中に沈んでいた。
巨躯はそれだけでも威圧的だったが、肩の上に乗っている牙を剥いた獅子の頭は、その印象をさらに強めるものだった。
「デリア殿、傀儡をいかがされるのです?」
黒衣の少女は目の前に立ちふさがった護衛兵へ冷たい視線を投げた。
「そこをどいてください」
「城主の許可なく重装傀儡兵を城内で動かすのは、この上なく礼儀を欠いたこととおわかりですか。室内で抜刀するのと同じことです。攻撃されても文句は言えません」
「存じております」
少女は冷たく言い放った。少女の背後で獅子頭の傀儡兵は唸るような音を立てていた。
「では、この傀儡兵を馬車にお戻しください」
「これは御使者インゲボルク様の命令です。そこをどきなさい。あなた方もゲルトラウデの者ではないですか。アデーレ様のお考えに逆らうのですか」
魔女の名が出ると、ふたりの護衛兵は狼狽した。
「これはアデーレ様のご指示なのですね?」
「くどい!」
少女がそう吐き捨てた次の瞬間――
ふたりの護衛兵の身体はぬかるんだ地面に倒れていた。
獅子頭の傀儡兵が少女の前に移動していた。
「怪我はさせていないはず――あなた方はここで待っていなさい。行きましょう、〈白銀の獅子〉」
少女はそう言うとまた傀儡兵の前に立って歩き出した。彼女の向かう先には門塔があった。
門兵は近づいてくる黒衣の少女と巨大な傀儡に愕然とした。
傀儡の身体が、雲の切れ間から射す光を反射して、まぶしく輝いている。関節部についたスパイク。獅子の頭部。それはどう見ても戦闘用の傀儡だった。
「魔女のやつらときたら、まるで常識がねえ」
「どうした?」
ぼやきを聞きとがめた同僚が窓から外を覗く。
「おい、何だ、ありゃ?」
「傀儡以外にゃ見えねえよなあ。しかも、重装甲兵だ。手入れがいいや。きらきら光ってやがる。あれはそんじょそこらの量産型じゃないぜ。どこぞの名のある工房の一点ものだろうよ」
「悪趣味だねえ。金があるところを見せびらかしたいんだな。とはいえ、マナー違反だって教えてやらにゃいけねえよ」
「おーい、お客人」
少女は門兵の声に足を止めた。門塔の中ほどにある窓から、門兵が身を乗り出している。
「中に入るんでしたら、その傀儡兵を眠らせて、ここに置いていってください。起きたまま中へは入れられません」
少女は無表情に門兵を見上げて黙っていた。
「すみませんがそういう決まりなんです。それとも、ガエターノ様の許可をもらってらっしゃいますか。それでしたら、そのまましばらくお待ちください。急いで確認してまいりますので」
「許可などない」
少女がぼそりと言った。
「はぁ? 何とおっしゃいましたぁ?」
門兵ののんびりした声が、城の前庭に響いた。
「行け、レオーネ」
少女は囁くように言った。
傀儡兵の銀色の巨躯が閃光に変わった。その巨きさからは想像もつかない速さで、門塔の下の頑丈そうな扉へ突進する。
衝撃は門塔全体を揺らし、門扉はたった一度の衝突で建物の内側へ倒れていた。
「何をしやがる!」
窓枠にしがみつきかろうじて外へ振り落とされなかった門兵は、あわてて壁に掛けられたマスケット銃を掴み、窓辺に戻った。
しかし、眼下にはもう少女も傀儡兵の姿もなかった。
制止しようとした警護兵はことごとく打ち倒された。
獅子頭の傀儡兵のすばやさは、その巨体にもかかわらず人間の運動能力を軽く凌駕していた。
銀色の巨躯が狭い回廊を疾駆する。立ちふさがる兵はすべて一打ちに倒された。たまに剣で打ちかかる者もいたが、鏡のように磨かれた傀儡兵の鎧表に傷ひとつ残せなかった。
傀儡兵は回廊を突破して中庭を居館に向かった。
狭間窓から銃士たちがマスケット銃で狙い撃った。しかし、誰も傀儡兵の速さについていけていなかった。弾丸はむなしく中庭の土をえぐっただけ。
居館の入口の前に重装歩兵が密集陣形をつくって長槍を構えた。
白銀の獅子は一瞬もひるむことなく、槍衾に向かって突進していった。
槍の鋭利な穂先も傀儡兵の外殻を貫くことはできなかった。陣形は巨躯の体当たりを食らってもろく崩れた。
扉が激しく叩かれていた。その尋常でない乱暴さに、ガエターノは動揺した。そういえば、さっきから外が騒々しいようだった。
「入れ!」
そのことばと同時に飛び込んできたのは、初老の警護兵だった。
「ガエターノ様! 大変です!」
その兵士は顔を真っ赤にして叫ぶように言った。
「お客様がいらしている。落ち着いて話せ」
ガエターノは冷静を装った。黒衣の女に狼狽を悟られたくはなかった。
「正体不明の傀儡兵が城内に侵入しております! 城内の警護兵全員で対抗しておりますが制止できません。ただいま敵は居館一階におります。どうやらここへ向かっているようです。至急避難なさってください」
警護兵の目に絶望の色がにじみ出しているのを、ガエターノは認めた。
ガエターノは魔女の使者を見た。
彼女は口元に薄笑いを浮かべて警護兵を眺めていた。落ち着いたものだ。どうやら彼女には事態が理解できているらしかった。
「どういうことなのです? 説明していただけますか」
ガエターノは黒衣の女に訊ねた。
女は彼の方へ向き直った。何か言いかけたとき、その背後で警護兵が絶望的な声を上げた。
「うああああああああ!」
銀色の何かが警護兵を弾き飛ばした。兵士の身体は一度天井に当たり、それからガエターノの執務机の上へ落ちた。
「大丈夫。殺してはいません」
涼しい声が部屋の入口の方から聞こえた。まだ若い娘の声だ。
しかし、ガエターノは部屋の中央に屹立して自分を見下ろしている銀色の傀儡兵から視線を外すことができなかった。
「インゲボルク様、お待たせいたしました」
使者と同じ黒い衣を着た少女が傀儡兵の傍らに歩み出て、その腕に手をかけた。
「デリア、首尾はいかが?」
「ご指示通り。多少の負傷者はいるでしょうが、死んだ者はいないはずです」
「ご苦労様でした」
黒衣の女は執務机を回り込んで、ガエターノへ手を伸ばせば触れる位置に立った。
「家令殿、おわかりになりましたね。あなた方では技師を守ることは不可能です。わたくしどもと力を合わせて事に当たるのが最善の策でございます」
部屋の入口付近が騒がしくなった。開いたままの戸口に、兵士たちが銃を構えて現れた。
「ガエターノ様、ご無事ですか!」
銃口は傀儡兵に向けられていた。この距離なら外すことはないだろう。だが、ガエターノにはその弾丸が傀儡兵の鎧殻を撃ち抜けるとも思えなかった。
黒衣の少女の目に怒りが見えた。
「無事だ。問題はない。銃を下げろ、馬鹿どもめ。客人と面談中だとわからぬか」
「しかし――」
「わたしの命令に逆らうのか。ここは問題ないと言っておろう。おまえらは城内の負傷者の手当てに当たれ。それから一刻以内に損害状況の報告を。良いか?」
「はっ!」
兵士たちは不承不承という感じで下がっていった。
「損害については」と黒衣の女が言った。「請求書をこちらにお回しください。アデーレが責任をもって弁償させていただきます」
「こんな乱暴なことをする必要があったのか」
ガエターノは傲慢な表情で見下ろす黒衣の女をなじった。
「実体験にまさる説得法はございませんから……。家令殿、ここにお持ちしました傀儡は〈ゲルトラウデの血統に連なるアデーレ〉からの献上品でございます。アンティーコリのマカーリオ親方の工房の作、〈白銀の獅子〉。帝国紀元一八六年作製の逸品でございます。どうぞ、お納めくださいますよう」
「これを……いただけるというのですか」
「さようでございます。もちろん、ご当家の命令に従うよう、封印は書き換えてお渡しいたします。何でしたら――」
黒衣の女はガエターノの肩に手を置き、顔を彼の耳に寄せて囁いた。
「命令者筆頭に、領主様ではなく家令殿のお名前をお書きいたしましょうか」
ガエターノは、甘い葡萄酒を飲み干したような、深い息を吐いた。
黒衣の女は微笑みながら後退り、机の向こうへ戻っていった。
「技師と研究を守ってくださるだけですか」
「もちろん、人工魔石が実用化されるまで資金も援助させていただくつもりです」
「なるほど。して、そちらの条件は?」
「実用化した際の、十年間の独占使用」
「十年ですか」
「ええ。そちらにとっても好条件の取引だと思います」
ガエターノは考えるふりをした。相手を焦らして安売りしないのは、交渉術の第一歩と習った。
机の上にのびている警護兵が、うううっ、と唸った。
まるで返事を促しているようだった。
「たしかに悪いお話ではありませんね。さっそくディ・チッコ侯に話してみましょう。おそらく候も反対はされないはずです」
「よろしくお願いいたします」
「それでは使者殿は晩餐まで宿所にてお休みください。晩餐の席では交渉成立を祝って乾杯ができることと思いますよ」
「長旅でさすがに疲れました。しばらく休ませていただくことにいたしましょう」
黒衣の女は、にんまり、とわらった。いくつもの笑い方を知っている女だった。
「そうそう。〈白銀の獅子〉は調整が難しいので、このデリアを整備役として置いてまいります。申し訳ありませんが、この者の面倒もよろしくお願いします」
ガエターノは傀儡兵の傍らに立つ黒衣の少女を見た。その顔には何の感情も浮かんでいなかった。