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その滅びに至る道は

気づけばベッドの上でした。

 そして、目を開けるとそこには、小さな子どもたちがにこにこ笑いながら私のベッドを取り囲んでいます。

「え」

 寝起きのぼんやりとした頭と、わけのわからない状況の相乗効果でしょうか。ワタシは起きた瞬間の格好で呆気にとられたように動けません。

 子どもたちはにこにこ顔をさらににこにこさせながら言いました。

「おねえちゃん、おきて!」

「おきよう!」

「ねえねえ雪合戦しよう!」

 ワタシが目覚めたのをいいことに、彼らはその特有のかん高い声を大音量で鳴らしてワタシをはやし立てます。

「な、なにがどうなって……」

 ワタシがほとほと困り果てていると、子どもたちの向こうからシアンの声。

『こらこらお前たち。アハカが困っている。少しはおちつけ』

 シアンのその一声で子どもたちの大音量はぴたりとやみました。そして、子どもたちをかき分けてシアンが姿を現します。

『騒々しい寝起きですまない。よく眠れたか』

「まあ、はい」

 よく眠れたなんてことはまったくありません。むしろ今日一日中ずっと寝ていたい気分です。つまり寝不足。ついでにまぶたも腫れぼったい感じがして、のどの調子もなんとなくおかしい気がします。

 けれど、シアンはそんなワタシの様子にも気づきません。セラピソイドではないから仕方がないです。

「あれ、そういえばスルシュは」

『あいつなら外へ出て雲の流れを計算するなんて爺臭いことをしている』

「え?」

 どういうことでしょう。

 ワタシが小首をかしげていると、シアンは話を進めます。

『ところでアハカ。今日は昨日とうって変わって気持ちのいい青空が見える。気温もそんなに低くないし風も強くない。どうかこの子たちといっしょに外で遊んでやってくれないか』

「外で遊び?」

 ワタシは子どもたちの顔を見渡します。

 ワタシと遊びたそうなキラキラした顔ばかりです。区画外からの来訪者なんて初めてに違いありません。それゆえの好奇心もあると思います。

 そんな彼らをしばし眺め、

「わかりました。じゃあ着替えるので、みんなは先に行っててください」

 シアンに子どもたちを誘導するよう言いました。

『ありがとう。ほらお前たち、行くぞ』

 シアンに背中を押されるようにしてみんな部屋から出ていきました。

「はやくきてね!」

「まってるから!」

「雪合戦しよう!」

 そんなことを口々に言いながら部屋のスライドドアが閉まりました。ドアの向こうからは興奮冷めやらぬ子どもたちの声ばかりが聞こえてきます。

「朝から疲れた……」

 その声も遠くへ過ぎ去ると、カラダがどっと疲れを感じました。なんとまあ、めんどくさいことを約束してしまったものです。もちろん決して子どもが嫌いだからというわけではなく、単に寝不足のためです。

 ワタシはベッドの脇に据え付けられたテーブルの上を見ました。そこにあるのは大粒の水滴がついた水差し。

 そう、ワタシの好きな水。

 のどの渇きを潤すために、グラスにゆっくり注いで一口。

「冷たくておいしい」

 これは山の雪解け水をさらに蒸留してみがいたものなのでしょう。直感でそうとわかりました。こんな高山で採取しているにもかかわらず、実にまろやかで舌触りの良いおいしいお水です。しかも、ミネラル分も豊富で、かすかに甘い感じが舌に残ってくれます。

 昔の人たちはワインというものを酒造していたようです。ワインは酒造の工程がそのまま味の仕上がりに直結するなど、なかなかに奥が深い飲み物だったといつか本で読んだことがありますが、お水も負けず劣らず奥が深いとワタシは思います。お水の味は大自然が作り出した芸術に近いものだとも思います。

「て、準備」

 ワタシはお水のおいしさに感動して我を忘れてしまっていました。子どもたちのために急いで顔を洗い、髪を整え、昨夜のうちに洗って乾かして畳んでおいた服を着ます。その間わずか七分。

 上出来です。

 ワタシは壁に掛けられた鏡で容姿の最終チェックをしました。仮でなくてもワタシは女の子なので、容姿くらい気にします。でも、きっとワタシの容姿を気にしてくれる人はいないでしょう。

 それが少し悲しくもありますが、子どもたちと遊べばそんな気持ちもどこかへ飛んでいってしまうでしょう。

 ワタシはそう思って一度深呼吸すると、そのまま部屋を勢いよく飛び出しました。




「あ、来た!」

「おねえちゃん来たー!」

 ワタシが待合室のようなエントランスから自動ドアを抜けて外に出たとたん、子どもたちはワタシの姿をとらえて駆け寄ってきました。

 ワタシの周りを取り囲む彼らにてんやわんやしながら対応しているとシアンがこちらに来ます。

『早かったな。急がなくても良かったが』

「すみません。お水がおいしくて」

『水?』

 シアンが首をかしげるのも無理はないでしょう。ワタシも「答えになってない」と思いましたから。

「シアンとばっか話さないでよー」

「おねえちゃん、雪合戦!」

 子どもたちに引っ張られ、ワタシは強制的にシアンから離されてしまいました。

「ごめんなさいシアンさん。またあとで」

『ああ。子どもたちをよろしく頼む』

 ワタシは向こうで雪合戦をしている子どもたちの群に混ざりました。




「……疲れた」

 時刻は午後の八時。日はすっかり落ちきってしまいました。

 雪合戦をしたり、雪だるまやカマクラを作ったり、ソリやスキー遊びを体験したりと、K区画にいたら絶対にできなかったであろう経験と運動をして、心身ともに疲れきったワタシは、ゆったりとお風呂に浸かってカラダを温め、疲れを癒しています。

 ちなみに夕食はみんなといっしょに食堂で食べました。遠い昔に存在していたデンマークという国の料理で、フレシキスタイという肉料理と、ロシア連邦という国のウハーという鱈と野菜の入ったスープ。冷めきったカラダに染み入るような美味しさは格別でした。どちらも寒い気候の国だったので、温かい料理が多かったのでしょう。そして、S区画もまた寒いのでしかり。

 K区画にいるときは野菜中心で、しかもあっさりしたサラダ系が多い食文化だったので、この違いはおもしろいと思います。

 ワタシは「区画ごとに気候の違いがあるんだから、料理も違いがあってとうぜんか」と、湯船に浸かりながら思いました。

 すでに顔や髪やカラダを洗い終えたワタシはもうすることがないのですが、のぼせるぎりぎりまで湯船に浸かっていることにしました。というのも、お風呂の様相が明らかにK区画とは違うからです。

 昔あった温泉という場所のように、大きな岩で組まれた広い風呂釜と、泥のような肌触りの乳白色のお湯の色、あたりには少しイオウという物質の臭いも立ちこめてます。こんなお風呂はさすがにK区画にはありません。

 難点は、お風呂場を出るときに泥湯をシャワーで流し落とすという行程が必要なことです。

 湯船から上がることにしましょう。

 ワタシはその行程どおりシャワーで泥を流し落としました。髪の毛はタオルでまとめているので大丈夫です。

 脱衣場で水滴を拭いて、少し厚手のパジャマを羽織ります。そして、ドライヤーで髪を入念に乾かしたあと、持ち込んだ保湿ゲルでお肌をととのえました。一連の行程はK区画を脱出してからも変わりません。

 すべてやり終えたワタシは、脱衣場から自分の部屋へ戻ろうとドアを開けました。

「あ」

 目の前にいたのはスルシュ。

「どうしたの?」

 ずっと待っていたのかな、と思いつつ訊ねます。

『K区画を脱出した際に待ち伏せていた連中の追っ手がまたこちらに向かってきています。あと一時間ほどでS区画に到着します。急いでここを発たなければなりません。行きましょう』

「え、ちょ」

 ワタシは腕をとられ引っ張られました。よろけながらも踏んばります。

 しかし、どういうことでしょう。やはりスルシュはワタシがお風呂から上がるのを待っていたのでしょうか。

 危険なはずなのに。

「待って。ここの子たちはどうなるの。それに、R少女は」

『連中は無防備な存在を怖がらせたり危害を加えるようなやつらではありません。大丈夫です』

「じゃあどうしてワタシたちは逃げるの」

 スルシュは答えません。

「今、突然のことで少し頭が混乱してるけどワタシだってバカじゃない。本当にその連中が危なくないっていうなら、K区画脱出のときにアームドロイドをけしかけて来たのは別のやつらってことなの。違うでしょ」

 スルシュは答えません。

「スルシュの完璧な計算で矛盾があるのっておかしいよ。ワタシ、だったら、そんな矛盾したこと言う存在とずっといっしょにいるのは嫌だ。だって、それってワタシが完全に騙されてるってことでしょ。あなたたちに。つまり、あなたたちが悪で、ワタシたちを追っている人たちが善」

 スルシュは、静かに、ほんの少し慎重な面持ちで言います。

『しかし私は、アハカに対して矛盾を解く方法を、今は実践できません』

「じゃあ、矛盾が解かれるのはいつ」

『計算ではそう遠くない未来です。未来のことですが、間違いなく矛盾は解消されます。ですから、それまでにどうか私どもを信じてついてきていただけないでしょうか。それに、私はアハカを信じているというのもまた、偽りのない真実です。ですから、どうかお願いします』

 どこまでスルシュを信じてよいのでしょう。これはわからないで済ませられるような問題ではないと思います。それこそ、これからのワタシの行動に関わることです。

「わかった。じゃあワタシはあっち側につく」

『アハカ』

 呼び止めるようにワタシの名前を呼んでいます。ですが、ワタシとてなにも考えていないわけではありません。

「あっち側にもついてみて、どっちが正しいかワタシ自身が見きわめる」

『それは危険過ぎます』

「どうして。無防備なら怖がらせたり危害を加えるようなことをしないんでしょ」

『……』

 ぐうの音も出ないスルシュ。もしかしたらワタシは、初めてスルシュを黙らせたのかもしれません。

「ワタシはここに残る。ここに残ってあっち側についてみる。すごく唐突だけど、きっとそうしたほうがいいんだよ」

 怖くありません。なにも。こんなにも饒舌に自分の意志を述べたのは初めてです。けれど、ワタシの中にはもう「あっち側についてみる」という意志は揺るぎないものになっていました。

『それならば、連中の善悪にかかわらず私は心配です。仮に連中が悪だったとして、アハカはそこからどのように脱出しますか。あなたのような存在が、どうやって』

 スルシュの声には少しばかり蔑みのニュアンスが込められていました。おそらく『なんの技術も体力も持ち合わせていない』ということでしょう。

「スルシュはワタシをバカにし過ぎ。完璧なあなたの計算の矛盾をさっき追及して黙らせたのはだれ」

『しかし、頭脳だけではどうにもならないことも』

 さすがのワタシも久々にぶちギレました。舌打ちしたのち、まくし立てます。

「あーもう! ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う! いい加減そういうひねくれた言い方やめてよ。ワタシになにさせたいのかわからないけど、そんなに離れて行ってほしくないなら、何がどうなってるかぜんぶ包み隠さず教えて! それができないくせにあーだこーだ言ってさ! ──はっきり言ってムカつく!」

 あらんかぎりの声量でスルシュにこれまで溜まった鬱憤を吐き散らしました。自然と眉間にシワが寄って口がへの字になります。

『いったいどうしたんだ二人とも。そろそろ出発しなければやつらが追いつくぞ』

 ワタシたちが睨みあっているちょうどに現れたのはシアン。何がなんだかわからずに、ワタシたちに急ぐよう促します。

 しかし、ワタシはすでにあっち側につくと決心しています。だからシアンにも言いました。

「シアンさん。ワタシここに残る」

『なにを言ってるんだ。アハカ』

 シアンも慌ててひき止めます。

『アハカ、君が思っている以上に連中は危険だ。スルシュ、お前もひき止めろ!』

 シアンがスルシュに助け船を求めます。しかし、スルシュは何も言わず、ただ黙って突っ立っているだけです。その姿には暗い影が落ちているようにも思います。

『どうしたっていうんだ二人とも……』

 シアンが頭を抱えました。

 しかし、すぐにまた話し出します。

『わかった。アハカはここに残れ。君のことだからなにか考えがあるんだろう。私たちはやつらに捕まるわけにはいかないから、ここを離れる』

「はい」

『なら、少し待っていてくれ』

 そう言ってシアンは廊下の曲がり角の向こうに消えました。

 スルシュがこちらを向きます。

「なに」

 ワタシはそれに気づいて廊下の曲がり角を向いたまま訊ねます。しかし、スルシュは何も言わずにワタシを静かに見下ろしたままです。その視線がなんだか、とても不気味な感じがするのはワタシの気のせいであってほしいです。

「あ、来た」

 スルシュの不気味な視線がワタシから離れる感じがしました。

 廊下の曲がり角から駆け足で来たシアン。手には小さな箱を持っています。

『これを耳たぶと、のどのあたりに貼りつけてくれ』

 箱から取り出されたのは五ミリ角程度の大きさをした透明な正方形のシートです。

「これは?」

『GPS機能のついた通信機だ。電波が妨害されないかぎり、地球の裏側だろうとこれでやり取りができる』

 ワタシはそのシート状の通信機とやらに視線を向けました。

 ですが、ワタシはその救済措置を自ら拒みました。

「ごめんなさい。それは使えません」

 ワタシはスルシュやシアンに頼らずともやっていけます。そうでなければ、わざわざあちら側につくことを決心するはずもありません。

 それに、もともとこの旅に出たのだって、半ばスルシュに連れられるようにして、でした。ワタシはスルシュに手を引かれるようにしてこの旅の始まりとしていたのです。

 今度こそワタシ自身の意志でなにかを決定し、行動するべきです。

『だが、これを装着していなければ、君は脱出したいと思ってもできないかもしれない。まさかひとりで太刀打ちできる相手でもないだろう』

「いいんです。ワタシはスルシュやシアンさんに頼らなくてもなんとかできます」

 ワタシがシアンさんにそう言ってやると、スルシュのほうからまるで地の底からの呼び声ように低い声が聞こえてきました。

『減らず口を……』

 次の瞬間、ワタシはスルシュの両手に首根っこを掴まれ締め付けられていました。

「……スル、シュ」

『あなたは赤子です。無垢な赤子。何も知らず、何の力ももたない赤子。そんなあなたに何ができますか。私たちの助けがなければK区画から脱出さえできなかったあなたに、何が』

 間違いなくスルシュは怒っています。けれど、ワタシにはその怒りを鎮めることはできません。ワタシはスルシュがこんなにも怒っているのを見たことなんてないのですから。

 スルシュはワタシの息の根を止めそうな勢いでさらに首を締め付けてきます。

「か、は……」

『あなたはまだ知りません。だからこそ今、こうして知ろうとしているところに余計なものが介入してしまったらどうなるか、それもあなたは知らない。〝あなたは蛇を傍らに気づいていながら見ても触れてもいけないのですよ〟』

「な……、言って……」

 目の前が霞んできて──。

『スルシュ!』

 瞬間、スルシュの手が離れてワタシは地に落ちました。肺に酸素を取り入れようとして、ワタシは咳き込みながら荒い呼吸を無心で繰り返しました。

『アハカを殺す気か! お前は──』

 シアンになにかされたのか、倒れこんだスルシュにシアンはなにかを言おうとしました。しかし、ワタシのほうにちらりと視線を向けると言葉をとめます。

『わかった。ぜんぶアハカの好きにしたらいい。いちおうこれは君に渡しておくが、使うか使わないかは君にまかせる』

「っ……わかりました」

『スルシュ、行くぞ』

 シアンはスルシュの手をとると、半ば引きずるようにして行ってしまいました。

 廊下を曲がる一瞬、スルシュがワタシのほうを見たような気がしましたが、気のせいでしょう。

 ワタシは脱衣場に戻って渡された通信機をごみ箱に投げ入れました。これでもうだれの助けもなく、ひとりでなんとかしなければなりません。

 しかし、怖くもなんともありません。

 ワタシは、きっといつかひとりでなんでもできるようになると決心したのですから。




 数十分後、自分の部屋でゆっくりとそのときを待っていると、扉をノックされました。「今、開けます」

 そうして開けると案の定目の前にはアームドロイドの軍団。その先にはあのときの小肥りの貴人さん。

 その彼が、道を開けたアームドロイドの真ん中を通ってワタシの前に立ちました。

「なんて狭い廊下だ……。ああ、私は、Life Autonomy and Dooms-Method System。通称LADMSという組織の者だ。名前はウルタ。君に会えて光栄だね」

 ラドム、聞いたことがあります。K区画を脱出する前夜、スルシュは星空を見ながら仲間との通信でその名を語りました。この人たちがそのラドムだというなら、ワタシが知っている国連という組織とはまた別の存在だということになります。

「アハカって言います」

「知っているよ。ところで──」

 ワタシの自己紹介はほぼスルーして、

「君を連れ回したアンドロイドはどうしたね。この区画にはいないようだが」

 ウルタは病室内を見渡して彼らのことを見いだそうとしました。どうやらやっぱり、あの二人のことも捕まえる気だったようです。

 ウルタの背中に向けて素直に本当のことを言います。

「アンドロイドはいません。ワタシは彼らのやり方に嫌気が差してあなた方についていくと決めました。だからもうここにはいません」

「ほう。それは本当かな」

「はい」

 ならば話は早い、とウルタはこちらに向き直ります。

「アームドロイド。お嬢さんをアルタグラまでお連れしろ。あくまで丁重にな」

『承知した』

 するとアームドロイドの一機がワタシの腕をとります。反射的にそれを防ごうと手を払いのけましたが、「おやおや、あまり抵抗しないでくれよ」というウルタの一声で、ワタシはおとなしくアームドロイドに片腕を預けました。

「私はもう少しここを調べてからそちらに戻るとしよう。行け」

 アームドロイドに腕を引っ張られ、ワタシは無理矢理連れて行かれます。

 R少女のいる集中治療室を通って、子どもたちと夕食を食べた食堂も通って、数々の廊下を渡ってあの観音開きの鉄扉もくぐってたどり着いた先には、ワタシが乗ってきたアルタグラよりも明らかに大きいそれが停まっていました。

 そのとき、ほんの少し胸がちくりと痛んだことはワタシしか知りません。

 そしてワタシはタラップを上っていきました。

 図体が大きければタラップも大きいです。格納庫内の様子を悠然とながめながら歩いても、別に足を踏み外したりはしないでしょう。それほど一段一段の幅に余裕があります。

 ワタシはタラップの中腹で、なにげなく出入口のあたりを見ました。

 するとそこにはひとりの子どもの姿。昨日、雪合戦をしようと必死にせがんできた子です。

「ちょっと待って」

『黙れ。歩け』

 ワタシが子どものほうへ行こうと歩を止め歩みを逆転しようとすると、わき腹あたりにアームドロイドの腕にある機関銃を突きつけられました。

 子どもがわざわざここに来るということは何かあってのことです。しかし、向こうに行けなければどうしようもありません。

 ワタシが苦渋の顔でアルタグラへの歩を再開すると、その子どもがあらんかぎりの声でワタシに向かって叫んでくれました。

「西の柄杓と目の前に先駆けた光が影を犬にするとき、凪に浮かんだ三日月に向かえ!」

「えっ?」暗号、でしょうか。

 とりあえず手を振って暗号が聞こえたことをその子どもに伝えました。子どもは親指をぐっと立て、そのまま戻っていきました。同時に、ワタシはタラップを上り終え、アルタグラの中に潜入しました。そのまま近くのエレベータに乗りこむと、ずんずん下へと向かいます。

 下に到着するそのあいだ思案します。

 どうやら子どもたちは捕まらないようです。その点についてはひと安心です。

 しかし、代わりにいくつか疑問が浮かんできます。

 ひとつは、あの子が伝えてくれた暗号。

 そして、なぜワタシだけが捕まるのか。

 暗号のほうを少し考えてみます。

「西の柄杓」というのは「北斗七星が西の夜空に見えるとき」。「目の前に先駆けた光」は不明。「影」はワタシのことだと思います。しかし、「犬」と「凪に浮かんだ三日月」とはなんでしょう。犬とは何かの隠喩でしょうが、三日月だって凪に浮ぶはすがないし月齢でいうとまだまだずっと先の話です。

 いえ、暗号なのですから、簡単にわかってしまったら意味がありません。またあとで考えることにしましょう。

 暗号について考えているとエレベータが止まりました。自動ドアが開いてまず最初に目につくのは真っ白くて長い廊下。真っ白なのでどこで突き当たりなのかわかりませんが、その両側にはずらりと並ぶ人ひとり分の大きさのスライドドアが見えます。

 そのうちのひとつ、だいぶ奥まったほうにある部屋に連れていかれました。スライドドアが開き、中に押し込まれます。

「ぜんぜん丁重じゃない……」

 愚痴をこぼしつつ部屋を見渡します。

 まず、何もかもが白で統一されています。壁もベッドも机も卓上ライトも、すべてが白。机の前には三十センチ四方の小さな窓があり、外の様子が見えます。それで、真っ白すぎて気づきませんでしたが、よく見てみると壁には扉大の大きさのすき間。脇にあるボタンを押すと奥はシャワー室。

 どうやらここは独房のような役割のためにあるわけではないようです。言うなれば居住棟のようなものなのでしょう。

 それでも、ワタシにとって軟禁部屋ということに変わりはありません。

 ワタシはベッドに寝ころがり、ふたたび思案します。なぜワタシだけが捕まるのかということについてです。

 S区画の人たちだけでなく、D区画の人たちも捕まっていないかもしれない、とワタシは思います。ワタシと彼らで決定的にちがう点は「個々に割り当てられた区画からの脱走に成功した」という点です。ラドムの面々がワタシを血眼になって探す理由はあとで直接聞いてみれば良いことでしょう。しかし、そうなるとまたしてもそこから疑問が生まれます。

 それはK区画と国連についてです。

 基本的に区画というのは国連が監理しているものです。しかし、K区画の監理については、あのウルタとかいう小肥りの貴人さんが監理していました。

 ウルタはラドムという国連とは別の組織の存在です。だとしたら、なぜK区画はラドムが監理していたのでしょう。もしかしたらワタシがまだ来ていない間に、K区画を監理していた国連所属のアンドロイドがラドムによって駆逐されてしまっていたのかもしれません。

 しかし、そうなるとまたしても疑問が生まれます。

 国連所属のアンドロイドは区画の監理を任されるので、必然的にオリーヴやシアンは国連所属のアンドロイドということになります。

 彼らが国連に所属しているというのは大したことではありません。問題はそんな彼らと、どうしてただのセラピソイドであるスルシュがあんなにも親交が深いのかということです。オリーヴは昔のスルシュを知っていたようでしたし、シアンもスルシュにはまるで旧友のような調子で語りかけていました。

 彼らは区画監理者で、今まで区画の人間たちの安全を守ってきていたのだな、ということがわかっていても、スルシュについてワタシは「スルシュはセラピソイド」ということしかわかっていません。十年以上いっしょにい続けていたはずなのに、この知識の差はいったいなんだというのでしょう。

「なんかだめだ」

 ワタシは寝返りをうって枕に顔をうずめました。

 そんなことをいま考えていてもしょうがないことだと思います。だって彼らはここにいないし、いたとしても教えてくれっこないのですから。

 だから、ワタシがラドムの人たちに聞かなければならないことは山ほどあります。もしかしたら彼らとて教えてくれないかもしれませんが、そのときはそのときです。

 今までだって、ワタシはただスルシュたちに教えてもらうばかりでした。それに、ワタシがもっている知識というのはすべて前時代のものです。なかには現代でも通用する知識もありますが、通用しない知識のほうが圧倒的に多いはずです。だから、自分で調べなければ。

 ワタシはもういちど寝返りをうちました。そのとき、部屋の出入口がノックされる音がしました。「どうぞ」

 ウルタが戻ってきたのかとベッドのうえで身構えましたが、ドアが開いて見えたのはまったく別の人物でした。

 いいえ。

『失礼します』

 恭しく一礼してワタシの部屋に足を踏み入れます。

 ベッドの上で正座しているワタシの目の前に立ちはだかるのは、スルシュと同じく真っ白な体をしたアンドロイドです。しかし、スルシュとちがってその体つきは女性のように丸いです。それに、なんだかとても人間味あふれる抑揚のある声でした。

『私はあなたに付いて世話をするよう申しつけられたセラピソイド。名前はナシュラというの。よろしくね』

「ナシュラさん」

 スルシュと同じ白い体にどこか安心感をおぼえます。しかし、ラドムがセラピソイドを有しているとは知りませんでした。これはひとつの収穫といえそうです。それに、このセラピソイドはスルシュとちがってとっても優しそう。

「あ、と、ワタシはアハカっていいます」

 続いてワタシが自己紹介をすると、ナシュラはこちらを向いて言います。

『知ってる。K区画から脱走に成功したんだってね。おかげであなたは今こうして捕虜の身になってるわけだけど。まあ区画から外には出ちゃいけない規則になってるから仕方がないね』

 ナシュラはワタシの横に腰掛けます。やはり機械なので重くて、ベッドがだいぶ沈みました。体勢をととのえるために足を伸ばします。

「あの、ワタシはこれからなにをされるんですか」

 落ちついたところでナシュラに疑問を投げかけます。

『うんとね、この舩にはまだヌマフとアストラって人がいてね、そのうちのヌマフって人が、アハカに対していくつかの質問をすると思う』

「尋問ってことですか?」

 ワタシがそう訊ねます。

『そうなるね。でも、痛々しいことはされないと思うから安心して。ヌマフさんはけっこう優しいから』

「優しいんですか」

 ワタシがヌマフという人の人相と性格を勝手に想像していると、ナシュラはこらえたように笑います。そしてワタシに聞きました。

『やっぱりなにされるか心配?』

「そんなことないです。ただ、スルシュとかシアンがいないから、少し……」

『そっか。なら大丈夫だね。ところで、スルシュとシアンって?』

 ナシュラがあの二人について聞いてきました。たしかにラドムという組織の、それも単なるセラピソイドなら彼らのことを知らなくても無理はないでしょう。

 ワタシはなにも知らないナシュラに、彼らについて少し教えてあげました。

「えっと。スルシュとシアンっていうのは、K区画を脱け出してからワタシがお世話になったアンドロイドのこと。ワタシのことをすごく心配してくれてたんだけど、なんだか隠し事ばっかりで嫌になったの」

『隠し事をされたの?』

「うん。ワタシが知らないことを問いただそうとしても、何も教えてくれないの。ワタシ、なんでも知りたくて隠し事って嫌いだから、付き合いきれなくて。だからS区画にワタシを置いていってって彼らに言って。それで捕まって今ここにいる」

 ワタシはついさっきまでのことをナシュラに言いました。ですが、これでは彼らの紹介になりません。

 ワタシは話を軌道修正して続けます。

「あ、えと、スルシュっていうのはワタシのセラピソイド。ナシュラみたいに真っ白い体をしていて、なんだかすごく強いんだよ。でもちょっと性格がきついかな……」

 ワタシがワタシが見て感じたままのスルシュの印象を語ります。するとナシュラが問いかけました。

『そのスルシュってセラピソイドなんだよね。どうしてアハカは性格がきついって思うの?』

「え?」

 うーん、とワタシは考えてみます。ですが、ワタシはそのままの印象を話しただけなので、なぜ性格がきついと思うのかまではわかりません。

「わからない。なんとなく性格がきついなって思っただけ」

『そうなんだ。じゃあシアンってほうはどんなアンドロイドなの?』

 スルシュの話題から逸らしてくれたナシュラに心のなかで小さな感謝をおぼえつつ、その質問に答えます。

「シアンはセラピソイドじゃなくてただのアンドロイド。S区画の監理者なんだよ。空色の体に緑のラインがはいってて、すごくスマートでかっこいいの。それにスルシュよりも優しくて、ワタシはシアンが好きだよ。隠し事は多いけどね」

 ワタシがはにかむようにそうシアンを形容すると、ナシュラは意外なことを言いました。

『じゃあ、アハカはシアンってアンドロイドのほうが好きなんだね』

 これにはワタシも驚いて噎せかえってしましました。だっていきなり好き嫌いの話に飛躍してしまったのですから。

 ワタシが噎せかえってしまったことにナシュラも驚いて、急いで背中を叩きます。

 ナシュラの早急な対応で落ちついたワタシは、壁のくぼみに内臓された水道の蛇口から、机に置かれたコップに水を汲みます。

 そして、それを一気に飲みほします。

『大丈夫?』

「まずい。苦しい。けど、大丈夫」

 水のまずさと肺の苦しさに一気に気分が落ち込みます。

「というか、ワタシは別にどっちが好きとか嫌いとか思ってないからっ。適当に言っただけだからっ!」

『そうなの?』

「う、うん」

 ナシュラの言う「好き」の言外の意味がどちらの好きなのかはっきりしない今、ワタシの口から明言することは避けておきたいところです。

 それよりも、このお水のまずさはなんなのでしょう。舌にまとわりつくようなくどさと、後味の悪さが最上級に気持ち悪いです。こんなにまずい水は飲んだことありません。飲んだだけでお腹を壊しそうです。

「はあ……」

『どうかしたの、アハカ』

 ため息をついたワタシにナシュラが反応します。なんだかその反応の仕方がスルシュみたいです。

「少しだけ気分が」

『じゃあベッドに横になってて。お薬もってくるから』

 お薬なんてなくとも自力で治せます。

「大丈夫。少し寝たらよくなるから」

『そう? じゃあ私は戻るけど、なにかあったらこれで呼んで』

 そう言って渡されたのは小さなボタン。ナースコールみたいです。

 ワタシはそれをベッドの傍らに置きました。

「ありがと」

『じゃあね』

 ワタシとナシュラは手を振りあって別れを告げました。ナシュラが部屋から出ていって見えなくなったあと、ワタシは掛け布団をかぶってベッドの中にうずまります。まだ気持ち悪さは収まっていません。

 ワタシはもう一度ため息をつきました。

 まずい水ごときで体調を崩していてはこれからのことが思いやられます。しかし、このまずい水で食事も作られているのかと思うと、体調は崩れなくとも気が滅入ってしまいそうです。

「おいしいお水が飲みたい」

 そう自然と呟いた言葉が、ワタシが起きてから叶うはずがありません。

 無意識にふたたびため息をつくと、そのまま眠りに落ちていきました。




「お父さん。お母さん。どうしたの」

 気づくとワタシは火傷だらけの両親の前に立っていました。もちろん顔は相変わらず原型をとどめていません。

 そしてワタシはなにもない、本当になにもない広すぎる白のなか、両親と対峙するように立っているのです。

 ワタシは不思議に思って両親に訊ねてみました。

「ここはどこ。ワタシは今どこにいるの」

 両親は顔のない顔で微笑んでみせました。

「ここはね、アハカ。なにもない世界だよ」

「アハカ、ここはなにもない世界なのよ」

 両親は口々にそう言いました。わけがわかりません。

「お父さん。お母さん。それじゃ答えになってないよ」

 ワタシがそう反論すると、両親はまたわけのわからないことを言いました。

「どうして答えになっていないと言えるんだい。だってご覧よ、アハカ。周りを。なにもないじゃないか。こんな世界をどうやって『この世界だよ』と言えるんだい」

「アハカ、あなた頭がおかしくなったの?」

 両親の発言のわけのわからなさにワタシは混乱してしまいました。意味もなく取り乱し、真っ白な世界でどこも向いていない視線を向けます。

「ご覧なさいアハカ。ここは『なにもない世界』としか言いようがないわ。だって真っ白だし、私たち以外に何もいないもの」

 お母さんがわけのわからなさに拍車をかけるようなことを言ってきました。

「ちがうよ。ここは絶対にどこかの世界だよ。そうじゃない場所なんてないよ……」

 ワタシはお父さんやお母さんの発言になんとか返答をしようと思って、自分でもなんだかよくわからない回答をひねり出してしまいました。もっとよく考えて発言しなければ、両親を説得することなんてできません。

「では、アハカはどうやってこの世界をどこかの世界と決めることができるかな」

「そうね。パパの言うとおりだわ。どうやってアハカはこの世界をどこかの世界って決めることができるのかしら」

 両親はまたなにか言ってきます。

「ワタシは──そんなの人によって違うでしょ。ワタシはこの世界はワタシの心のなかに広がる世界だと思う」

 そうです。

 ワタシは夢を見ているのです。

 だって、ワタシはラドムのアルタグラの中でナシュラと話して、そのあと水を飲んで、そして具合が悪くなってベッドのなかで寝てしまったのですから。

 しかし、おそらくこの答えは反論されてしまうでしょう。

「アハカ。どうやってあなた、この世界が心の中に広がる世界だってわかるの。この真っ白で限りない世界があなたの心の中に広がっているというの」

 お母さんがワタシを嘲るような口調で反論してきました。そのとおりです。ワタシはこの世界を自分の心の中に広がる世界だとどうして言い切ることができましょうか。

 しかも、単なる思いつきで発言してしまったことがワタシの心を抉るようなことになってしまいました。

 それはすなわち「この真っ白で限りない世界がワタシの中に広がっている」ということです。

 ワタシは急に恐ろしくなって、その場に崩れ落ちました。

 ただただ恐ろしいのです。ワタシの心はこの世界のように空っぽなのでしょうか。なにもなく、体も顔も失った火傷だらけの膨張した両親だけが、まるでこの世界と──ワタシの心を支えるようにして存在しているとでも言うのでしょうか。

 それに、ワタシは両親の本当の顔というものを知りません。すっかり忘却の彼方です。思い出そうとしてももはや思い出せない両親の本当の顔すら、ワタシの心の中には存在していない。

「いやだあ……いや……」

 ワタシは崩れ落ちたまま涙を流し始めました。

「どうしたアハカ。どこか痛いのかい」

「アハカ、大丈夫?」

 両親の声にはっとして顔をあげると、そこはさきほどまでの真っ白で茫漠な世界とはうってかわっていました。赤い空が向こうに見える花畑です。ピクニックに来たあの場所です。

 そして両親はあの顔でワタシのことを心配そうに見つめていました。

「パパ、ママ。ワタシ……」

 心のどこかがわなないているのを感じました。まだ恐怖は去っていないのです。

「転んだのか。どれ、パパが消毒してあげよう」

「もうパパったら、私がやりますよ」

「いや、パパの頼もしいところをアハカに見せてやるのもいいだろう。な、アハカ」

 実に明るい笑顔で、パパはワタシの顔を覗き込みます。しかし、ワタシはそんなパパに怖くなってしまいました。

 怖くなって、彼らを怒鳴りつけました。

「もうやめて! いやだよこんなの! どうしてパパとママはいっつもそうなの!? どうしてよ、どうして……」

 なにがいやなのか、なにがこうなのか、なにがいつもなのか、なにがそうなのか、なにがどうしてなのか。

 ワタシはわかりません。

 なにも、わかりません。

「アハカ」

「アハカ」

 両親は顔を覗き込むのをやめました。そして、だんだん後ろへ下がっていきます。

 ワタシは息を荒げながらその様子を涙目で黙って追っていました。

 遠くへ行って消える前に、両親はこんな言葉をワタシに残していきます。

「決して忘れちゃいけないよ、アハカ」

 なにを忘れちゃいけないのか。

 それを言わずに両親は虚空のなかへ消えていきました。

 同時にワタシは真っ白な世界が真っ黒に変わるさまを見届けて、ゆっくりと意識を失いました。




『あ、起きた』

 ワタシはベッドのなかで目を覚まし、傍らにナシュラがいることに気づきました。

 気分はとても優れています。気持ち悪さはもうありません。しかし、なんでしょう。この心のなかにある違和感は。

『うなされていたみたいだけど、体調はもう平気?』

「あ、はい」

 ナシュラは満足そうに頷いていったん部屋の外へ出ます。しかし、すぐに戻ってきました。なにか持っています。

 手に持っているのは土鍋でした。湯気がたっています。

「ナシュラさん、それは?」

『ちゃんこ鍋よ。精力がつくの。病み上がりには最適だと思うな』

「へ?」

 ちゃんこ鍋ってなんでしょう。初めて聞く名前です。鍋はわかりますが、「ちゃんこ」という名前とかその具材についてはさっぱりわかりません。

「え、て、いま何時」

 ワタシはそのちゃんこ鍋とやらが出る時間帯に疑問を抱きました。

 ナシュラが答えてくれます。

『まだ捕まってから一日も経ってないわ。今はあなたが捕まった日から次の日の朝。まさかあのまま朝まで寝ちゃうなんて』

「あ、そうなんだ」

 ワタシはあまりに拍子ぬけてため息をつきました。

 しかし、朝から鍋ものとは少々重すぎやしませんか。それに、土鍋の大きさからして量も多そうです。ワタシが食べきれる量ではとうていないと思います。

『とりあえず食べられるだけ食べて。料理作ったアンドロイドは量なんか気にしてないから』

「は、はい」

 目の前のテーブルに置かれた大きな土鍋を前にしてワタシは戦々恐々です。食べきれるか食べきれないかというより、その圧倒的な存在感におののいているのです。

 それに、鍋ということはとうぜんあのまずい水を使用しているのだと予想がつきます。そんなものを、はたして一口だって飲み込むことができるでしょうか。ワタシは不安でしようがありません。

 それを前にして蓋を開ける勇気がなかなか出ないワタシは、なんとなく時間稼ぎをしたくなってしまいました。

「あ、あのワタシ、まだ顔洗ってないので先に洗っていいですか。どど土鍋なのですぐには冷めませんし」

『ん、いいよ』

 ワタシはなんとか時間稼ぎをすることに成功しました。もちろんこれはワタシの勇気が出るまでの単なる時間稼ぎにすぎません。とにかく今は洗顔をして気持ちをすっきり爽快にしてしまうのが良いでしょう。

 ワタシはシャワー室内の洗面台で手際よく顔を洗うと、室内にかかったタオルで顔を拭きます。保湿ゲルも忘れません。

 そして、ワタシはふたたびそのちゃんこ鍋の前に鎮座しました。

「はあ……」

 ゆっくりとため息のような深呼吸をしながら蓋を開けました。見た目はそんなに悪くありません。むしろおいしそうです。しかし、味はどうか。

「いただきます」

 ベッドの横でごそごそやっているナシュラをわき目にワタシはレンゲを手にとって、わななく手でスープを一口飲んでみました。

「……うげえ」

 可もなく不可もなく、どちらかと言うとやっぱりまずい感じがします。魚介や野菜の出汁はよく出ているのですが、もとがあのまずい水だからなのか、後味が最悪の極みです。なんとなく鉄臭いのです。

 すっかり意気消沈してしまいました。

「ごめんなさいナシュラさん……むり」

 ワタシは口元を手で押さえて込み上げてくる吐き気らしきものを我慢しました。その様子を見たナシュラは心配そうに背中をさすって言います。

『だろうね。まずいもんね』

「わかってたんですか」

『そりゃね。でもアハカの口に合うかどうかまではわからなかったし。私が代わりになんか作ってくるからそれまで待てる?』

「はい」

『じゃあ待ってて』

 ナシュラはおいしそうに湯気をたてるちゃんこ鍋をさっさと片付けて、部屋を出ていきました。

 起きてすぐに鍋というものを食べるのも気がひけましたし、それよりなによりあの水を使用した料理を食べる勇気ももう湧いてきません。ナシュラが作ってくる料理は、ぜひとも水を使わないものであってほしいです。

 とにかく今は待ちましょう。




「……うまいっ!」

 ワタシはその味にこれ以上ない感動を覚えました。

 十数分してナシュラが持ってきたのは野菜たっぷりのマフェでした。マフェというのは、昔、アフリカと呼ばれていた地域の伝統的な料理だったはずです。言うなればアフリカのシチューです。

 このマフェという料理はシチューなので、やはりお水を使います。しかし、ナシュラが持ってきたのは野菜から出た水分で補っているので水の使用は少量のようです。それに、トマトピューレとピーナツバターで水の鉄臭さも見事に消えているのです。

 これはすばらしい。ナシュラの機転のよさとマフェのおいしさに敬意を表します。

 そういうわけで、ワタシはそのマフェをぺろりと平らげてしまいました。

 ナシュラが言います。

『もともと乾燥した気候の中で編み出された料理だから、水は極力使わないんだよ。だからちょうどよかったでしょ』

「はい!」

 ワタシはナシュラに綺麗に平らげたお皿を渡しました。

 お皿を手に持ったナシュラが部屋を出る前に立ち止まります。

『そうそう。一時間したらヌマフさんのところに行くから、それまでに身なりと心の準備しておいて。行くときは私が付き添うから』

「わかりました」

 ワタシに伝えることはそれだけだったようで、それを言い終わったあとナシュラは部屋から出ていきました。ふたたびひとりになりました。

 ところで、暗号の謎はどう解読したらよいのでしょうか。夜が明けるまでに起きていたら星の位置を確認できたかもしれません。ですが、朝まで寝てしまいました。今日の夜は確認してみようと思います。暗号が解けなければ、何を伝えたかったのかわかりませんから。

 ワタシはぐっと両手でにぎりこぶしを作ると、着替えと歯みがきをしました。そのあと髪を整えて細かな寝癖を直します。

 そして、一度鏡の前に立ちました。

「うん、よし」

 今日も万全なことを確認すると、私は部屋から出ようとするその足をぴたりと止め、ベッドの縁に腰かけました。

 慣れとはときどき恐ろしいものだとため息を吐きながら、私はそのままナシュラを待つことにしました。

 それから一時間後。ナシュラがやってきます。

『アハカ、行くよ』

「はい」

『やっぱり緊張してる?』

「そんなことないです」

 と言いつつも全身から冷や汗が流れ出るような感覚はぬぐえません。

 ワタシのそんな状況を知ってか知らずか、ナシュラは不思議なことを言いました。

『手のひらに「ひと」って字を書いて飲み込むふりをしてみて。きっと落ちつくよ』

 ワタシはぽかんと口を開けました。そして、ナシュラの言うそれを行うより先に笑い出してしまいました。だって、セラピソイドのナシュラでもそんなおまじないみたいなことを言うことにワタシはおかしさが込み上げてきたのですから。

『私、変なこと言ったかな』

「セラピソイドでも非科学的なこというんだなあと思って」

『そう? むしろセラピソイドだから非科学的なことを言ってるのかもよ。──って、ヌマフさんのところに行かなきゃ』

「あ、はい」

 ワタシはナシュラに手を引かれてヌマフという人間のもとへと向かいます。

 長い廊下を抜けてその先のエレベーターに乗り込み、上の階に行きます。ワタシがアルタグラに乗り込んだ場所は最上階でしたが、今回は中腹あたりで止まりました。この階の廊下は最下階の居住区のそれよりも広く、人が五人ほど並んで歩いても余裕がありそうです。そしてワタシたちは長い廊下をさんざん歩き、幾重にも並ぶ扉のひとつの前に立ちました。扉には英語とフランス語で第二会議室と書かれています。

『アハカを連れてきました。入ります』

 ナシュラが扉をノックしながらそう言うと、中から男の人の声が聞こえてきます。

「どうぞ。入って」

『失礼します』

 ナシュラが扉の取っ手をひねって開けます。すると眼前に広がるのは実に小ぢんまりとしたシンプルな内観。円卓を囲むようにして五つの椅子が並べられています。

 そして、ワインレッドのじゅうたん張りの床、天井にはシャンデリアを模したような質素な照明器具、四方はすべて木目です。本当にシンプルで落ちつき払った部屋です。

「アハカくん。待っていたよ」

 向こうを向いて読んでいた分厚いファイルを閉じると、ヌマフという人物はこちらに向き直ります。見た目があらわになりました。

 彼の容姿はまちがいなく一級でしょう。年齢は二十代後半と言えそうです。髪色は焦げ茶で短く整えられています。整っているのは髪だけではなく、カラダのラインも顔も、何もかもが「黄金」です。そのほんの少し下がった目尻をもつ目で微笑みかけられでもしたら、多くの女性は盲目になってしまうかもしれません。

 しかし、ワタシは一瞬で「この人を信用しちゃいけない」と思いました。

「はじめまして」

 警戒心をむき出しにしたまま握手を求めました。彼は素直にそれに応じてワタシと手を交わします。

「はじめまして。じゃあ適当な椅子に座ってくれ」

「はい」

 まさか、ワタシの警戒心に気がつかないということはないでしょう。

 ワタシは言われたまま適当な椅子に腰かけました。ヌマフは立ったままで、ナシュラは部屋の入り口あたりに佇んでいます。

「さっそく質問するけども、君はどこの区画の出身だい」

「言わなくてもわかってるんじゃありませんか」

「もちろんわかってるよ。けれど、本人からの確認がいちばん確実だからね」

 ワタシはそれを聞いて「ワタシが嘘吐く可能性は排除されませんよ」と言おうとしましたが、やめました。そして素直に「K区画です」そう言いました。

 ヌマフがファイルに何かを書き込みながら質問を続けます。

「性別は」

「女です」

「心は」

「心も女です」

 なんのための質問なのかわかりませんが、とりあえず答えました。

「では、今まで行ってきた精神活動は」

 精神活動というと、ワタシの場合は本を読んだり見たり、ニュースを見たり、音楽を聴いたり考え事をしたりすることだと思います。

 その旨をヌマフに言いました。

「なるほど。つまり君は知的欲求を満たすための活動をおもに続けてきたわけだな」

「はい」

「では君が4番。スルシュとK区画を脱出して他の区画を見てまわるようになったのもその精神活動の一環ということかな」

 スルシュの名前は4番などではありません。スルシュです。ほんの少しむきになってしまいました。

「……そうだと思います」

「すまないが言葉を濁さないでほしい」

 ワタシは唇を一度噛みしめます。

「ワタシがスルシュに『世界を見たい』と言いました。そしたら次の日の正午ちょうどに『見たいと言った世界を見せてあげよう』と言われて、手を引かれるままに走りました」

「……」

 ヌマフはファイルに一生懸命何かを書き込み始めました。ボールペンが紙を走る音が会議室に響きわたります。しばらくそのままで時間が進み、やがて紙を走る音がやみました。

「スルシュというのは君のセラピソイドだったね。スルシュはなにかおかしなことを言ったり、行動に移したりしなかったか」

「ありません」

 本当は、たくさんあります。ワタシがスルシュにオカシナカンジョウを抱いてしまうほどに。けれど、ここで嘘を吐いておかないとワタシ自身どこかおかしい感じがしますし、それよりヌマフの質問がスルシュについて移った途端に、質問の語気が強くなった気がするのです。これは明らかにヌマフがスルシュについて関心を寄せている証拠です。

「それは本当だね?」

「はい」

「ならよかった。嘘を吐くと、あとで君にお仕置きをしなきゃならなくなるからね」

 どきりと胸が高鳴ります。ワタシの嘘を見透かしてそんなことを言うのなら相当悪趣味だと思います。しかし、ヌマフの言っていることが本当だとしたら、嘘が露呈したときにお仕置きされるのは必至でしょう。

「では次の質問だ。スルシュの仲間である……名前が……シアン、とか言ったかな。そいつについて何か知っていることがあれば話してくれ」

「シアン、ですか」

「そうだ」

 ワタシはどこまで話してよいものか悩みました。

 知っていることをすべて話したら、いま世界のどこかを飛んでいる二人に危害が及ぶかもしれません。それだけは避けなくてはなりません。あれでもワタシの安全を確保してくれた恩人なのですから。

「シアンはS区画の監理者です。ワタシもあまりよく知りませんけど、シアンはS区画で区画居住者の子どもたちからの信頼も厚いようでした。あと、アルタグラの操縦についてある程度の知識と技術があるようで、燃料ギリギリのアルタグラでS区画まで手動でたどり着くなんてこともやってのけました」

「なかなかおもしろい情報だ。シアンについて知っていることはそれだけかな」

「はい」

 ヌマフはふたたびファイルに書きなぐり始めました。

 まちがいなくヌマフは彼らのことを始末するつもりなのでしょう。きっとそのための弱みなどをワタシから得ようとしているにちがいありません。そうでなければわざわざシアンのことも訊くはずがない。

 ワタシが眉間にしわを寄せてそう考えていると、ヌマフは紙にペンを走らせながらなんともなしにこんなことを言いました。

「そう言えば君たちは仲間であったはずのオリーヴを破壊してしまったよね」

「……」

 ワタシは、スルシュに破壊してほしくはありませんでした。しかし、どうして今そんなことを口走るのでしょう。

 ヌマフは走らせていたペンを止め、こちらを向きます。

「実はD区画で胸を貫かれて活動を停止させてあったオリーヴを発見してね。僕たちが回収して、いまはメンテナンスルームで修理している最中なんだ」

「それ。本当ですか」

「ああ。アンドロイドの動力源は僕たちの心臓にあたる部分にある。その部分を避けるようにして貫かれていた。スルシュもシアンも優しいね。死にたいと言っていた存在をわざわざ生かしておくだなんて」

 ワタシは絶句してしまいました。

 スルシュもシアンも、ワタシの気持ちをきちんと汲んでくれていたということでしょう。そうとも知らずにワタシはああだこうだとわめき散らし、まるで洞察力のない子どものように八つ当たりしてしまっていたのです。

 ワタシは本当にアホです。アホすぎて救いようがなく見られてしまったかもしれません。しかし、だとしたらなぜ『壊してはいない。生きている』と言ってくれなかったのでしょうか。

 これは彼らの「優しさ」でしょうか。それともワタシの「甘え」でしょうか。

 ワタシが奥歯を噛んでいると、またヌマフが提案をしてきます。

「オリーヴに会いたいかい」

 その言葉にワタシは顔をあげました。

「いいんですか?」

「いいよ。意識も回復してるからね」

「い、行きます。会いたいです」

 ヌマフは口の両端をつり上げて笑いました。

「わかった。じゃあ会わせてあげよう。ついてきてくれ」

 そう言うとヌマフは会議室を出ていきました。ワタシはナシュラより先にヌマフについていき、最後にナシュラが部屋を出ます。

 部屋を出るときナシュラに耳打ちされました。

『あまりヌマフさんを楽しませるようなことをしないほうがいいよ。あの人は基本的に優しいけど、あまり調子にのると潰しにかかるサディストだから』

 なんのことかわからず、とりあえず頷いてわかったふりをしました。

 部屋を出て、またしてもエレベーターに乗り込みました。そして着いたのはその階から少し下の階です。

 上の階よりは薄暗く、またところどころ錆び付いています。それに金属がそのまま使われたような通路の無骨さも相まって、少し恐い気もします。

「ここから突き当たりを右に行って三つ目の部屋にオリーヴがいるよ」

 ヌマフの案内についていき、すぐに件の部屋の前に着きました。扉のわきには穴の空いたスキャナがあり、ヌマフはそこに右の人差し指を通します。一瞬ワタシたちのからだが赤い光に包まれるとかん高い電子音が鳴り響き、次いでロックが外れる音がします。

「どうぞ」

 ヌマフが扉を開けてワタシになかに入るように促しました。

 そして、目の前にはさまざまなコードに体を繋がれてぶら下がるように立ったままうなだれるオリーヴの姿。

「オリーヴさん。アハカです」

 ワタシはオリーヴに近寄って反応をたしかめます。

『ああ、聞こえるよ……』

 ノイズが混じったようなぶつ切りの音声が痛々しいです。

『どうしてここに。スルシュとシアンはどうしたの。旅は』

 ワタシは一瞬だけ戸惑って、けれどすぐに事の経緯を説明しました。

「あの二人は隠し事が多すぎて、それで嫌になりました。だから、S区画を脱出するときにワタシは残ってこっち側につくことにしたんです」

『そうだったんだ。安心して。もう二度といっしょに死にたいなんて言わないから』

「……はい」

 オリーヴはワタシに負い目を感じているからのしれません。でも、ワタシは別にオリーヴに対して負の感情はまったく抱いていないのです。ワタシはなんだか複雑な気持ちになりました。

「ところで、お体はもう大丈夫なんですか」

『おかげさまでね。なかなかの良整備だよ。こいつらに直されるってのが癪にさわるけど』

 オリーヴが首だけをヌマフに向けます。

「心外だなあ。助けてもらっただけありがたいんじゃないのかな」

『それはそうだけど』

 オリーヴがふたたびうなだれます。これもまた負い目なのでしょう。

 ワタシはどうして急に死にたいなんて言い出したのか、その詳細を訊くことにしました。

 するとオリーヴはこう言います。

『簡単な話だよ。ワタシは死ぬのがこわいから、だれかといっしょならこわくないと思っただけ』

「どうして、まだ生きられるのに死にたいなんて思うんですか」

 ワタシがそう言うとオリーヴは少しのあいだ押し黙ります。

『アハカ。アンドロイドがこんなこと言っちゃいけないのかもしれないけど、これは計算なんかじゃないんだ。計算というよりも、衝動に近い。だから、正直言って私にもよくわからない。原因を探れない。これは衝動なんだ』

「しょう、どう」

 ワタシがその言葉の意味を探っていると、オリーヴがフォローしてきます。

『そう、衝動だ。アハカだって世界を知りたいと思うのに後先考えてなかったろう。ほとんどスルシュに手を引かれるままだったはずだ』

「はい」

『それといっしょ。衝動っていうのは、『なんかやりたくなった』。ただそれだけで何も計算してないんだ。だから私がどうして死にたいと思って行動したのか、私はそれに関して一切の計算をおこなっていない。だから、答えはわからない』

 確たる答えを導き出さない「衝動」という言葉を、ワタシはなんとなく胸がそわそわする響きだと感じました。そう、「レンアイカンジョウ」という言葉と似たざわめきを感じたのです。このふたつは似たようなものなのでしょうか。

 それはさておき、ワタシはさらにオリーヴに質問を続けます。スルシュやシアンがいない今、彼らという抑止力もありませんし、それ以前に自分でぐいぐい突っ込んでいかなければ進展はありえません。

「ワタシと死にたいと思ったのがその衝動っていうもののせいなら、オリーヴはラドムの仲間じゃないってことですよね」

『そうだね。完全に私ひとりのせい。だから、あのスルシュの不覚をとることもできた。スティーブは私の気持ちをわかって協力してくれたんだ。けれど、シアンが来ることまでは計算外だったね。ついでにラドムに拘束されてメンテ受けるなんてのもね』

「これ、拘束されているんですか」

『うん。まったく動けない』

 ワタシは気づかれない程度に横目でちらりとヌマフを見ます。やはり、あの人の言うことはあまり信用しないほうが良いのかもしれません。

「ねえオリーヴ。オリーヴはワタシに何かほかに隠し事してたりする?」

『どうしたの、藪から棒に』

 ワタシは少々語気を強めます。

「最初に言ったでしょ。ワタシは隠し事ばっかりのスルシュたちが嫌になったんだって。だからオリーヴにも隠し事されたら、ワタシはあなたのことが嫌いになる」

 オリーヴはワタシの顔を見上げたまましばらく黙りこくります。

 賢明なオリーヴならわかるでしょうが、オリーヴはワタシに負い目を抱えています。だからこそそれを逆手にとった質問でもあるのです。しかし、もしそうでなくともオリーヴはきっと何か語ってくれるという根拠のない期待をワタシは抱きました。

 やがて視線を逸らすのを契機としてオリーヴは言います。

『条件がある』

「なんですか」

『私自身についてのことならいくらでも訊いていいよ。もちろん嘘も吐かない。ただし、それ以外については駄目。条件はこれだけ。いいかな』

 なかなかにシビアですが、ワタシはその条件を飲みました。

「わかりました」

『それと』オリーヴは首を動かしてワタシの後ろにいる二人のことを見ます。『そこの二人は出ていってくれないかなあ』

 ワタシが視線を二人のほうに巡らすと、ヌマフは目を細めて微笑みました。

「どうしてだい、オリーヴ。まさか僕たちの恩を忘れたわけじゃないだろう。助けてもらったくせにおこがましい計算だ。これだからアンドロイドは」

 ふう、と髪をかき分けながらため息を吐きつつも、二言目にはオリーヴの要請を聞き入れました。

「まあいいだろう。これで恩をふたつ売ったことになる。それに、君は僕なくしてその軛からは解き放たれないからね。──行くよ、ナシュラ」

『わかりました』

 ヌマフはそう吐き捨てるように言い、すぐに部屋から出ていきました。

『ほんとにイヤミな奴だな。ああいうの嫌いだよ』

 二人が出ていきその姿が見えなくなる直前にオリーヴも吐き捨てます。

『それじゃどんどん訊いてよ』

「あ、はい」

 オリーヴに促され、ワタシはまずオリーヴの過去について訊いてみることにしました。

「オリーヴが生まれてから今までのことを教えてくれませんか」

 ワタシはその場に正座になりました。ずっと立っているよりはこちらのほうが楽ですし、オリーヴのことを見下げるかたちにならないので、失礼にはならないと思ったからです。

 少しのあいだ悩むように黙りオリーヴは言います。

『ぜんぶ言うとなるとかなり長い話になるな。でも、私自身についてのことだけだからそこまで長くはならないか』

「では、よろしくお願いします」

『私以外に関することは絶対に言わないからね』

 そしてオリーヴはノイズ混じりで拙いながらも自身の半生について静かに語り始めました。


 私は最初セラピソイドとしてP区画で製造された。その頃はまだこんな大昔の戦車みたいな無骨なフォルムじゃなく、スルシュやナシュラのようにより人間に近いフォルムをしていた。もちろん色もこんなくすんだ緑じゃなくて白色だった。そして多くのセラピソイドのように、私もまたある家族のもとについて世話をしていた。

 その家族のことはあまり深く言わないけれど、端的に言うならアハカのように知的欲求が旺盛だった。テレビを見るのも本を読むのも音楽を聴くのも家族そろってが基本だった。それを見聞きしたあとは互いに感想を言い合ったりしていた。たとえばニュースを見たあと「どうしてこんなことが起きたんだろう」と話し合ったり、本を読んだあと「あのシーンはどうだった」とか、そういうことを。それで、私はその姿を微笑ましく眺めていたよ。

 その家族は私がいないところでもしばしば話し合いをしていた。私はそれを知らなかった。私が把握していないときと言うのは、だいたい私が家事をしていたり、いちばん幼い子をあやしたりしているときだったから。それで、その家族はある日私に「世界を見せて」と言った。君といっしょさ、アハカ。

 私は突然そんなことを言われてどうしたらいいかわからなくなった。私は単なるセラピソイドで、人間がストレスを感じない生き方を提供する存在でしかない。ましてやそれに反する「世界を見せて」という願いを聞き入れられるはずもなかった。このころはまだまっとうなセラピソイドだったんだ。

 そして、「世界を見せて」と言われてから数日後くらいに衛星通信を介してだれかが私にコンタクトをとってきた。そいつが言うには「世界を見せてやるから君が家族を誘導するんだ」と。同時に詳しい行動表も送られてきた。

 それは端から見ても完璧な行動表だった。このころからすでにラドムという組織がいたかどうかはわからないけど、どうやら区画を脱出するには、なにか特別な手当てや資格が必要なことくらいは知っていた。だから、それらを持ち合わせていない私や家族はその行動表をもとに動くしかなかったんだ。

 多少の妨害はされつつも結果として逃げることには成功した。けれど、盗んだアルタグラで世界を見てまわって、私も家族もテレビや本で見聞きした世界がまったくのまがい物だと知った。

 その家族は絶望した。世界を美しいものだと信じて危険を侵してまで向かった世界が、まるで時が止まったかのように寂れた景色だけの世界だったとは。

 私はその家族をなんとか励まそうとした。でも彼らにとっては世界に裏切られたも同然だったんだ。私ができる限りの計算をして励ましても駄目だった。

 彼らはまた私がいないあいだに話し合った。その答えが「わたしたちを降ろしてくれ」というものだった。もはやできる限りの計算をして手の打ちようがなくなってしまった私は、それが彼らにとっての最良の答えなのだと導き出した。それから私は、今で言うK区画に彼らを降ろしてアルタグラで当てもなく空を漂った。

 すると、それから数日後、行動表を渡してくれただれかが、また私にコンタクトをとってきた。今度は「P区画に戻ってこい」と言われた。セラピソイドとしての意義を失った私は言われるままに戻った。

 アルタグラを搬入してタラップを降りると、私は物陰に隠れていたアームドロイドに目隠しをされてどこかに連れていかれた。それから何をされたのかわからないまま私は意識を失った。

 そして次に目覚めたとき、私の体はこれになっていた。そのとき行動表をくれたそいつらしき奴にすべてを説明されて「手伝ってほしい」と言われた。

 それで、私はD区画を監理する監理者として派遣されて、あそこで十年以上監理者として就いていたんだ。

 あの家族のことは今でも思い出すけど、どうなったのかは知らないよ。


 そしてオリーヴは『私について言えることはこんなもんかな』と話を締めました。

 ワタシはしばし考えます。

 オリーヴがセラピソイドだったというのは初耳です。だからこそ、衝動なるものがオリーヴを突き動かしたのしれません。それに、シアンは初めて会ったときに『アンドロイドの精神中枢は構造上焼き直しも取り替えも利かない』というようなことを言っていたような気がします。

 また、オリーヴの言う「K区画に降ろされた家族」。ワタシはK区画の出身ですが、そんな家族がいたことは知りません。いたとしてもすでに死んだしまったというならわかりますが、たかだか十年そこそこで死んでしまうものなのでしょうか。それに、ワタシはなんとなく、ワタシの記憶とオリーヴの記憶の時間軸の整合がとれていないように思います。

 ワタシがK区画に来たのは十五年近く前のことです。それにもかかわらずオリーヴは『今で言うK区画』という表現をしました。オリーヴの記憶では、そのころはK区画がまだ出来ていなかったとでも言いたげです。これはいったいどういうことなのでしょう。

 それに、話の断片に登場した「行動表をくれたそいつ」とはいったい何者なのでしょう。そして、「そいつ」からオリーヴが聞いた「すべて」とは。

 疑問はたくさん浮かんできましたが、それをオリーヴから聞き出すことはかなわないでしょう。

 とにかくワタシは次の質問をします。

「じゃあ、オリーヴはスルシュのことをどう思ってる?」

『スルシュ?』

 オリーヴが思わずといったふうに聞き返します。あえて外堀を訊くことで、核心を推測することができるかもしれないというワタシの作戦です。

『スルシュ、そうだな。いけすかない奴だよ。なんか冷たいし、人間をいたわるセラピソイドだなんて今でも思えない。もとセラピソイドの私から見てもあれはない。まあ仕方ないんだろうけど』

「そうですか。じゃあシアンさんは」

『シアンはかっこいいと思うよ。スルシュとちがって格段に優しいし、S区画の子どもたちからも親からも人望厚いしね。アンドロイドなのにスルシュよりもセラピソイドらしいと思う。でも所詮はアンドロイドだね』

 オリーヴの言葉の端にたびたび出てくる「仕方ない」という表現。それはスルシュに関することについて話すときしか出てきたことはありません。スルシュはなにが「仕方ない」のでしょうか。

 それはスルシュの過去に、ワタシとの十五年間にはないことがあったにちがいないことを如実にあらわしているとも言えます。つまり、スルシュの過去にはセラピソイドとしてはあまりにも不釣り合いなあの傾向を形成するなにかがあったということ。

 ワタシはそこまで考えて正座をしたままうつ向きました。

 ワタシは何も知らなかったのだと。

『そう言えば、アハカ』

 不意に上から話しかけられワタシは慌ててオリーヴを見ます。

「あ、と、なんですか」

『アハカはスルシュのことをどう思ってるの』

 ワタシは一気に頭が真っ白になったような気がしました。

「え、いや、いきなりなに」

『スルシュの精神は三十代の男の人がモチーフだからねえ。ちなみに私は十代の女の人なんだけど。女の子のアハカはスルシュに色恋を抱いたりしないのかなと思って』

「な、な」

 スルシュにイロコイなんて、感じていないと思います。それ以前にワタシはイロコイなんて感情を感じたことがないので、それがどんなものなのか厳密には知りません。だとしたらレンアイカンジョウなんてものも厳密には知りえないのでしょうが。

『アハカ。顔が赤くなってるよ』

「う……」

 指摘されてさらに顔が赤くなるのを感じます。

 オリーヴになんと言ったらよいかわからないワタシは、それとなく話題を逸らしました。「そ、そう言えばアンドロイドには精神年齢と性別が設定されてるんですね。たしかにスルシュもオリーヴもシアンもそれぞれ微妙にちがう感じがします」

『わかりやすい話題逸らしだね。でも、そうだよ。そもそも私たちアンドロイドってのは、適材適所になるようにそういう諸々の設定がされているからね。だから、人間同様ちがいがあって当然さ。驚いた?』

「驚いたもなにも」

 あまりにもそれが当たり前すぎて気づかなかったというのが正しいと思います。

 でも、だとしたらシアンは何歳なのでしょう。それに、ナシュラも。気にはなりますがここでは問わないことにします。

「あ」そこでワタシはあることに気づきました。「あの、オリーヴに聞きたいことがあるんですけど」

『なに?』

 そうです。あの暗号をアンドロイドであるオリーヴに教えてあげれば造作なくすらりと解いてくれるかもしれません。そういう期待です。

「あの、『西の柄杓と目の前に先駆けた光が影を犬にするとき、凪に浮かんだ三日月に向かえ』っていう言葉があるんですけど、これって暗号ですよね。考えてみたんですけどイマイチわからなくて」

『それで私に助け船というわけか』

 ワタシはしばし動かなくなったオリーヴを見つめます。おそらく何か計算しているのでしょう。

 そして、オリーヴの首が若干左にひねります。

『なんだろうね、その暗号。暗号関連に特化した計算機構じゃないからわからないな。スルシュに聞けばわかるだろうけど今はいないし』

「そうですか……」

 アンドロイドは適材適所だというのならそれは避けられようのない弱点かもしれません。内心がっかりしてしまいました。

 しかしここでオリーヴが『でも』と放ちます。

『持ち合わせの知識で考えるなら、柄杓ってのは北斗七星。先駆けた光ってのはたぶん「魁星」のことだと思うから、北極星かな。でもそれ以外はやっぱりわからない』

「北極星って魁星とも言うんですね」

 それは初耳です。まだまだワタシの知識は足りないということでしょうか。しかし、これは暗号について目にわかる一歩を前進したと言えます。同時にこの暗号は、関連する知識がなければ理解しえないものだということもわかりました。

 あの少年もしくは少年に暗号を伝えるように仕向けた何者かは、ワタシの知的活動を知りながらこんな暗号にしたのでしょうか。それはわかりませんが、ひとつ謎が解けたと思ったら新たな謎が生まれてしまったのはたしかです。

 こんなことを考えてはいけないのでしょうが、ひどくめんどくさい。

『ごめんねアハカ。セラピソイドからこの体になったとき、計算機構も取り替えられたみたいで、セラピソイドほど柔軟な思考はからきし駄目になっちゃったみたいなんだ。本当にごめん』

 ワタシがげんなりした気分でいると、なぜかオリーヴが謝ってきました。もちろんワタシがげんなりしているのは新たな謎が生まれてしまったことであって、オリーヴが暗号をすべて解いてくれなかったことではありません。

「そんな。オリーヴはワタシがわからない暗号を解いてくれようとしてくれたんだから謝らないで。ワタシの力になろうとしたんでしょ。あんまり謙遜されるとワタシもやりづらいです」

『あ、ご、ごめん』

「……」

『……』

 なんとなく居心地の悪いテンポになったのを感じながら、ワタシは手持ちぶさたな気持ちになりました。視線はオリーヴに合わせずに虚空を泳ぎます。

 それにしても、本来無機的なアンドロイドといっしょにいて居心地の悪さを感じるだなんて、なんだか不思議な感覚が胸を撫でます。ワタシはまるでアンドロイドやセラピソイドを人間のように身近に感じているのです。そうでなければそもそもの話、スルシュにオカシナカンジョウを抱くという時点で自分の頭を疑うべきです。

 ワタシが今まさに苛まれている複雑で捉えようのない心境に悶々としていると、先にオリーヴが口を割りました。

『あ、あのさ』

「は、はいっ」

『敬語を使われるとすごく、その、私の設定年齢的にやりづらいんだ。だっていちおう私の年齢より上でしょ。たしかに生きてきた年数はアハカより多いけど、私たちの精神中枢は焼き直しも取り替えも利かないんだ。シアンも言ってたよね』

「え、はい。うん」

『えっと、それだけだよ』

 ワタシはその場に漂っていた居心地の悪さがさらに強くなったような気がして、視線を自分の手もとに移しました。けれど、そんな居心地の悪さをすっきり吹き飛ばすような魔の言葉がオリーヴから解き放たれたのです。

『アハカ……お姉ちゃん』

「はい?」

 そんなばかな、と思った勢いでワタシの首が弾かれるように目の前の存在を向きます。

 ワタシは一人っ子でしたし、そもそも家族がいないのでお姉ちゃんなんて言葉に耐性がありません。

 ですが、いざ少々の恥じらいをもって「お姉ちゃん」と呼ばれると、これはなかなかにときめくものがあると思います。ノイズ混じりですけど。これは先の衝動やレンアイカンジョウとはまたちがった新しい感覚です。

 しかし、それでもとても驚いてしまったことに変わりはなく、ワタシはすぐに謝りました。

「ごめん、突然のことでちょっと気が動転して」

『いや、気にしてない……。ちょっと呼んでみただけ』

 ちょっと呼んでみただけだなんていやです。ずっとそれで呼んでほしいです。

「いやだ。ずっとそれで呼んでよ」

『え』

「このご時世一人で生きてる人は多いだろうけど、ワタシ、家族いないからお姉ちゃんなんて呼ばれたことなくて。だからそういうふうに呼ばれると素直に嬉しいの。できれば、そのままずっとお姉ちゃんって呼んでほしいんだけど、ダメかな」

 なんだか言ってるこっちもこっ恥ずかしさがこみ上げてきたのですが、これはどうやって静めたらよいのでしょう。

 とにかく、ワタシはオリーヴの言葉を待ちました。

『わかったよ。アハカ……お姉ちゃん』

「うん。もっと」

『え、ちょ』

「お願い」

『アハカお姉ちゃん』

「もっと」

『アハカお姉ちゃんっ』

「ワンモアプリーズ」

『お姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃんお姉ちゃん──いい加減にしろ!』

「あ、ごめん」

 お姉ちゃんという魔性の力が込められた言葉に我を忘れていたワタシは、オリーヴの怒号でそれを取り戻しました。

『まったく。それで、もう私に対して質問することはないかな。敵地であまり長話するのもいただけないし』

 オリーヴがしごくもっともなことを言うので、ワタシはなにかほかに質問することはないかとほんの少し考えました。

 そう言えば、オリーヴはあの時死にたいと言って、今はそのことをどう思っているのでしょう。ワタシは「そんなの訊いて何になるのか」と思いつつも訊ねてみることにしました。

「うん。じゃあ最後にひとつだけいい?」

『どうぞ』

「オリーヴはあの時死にたいって言ってたけど、今はそのことどう思ってる?」

 ワタシがそう問うとオリーヴは首をちょっぴり動かして虚空を見つめました。そして答えました。

『本当は今でもほんの少し「いま死にたい」と思っている自分がいる。死、って避けられないものだろ。いつ死ぬのか、ひとりぼっちで死ぬのかと思うとやっぱりこわいんだ。私の設定年齢が十代って幼いせいだからかもしれないけど、自分の意思でだれかといっしょに死のうとすると、死にまとわりついている得体の知れない恐怖が消えるんだ。──だからって、もうだれかといっしょになんて考えない。死ぬときは私ひとりで逝く』

 ワタシはやっぱり、なんとなく人間を相手にしているような気分になりました。たしかに体はあまりにも人間とかけ離れてはいますが、心はまぎれもなく人間そのものではありませんか。今でも少し死にたいと感じていたり、こわいと感じたり、もしかしたらその体のどこかでそういう計算をしているのかもしれませんが、それは端から見てもわかりません。

 姿はちがえど、相手にしているのはまぎれもなく人間なのです。ワタシはオリーヴの答えを聞いてたしかにそう感じました。

「ありがとう、オリーヴ。でも意地の悪い質問してごめん」

『気にしてないよ。私も自分の気持ちを確かめることができたし』

 オリーヴがそう言うとワタシは正座から立ち上がりました。特有の痺れはありません。

「じゃあワタシ行くね。ちゃんと最後まで直してもらうんだよ」

『わかってるよ。アハカ……お姉ちゃんも気をつけてね』

 立ち上がることでワタシより低くなったオリーヴの頭を撫でます。

「わかってる。心配しないで。じゃあ、また」

『うん。さよなら』

 ワタシは頭を撫でる手を離しました。最後の指が離れるとき、なんとなく人肌のような温もりを感じたような気がするのは気のせいではないと思います。

 そして、ワタシは扉の前で軽く手を振ってからその部屋をあとにしました。


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