始めもまた終わりもなく
オリーヴの部屋を出るとヌマフとナシュラがいました。
「お話は終わったね。じゃあ会議室へ戻って君への質問の続きをしよう」
「はい」
ワタシはふたたびヌマフについていき、あの第二会議室と書かれた部屋へ向かいました。会議室についてからワタシが椅子に座ると、ヌマフからこんなことを告げられます。
「君たちの会話はすべて聞かせてもらったよ。もちろん録画もした。おもしろい会話をするね」
「……」
恥ずかしい、というよりも、最低だ、という気持ちが先行しました。たしかに自分たちのテリトリーでワタシたちの会話を聞くなというのを聞き入れるのも馬鹿げていると思いますが、これではまったくフェアではありません。
「それにしても、アンドロイドに精神年齢が設定されてあっただなんて初耳だ。それに、彼女がもとはセラピソイドだっていうのもね。ほかにもいろいろ収穫があった。感謝しているよ。アハカくん」
それを聞いて、ワタシは自分が都合よく利用されていたことを知りました。知ってさらに、最低だ、と感じました。
やはり、このラドムという組織は信用しないほうがよいのでしょうか。組織単位でなくとも、ウルタはもとよりヌマフは絶対に信用してはならないと、ワタシは直感めいた何かで感じます。この組織にワタシ自身の方向性を見出だす最後の判断基準としては、まだワタシの前に現れない「アストラ」という人物がいったいどういう人物なのかということによります。
「さてと、ここからは真摯に受け答えしてもらおう。心の準備はできているかな」
「はい」
ここに来ることを決意した時点で、ここで見聞きするあらゆることに対しての心の準備はできています。
「では、君はアンドロイドのことをどう思っている。家族か、仲間か、友人か」
一瞬スルシュの姿が脳裡をちらつきますが、ヌマフが訊いているのはあくまでアンドロイド全体についてでしょう。
「ワタシは、アンドロイドのことは友人であり良き理解者だと思ってます。スルシュはちょっとちがう気がするけど」
ワタシが率直な感想を述べると、ヌマフは眉間に険しくしわを寄せて言います。
「君という君はヘドが出るほど純真無垢だな。その能天気具合は羨ましいほどだ」
ヌマフのこの言葉に少しかちんと来たワタシでしたが、平静を装って問います。「どういうことか説明してください」
ふう、と呆れたようなため息を吐いてから、彼は説明してくれました。
「君はここまでの旅で妙に思わなかったかい。なぜアンドロイドたちが君に隠し事ばかりするのか」
「どうしてそれを」
ワタシは言って、ナシュラを見ました。ナシュラはワタシのほうを見向きもせず、代わりにヌマフの姿を捉えるようにして立ち微動だにしません。
ナシュラはラドムに所属しているセラピソイドですから、ワタシがオリーヴといる間にヌマフに話したのかもしれません。
案の定、ヌマフが言います。
「ナシュラが僕に教えてくれたんだ」
ワタシはやはりヌマフの言うとおり、ヘドが出るほど純真無垢で能天気だと言えます。ワタシは唇を軽く噛みしめて己の浅はかさを悔いました。
「それで、君はアンドロイドを妙だと感じなかったかい」
「感じました。だからワタシは隠し事ばっかりのみんなが嫌になって、こちら側に来たんです」
「そうだね。今までのやり方からもわかるだろうけど、実は僕たちラドムはアンドロイドを敵視している。なぜかわかるかい」
「わかりません」
ヌマフはワタシの目の前に立つと、見下ろすようにしてこう告げました。
「アンドロイドは僕たち人間の自由を制限しているからだよ。本来なら人間がアンドロイドを使う側なんだ。アンドロイドを使って、僕たちはもっと自由に生きるはずなんだよ。けれど、それはなぜか逆転している。区画なんて狭苦しい豚舎の中で一生を過ごすように仕向けられている」
そこまでヌマフの演説を聞いて、ワタシはその論理に疑問を抱きました。
「ちょっと待ってください。ヌマフさんはそう言いますけど、スルシュはワタシの世界が見たいって願いを、危険を侵してまで叶えてくれたんですよ。矛盾してませんか。それに、K区画を脱出するとき、あなた方はワタシたちに銃を向けたじゃないですか。どっちが自由を制限してるんですか」
そうです。K区画での一件がある以上、このままヌマフの論理を認めるわけにはいきません。
ところがヌマフはそんなワタシの疑問に対する答えをすでに持ち合わせていました。
「矛盾はしていないだろう。ウルタが銃を向けた相手はスルシュであって君じゃない」
それを聞いたワタシはどう考えたらよいかわからなくなり、混乱してしまいました。
だとしたらK区画とはいったいなんなのか。ラドムはワタシたちK区画住民に何をさせたかったのか。そして、そこに住まうすべてのセラピソイドはラドムに監理された存在なのか。だとしたらスルシュはなぜK区画の脱出を導いてくれたのか。
ぐるぐると頭の中を回るさまざまな疑問に苛まれているワタシのことなどまるで見えていないかのように、ヌマフは続けます。
「話を戻そう。アンドロイドたちが隠し事をしつつそうやって人間を外に連れ出すなんてことをするのは、知識を身につけて区画外に新たな希望を見いだした人間に現実という絶望を叩きつけるためさ。これは彼らに画策された更生プログラムなんだ。アハカくん、君はアンドロイドたちに騙されているんだよ」
ヌマフはまるでそれが絶対の真実だとでもいうように両手を高々と上げました。
しかし、どこまでその言葉を受け入れたらいいのでしょう。
ヌマフの論理は説得力があります。ですが、ワタシはスルシュたちとともに行動してきて「そんなことはない」とも思うのです。たしかに首を締めつけながらスルシュは「世界は美しくない」と無理やりワタシに思い込ませようとしたりしましたが、どうしてかワタシはそんなにスルシュのことを憎いとは思わないのです。
それにシアンだってR少女と話をさせてくれましたし、「世界は美しくない」とはちがう、なにかを諭すようなことをたびたび話してくれました。
オリーヴは先ほどのようにワタシに正直な気持ちを打ち明けてくれました。
みんな、ヌマフの言う論理がワタシの体験と食いちがうことをしてきたのです。だからこそワタシは、簡単にヌマフの言い分を受け入れるわけにはいきません。
「ワタシはそうは思いません」
「なんだって」
「スルシュたちはヌマフさんの言う、人間の自由を阻害するなんてことを目的にはしていないと思います」
ワタシがそう言い切ると、ヌマフは顔を赤くして低く唸るようにしてワタシに言い放ちます。
「ふざけるな。ラドムに所属しているすべての人間は区画を出るときに『世界は美しい』と甘言を言われ、そして裏切られてここにいるんだぞ。君だって裏切られただろ。『世界は美しい』と言われただろ」
「え?」
「世界は美しい」なんて、スルシュは一度だって言ったことがありません。「世界は美しくない」とは何度も何度も言われました。しかし、そのたびにワタシは、「世界は美しい」と自分なりの理由をつけて突っぱねています。
「ワタシは『世界は美しくない』とは言われてきましたが、『世界は美しい』なんて彼らの口からは一度も聞いたことないです」
「なんだと……」
ヌマフは両こぶしを固く握りしめてしばらく怒りに耐えるようにわななきました。その後、ワタシの胸ぐらを掴んで怒鳴りつけます。
「さてはお前、アンドロイドどもの回し者だな。だから我らラドムを攪乱するために嘘を吐いているんだな」
「ワタシ嘘なんか吐いてません。ぜんぶワタシ自身が体験したことです」
「大概にしろ。嘘つきにはお仕置きが必要だな」
ヌマフのつり上がった眉と鋭い眼光に睨みつけられている相乗効果なのか、お仕置きというものがひどくこわいものに感じられました。『ヌマフさん』
そこでナシュラが唐突にヌマフに言いました。
『まだその方には聞き出せることがたくさんあると思われます。怯えさせてしまっては、逆に、あることないことをまくし立てるかもしれません。あとは私が個室で問いただすので、今日はここまでにしたらいかがでしょうか』
「む……」ヌマフがワタシの胸ぐらを掴む手をゆっくりと話します。
「それもそうだな。では僕はアストラに話すことがあるから、あとはナシュラに任せるとしよう」
そう言っていつもの優しげな顔に戻ると、扉へと振り向きざまワタシを一瞥します。そして、心の底から優しい声色で「僕がアンドロイドの洗脳から君を救い出してあげるからね」と言われました。
ぞくりと、薄気味悪い冷たさが背筋を伝ったような気がします。
ワタシがその冷たさに動けずかたかた震えていると、肩に人肌の温もりが置かれます。ナシュラの手です。
『だいじょうぶ。ヌマフさんはもう行ったよ』
「あ、う」
ナシュラの温かい手に救われたような気がして、目の端から涙がにじみ出てくるのがわかりました。しかし、ワタシはそれをこぼれ落ちる寸前でぬぐいとります。ここで泣いてしまったら駄目なような気がしたからです。
「あ、ありがとうございます」
とりあえずお礼を言うと、ナシュラがワタシの隣の椅子に腰かけます。
『あれがヌマフさんの本性。よく泣かなかったね。偉いよ』
「すごく、こわかったです」
『あれでこわくないなんて言えるほうがすごいよ。あの性格だからこそ尋問担当やってるんだけどね』
なるほど、納得です。あの豹変ぶりで迫られたら従うほかありません。でも、ワタシは有無を言わさず決めつけるその強情な態度も同時にこわいと感じました。
「あ、で、でもナシュラさん、ワタシのこと助けてくれたんですよね。ラドムのセラピソイドなのにそんなことして大丈夫なんですか」
ワタシがそう問うと、ナシュラが立ち上がります。
『とりあえず部屋に戻ろうか。こんなところにいつまでもいたくないでしょ』
「あ、はい」
ワタシはナシュラの提案に乗り、第二会議室をあとにしました。
『というわけで今回は生ハムとサーモンの二種のサラダとバゲット』
「は、はあ」
ナシュラが部屋に戻って最初に提案したのはお昼ご飯でした。時間が時間だというので提案したらしいですが、とくにお腹が空いていなかったワタシは断ろうとしました。ところがナシュラは『食べないと引きずるよ』とそれらしい諭し方をし、半ば押しつけるかたちでお昼ご飯を作ってきたのです。
しかし、いざ美味しそうなそれらを前にすると、思い出したかのようにお腹が鳴り始めます。
『ささ、どうぞ』
「あ、はい。いただきます」
ワタシはフォークとスプーンでバゲットにサラダを盛りつけます。そして一口。
「すごくおいしいです」
『だよね。食事中で悪いけど、いきなり本題に入っていい?』
「あ──はい。どうぞ」
ワタシは口の端からこぼれるバゲットのかけらをナプキンでぬぐいながら姿勢を正しました。
『ああ、食べながらのほうが自然に受け答えできるはずだから改まらないで』
ワタシは姿勢をほんの少し崩してバゲットを手にとります。
『ヌマフさんの言ってること。アハカはやっぱり信じられない?』
「はい。だってワタシの経験はヌマフさんの言ってることと正反対なんですもん。それなのに信じろって言うほうが無理あると思います」
ワタシは先ほどのヌマフの言葉を、いま一度思い出しました。
いちばん気になるのはやはり「世界は美しいと言ったことです。その時点でワタシはヌマフの言うことが信じられません。
『あなたには残念だけれど、ヌマフさんの言ってることはほとんど事実よ。アンドロイドは人間の自由を阻害していると言えるし、アンドロイドが「世界は美しい」と言って彼らを裏切ったというのも、裏切られた人間がラドムを組織したのも』
「そんな。じゃあワタシはどうして彼らとは正反対の経験をしてるんですか」
ワタシだけがアンドロイドの都合のいいように動かされているとでも言うのでしょうか。いえ、それはラドム側についてみることをスルシュとシアンに告げた際に否定されるべきです。どう見てもあの二人はラドムに行ってほしくない様子でした。
『アハカ。あなたはアンドロイドたちの画策を前向きに捉えているから』
「え?」
ナシュラが机に備えつけられた椅子に腰かけて言います。
『ラドムにいる人はみんな、アンドロイドに裏切られたと思っている。けれど、アハカはそうは思ってない。むしろ、自分を成長させようとしているんじゃないかと、前向きに捉えているということ』
「それはそうかもしれないですけど。でもそしたら、『世界は美しくない』っていうのはどういうことなんですか」
ワタシはもう気づいています。しかし、あえて訊いてみることにしました。
『今まで幾度となくそういうプログラムが行われてきたの。でも、そのほとんどが失敗してラドムという一大組織を形成するまでになっている。ここまではいい』
ワタシは首を立てに振ります。
『アンドロイドたちは失敗続きのプログラムをどうにか成功にこぎ着けようと、あらゆる策を練った。そこで改善案として考えつかれたのが、「世界は美しいと教えるのではなく、美しくないと教えることで我々の考え方に対する反抗心を与えれば良い」ということだった。そして、アハカがその改善されたプログラムの百五十二人目』
「な、に、言ってるんですか。ナシュラさん」
ワタシは矢継ぎ早に吐き出されたその「事実」とも「真実」とも受け取れないおとぎ話に、うまく言葉を紡げなくなりました。
だって、ナシュラの言葉を信じてしまったら、ヌマフの言葉も同時に信じてしまうことになりかねません。
『まあ、簡単には信じられないと思う。私はラドム側のセラピソイドだし、アハカの敵でもある側の存在なんだから』
そんなことを先に言うなんて卑怯だと思います。
「でも、ナシュラさんは私のこと助けてくれましたよね」
『あれは言葉どおりの意味。アハカを助けたいからあのタイミングで言ったわけじゃないの。悪いけど、ごめんね』
「そんな」
ワタシは一気に気持ちが冷めきってしまいました。しかし、これで対立する構造がはっきりしました。
「あの、ナシュラさんはアンドロイドたちがどうして人間にそんなことする必要があるのかわかりますよね。ナシュラさんだってもともとアンドロイドの側についていたんでしょ」
ラドムの目的が仮に裏切られた憎しみゆえのアンドロイドの殲滅だと推測できても、対するアンドロイドの目的がいまいち判然としません。アンドロイドがワタシたち人間の自由を阻害したところで、それが彼らに及ぼす利益などはないはずです。
『なかなかいい質問だけど、それは私からは言えない』
「どうしてですか」
ワタシがさらに問いつめると、ナシュラはワタシの目の前にある料理を見つめるばかりで何も言いません。
しばらくそのままでいると、ナシュラは立ち上がって目の前に立ちます。『料理、食べないの。下げちゃうよ』
ごくひかえめに放たれたそれには、ワタシも唖然とするだけです。
さっさと食器を片づけて扉の前に立つと、いったんワタシのほうをくるりと向きます。
『明日、教えてあげる』
ワタシは唖然として動かせずにいた首をナシュラに向けました。「待って」と言おうとしたけれど時すでに遅し。流れるように出ていってしまいました。
「あの人、なんだか捉えどころないなあ」
そう呟いてみますが、やっぱりとくに嫌な気持ちになることはないのです。
その後、ワタシは歯を磨くとベッドに横になりました。
今日こそは星の位置を確認します。
ワタシは大きなあくびをひとつしながら上体を起こしました。部屋の中は真っ暗で今が何時なのかわかりません。ワタシはベッドから這い出ると手探りで照明のスイッチを探し当て、点けました。
壁に埋め込まれたデジタル時計が示す時刻は夜の、一時。
「え」
一瞬にして冴える目。ワタシはどうやらまた寝過ごすところだったようです。
もちろんなぜ起きたのかは忘れてはいません。ワタシは部屋の照明を消すと、机の前にある小さな窓に顔を近づけました。
「わあ……」
窓が小さくて覗き込む体勢が少しきついですが、その窓から見えるのは満天の星空。天の川の淡い銀河色の光の帯まで見えます。空気が澄んでいるおかげか、六等星のまたたきまではっきりと見てとれます。しかし、肝心の北斗七星と北極星が見えません。もしかしたらこちらの窓は南向きなのかもしれません。
だとしたら、どうやって二つの星の位置を確認したらよいのでしょう。この部屋から出るにしても外からでなければ開けられないようになっています。
これは万策尽きたというやつだと思いました。しかし、ワタシは思い出したのです。もう一度電気を点けてベッドの上にある枕のあたりを探ります。
「あ、あった」
ワタシが思い出したのはナシュラを呼び出すためのナースコールのようなスイッチです。これでナシュラを呼び出して、なにかそれらしい理由をつけて、星の見える場所まで連れていってもらうのです。我ながらよいアイデアだと思います。
ですが、問題はなにを理由とするかです。生半可な理由では、おそらく部屋の外に連れ出してもくれないでしょう。
とにかくまずは部屋の外に出ることが最優先事項です。ワタシはベッドに腰かけて頭をひねりました。
この舩は大きいので、小型のものにはあるような揺れがあまりありません。ですので舩酔いは理由にならないでしょう。そうでなくとも『酔い止めの薬を持ってくるから待ってて』と言われて終わりです。
では、ワタシが「アストラという人に会わせて」と言うのはどうでしょう。しかし、よく考えてみるとこんな時間に会いたいというのはおかしいにちがいありません。それに、アストラという人が寝ているかもしれませんし、アストラに会ってなにを話せばよいかもわかりません。
そうしてあれこれ考えた上で、ワタシはひとつの賭けに出ることにしました。賭けなのでもちろん失敗に終わるかもしれませんが、計画して失敗するよりはよいのかもしれません。
そして、ワタシはナースコールのスイッチを押しました。
数分後、案の定ナシュラがやってきました。
『こんな夜更けにどうしたの。気分でも悪くなった?』
ナシュラが心配そうにワタシの顔を覗き込んできます。ワタシはベッドに腰かけていかにも体調が優れないといったふうにうなだれているのです。
そしてワタシは言いました。
「ワタシ、満天の夜空が見たい」
『いきなりわけがわからない』
ナシュラが極めてクールに切り返します。ここまでは容易に想像できます。
ワタシはさらに続けました。
「ワタシ、星を見るのが好きで。それで、天体観測が趣味でK区画にいるときも毎日星を見てたの。あんまりぐっすり寝ちゃうと昨日みたいに朝まで起きないんだけど、今日は起きられた。天体観測はワタシの趣味で、やらなきゃ胸が苦しくなってつらくて、もうその日は寝られないの。ナシュラはセラピソイドでしょう。だから……おねがい」
ワタシはわざとらしく両手を組んでお祈りするように言いました。
これは真っ赤な口から出まかせですが、星を眺めることが好きというのは事実です。
ナシュラはワタシをしばらく見つめてから言います。
『ワタシはアハカのセラピソイドではないから、アハカの行動パターンがまったくインプットされていないのね。だからはっきり言ってしまうと、あなたが本当に毎日天体観測していたのかは計算しようがないの。だから本来なら部屋から出すことはできない。けど』
「けど?」
ワタシは固唾を飲みます。
『アハカは優しいし素直だってことは計算できたから、今回だけ特別』
「あ……」うまくいった。「ありがとうございます!」
ワタシはナシュラに向かって深々と頭を下げました。
まさかこんな口から出まかせが通るとは思っていませんでしたから、なおさら驚きです。
「ところで、どこで星を見るんですか」
『私についてきて』
ナシュラに手をとられ立ち上がると、ナシュラは部屋を出ていきます。ワタシはそれについていきました。
廊下に出ると間接照明で照らされた道が続いていました。間接照明といっても歩きづらいということはなく、むしろ幻想的だと思いました。
そのまま奥へと進んでエレベータに乗り込み最上階へ向かいます。最上階に着くとエレベータから降り、ふた手に別れた道を右に行きます。そのままさらにいくつもの扉と別れ道を通りすぎて、ひときわ大きく鈍重そうな鉄の扉の前に着きました。
ナシュラがワタシのほうに向きなおります。
『この先で星が見られる』
ナシュラは扉の前に据えつけられたパスワードの入力機に英数字を打ち込んでいきます。その機械には第二会議室にあったのような指を入れる穴もついています。英数字の打ち込みはサブでしょうか。
そうこうしているうちに扉が開きます。見た目ほど重い動きはせず拍子抜けてしまいました。
『入って』
「は、はい」
ワタシはナシュラに背中を押されて中に入ります。
「わ……」
まるで夜空に放り出されたかのように目の前に広がる天球のパノラマに、ワタシは思わず息を飲んでしまいました。
『驚くのはまだはやい』
ワタシの後ろでナシュラがそんなことを言います。
「どういうことですか」そう言おうとしたとき、ワタシは部屋の雰囲気が変わったような気がしました。
足下に視線を移すと、そこにはさらなる星たちの影。まるで宇宙という空間の真っただ中に浮かんでいるような気分にさせてくれます。さらに視点を動かすと、この季節にはないはずのおうし座やふたご座、ぎょしゃ座などが見えます。
「すごい……」
『上に見えるのは本物の夜空だけど、足下に見えるのは立体ホログラム。ここはこのアルタグラの操縦のための管制室。ラドムの人間は、どうして管制室にプラネタリウムがあるか、その理由は知らない。そして、みんなはここにほんの少し親しみを込めて、全天球管制と呼んでる』
「全天球管制……」
ワタシはその響きを反芻します。なんともロマンチックなシステムだと思ったのです。だって、まるで自分自身が地球となって宇宙のど真ん中にいるような錯覚に陥るほど、星座や銀河、星団の様子が鮮明に見てとれるのですから。
ここでナシュラがこのプラネタリウムについてさらなる説明を加えます。
『このプラネタリウムの使い方はだいたい把握されているの。たとえば』
そこまで言うと、急に床に広がる星たちの様相が変わりました。
『これは地球から約二千八百光年離れた場所に座標を置いた場合の星の見え方』
「なんか星がそこかしこにありますね」
『この座標は双子座のM35散開星団あたりだからね』
ワタシは「座標」という言葉にぴんときました。座標ということは天体の動きのシミュレーションができるということです。これをもう少し動かしてみたら、暗号のヒントが得られるかもしれません。
「あ、あの、ナシュラさん」
『なに』
「ワタシもその機械を動かしたいんですけど……ダメですか」
『ダメ。扱いが難しいからアハカが触ると壊れる』
今さらりと暗に失礼なことを言われたような気がして、ショックで気分が落ち込んでしまいました。
『うそ。私が解説するから触っていいよ』
「ナシュラさん……」
ワタシは少々茶目っ気を見せたナシュラを涙目で見つめます。
その後、ナシュラに機械の操作を教えられたワタシは、暗号にのっとった座標を打ち込んでみます。
座標は地球です。北斗七星と北極星の位置はツリーから選び、とりあえず日付を七月一日の午後十時として計算を開始しました。
簡単な計算のせいか一瞬でその結果が床に浮かび上がります。
北極星は年中位置が変わりませんが、北斗七星の位置は春夏と秋冬で変わります。このシミュレーションの場合は、北の方角から若干北東よりですが、まだ西に傾く時期ではないのでしょうか。
ワタシはさらに時間を先に進めます。次は八月一日、午後十時。
今度は北極星の北西側に寄りました。おそらくあと十日ほどで北極星の横に北斗七星が位置します。日付を明日の八月十五日に合わせ、時刻はそのままで計算を開始します。
北斗七星は案の定、北極星の西側の真横に並びました。これが「西の柄杓」の正体です。
ワタシは今一度、少年の暗号を思い出してみました。
西の柄杓と目の前に先駆けた光が影を犬にするとき、凪に浮かんだ三日月に向かえ。
ここで最大の謎は「影を犬にするとき」という部分です。けれど、北斗七星と北極星の光は影をつくるほど強くはありませんし、そもそもワタシは人間なので犬の形を成していません。
いったい、どういうことなのでしょう。
『どうしたのアハカ。固まって』
そこにナシュラが声をかけてきます。
「あ、や、なんでもないです。これ、すごくおもしろいですね」
『アハカは知的欲求が旺盛だからね』
ワタシはその場を取り繕ってふたたび足下の星たちを見つめます。
影。犬。影。犬。影。犬。
けれど、ワタシは人で、その影が犬の形になるわけがない。もしなるとしたら、それはワタシの背後に犬という存在の「影」があるときだけでしょう。
「あれ?」
『ん?』
ワタシはもしかしたら重大なミスリードをしてしまったのかもしれません。
ワタシは設定を二月十五日の南の空、午後十時に合わせます。そして、計算結果が足下に広がり、ワタシはそれを見ました。
「あ……」やっぱり。
『アハカ。どうしたの』
ワタシはナシュラの問いかけを無視して、全天球管制の上部、すなわち本物の北極星と北斗七星が見える夜空を見上げました。
「やった……」
『だから、どうしたのアハカ』
「ナシュラさん、わかったよワタシ!」
『なにが』
「おおいぬ座だよ!」
『あの、意味がわからない』
そうです。「犬」とはつまり、二月の南の空に見える「おおいぬ座」のことだったのです。そして、「影」とはつまり「太陽」のことだったのです。
北極星と北斗七星の星の光を太陽に向けて一直線に繋げます。太陽に到達したらそのまま光の線を延長します。するとそこにはおおいぬ座があるのです。もちろん実際は太陽に阻まれて見えませんが、これはシミュレーションです。問題はないはず。
とにかく、暗号の大部分が解けました。あとは「凪に浮かんだ三日月に向かえ」という部分だけです。
ワタシが嬉々としてそう思っていると、ナシュラがワタシの肩に手を置きます。
『なんかよくわからないけど、おもしろかったならよかった』
「はい。ありがとうございます」
おかげでとても助かりました。ナシュラがこの全天球管制に連れてきてくれなかったら、明日なにが起こるのかもわからずにその日は過ぎ去っていたかもしれません。
『天体観測は満足した?』
「はい」
『じゃあ帰ろうか』
ナシュラがふたたびワタシの手をとって先をゆきます。
ナシュラがセラピソイドのせいか、その手が温かく感じられます。さっきは部屋から出ることだけに気をとられて気づきませんでしたが、今回は気づくほどの余裕が生まれたということです。
そして、ワタシたちはアルタグラ最下層の軟禁部屋まで戻ります。
いつものルートをたどって部屋に戻るとワタシはナシュラを帰しました。時刻は真夜中の午前二時半です。暗号の難解な部分が解けたことで興奮しすっかり目が冴えてしまいましたが、いま寝なければまたお昼以降に起きてしまいます。
生活リズムが狂うと疲れやすくなりますし、それよりこれからの行動になんらかの支障が出る可能性が高く、ワタシとしてはそちらのほうが気になります。
ベッドに寝ころがると、ワタシははっきりした意識の中でなにも考えずに深呼吸を繰り返しました。
すると、いつしかワタシのそれは漆黒の闇に蝕まれていき、手離すように深いまどろみの中に消えました。
『いつまで寝てるの』
ワタシは聞きなれたその声で目を覚ましました。「あれ、ナシュラさん……。いま何時ですか」
目が覚めて間もない頭がとくに意識せずそう問うように仕向けました。
『もう午後二時なんだけど、寝すぎ』
「えっ」
午後二時、そんなばかなと思って時計を見るも、それは残酷にも事実でした。まぎれもなく時刻は二時を指しています。
『顔洗って軽く食べて。すぐにアストラさんのところに行くから』
「は、はい」
今日はヌマフではないのかということと、「アストラ」という言葉についてナシュラに訊ねそうになりましたが、いまはその人のもとへ急ぐ必要があるようです。アストラという人がどんな人かはわかりませんが、ナシュラが急かすということは厳格な性格なのでしょう。
顔を手際よく洗うと軽食を渡されます。「この三角形の塊は?」
『おにぎり、おむすび、いろいろ呼ばれてるけどとりあえず向こうに行きながら食べて』
「わかりました」
ワタシはそのおにぎりをひとくち頬張りました。ちょっぴり塩がかかっているのが逆にお米の甘さを引き立たせています。素朴な味わいがおいしいです。
『後でまた作ってあげるからここで味わわないで』
「あ、ごめんなさい」
ワタシたちは急いで部屋から出ました。
そしていつものとおりエレベータに乗り込み、今日は全天球管制がある最上階よりもひとつ下の階に向かいます。
エレベータが目的の階に着いて扉が開きます。「うわ」
目の前にあるのは、豪奢な模様のじゅうたんが敷き詰められたとても広い大広間でした。その模様の豪奢さといえば、まるでペルシャじゅうたんというものに似ています。また、ヌマフに尋問された第二会議室とはうってかわってシャンデリアも本物のようで、眩しいほどにきらびやかです。これにはワタシもドン引きして思わず声が出てしまいました。
ナシュラに続いてエレベータを出るとさらに大広間の様子が見てとれます。
四方の壁には全面に浮世絵のような四神の姿が描かれています。また、天井にはギリシャ神話の神々が油絵で描かれています。
まるでコンセプトがばらばらで、「とにかく豪華に」という意図が見えかくれしているようにも感じます。
ワタシがそんな大広間の様相にさらに引いていると、声が聞こえてきました。
「お主がアハカ、かの」
驚いて声がしたほうに顔を向けると、そこには大きな屏風を背にして椅子に鎮座する小さな老人の姿。
『あの人がアストラさん』
ナシュラが補足してくれます。
「お主がアハカ、かの」
アストラがもう一度問うてきて、ワタシはぎこちなく答えました。「そうです。ワタシがアハカです」
「なるほど」
アストラが薄くまばたきしました。
ワタシたちはさらにアストラに近づきます。白い毛におおわれて見えなかった目や口が見えるようになりました。
「お主は国連という組織を知っているな」
「はい」
「ならば話は早い」
アストラは座ったまま姿勢を整えます。
「国連という組織の長はネイビーを筆頭に三機おる。すなわち、オリーヴ、シアン、そしてお主のセラピソイドであるスルシュ」
「え……」ちょっと待ってください。「あの、ネイビーっていうのはわかりませんけど、ほかの三人は」
「まずは話を最後まで聞くのだ」
アストラは手にした杖で床をとんとんと小突くとワタシに静粛をうながしました。ワタシは黙ります。
「国連はすべてアンドロイドから構成されておる。人間は一人もおらん。そしてその組織の目的は、奴らがアンドロイドとして存在するために我々を管理することだ」
「え、と……」
これは驚くべきことなのでしょうが、うすうすそうなのかもしれないと感づいていたワタシはなんと反応したらよいかわからず困ってしまいました。
「今までの報告からお主が賢いことはよく知っておる。問題はここからなのだ」
困っていたワタシをフォローするようにそう言うと、すう、とアストラは一息間を置いて言いました。
「奴らがアンドロイドとして存在するために我々を管理するのにはわけがあるのだ。すなわち、それは過去からの因縁でもある」
「過去からの因縁、ですか」
アストラの言葉の意味を把握しかね、ワタシは思わず復唱しました。
「さよう。話が長くなるがここでひとつ昔話をしよう。この地球上で過去、全世界を巻き込んだ全面核戦争が起きたというのは周知の事実だ。もちろんそのときには現在のアンドロイドどもも兵士として各国の戦力となった。都市部を狙うのは核弾頭、地方を狙うのは兵士といったふうにの。地方は大規模戦線であり、戦闘が起こればたちまち野草も塵と化すほどの荒地となり、とうてい人が住めるような土地ではなくなってしまった」
過去からの因縁。その意味を理解するためワタシは静かに耳を傾けます。
「地方から逃げ出した人々は都市部へとより固まった。都市部はたしかに核弾頭の脅威を一身に受ける場所ではあるが、その分迎撃も容易かったのだ。当事の撃墜精度は九十八パーセントを裕に越えておったからだとも言える。しかし、その撃墜精度は一部の先進国の特権であり、それ以外の国々は次々と核の前にひれ伏していった。もはや一部の先進国だけが戦闘を続ける結果となった。占領した国から、また自国から核弾頭を打ってはそれをミサイルで撃墜するの繰り返しで、世界中に約五万発以上あった核弾頭はほとんどがその活動で消費された。放射性物質が世界中に散らばって収拾がつかなくなったのはこのせいだ。次第に各国が保有していた核弾頭は残りわずかとなっていった。そして、そんな不毛な争いが数年続き、もはや戦争する体力も気力も世界に残されていなかったときだ。戦争が始まる前に各国の出資で造られた天体観測用の人工衛星が、先進国の一国に異常を知らせる信号を送ってきたのだ。その人工衛星は戦争が始まってからというもの人々の頭から忘れ去られていたものだった。その信号とはある小惑星の接近・衝突を報せるものだった。観測結果によると、それは直径にして約八キロメートル。当事の考古学ではまだ恐竜絶滅の要因ともなった隕石の直径が約十キロメートルとされていたから、この小惑星の脅威はすぐさま世界に公表された。戦争をおこなっている暇などないと世界中の役人や戦争指導者たちが気づいた。この小惑星は破壊の悪神の名をとり『ソルヴァ』と名づけられた。その後、有志たちによってより詳細な計算がされ、それは発見日から一年と百七日十四時間後に当事の中東周辺に墜ちるとの結果がはじき出された。その頃には、世界はもはや戦争のことなど忘れていた。一部の人間は根にもっていたが、銃弾と核弾頭の雨のなか幸運にも生き残った本当にごく一部の者だけだった。世界は戦争をやめ小惑星を地球衝突の軌道から逸らすための計画と、万が一衝突が避けられない場合になってしまったときのためのシェルター建設を始めた。しかし、小惑星を逸らすための核弾頭は先の戦争で残り数基となってしまっていたし、シェルター建設のための重機や建材なども極端に不足していた。そこで白羽の矢が立ったのが、大量に戦線投入されたアンドロイドたちだった」
アストラはここでいったん話すのをやめ、ワタシのほうをじろりと見ました。その視線に気づいたワタシは、なぜかそれに耐えられずに視線を逸らしてしまいました。
小さくため息をついたアストラは話を続けます。
「お主は『特異点』という言葉を知っておるか」
「知識としては」
「コンピュータとしての特異点。その限界点を越えたのは今から約四十数年前だ。アンドロイドはその特異点を超えた象徴的な産物であり、人間以上の計算能力を得ていた。しかし、それが仇となった。アンドロイドはその無限の知性で感情の発現方法を覚えた。いや、そこまでは想定内の出来事であったが、その後奴らは極めて人間らしい最高次の欲求を得たのだ。それは自己実現の欲求と呼ばれるものだが、様々な欲求の中でもとりわけそれが顕著にあらわれてしまった。そして、建材などの材料としてアンドロイドを収集するという計画は、アンドロイドの欲求を侵すものとなった。奴らは自らの唯一であり肥大化してしまった欲求を侵されまいとして、人間たちに謀反をはたらいた。もともと戦線投入されていたアンドロイドが大半であったからであろう。しかし、アンドロイドは人間の血を一滴も流さずにその謀反を成功させた。その後、必要とあらば人間に武器を向け、人間の計画していた二つの計画にも積極的に協力した。しかし、二つの計画。そのひとつである小惑星の軌道を逸らすほうは失敗に終わってしまった。核弾頭は関連施設の破壊により手持ちの分しか残されてはおらんかったのだ。もっとも有効とされた軌道で撃ち込んでもその軌道の変化は微々たるもので、もはや地球への衝突は不可避との判断が為された。この時点で衝突は二十一日と六時間後だった。人間もアンドロイドも各地に建設されたシェルターへと逃げ込み、そのときを待ち、そしてその日は来た。結果は、世界に十五箇所あったシェルターの十三が消滅。残ったシェルターは大空と深海を漂っていた二基だけだった。生存者はたったの一万人弱。地下に造られたシェルターのほうが収容数が多かったせいだ。やがて大空と深海を漂っていた二つのシェルターの人々は互いに通信を取り合い、地球上でもっとも被害の小さいいくつかの地に新たな居住区を建設することにした。それがK区画と、このシェルター以外のすべての区画。すなわち、C、D、S、P区画だ。だが、区画建設にはやはり資材がなければどうしようもない。しかし、その基本的な資材である木材はソルヴァによって焼き払われてしまったし、金属を採掘するための重機などもない。それ以前に鉱脈そのものがどこにあるかもわからなかった。そこで目につけたものは前時代からの贈り物のように大量生産されていた人工金脈、アンドロイドだった。もちろん人間はアホではない。前回の失敗を経て、アンドロイドたちの充電中に武器を使えないようにすることは容易かった。そして、当事の人間は大量の金属と精密機械を手に入れた。それによって区画というものの大部分が完成に近づいた。ところがアンドロイドもアホではなかった。いや、それどころか人間以上に奴らは賢くなっていた。奴らは人間の計略に感づいた時点で自らの計算中枢のアップデートを図ったのだ。すなわち、『人間はもはや我々なくして生きることができない。それならば我々アンドロイドが彼らを保護しなければならない』と。この時点で奴らはついに優しさというものを身につけた。しかし、それは善意などでは到底ない。奴らの欲求によって歪められた優しさなのだ。憎き奴らはついに人間の制圧を始めた。それは力にものを言わせるものだった。なんの力ももたない人間は奴らの不意打ちにあっさりと降参してしまった。そして、アルタグラさえあれば自由に行き来することができる区画間航行が禁止され、やがて奴らは前時代の録画ビデオや書籍などといったもので外に出ずとも一日を過ごせるように仕向け、そしてなにもしないことが人間の美徳といったふうに新しく生まれた人間に教育を施したのだ。これが自由の存在である人間にアンドロイドが行なってきた呪縛の歴史。過去からの因縁。もちろんこれは嘘偽りのない事実だ」
アストラは人間とアンドロイドの長い長い歴史を語り終えると、その場でゆったりとあごひげを触りワタシをじろじろと見つめ始めました。
ワタシはこれからどうしたらよいのかわからない。
それがアストラの話を聞いて素直に感じたことでした。
アストラの話はとても信憑性があります。それなりの整合性もありますし、セラピソイドであった時代のオリーヴの話ともつじつまが合います。オリーヴの家族は教育によってセラピソイドを信用しきっていたのです。ですから、それが旅によって裏切られてしまったのだとすれば離反したくなる気持ちもわかります。
それに、アストラの話では追及されていませんでしたが、おそらくアンドロイドたちを先導していたのがオリーヴを覗いた残りの三人、すなわちスルシュ、シアン、ネイビーなのでしょう。現在の国連はやはりアンドロイドによって構成されている組織なのです。対するは、ほぼ人間だけで構成されているラドム。いまこうして対立しているのは人間の「自由」とアンドロイドの「欲求」が対立しているからとも言えそうです。
そして、もっとも重要なのは核戦争以後にあったとされる、小惑星ソルヴァの地球衝突です。
ワタシはスルシュから核戦争があったことは聞かされていますが、小惑星が地球に落ちたことまでは知らされていませんし、録画ビデオや書籍といった記録媒体はすべて前時代の遺産で、核戦争以後のものはありません。アンドロイドの呪縛の歴史が人間に知られるのはやはり都合が悪いからなのでしょうか。とにかく、ワタシはスルシュから小惑星のことなど一切聞かされてはいないのです。
ワタシは今までスルシュたちに騙されていたのでしょうか。そう思うとなぜか胸がいたみます。この気持ちはいったいなんなのでしょう。
スルシュに裏切られていたことに胸がいたむのか。はたまた、スルシュはワタシを騙していて、けれどワタシはスルシュが好きでスルシュのことを信じるべきか信じないべきか、その峡谷に挟まれた複雑さに胸がいたむのか。
どっちにしろワタシは、これからどうしたらよいかわからないのです。
「アハカよ。これは過去にあった事実であり、曲げられようのない史実である。お主はスルシュというアンドロイドに裏切られたのだ」
どうしたらよいかわからないワタシに、アストラがそんなことを言ってきます。しかし、依然ワタシの心は身動きがとれずにいました。
けれどもし、ワタシの気持ちに偽りがないというなら、ワタシはスルシュを信じたいです。単純に、ワタシはたった今スルシュのことが好きだと気づいたからです。たとえアストラの言うことが事実であるとしても、ワタシがそれに対してどう思おうがワタシの勝手なのです。それがアストラの言うような自由の存在たる人間のゆえんなのですから。
ワタシは背筋を伸ばしアストラに向き直ります。
「すみません、アストラさん。あなたの話したことが事実でも、ワタシはスルシュのことが好きなのでスルシュを信じることにします。だから、あなた方のアンドロイドに対する怒りとか憎しみはたしかにわかりますが、あなた方についていくことはできません」
はっきりと宣言するように、ワタシはアストラにそう言いました。
アストラはじろじろと見ていた視線を一度逸らすとそのまま口を開けました。
「ヌマフよ。アハカを」
「ええ」
ワタシははっとして後ろを振り向きました。向いた先には笑顔が張りついたヌマフの姿があります。ヌマフはワタシに近づくと両手でワタシの顔を包み込みました。
「あ……」
凍えるほど冷たい笑顔と手。
ワタシはがたがたとカラダが震え出して止めようにも止まらなくなりました。
笑顔を張りつけたままのヌマフが言います。
「少しのあいだ眠っていてくれ」
ワタシは両耳たぶの裏の辺りに強い圧迫を感じると、そのままなすすべなく意識を失ってしまいました。
「アハカ、おはよう」
ワタシは柔らかなベッドの上で寝返りをうちながら、だれかがそう言うのを聞きました。
「だれ……」ワタシは眠けまなこをさすりながら声の主を視界に入れます。「……え」
「なに寝ぼけてるの、アハカ」
「なんで……」
ワタシの長い髪を撫でて優しく語りかけるのは、見たこともない顔をした母親の姿。
とても、とても美人で穏やかな面もちと、たおやかに流れる黒髪が麗しいです。くっきりの二重に少し下がった目じりと薄い唇、ベッドに無理なく腰かける姿、白いワンピース、そのどれもが彼女のまとう穏やかさに拍車をかけています。それに体はやけども膨張もケロイドもありません。しかし、これがワタシの母親?
呆然とその姿に見いっているとさらに声が聞こえてきました。
「おおい、早くアハカを起こしてくれ。とっくに出発時間過ぎてるぞ」
この声は父親のものです。
そして現れたその姿も母同様やけども膨張もケロイドも見られませんでした。
少し明るい焦げ茶の整った髪型に、顔はテレビで見たような中央ユーラシア(ウラル・カフカス地方)にいるような顔立ちで、母とはそもそも人種が違うような気がします。これがワタシの父親?
「どうなってんの」
ワタシは耐えきれず口走りました。
しかし、両親はそんなワタシを意にも介しません。
「少し時間が押してるな……。車で行くと一時間ほど到着時間が延びてしまうが」
「目的地変えないといけないかしら」
「いや、一時間くらい遅くなっても大丈夫だろう。な、アハカ」
呆然としているなか突然話題を振られたワタシは「あ、うん」と生返事をしました。
見れば見るほど、この二人がワタシの両親だなんて信じられません。まず、ワタシの顔と似ている部分がありません。また、父親が明らかに異国の人に見えますが、ワタシはハーフな顔立ちというわけでもなく生粋の日本人のはずです。もちろんこのご時世で人種や民族といった区分の仕方にそもそもの価値はなくなっているのですが、ちがいがあるのは事実なので、その点においてのみ用いられる場合が多いです。
ワタシは眉間にしわを寄せながらいぶかしげに彼らをもういちど眺めました。
その様子に気づいた二人がこちらを見ます。
「どうしたアハカ。そろそろ準備しないと楽しみにしていたハイキングが台無しになるぞ」
父親がもっともらしいことを言ってワタシに出かける準備をするように後押しします。そして寝室から出ていきました。
「ほら早く、準備して」
母親もワタシを急かし、とりあえずワタシは彼らとともに行動してみようとベッドからはい出、洗顔などの準備を始めました。
洗顔や着替え、整髪といった朝の諸事をやり終えると、ワタシは朝ごはんも摂らずに母親と父親の黒い車に乗り込みます。ワタシの服装はもちろんのように淡いピンク色のワンピースでした。
朝ごはんを食べていないせいかお腹が空いてきました。すると、それを察した母親がバッグの中から取り出したのは小さな〝おにぎり〟でした。「朝ごはん食べてないでしょ。はい、これ」
「……あれ?」
ワタシはひどい違和感を覚えます。
ワタシはどうして今までおにぎりの存在を知らなかったのでしょう。
以前、花畑へとハイキングへ行った夢のときもたくさんのおむすび・おにぎりが詰まった重箱のような弁当箱がありました。けれど、ワタシはそのとき「おいしそうなおにぎり」だとか、「たくさんのおにぎり」などとはまったく思いませんでした。
この白いかたまりがおむすび・おにぎりだということを初めて知ったのは、ナシュラによってです。アストラのもとへ行く前に急いで渡されたときでした。
だから、この夢の中で初めておむすび・おにぎりを見たかのように、ワタシ自身が思うのはおかしいのです。なにかが絶対におかしいとまでは思いませんが、ひどい違和感をぬぐうことはできません。
ワタシは勇気をもって両親に訊ねてみました。「ねえお父さん、お母さん」
「ん。なんだいアハカ」
父親がワタシに聞き返します。
「ここはいったいなんの世界なの。どうしてこんなに不思議で不安な気持ちになるの。教えて」
言い切ってすぐにワタシは車内の雰囲気ががらりと変わるのを感じとりました。
母親が言います。
「アハカ。あなたこの前『ここはワタシの夢の世界』って言ったじゃない。今さらどうしてそんなことを言うの」
「そうだぞアハカ。言ってることが二転三転している」
ワタシは彼らの言外の意図をくみ取って、歯切れ悪く言いました。
「それは、ごめんなさい。でもワタシはやっぱり……その、こんな夢は──お父さんもお母さんも本物だと思えないこんな夢はいやだ。あなたたちはだれなの」
歯切れ悪く、しかしはっきりとそう言ってのけると両親はその整った顔を無表情にさせました。父親の顔はバックミラーに映っています。母親はワタシのほうを向いて黙って、微動だにしません。
「あ、ご、ごめん」
悪いことを言ってしまったかと思い、ワタシは反射的に謝りました。しかし、両親の返事は大して気にしていないような感じでした。
「別にいいわよ。ねえパパ」
「ああ、かまわない」
ワタシは、よかった、と安堵したのですが、その次には彼らは信じられないことを言いました。
「だってアハカには最初から両親なんていないから」
二人同時に、です。
「え?」ワタシは人間の典型的な反応をしてしまいました。「どういうこと……?」
「そのままの意味。アハカには両親なんていない」
同じことを二度言われてそのような衝撃的なことを信じられるワタシでもありません。
「うそだよ、うそ……。ワタシに両親がいないなんて、じゃあワタシはどこから生まれてきたの。お母さんのお腹の中じゃないの」
唇の震えが止まりません。
「いいえちがう」
非情な言葉が母親の口から放たれてワタシの耳に届きます。ワタシは言いようのない不快な気持ちにその耳を塞ぎました。
本当は「ママのお腹から生まれてきたのよ」と言ってほしかったのです。ワタシがいくらこの両親に違和感を覚えてしまっていたとしても、母親の口からその言葉が放たれたあかつきには信じない道理などなく、あきらめもついたのですから。
しかし、それは先の言葉より完全に無意味となりました。
「アハカ。実はパパたちは以前よりのパパとママとちがう。やけどだらけで膨張して、人の原型をとどめていなかった両親とはちがうんだ」
「そう。だからアハカには教えてあげないといけないの」
「なにを……」
ワタシは彼らの声を聞くままに聞きました。
「それはまた次に会ったときにね。そのときは人の原型をとどめていない前の両親もいっしょに交えて」
「そうだね。それがいい」
両親は互いに顔を見合わせてそう打ち合わせすると、いまだにカラダの震えが止まらないワタシに対してその肩をつかみます。そして、軽くその肩を押されました。
「あっ」
いつの間にか黒い車は消え、辺りは深淵の底のような真っ暗な空間に変わっていました。以前の夢の真っ白さとはまるで正反対の世界です。あの両親も消え、ただただ暗いだけのこの空間にほっぽり出されたワタシは、いったいどこへ向かえばよいのでしょう。
白い世界もこわいですが、黒い世界もそうとうにこわいです。とにかくここから脱出しないと。
けれど、ワタシはこの世界を知りません。歩き方はもとよりここがどこなのかも自信をもって答えることができなくなりました。
このまま漂っていれば、いずれ脱け出すことができるのでしょうか。
いや、とワタシは奥歯を噛み締めます。
自分でここから脱出しなければなりません。それができずにワタシがスルシュのもとから離れた意味なんてありません。
けれどワタシは「スルシュに会いたい」です。会ってすべてをその口から聞きたいです。
ワタシはスルシュにもういちど会わなければならない。
そう強く思ったとたん、ワタシの視界は目を開けられないほどの強烈な光に包まれました。
そのときワタシは「あ──」とあることに気づいたのですが、最後までそう思う前にふたたびその意識は暗闇に落ちてしまったのでした。
視界には変わらない白の天井。
ワタシはどうやら軟禁部屋に連れてこられてきていたようです。
ベッドから起きあがって時間を確認すると、デジタル時計は午後四時と少しをまわった時間を示していました。今日が何日なのかというのはわかりませんが、とりあえず今夜、ワタシは暗号で示された「凪に浮かんだ三日月」に向かわなければなりません。
小さくため息をついてなにをすべきか考えてみますが、とりたててすることはないと気づきました。と思いつつもワタシはナシュラを呼んでみることにします。日付くらいは確認しておく必要があるでしょう。
数分してナシュラが来ました。姿をワタシに現すなりこう言います。
『おはよう。お腹空いた?』
「いえ、今日って何日なのかなと思って。それが知りたくて呼びました」
『それだけでいいの。八月十五日だよ。アハカ、あれから一日以上眠りこけてたんだね』
「八月十五日……」
西の柄杓と目の前に先駆けた光が影を犬にするとき、凪に浮かんだ三日月に向かえ。
その日のはずです。
「ありがとうございます。今日はだれとも話さないんですか」
『しばらくはだれとも話さない。軟禁生活ね。つまらないだろうけどそのうち出られるよ。いつになるかはわからないけど』
「そうですか……」
だとすると今夜ここから出るのは難しいのかもしれません。先日のようにナシュラを呼び出しうまいこと言いくるめ部屋から出るまでは可能でしょうが、その後どのようにして、「凪に浮かんだ三日月」に向かえばよいのかはわかりません。そもそも「凪に浮かんだ三日月」とはなにかすらわからないのです。このままでは八方ふさがりになってしまうでしょう。
「あの、今日は月齢にして何日目ですか」
外堀を埋めていかなければなりません。
『唐突だね。下弦の月(満月から新月になるまでの半月)のはずだよ。二十二、三日目ぐらい』
「満月になってから一週間くらい経ったってことですね」
『そうなるね。でも、そんなこと聞いてどうしたの』
びくりと大げさにカラダが震えるのを、ワタシは姿勢を正すようにとりつくろいました。
「え、と。なんでもないんです。この前プラネタリウムを見せてもらったので月も気になっちゃって」
『ふうん。まあ変な気は起こさないほうがいいよ。じゃ、私は行くから』
「え?」
ナシュラは意味深な言葉をつくと、消えるようにさっさと部屋から出ていってしまいました。ぽつんと取り残されるように部屋に立ち尽くすワタシは先ほどの言葉を脳内で反芻します。
『変な気は起こさないほうがいいよ』というナシュラの言葉。もしかするとワタシの考えていることがわかっているのでしょうか、という不安が脳裏をよぎります。しかし、ナシュラはワタシのセラピソイドでなければ、ワタシの生活パターンを把握しているわけでもありません。
これがブラフというものならば、少し行動や言動を慎んだほうがいいのかもしれません。慎重に大胆に動いてやるのです。
ワタシはこれからのことを少し考えてみました。まず、ここから脱出することについてです。
ワタシはラドムを統括しているらしいあの三人のことを信じることができません。
いいえ。信じることができるかできないか云々よりも、スルシュとラドムのどちらがワタシにとってより信ずるに値するかと言うならば、それはスルシュだと言うほかないのです。ほかのラドムの方たちもいるでしょうが、彼らは彼らなりに考えてアンドロイドとの決別を図ったのでしょう。
昔はしばしば「正義対正義」や「悪対悪」、「正義対悪」を引き合いに出してあらがい争う話があったようですが、正義や悪を向ける相手すら消えてしまった現在ではまったく意味のない言葉になってしまいました。だから、ワタシはとくにラドムの方たちに対して嫌な気持ちは湧きませんし、無関心になることもありません。
けれど、ワタシはスルシュを信じるにあたりこの舩から脱出しなければなりません。そのためには、やはり「慎重に大胆に」です。
あまり良い作戦とは思えませんが、ナシュラには少し眠っていてもらう必要があるでしょう。ワタシはちらりとあるものを見やりました。
そして、ベッドにもぐり込むと夜の十時まで眠ることにしました。
夜の八時に起きました。眠けまなこをさすりながらナシュラを呼びます。
『さすがにこの時間はお腹空いたでしょと思って作ってきた』
なかなか来ないと思って待っていると手に小さな器を持ったナシュラそのひと。『えびグラタン』
目の前のテーブルに置かれ、ワタシは「気を遣ってくれて……。ありがとうございます」と感謝を述べました。腹が減っては戦はできぬのです。
熱々のえびグラタンにうまいうまいと舌鼓を打っているワタシをナシュラは静かに眺めます。「どうしたんですか。じっと見つめたりして」
『いや』と言うとナシュラはそっぽを向きます。そして向こうを向いたまま『そういえばアハカのセラピソイドって「スルシュ」って言うんだよね』
「そうですけど、それがどうかしたんですか」
素直に疑問をいだいてワタシは質問を返します。
『聞いただけ。食べ終わったらボタン押して。食器下げにくるから』
「……はい」
いつものようにナシュラは部屋から出ていきます。ワタシはえびグラタンを見つめました。
アストラと話す前とナシュラがまとう雰囲気がどことなくちがうような気がするのはワタシの気のせいでしょうか。どことなくもの悲しげで、とらえどころのない印象も消え去ったように感じます。
「なんか気の毒になってきた」
ワタシはあるものに視線を向けます。スチール製の椅子です。
ワタシの作戦とは、ナシュラを呼び出して部屋に入ってきたときもしくは出る直前、その頭を椅子で殴りつけて一時的に行動できないようにさせることです。人間で言うなら気絶を狙うというものです。
しかし、ワタシはナシュラの様子からその作戦をおこなうことにためらいが生じてしまいました。あんな様子なのにさらに追い討ちをかけるように殴られたら、ワタシだったら気が失せてしまうでしょう。
なんとか、できるなら説得することで部屋から出させてもらえないでしょうか。
ワタシは再びえびグラタンにスプーンを伸ばします。
えびの丸まった背をしばし見つめたあと口に運びます。
オリーヴにワタシの知らない過去が存在するように、ナシュラにもきっとなにか気分が落ち込むような過去があるのだと思います。だから、それのせいで調子が悪いのかまではわかりかねますが、それでもワタシに話して少しでも気が楽になるなら話してもらって、理解を得たあとで話し合いに持ち込みたいのです。
ワタシは食べごろの熱さまで冷えたグラタンを勢いこんでかきこみました。わきに置かれた野菜ジュースを一気飲みしてナシュラを呼ぶためにボタンを押します。
顔を両手で包んで深呼吸。ベッドから動かず、スチール製の椅子にも手を伸ばしません。覚悟を決めました。
『早かったね。食べ終わった?』
数十秒してナシュラがやってきます。何も知らないかのようにそう問いかけてきますが、ワタシはそれに頷いてグラタンの器を差し出します。「ナシュラさん」
器を手に取りながらナシュラが返答します。『なに?』
ワタシはいちど息を吸い込んでからこう言いました。
「もしよかったら、その、ナシュラさんがどうしてそんなに落ち込んでるのか教えてくれませんか」
『え?』
ナシュラは器をテーブルの上に置くと、至極唐突なワタシの問いを処理できないのか固まってしまいました。
「あ、あの」
『アハカ』
「は、はいっ」
ワタシはびっくりしてベッドの上で正座になりました。
『そんなこと聞いて、どうしたいの』
「え、う……」
ナシュラから想定外の問いが返されてきます。「あなたを説得してここから逃げるため」とも「あなたのことをもっと知りたい」とも言うことができず口ごもります。
『アハカの考えはわかってる。最終的にはここから脱出するんでしょ。でもどうして、そのために私の顔色をうかがう必要があるのかな。私のことなんてそこらへんの椅子でも使ってさっさと気絶させちゃえばいいのに』
ナシュラの言い方がなんだかとても自暴自棄的で自嘲気味で、ワタシはその態度にやる方ないほどの憤りを感じてしまいました。
「ナシュラさん。そんなふうに言わないでください」
『どうして。私はだれのセラピソイドでもない。アハカにそんなふうに気遣ってもらう筋合いはない』
「っ……」
ワタシはベッドから立ち上がると、ついにナシュラの頬をひっぱたいてしまいました。それを痛いと感じているのかいないのか、ワタシの行為をどう受けとめてもらえたのか、それはナシュラにすべて委ねられています。
けれど、ワタシはほかでもないナシュラを思ってその頬を叩きました。
「だれのセラピソイドとか、気遣ってもらうとか、そんなこといちいち考えながらワタシのこと世話してたの?」
『……そうだけど』
「信じらんない」
ワタシは荒々しくため息を吐きます。
「ナシュラさんはワタシの気持ち、やっぱりわかってないんだね。でもそれは仕方のないことだと思うよ。だってナシュラさんはワタシのことなにも知らないもの」
椅子に腰かけてうつむきます。
ワタシの自分勝手な想像かもしれませんが、ナシュラはワタシのことを精一杯気遣ってくれたと思います。
水を極力使わない料理に作りなおしてくれたり、ヌマフの尋問から逃れられるように計らってくれたり、普通なら行けないはずの全天球管制に連れていってくれたり、プラネタリウムの使い方を教えてくれたり。
どれもがワタシにとっては気遣いの証なのです。それなのに、それに気づかないふりをしてああだこうだ言い訳のように『アハカのセラピソイドじゃないから』とか、そんなことがワタシに通じるわけがありません。
「セラピソイドにとってケアする対象がいないのはつらいことだと思いますけど、ナシュラさんはワタシのこと精一杯気遣ってくれてましたよ。まぎれもないワタシが言うんですから、もっと自信もってください。お願いします」
ワタシはうつむいたままそう言い切って小さく礼をしました。感謝と嘆願の意味をこめて。
顔を上げるとナシュラもまたうつむいています。
『ごめんなさい。私が落ち込んでるのは事実。でも、そういうことじゃないの。こっち来て。ここから逃がしてあげる』
ワタシはナシュラの最後の言葉に耳を疑います。「いいんですか。そんなに簡単に逃がして」
『いいよ。アハカの顔、本当はもう見たくないから。ちょうどいいかなと思って』
「え……」ワタシの顔を見たくない、とはどういうことでしょう。
ですが、その疑問を訊ねる前にナシュラに右手をとられました。『こっち来て』
そのまま引っ張られ、軟禁部屋の外に出ます。警報器もなにも鳴らず、ワタシたちはずんずん奥へと向かいます。
ナシュラの背中の雰囲気がワタシにとって見ると複雑な印象です。本当は嫌なはずなのに仕方なくこうしているのだと言いたげです。ナシュラになにか言おうとしても、その複雑な威圧感をたたえた背中を前にするとどうにも言葉に詰まり、なにも言えなくなるのです。
やがてナシュラはエレベータの前に立ちます。このエレベータはワタシが今まで利用していたものとは正反対の位置にあるはずです。ですから、ナシュラがどこへ向かおうとしているのかワタシは知る由もありません。
ですが、ここはこの舩の最下層。つまりこのエレベータは上層のどこかに繋がっているにちがいありません。
ただし、その向かう先にワタシは不安を隠しきれません。
いまだに威圧感を放つナシュラに向かって、勇気を出して訊ねてみました。
「あの。いったいどこへ」
言い終わる前にナシュラがとんでもないことを言いました。
『この舩の最上階。この舩のドック。そこから飛び降りるんだよ。私といっしょに』
「え、え。飛び降り──」
でもこれいま、空、飛んでますよね。夜ですし外、すごく寒いですよね。
そんなふうに思ってしまってワタシは顔が真っ青になる感覚に陥りました。
「無理です!」
そう叫んでいやいやとエレベータに乗り込むのに精一杯抵抗していても、相手はセラピソイド。アンドロイドです。力で敵うわけがなく、ワタシは引きずられるようにエレベータに乗り込ませられました。無慈悲にも扉は閉まります。
「この高さから飛び……飛び降りるなんて自殺こ、こ……」
その様子を想像し、あまりの恐ろしさにその場にへたりこんでしまいました。もはや自分が半泣きになっていることに気づきます。
『恐くないよ。私がついてるから』
「そういう問題じゃないですって! 死んじゃいますよ」
必死にナシュラの早まった行為をやめさせようとその体にしがみついて説得を試みてみますが、まるでやめようとする雰囲気すら見せません。これでは先ほどまでの立場と正反対です。エレベータはどこまでも無慈悲で、一定の速度を保ちながら上へ上へとその歩みをやめることはありません。半泣きすらやすやすと飛び越えて目からは大粒の涙が流れ始めました。
もはやてこでも動かぬと言わんばかりのナシュラの意志とエレベータにワタシは為すすべがなく、その場に三角座りになって袖を涙で濡らします。
とても長い時間が経っ(たような気がし)て、エレベータは最上階に着きました。地獄への門が開くかのようにその動きはゆっくりとしています。
「寒い……」
ゆっくり飛ぶアルタグラと言っても、やはり高度数キロメートルともなるとS区画のように強烈な風が吹きすさびます。ワタシの髪はその強風で生き物のように暴れまわってしまっています。
強風と寒さと恐ろしさに立ち上がれずにいると、ナシュラが再びワタシの手を取りドックの最先端へ誘導しました。
「な、ナシュラさん。本気ですか」
『まあね』
そんな軽い返答で済むほど高度数キロメートルからのダイブは甘くないのではありませんか。
それよりもどこへダイブしようと言うのでしょう。真っ暗でどこを舩が飛んでいるのかもさっぱりわかりません。やはり、危険すぎるのではないですか。
しかし、ワタシはナシュラになにも言えませんでした。もとよりここから脱出するタイミングを見計らっていた身なのですから、もしこの機会を逃してしまったらと思うと、ここまで来た以上これ以上は何も言えないのです。
『アハカ、見て』
「はい?」
ナシュラが指さす方を覗きこみます。『小さな三日月みたいなものが見える?』
最初は見えませんでしたが、よく目を凝らすとたしかに白い三日月のようなかたちをしたなにかがぽつんと見えます。
『あれはずっとこの舩をつけてきてた。あれは仲間の舩だよ』
「仲間の舩って」
ワタシがその意味を把握できずに聞き返します。
『私はラドムへのスパイってとこ。アハカ。私は国連のメンバーのひとりなんだよ。アハカのことが気に入らないのは変わらないけど』
「は……」
ナシュラが、スルシュと同じ国連のメンバー?
『じゃ、行こうか』
いつの間にか飛び降りる準備を終えていたナシュラがワタシを後ろから抱きかかえました。そして、後ろからはたくさんのエアレイドロイドと、その一機に乗ったウルタとヌマフの姿。
「このままで逃げられると思うなよ。ナシュラ!」
そう言うのは憤怒の顔をしたヌマフでした。
「ナシュラさん。やばいですよ」
『大丈夫。すぐ撒けるから。──行くよ』
後ろでなにかを言う二人の声とエアレイドロイドの騒音は強風と──飛び降りによる急降下のせいで遠ざかり、そのままワタシは意識を失ってしまいました。