風の音を哀しみの唄とする。
シアンというアンドロイドがいつの間にかワタシたちの舩を施設の近くに寄せていました。すぐに乗り込んだワタシたちは、そのまま急いでD区画を脱出します。
追っ手は来ていないようで、現在D区画を脱出してからすでに五時間以上が経っています。その間、ワタシは好物である水も摂らず、またスルシュとも会話せず、それどころか部屋から閉め出して閉じこもり、ベッドの上で静かに思案を繰り返していました。
考えていることはただひとつ。ワタシの本当の気持ちについてです。
スルシュはワタシの感情をよく知っています。ワタシがどんなときに、どんな気持ちになるのかをよく知っています。しかし、前もって負の感情を止めるために動くということはしません。ただただ、スルシュはワタシが行き過ぎた行動をしないようにセーブしたり、五時間前のように、ワタシを負の感情に陥れる対象そのものから遠ざけようとする、といったことはします。
どうしてスルシュはすべて計算の上で最善の行動をとるはずなのに、ワタシが何か感じようとするのを止めないのでしょう。
本当にワタシのためにそうしているなら、いったいどんな計算をしてその結論に至ったのか。
「わかんない……」
ワタシは寝返りをうって枕に顔をうずめました。途端に息苦しくなって顔を離します。そして、喉を襲う渇き。
「お水……飲みたいなあ」
『どうぞ』
「わっ」
『水温は二℃となっています』
「な、なんで勝手に入ってきてるの?」
『五時間が経ったので、八〇パーセント以上の確率でアハカの気が落ち着いたであろうという計算をはじき出しました』
「な、な……」
信じられません。
なにが信じられないって、八〇パーセント以上というその数値です。今までこういうことがあった場合に、八〇パーセントを超えた数値ならその気持ちを確定しうる値だったということです。すなわち、今までのワタシは八〇パーセントを超えたら「その気持ちになっていた」ということなのです。スルシュはそれを統計的にはじき出して「八〇パーセント以上の確率で」と言ったのです。
しかし、今回は八〇パーセント以上でもワタシの気持ちはそうはならず、スルシュはここに来ました。
スルシュの計算が間違っているから、ということではないでしょう。
ワタシの心の有り様が変化してきている、そう考えるのが妥当です。
「とりあえず、水、もらっとく」
『ええ』
スルシュがテーブルに置いた水を手にとりイッキ飲みします。
空腹は最高のスパイスと言いますか、渇きは最高の旨みなのでしょう。お水が格別おいしく感じられます。お水、おいしい。
「スルシュ」
部屋をさっさと出ていこうとするスルシュを呼び止めます。
『なんでしょう』
「たぶん答えてくれないと思うけど、スルシュはワタシになにをさせたいの。どうしてなにも教えてくれないの。それは計算でそうするべきだって出たから?」
スルシュは間髪入れずに答えます。
『させたいことはありません。今は時期ではありません。九十九・八パーセントの割合で「そうするべき」とはじき出されました』
スルシュの答えを聞いてから後悔しました。これではまったく無意味な質問です。
『他に質問はありませんか』
「え。うん。ごめん」
『では』
すっと開いた扉の向こうにスルシュは消えていきました。
「あれ」
するとなぜか、どこかに違和感を覚えます。どこに違和感を覚えたのでしょう。
五分、十分、十五分、としばらく考えあぐねいてみました。
「うん……」わかりません。
違和感の正体はつかめませんでした。同時にスルシュとシアンに申し訳ない気持ちになってきました。
正体がつかめない相手に対して無鉄砲に考えているより、とにかく今は二人に謝ろうと思います。それに、ワタシはアルタグラに乗るや否や自分の部屋にふさぎ込んでしまったので、まだシアンとはあいさつも自己紹介もしていません。
ワタシはベッドから降りて、二人がいるであろう機関室へとその足を向かわせました。
「ごめんなさい」
ワタシが機関室へ着くなりそう言って深々とお辞儀をしたので、スルシュもシアンも一瞬固まってしまいました。
『アハカ。どうしたのですか』
「ワタシ、もしかしたらわがままだったかもと思って」
『オリーヴのことか』
ワタシが必死でオリーヴをかばったことは、彼らの計算上ではなるべく避けたい事柄であったにちがいありません。彼らは最終的にオリーヴを破壊してしまったわけですが、本当に将来のことを考えるならば、破壊するのが最善だったのです。
二人はワタシのためにオリーヴを破壊すべしとしたのです。それなのにワタシはそのことを考慮せずに突っぱねていました。
だから、謝らなければならないのです。
『アハカが気にすることではありません』
「でも」
『アハカ、君は優しいな。そしてスルシュの言うとおり、オリーヴについては君の気にするところではない。だが、その優しさが仇となるときもある。それはよく肝に銘じておくべきだ』
「……はい」
ワタシがくよくよとあれこれ悩んでいる間に、二人はすでに割りきっていたようです。それはそれでどうかと思うのですが、二人はそうすることで無駄な計算を省いたのだろうと思います。これからどうするのかを優先するために。
ずんと気持ちが沈んで肩を落としていると、その様子を見かねたシアンが提案を申し出ました。
『気をとり直して自己紹介でもしようか』
まるで助け船のような提案にワタシは「……はい!」と救われたような声を出しました。自己紹介のことをすっかり忘れていたのです。
シアンが手を差しのべ、握手を求めながら言います。
『私はシアン。アンドロイドだ。スルシュのようにセラピソイドではないから、君の気持ちを探ることはからきし駄目だが、まあ仲良くしてくれると嬉しい』
ワタシはその手を握り返しました。
「ワタシはアハカって言います。これと言って特徴はないし、とりたてて特技とかもない普通の人ですけど、よろしくお願いします』
ワタシは手を離しました。
しかし、こうして改めてシアンの体を見てみると、オリーヴとはまた違ったフォルムであることがわかります。
空色が鮮やかなスマートな体型に、グリーンの風をイメージしたような流線形のカラーリングがまるでひと昔前の戦闘機のようです。アンドロイドの目に当たるレンズの色はルビーの赤。アンドロイドに性別などありませんが、あえて形容するなら「スポーツ万能の真面目なイケメン」でしょうか。
これが人間ならどれほどかっこいい人なのだろうと思います。
『さて、自己紹介も済んだことだ。アハカは私たちが向かっている場所がわかるか』
「え? えと……」
私たちが向かっている場所。思ってみれば、ワタシはどこに向かっているのでしょうか。わかりません。
『アハカ。私たちは現在、K区画の反対側にあるS区画に向かっています』
「K区画の反対側の、S区画?」
いったいどんなところなのでしょう。
『高山の中腹にある区画だ。私が監理している。湿潤温暖なD区画と違い、高山ゆえに寒さが厳しい。だが、だからこそ下界の景色が美しく見える。アハカはきっと気に入るよ』
「高いところから地上を見下ろす景色だったら、アルタグラからも見られるよ」
ワタシがそう言って反論をしてみると、シアンはワタシを少し小馬鹿にしたように言いました。
『アルタグラから見た景色は、小さな窓で切り取られた小さな絵のようなものだ。しかし、そんなものを介さずに君自身の目や、澄んだ空気やにおいだけを介して見たそれというのは、君が想像している以上に素晴らしい。断言しよう』
「……じゃあ、期待してる」
ワタシは上手く説得させられて、ついその景色とやらを想像してみました。
緑の草原が左手に広がっているのでしょうか。それとも森が。その向こうには広々と横たわる大きな大きな海原が見えるでしょう。それらの境には真っ白な砂浜が見えます。そして右手には大河が流れ、色とりどりのさまざまな花がその岸辺を染め上げているのです。高山だから吹きすさぶ風は冷たいでしょうが、鼻から頬をすり抜けてゆくその風は、同時に下界からの潮風や草や花の香りをも運んできてくれるのです。
そのように想像すると、たしかに素晴らしい景色です。ワタシが見たかった世界の美しさでもあります。
『アハカ。頬がほころんでいます』
「え。え、ごめん」
『なぜ謝るのです』
ワタシとしたことが無防備な顔をさらしてしまうではありませんか。先ほどまで二人のことを少しではありますが嫌悪していたとは思えません。自分で思うのも難ですが、二人同様、ワタシもなかなかに切り替わりが早いと言えなくもないです。
ワタシとスルシュのやりとりを見たシアンが、いいかな、というタイミングを見計らってこれからの航行について述べます。
『アルタグラの燃料はぎりぎりS区画に着く程度しかない。燃費の増大がないよう、なるべく無駄のない操作を心がけている。だが、そのせいで到着が少しばかり遅れることが計算上、明確になっている。アハカはS区画に着くまで自分の部屋でくつろいでいてくれ。心も体もきちんと休めてな』
「あ、はい」
ちょっとした違和感。
そんなことはないだろうとは思いますが、もしかしたらシアンは、ワタシがオリーヴや自分の気持ちについて一生懸命考えていたことを知っていたのでしょうか。でなければわざわざ『心も』とは言いません。
違和感は拭いきれませんが、勝手な早とちりで断定するのもいただけません。
そう感じたワタシはシアンの言うとおり、自分の部屋に戻って身心を休め英気を養うことにしました。どうせこのままS区画に着くまで、何もすることなどありません。
ワタシは踵をかえして自分の部屋に戻ろうとしました。
しかし、それはスルシュの呼び止め声によって阻害されます。『アハカ』
ワタシは振り向いて応えます。「スルシュ。なに?」
ワタシが振り向いて応えてから数十秒、スルシュは何も言いません。
「どうしたの?」
念のため、もう一度スルシュに話しかけてみます。するとスルシュは何事もなかったようにこう言いました。
『なんでもありません』
こんなことを言うなんて、今までにあったかどうか記憶に定かではありません。ですが、おかしなことだとは思います。
それでも、ワタシはシアンの『心も』発言よりは気にしませんでした。シアンの発言のほうがよほど気になったのです。
「変なスルシュ」
『申し訳ありません』
ため息を吐いて自動ドアをくぐり抜けました。自動ドアのセンサーに引っかからない辺りで立ち止まり、スルシュとシアン、ワタシがいない間になにか話さないかと聞き耳を立ててみます。
しばらくすると、ゴニョゴニョと何かを話しているような音が聴こえてきました。けれど、何を話しているかまではわかりません。
「……だめ、かあ」
はあ、と力無いため息を吐いて立ち去ろうとしました。
しかし、ここでそれとなく言葉が聴こえてきました。『私は』
スルシュの声です。ぎくりとしてカラダが硬直します。耳だけに神経を集中させました。
『──は──です。──だからこそアハカを──し、だから──。もっと──を、──です。無限と──をアハカに、いえ、すべて──。これも──』
耳だけに神経を集中しても何を言っているのかよく聴こえません。
けれど、その声にかかった印象はどこかスルシュとはちがう気がします。ワタシの気のせいでしょうか。
『スルシュ、──な。アハカへ──いい。──て、──も──ない』
『──』
『──にはまだ──だ。──なら──に、──を──、──で──は──、──てな。──もない──ないなんて、──だ』
少しの間。
『オリーヴ──れ、──は──ろだ。アハカ──だが、──は──ければならない。そう──は、スルシュ。お前──だ』
そして少しの、間。どうやら扉近くにスルシュが移動したようです。
『理解しました。では、アルタグラの航行は任せます』
『ああ』
スルシュとシアンの会話が終わったようです。「部屋に戻らなきゃ」
ワタシは音を立てないように小走りをし、スルシュが扉をくぐり抜ける前に急いで自分の部屋に戻りました。
部屋に着くとベッドの上にあお向けに寝っ転がりながら考えます。先ほどの会話はなんだったのかということについてです。
シアンの声の印象はあまり変わりませんでしたが、スルシュの声の印象は間違いなく変わりました。機械的な印象は変わりませんでしたが、どことなくもの悲しげな様子だったと思います。
──だからなんだというのでしょうか。
「なんだかわからないことばっかり。疲れた……」
そうです。わからないことだらけで手がかりも何も無いままあれこれ考えるよりは、なにか進展したときにまた改めて考えたほうが物事の整理がしやすいのです。
そこでワタシはシアンの言うとおり、身心を休めることにします。瞼を閉じて、穏やかなさざなみがワタシの脳裏をよぎるのを待ちます。
そして、しばらくしてからワタシの意識は、ふっ、とそのさざなみに持っていかれるような感覚とともに闇の底へと沈んでいきました。
自分の力で起きた。
と、瞼を開くより先に思いました。ゆっくりと上体を起こします。
眠けまなこで周りを見渡すと、ちょうど今、部屋に入ってきたであろうスルシュの姿が見えます。手にはいつもどおり大粒の水滴がついた水の入った水差しと空のコップ。
ベッドの脇に立て膝をつき、うやうやしく水を注いでいきます。
『あと四十一分ほどでS区画に到着します。水を飲んだら保温性の高い衣服に着替えましょう。着替えは今、持ってきます』
水差しでコップに水を注ぎながらそう言います。ワタシはなみなみと注がれた水を受け取ってイッキ飲みしました。
息を吐いてひとこと。
「あー……。おいしい」
『然様でございますか』
スルシュは返事をしてくれると、すっと立ち上がり機関室とは逆の扉をくぐっていきました。
少し時間が経つと扉の開く音がします。
その手にはワタシの両手では抱えきれないほどのたくさんの暖かそうな衣服たち。
「うわあ……。スルシュって一度にそんなに持てるんだ」
軽く引きました。
スルシュはきりっと(した雰囲気で)返します。
『私はセラピソイドです。着替えましょう』
「うん」
ワタシはベッドから降りてスルシュが持っている衣服たちをベッドの上に並べるよう促しました。
そこであることに疑問を感じたのでスルシュに問うてみました。
「高山にあるS区画って、どれくらいの高さのところにあるの?」
スルシュは衣服を並べながら答えます。
『世界一高い山と呼ばれるナザトヴァユァ連峰の、中腹約五千メートル地点のなだらかな斜面にあります』
「五千メートルって、そんなところに人が住めるの?」
『住めます。人間の適応力を侮ってはいけません。しかし、標高五千メートルはつねにマイナス十℃以下の厳しい環境です。ですから、暖かい衣服を着て生活する必要があります』
スルシュは(満足げに?)衣服たちを整えながら立ち上がりました。
『アハカ。薄着にならないように注意し、この中から好きなものを選んでください。私は隣室で待っています。着替えが終わり次第呼んでください』
「うん。わかった」
ワタシが返事をするとスルシュはそそくさと部屋を出ていきます。その後ろ姿を確認し、ワタシは視線をきれいに並べられた衣服へと移しました。
D区画のトーガとはちがい、こちらはかなり複雑な織り方をされているようです。木綿や麻布のようなざらざらした感触ではなく、もこもことした動物の毛のような、やさしいさわり心地のする素材で作られた衣服もあります。
ワタシは動物とやらを図鑑や映像などで見たことはありますが、さわったことはないのでよくわかりません。ただ、映像などで風になびく彼らの毛並みからすると「この服みたいに柔らかいんだろうなあ」と思いを巡らすのです。
ということで、まずはもこもこの素材が裏地に使われた厚手のコートを選びます。色はワタシがよく着るワンピースと同じ白です。
これだけでは寒そうなので、どんどん選んでいきます。
ノルディック柄の紺色のマフラー。
よく伸び縮みする赤い厚めのタイツ。色が鮮やかで好きです。
ひらひらとかわいらしいプリーツのスカート、緑のチェック柄。
編み上げされた軍用ブーツのような、けれど中がもこもこした黒いニーハイブーツ。これなら足が暖かいでしょう。
あとは帽子が必要でしょうか。
ワタシは帽子を選ぶためにせっかくきれいに並べられた衣服たちをあれでもないこれでもないとぐちゃぐちゃにします。
これといってピンとくるものが見つかりません。
はあとため息を吐きました。そのとき視界の端にあるものが映ります。
「わあー……」
手にとって着けてみます。暖かいです。
「かわいいしあったかいし……これにしよ。うん、これに決めた」
ワタシは選んだそれらを着て嬉々としてスルシュを呼ぶ、兼ワタシのこーでぃねーとを判定してもらうために、隣室への扉をくぐりました。
「スルシュ! 見て、ほら!」
ワタシは向こうを向きながら待機しているスルシュに言いました。ゆっくりとこちらを向きます。
しばらくワタシの姿を眺め、言います。
『その耳は』
気づいてくれたようです。
ワタシは獣の耳が付属した耳当てを着けているのです。ちなみにロシアンブルーのような耳の形に色です。
「かわいい? 耳もおおってくれてあったかいし、これでいいかな」
ワタシは念のためスルシュに許可を求めました。D区画がトーガ以外の衣服は目立つからダメなように、この耳当てもS区画にはダメかもしれないのです。
やがてスルシュは言いました。
『極度に目立つものの着用は避けてください』
「……やっぱり?」
うすうすダメだとは思っていましたが、やはりダメでした。それでも仕方ないと言えば仕方ないのかもしれません。目立つということはワタシの存在がそれだけ浮きやすくなる、すなわち危ない人たちにも見つかりやすくなるということです。
ワタシはそんなことを考え、若干のやるせなさを感じつつもその耳当てを外しました。
「じゃあ、帽子はスルシュが選んで」
ワタシは耳当てをスルシュに突き出しながらそう提案してみせました。
『私が選んでも良いのですか』
ワタシはにっこりと笑って言います。
「スルシュが選んでくれたものなら、きっとワタシに似合うもの。スルシュは絶対に、ワタシに似合わないものなんて選ばないでしょ」
虚を突かれたように、ほんの一瞬ですがスルシュの反応が鈍ったのがわかります。
『かしこまりました』
「うん。じゃあ隣の部屋いこ」
ワタシはスルシュの手をとって急かすように引っ張ります。
「この中からなら何がいい?」
ベッドに連れてくるや否や、ワタシは自分が選ぶために寄せておいた帽子の山にスルシュを立たせました。スルシュはただじいっとその山を見つめます。おそらく、ワタシの恰好と照らし合わせた場合にいちばん似合うものをシミュレートしているのだと思います。やがてその帽子の山をごそごそと探ってみたり、帽子を取っては縦や横に伸ばしたりしました。この行為もまたワタシに似合うものを適切に選ぶためのものにほかなりません。
そしてついに、スルシュはあるひとつの帽子を手にワタシのほうに向き直りました。
『どうぞ』
スルシュが手渡したのは昔のロシア民族帽のようなウシャンカの形状に、コーカサス地方という地域によく見られたパパーハという帽子の毛並み感が特徴的な、よくわからないコンセプトの帽子です。ウシャンカもパパーハもともに寒冷地用の暖かい帽子ではあります。この二つについては以前、歴史的な写真を載せた本を読んだとき、ついでに調べたことがありました。まさかあのときの知識がこんなところで発揮されるとは驚きです。
ワタシはそれを受け取ってかぶりました。近くの全身鏡で自分の容姿を確認してみます。
「わあ……」
なるほどこれはなかなかに合います。色は真っ白なコートと違ってグレーの斑模様です。まるでユキヒョウの毛並みのよう。ちなみにユキヒョウは昔のヒマラヤ山脈という所に生息していた生物のようですが、とっくの昔に絶滅してしまっています。
「あれ、これ……」
ワタシが頭を触ってみるとぺたりと閉じたユキヒョウの耳が現れました。
『耳当てとちがい折り畳むことができるので、こちらのほうが好都合です』
やはりスルシュはすごいです。少しでも獣の耳に未練が残っていたのを見逃しませんでした。どうしてこんなものが用意されていたのかはともかく、これがありがたくないわけがありません。
「スルシュ、ありがと」
『お礼には及びません』
ワタシが耳をぱたぱたさせながら遊んで、スルシュがなんともなしにそれを眺めていると、じきにシアンが機関室側の扉から姿を現しました。
そしてワタシたちにこう言います。
『アハカ、スルシュ。あと三分でS区画に到着だ。降りる準備をしてくれ』
「あ、はい」
ワタシが耳を畳むとスルシュが確認します。『アルタグラはどうしますか』
『燃料を補給しなくてはならない。このまま地下に停めておく必要がある』
『そうですか』
ワタシは彼らの会話をしり目に窓の外を見ました。
なんだかごつごつしたパイプや配線でいっぱいです。薄暗くところどころ赤や緑のランプが点滅していて、なんだか兵器の格納庫のような重々しさがあります。もちろん、実際の兵器の格納庫など見たことなどありませんが。
やがてアルタグラは一度大きくその体を揺らして停止しました。
『着いたな。タラップを出すから少し待っていてくれ』
シアンがそう言って再び機関室のほうへとその姿を消しました。ワタシたちは出口であるタラップの方へと向かいます。
そこでスルシュに声をかけられます。
『アハカ』
「なに?」
スルシュは意を決したように言います。
『緑が見たいですか』
「え?」
一瞬スルシュの言葉が理解できずにすっとんきょうな声をあげるワタシでしたが、すぐに聞き返します。「どういうこと?」
『自然が見たいですか』
「ああ」そういうことか。「そりゃ、写真とか映像じゃなくて、この目でその景色を見られたらどんなに嬉しいかわかんないよ。でも、それって難しいんでしょ。D区画の湿地にだって苔のひとつも生えてなかった。ただ、くすんだ灰色をした見たこともない小さな蔓が絡み合ってるだけ」
そうです。たしかにワタシたちが住まいとしている区画内には、芝生や背丈ほどの小さな木々がありますが、それだけです。雄大な自然──緑というのは、まだ区画外では見たことはありません。だから、憧れではあります。しかし、それはワタシが言ったとおり難しいでしょう。
世界中くまなく核の花が咲いてしまい、その花粉たちが四荒八極在在所所いたるところに飛び散ってしまったからには、植物や動物はその強烈な放射能により、ほぼすべての命が一瞬で奪われてしまったことでしょう。区画に残っている気休め程度の植物たちは、わずかに残っていた植物を根から抜き取って移送し植えたものだと言われています。ですから、世界中の生命はそれぞれの区画にほぼ集約されていると言えます。
だからこそ、区画外にはたったひとつまみの樹の芽さえ芽吹いてはいないし、また動物の息吹はありません。ただただ荒涼とした灰の大地と、冷たく無慈悲な灰の風があるだけなのです。
ワタシは静かな面持ちでこう告げます。
「ワタシ……うん、たしかに緑は見たい。けど、それはきっともう無理だよ。だから無茶なことは言わないで」
ややあってスルシュも告げます。
『つかぬことをお聞きしてしまい、申し訳ありませんでした』
「ううん。だいじょうぶ」
ワタシたちが会話を終えると同時に、タラップの扉が開いて階段ができあがります。ワタシはスルシュに手を繋がれて一段一段うやうやしく降りていきました。
狭い一段を降りながら周りを見渡すと、鉄の鈍い輝きが反射しあっていて、アルタグラの窓から見たよりも明るいことがわかります。
「はわっ──」
あまりに見とれすぎて足を踏み外してしまいそうになったのをスルシュが優しく支えてくれます。前屈みに倒れそうになったのを抱えるかたちになり、ままま、まるで抱きしめあってるみたいです。
『タラップは一段が狭いので、降りてから観察するようにしてください』
「は、う、うん。ごめん」
なんだか妙に恥ずかしくて、すぐにスルシュを突き放すように離れます。
『アハカ。体温の上昇と動悸が見られますが、疲れましたか』
痛いとこを痛いときに突いてきます。わざとでしょうか。
「ほんっとにだいじょうぶだから。気にしないで。行こう」
『かしこまりました』
再び通常降りるかたちになりました。なりましたが、ワタシの心まで平常になったわけではありません。どきどきします。
その胸の鼓動を耳の奥で聞きながら「はっ」としました。
まさかこれが、コイ、なのでしょうか。
「いや……ないない」
急いでそれは否定します。だって人間がアンドロイドにレンアイカンジョウをもつなんて考えられません。これはきっとなにかほかの感情に違いありません。そうとしか思えません。
スルシュの頭から、次いで肩、背中、腕、ワタシと繋いでいる右手へと視線を移します。
意識すると、温かいです。スルシュのその右手が。
「……」
ワタシはとりあえず、その意味不明な感情を心の奥底にしまっていることにしました。またふとしたときに思い出すでしょう。
同時にタラップの狭い階段を降り終えました。再び格納庫のような内観に意識を向けます。
左右や天井に張り巡らされている配管や配線は、すべて鉄の無骨な色合い。よく目を凝らすと、ところどころにアルタグラの搬入作業をしている黄色のアンドロイドがいます。見た目は、昔の世界で道路を工事していた重機のようです。
タラップの上に視線を移動するとシアンがすたすたと降りてきました。
『アルタグラの搬入が終わった。──アハカ。きみはS区画に来たわけだが、それはどうしてかわかるか』
「え、いえ」
シアンが驚いたような呆気にとられたようにスルシュのほうを一瞥します。
「どうかしたんですか」シアンの様子に少しばかり懐疑心を抱くと、先ほどの行動をかき消すように対応しました。
『いや、なんでもない。では、アハカにはとりあえずこのS区画からの眺めを見てもらうとするか』
『そうしましょう』
ワタシが返事をする前にスルシュがそれをしてしまいました。ほんの少し癪に障ります。
「なんでスルシュが返事するの」
ワタシが多少の抗議も込めてそう問うと、まあ想定内の答えが返ってきました。
『アハカなら返事をすると計算し、アハカの疲労を考慮した上で私が返事をしました。お気に障ったなら申し訳ありません』
やっぱり思ったとおり。
何を言うでもなくそう思うと、シアンが歩き出しました。ワタシたちもそれについていくように歩き出します。
『ところでアハカ、君はここに来るまでどんな景色を見てきた』
「え、と。雲海とか灰の大地とか灰の空とか、あとD区画のあたりを少しです」
『なるほど』そう言って『君は自分がいちばん見たいものが、自分でわかっているか』
「え……」
どういうことでしょう。ワタシが本当に見たいもの、とは。
ワタシが見たいものは、K区画でスルシュに告げた「世界」というものです。つまりそれは、「世界」であるならば何でも知りたいということでもあります。
だからワタシが見たいものは、本当に見たいものは「世界」にほかなりません。それ以外に何がと問われても答えられる自信などありません。「世界」とはまるで永久に移り行く時の流れそのものかもしれないというのに。
もしかするとワタシは時の流れにたゆたいながら、そのさざ波が描く芸術をこそ見てみたいのかもしれません。という考えが脳裏をよぎりました。
しかし、ワタシが見たいものが「世界」だろうが「さざ波」だろうが、とにかくこれだけは言えます。
「ワタシはなんでも見てみたいよ。本当に見たいものとか、そういう小難しい話じゃなくて、ワタシが見たいと思ったものはなんでも」ということです。
『そうか。しかしそれは逆説的に、見たくないという感情を持つことなど許されないということに他ならないか。君が見たくないものが君の可視範囲内に紛れ込んでしまうこともあるだろう』
シアンが歩きながらさらに小難しい問題を提示してきます。けれど、ワタシはそんな少々意地悪い問題提起にもやすやすと答えてみせるのです。
「ううん。そのときはそのとき、仕方ないよ。たしかに見たくないものを見たときは気分が悪くなるかもしれないけど、きっとそれもなにか、いつか自分のためになるときが来る。もちろんそれはワタシの心持ち次第の話になっちゃうけど」
ワタシがやすやすと答えすぎてしまったのかシアンが感嘆の声を上げます。
『ほう』
しかし、続けてこう質問してきます。
『では──K区画を脱出する際にスルシュが言ったそうだが、この世界には君が望むような「世界」なんて無い。綺麗なものなどなにひとつ無い。汚く醜く狡猾な世界だ。そんな世界でも、君は美しさを見出だせると自信をもって言えるということか』
「う……」
ワタシは面喰らってしまいました。
言われてみるとワタシは、この世界はもうスルシュたちの計算によってわかり尽くされているのではないか、ということをすっかり忘れていました。ワタシたち人間の内面でさえすでに計算可能な範囲だというのに、表面的な地球上の事象など造作ないことでしょう。だから、この世界はスルシュたちの言うとおり、汚く醜く狡猾で綺麗なものなどなにひとつ無いのかもしれません。
しかし、同時にこうも思います。
「本当にこの世界には汚くて醜くて狡猾なものしかないのかな。ワタシね、ここに来るまで感じたことがあるの」
ややあってシアンが訊ねます。『それは』
ワタシは歩く足を止め、静かに言葉を紡ぎます。
「ワタシね、ここに来るまでにスルシュにある場所に連れて行かれたの。そこは灰の大地に灰の空で、それ以外の色がない世界だった。しかも、生きたものもいない。たしかにそこは、自分でもよくわからないけど、すごくつらくて苦しい場所だったよ。心の中にまで風が吹き込んでくるみたいだった。でもワタシ、その大地に穴を空けたの。それでアルタグラに乗り込む前にその穿ちを見てこう思った。ワタシがまたここに来れば、この場所は『生きている』って言えるんじゃないか、って」
ワタシは一呼吸置きました。シアンもスルシュもただ黙ってワタシの言葉に耳を傾けます。
「だから、もしかしたらきっとワタシはどんなにそういう場所──綺麗じゃない世界を見たとしても、そこにかならず『生』っていう、ワタシにとっていちばん綺麗なものの存在を見出だせるんだよ」
だから、と言葉をしめます。
「どんな世界を見たとしても、ワタシは自信をもって『この世界は美しい』って言えるよ」
黙ってワタシの言葉に耳を傾けていたシアンとスルシュでしたが、やがてシアンが言います。
『理解した。私から訊くことはもう無い』
シアンはそう言ってまた歩き始めようとするのですが、それをスルシュが止めてこう言いました。
『ではアハカ、私からも問います。アンドロイドである私と、アハカ自身の気持ちと、どちらが信ずるに値すると思いますか』
これにはワタシも言葉に詰まります。なんとか苦し紛れに言った答えがこれでした。
「どっちも、信じられるよ」
しかし、その答えは自分に対して墓穴を掘る結果になってしまいました。スルシュが次のようなことを述べたからです。
『なぜそのようなことを仰るのです。オリーヴが豹変してしまったという醜い事実から目を背けているではありませんか』
「あ、う」
ワタシは何も言えず口を魚のようにぱくぱくするだけです。
『綺麗事ばかり並べ立てることを、現実から目を背けたり、自己を正当化する言い訳にしてはなりません。もっとよく考えてください。この世界は美しくありません』
もっとよく考えてください。
「あ……」
なんとなくだけれど、わかりました。
「わかった。わかったよスルシュ。ごめん。ワタシが安直だった」
するとスルシュは言います。
『私はアハカを信じています』
ワタシはそれを聞いて、安心したような、救われたような気持ちになりました。言葉には極めてしづらい気持ちです。ですが、ひとつ言えることは、ワタシの気持ちだけは嘘偽りの無い真実だということです。ワタシはワタシの気持ちに嘘はつけないのです。
だれにも気づかれないように──スルシュにさえ気づかれないように──ワタシはそのことをそっと胸のうちに秘めておきました。
『お時間をとらせてしまいすみません。シアン、行きましょう』
『あ、ああ』
困惑気味のシアンなどお構いなしに、スルシュはさっさと先に進むよう促します。シアンは首をほんの少し傾けながら訳がわからないといったふうに歩き始めました。スルシュもワタシもそれについていきます。
ワタシたちはそっと手を繋ぎました。
さびついた黄色の金網で四方を囲まれたとても長い通路を歩き、その路の最後にはこれまた金網で囲まれたさびついたエレベーター。シアンが手前にあるボタン式のコントロールパネルを操作すると、少しやかましいブザー音とともに安全バーが持ち上がります。ワタシたちがエレベーターに乗り込むと、ゆるやかに上昇を始めます。上昇している最中、遠くで何か巨大なものが打ち付けられる鈍い音がしました。おそらくは作業音なのでしょう。
しばらく上昇を続け、ようやくそれはブザー音とともに止まりました。同時に安全バーが持ち上がり、視線のいちばん奥には鈍重そうな観音開きの鉄扉。シアンが最初に降り、ワタシたちは再びついてゆきます。
そして着いたのがその鉄扉の目の前。
シアンが言います。
『この扉の向こう側はもうS区画の中だ。現在の気温はマイナス九℃と暖かいほうだが、万が一我慢できない寒さなら一旦監理棟へ向かう。いいか』
ワタシに向けられた言葉と思わず、反応が少し遅れてしまいました。「あ、はい」
それを聞いたシアンが言いました。
『開けるぞ』
観音開きの鉄扉をとても重そうに押し込みました。そして勢いづけ、瞬く間にその合間から光と風が入り込んできます。ワタシはその眩しすぎる光と冷たすぎる風に、耐えきれず瞼を閉じました。
扉を押し込む音が止みます。
ワタシはゆっくりと瞼を開けました。
「わあ……」
『どうだ。緑は無いが、これはこれで壮大な景色だろう』
「はい!」
ワタシの目の前にあるのは見渡す限りの白、白、白……。そしてその向こうにあるのは、雪の冠を戴いた山岳重畳の雄大なその姿。世界最高峰という名は伊達ではありません。
そして標高五千メートル地点の寒さも伊達ではありませんでした。風の強さのせいか体感温度はマイナス十五℃をゆうに越えていそうです。畳んでおいた獣の耳もひょこひょこと風になびいてしまっています。
「寒い!」
思わず身をすくませてその寒さに悲鳴をあげました。
『アハカ。我慢できますか』
「う、うん。なんとか」
冷たく強い風から守るように顔をコートのファーにうずめながらそう言うと、ワタシの手を握るスルシュの右手に少し力がこもります。
『この風は少し強すぎるな。やはり一旦監理棟へ行こう』
「は、はい」
我慢はできますが、風吹き荒ぶ中を歩きまわろうという気にはなりません。ワタシは素直にその提案に乗りました。
『なるべく急いでくれ』
ワタシたちは頷き、その場を離れました。
「ひどい風だった……」
ワタシたちは格納庫(と便宜上そうしておきます)の出入口から数分歩いたところにある監理棟の中に入ると、ほっと一息つきました。
『標高五千メートルともなると風速はしばしば秒速二十メートルを越える。今日は運が悪い』
スルシュとシアンは強風で舞い上がった雪を手で払っています。監理棟内はあたたかく、しばらくしたら濡れた体も乾くでしょう。
ながら問います。
「そういえばここ、なんかやけに真っ白な建物ですね」
『ああ。ここは以前は病院だった』
「びょう、いん?」
病院。
医療小説やドラマではしばしば舞台のひとつとして扱われていますし、ニュース番組を見てもおじいさんやおばあさんや小さなこどもなんかが映っているのが見られます。たまに感染症が流行ると、彼らはマスクを着用しています。
しかし、どうしてこんな場所に病院があるのでしょう。
「あの、どうしてこんなだれも来なさそうな場所にこんな綺麗で立派な病院が」
こんな、こんな、と、まるで馬鹿にしているような言い方になってしまったことに少々後悔の念が脳裏をかすめますが、言ってしまったものは仕方がありません。
そして、シアンはそんなワタシの失言も気にせずさらりと述べました。
『核戦争後に急遽建築された病院だ。放射性物質が届かず、かつ悪路をものともしない輸送用航空機が自由に発着できる場所。それがここだった』
「あ……」
核戦争後に建築された病院。ワタシも幼少のころは、それはそれは世話になった記憶があります。ワタシがお世話になった場所はこの病院のように真っ白で綺麗ではなく、まるで野戦病院のように灰色のコンクリートがむき出しの場所でした。決して衛生的とは言えない粗末で小さな病院でしたが、急ごしらえだったのだろうと思います。多くの人がいました。
雪をはらい終えたシアンは、そのまま待合室のようなエントランスの奥にある廊下へと向かいます。立ち止まりました。
『アハカ。寂しくはないか』
「へ。なんですかいきなり」
『会わせたい人がいるんだ』
会わせたい人とはだれでしょう。
この監理棟へ来るまでにおおよそ住居らしい建物は見えませんでしたが、S区画の人たちはここに住んでいるのでしょうか。だとしても違和感はありません。むしろ妥当だと言えます。
「わかりました」
『私もお供いたします』
『もちろんだ。スルシュも来てくれ』
シアンは大きく頷きました。
シアンについていき、真新しいエレベーターに乗って向かった先は、二階の集中治療室(ICU)という部屋の前です。たしか集中治療室は重篤な患者を収容しておく部屋だったはずです。
「ここにだれが」
『R少年だ』
「R少年……」
『放射線量の高い場所に置き去りにされていた赤ん坊を拾ってここで育てていた。遺伝子が傷つけられたまま成長したせいで、主に左半身に奇形が見られる。余命もわずかだ。もし、君が本当に先の感情を抱いているというのなら、どうか彼に話しかけてやってくれないか』
それを聞いてワタシは他意などなく素直にこう思いました。
ワタシでなくともその少年に話しかけてやれる人なら、ここにはたくさんいるはずです、ということです。
「あの、どうしてワタシなんですか」
戸惑いながらも訊ねてみます。
『君は現代人が経験したことのない体験を彼に話してやれる。君がここに至るまでの体験を話してやってくれ。もちろん君が感じたことを交えてもいい。頼む。やってくれるか』
ワタシは少し考えてみました。そのR少年とやらの顔が気になったのです。
奇形というのは、体あるいは体の一部が変形してしまう。あるいは、変形してしまっている症状や状態のことを指します。放射線を全身に長時間浴びて命が無事だっただけで幸運なことですが、ワタシはR少年の奇形そのものには興味ありません。ワタシが気にしているのは、彼の顔を見て両親の顔を思い出せるかどうかです。
だから、ワタシはシアンの頼みに乗ることにしました。
「わかりました。R少年と話をしてみますね」
『恩にきる。ありがとう』
シアンが一礼し、扉の脇に据え付けられている電卓のようなコントロールパネルに数字をいくつか打ち込みます。どうやらこの扉はだれでも入れるようにはできていないようです。
シアンが暗証番号を打ち込むと扉がゆっくりとスライドしてゆきます。いよいよR少年とまみえます。
「R少年?」
ワタシの耳に彼のか細い声。
「……だれ……」
そして、目には彼の姿が映りました。
「あ……」
ひと言で端的に率直に述べるなら、彼の姿は「人間ではない」と言えるでしょう。化け物や怪物などではなく、「人間ではない」のです。
彼の顔はシアンの言うとおり左側が大きくひしゃげていました。昔の映画で「エレファントマン」というものがありますが、その映画の主人公のようです。顔しか見えませんが左半身が奇形というのは本当のようです。また毛が一切生えておらず、髪の毛もまゆ毛もまつ毛もありません。顔色は青色とか土色というよりは、アルビノのように真っ白です。目は今にも死にそうなほど空ろで、人工呼吸器に繋がれた口からはどきどき小さな息づかいが聴こえてきます。
あまりに人間離れしたその容貌にしばらく声を失っていましたが、そのかすかな息づかいがワタシを現実に引き戻しました。
「あ、わ、ワタシ、アハカって言うの」
急いで彼の問いに答えます。
「……あ、は、か、ちゃ、ん。?」
「え?」
その声をはっきり聴いてはっとしました。この子は少年ではありません。少女です。
「君、男の子じゃないね」
念のために確認すると、R少女は首を小さく縦に傾けました。ワタシはシアンを一瞥します。『むっ』
まるで予想外中の予想外。シアンは(驚いたように?)それだけを呟き、ワタシは治療室内へ歩を進め、彼女のベッドの脇に立ちました。そのまま膝から力が抜けたように顔の位置を合わせます。
R少女はほんの少しワタシのほうに顔を向け、瞳をゆっくりと動かしました。
「ごめんなさい」
唐突に、木々を揺らすそよ風のように口にすべりこんできたのはそんな言葉。ワタシ自身でさえ驚いてしまいましたが、それでも苦虫を潰したような顔になってしまうのは我慢します。
R少女はじいっとワタシを見、その瞳は揺るぎません。しかし、そんな彼女もまた唐突にこんなことを呟いたのです。
「あ、り、が、と」
ワタシはじわりとカラダが熱くなるのを感じ、その次にはのどと目が熱くなり、大粒の涙が流れていることに気づきました。
彼女の右手が掛け布団の合間からおずおずとした様子で伸びてきて、ワタシの目から溢れて止まらないそれを優しい手つきで拭いとります。
「ワタシ、ごめ、ごめんなさい」
咽の奥がしゃくれて上手く言葉が紡げないワタシに対し、R少女はワタシよりも上手にこう言うのです。
「こ、わ、い、?」
ワタシは首を横に振ります。
「そんなことない。ちがうの。ワタシ、君のこと……」
ひどいように考えていました。ワタシは彼女の容態や気持ちなんかからっきし無視して、両親の顔を思い出すことだけに気をとられていました。言うなればワタシは、今目の前で苦しんでいるこの人のことなどまったく顧みていなかったということです。もしくは、顧みようともしなかったということです。それがひとつ。
もうひとつはワタシにもわかりません。
少年ではなく少女として、同じ女性としての共感なのか。または、ワタシとほぼ同年代で境遇の違いに悲哀を感じたのか。
どうにしろワタシは彼女に何かを感じとりました。何かを感じとり、しかしその正体はワタシにもわかりませんでした。
R少女は口元を緩ませながら優しく語りかけます。「あ、は、か」
ワタシは涙をぬぐってくれた彼女の手を握ります。「なに……?」
「わ、か、て、る、よ」
「……」
「そ、い、う、ふ、に、お、も、う、の。あ、は、か、の、せ、じゃ、な、い」
一瞬胸が高鳴ります。もしかしたら、この子はワタシの考えていたことなどお見通しだったのかもしれない、と。
もちろん本当にワタシの心境を垣間見ることができているなんてことはないはずですが、それでもどきりとしてしまったことはたしかです。
ですからワタシは訊ねてみました。「どういうこと?」
しかし、見てみるとR少女はいつの間にか目を閉じて、なにやら苦しそうに細い呼吸を始めています。ワタシはそんな彼女の異変に気づき、顔をシアンに向けました。シアンは何もしなくて良いというふうに黙ったままです。
焦ったワタシは再び顔をR少女に向けました。すると、彼女は右手で、人工呼吸器の管が繋がれた先にある機械のスイッチをいくつか押します。少しすると苦しそうな呼吸が治まり、顔には安堵の色がうかがえるようになりました。
そして驚くべきことが起きました。
『ごめんなさい。お話の続き、するね』
「あれ?」
彼女の声が先ほどとはうってかわってすらすらと発せられました。けれど、その声はどこかスルシュやシアンのように無機質な印象がし、感情的な起伏もないように感じます。
『ああ──これは人工の音声。あんまり長い会話してると、肺が苦しくなるから……』
「……そうなんだ」
ワタシは人工の音声に切り替わってしまったことにほんの少し残念な気持ちがしました。「それで、『ワタシのせいじゃない』って。どういうこと?」
再び問うとR少女は改まったように話し出します。
『そういう気持ちになるのはね、アハカ、実はだれでもあることなんだよ』
「……」
『アハカはきっと、あたしが女の子だってわかる前に、この子のことなんかどうでもいい、って少なからず思ってたよね』
「え、う……」
図星です。しかし、今度は胸は高鳴りません。
『でもアハカはあたしが女の子だってわかって、あたしがごめんなさいって謝った途端に泣いちゃったでしょ』
「う、うん」
『アハカが泣いちゃったのはね、アハカが自分で「この気持ちは正しくない」って、無意識に気づいたからなんだよ。どうでもいいと思うことは決して間違ってないよ。自分本位で考えることも。けれど、その気持ちはアハカにとって「正しくはなかった」ってことなんだ。わかるかな……』
人間的な情緒があるとは言えない彼女の人工音声で、まるで実の母親のように優しくワタシを気づかっているふうに聴こえるのは、ワタシの耳がおかしいという理由ではないでしょう。ワタシは今、彼女の声を心で受け止めているのだと思います。だから、声の調子や情緒など関係なく、心に響いているのだと思うのです。
『わかるかな。アハカはきっと他人のことを放っておくなんてことはできない。アハカの心の底には優しさの澱が静かに沈んでるんだよ。だから、きっとアハカは優しくない気持ちなんか持てっこないし、アハカが考えることには絶対に優しさが込められていると思うんだ』
「ワタシに、優しさ」
ワタシはその言葉の響きに不思議な心地よさを感じました。
次いでワタシはこう言います。
「でもワタシ、自分で自分を優しいなんて思ったことないよ」
先ほどR少女に対してひどい思いを抱いてしまったワタシが優しいなどと、そんなふうに自分を見てよいのかという思いが頭をよぎります。
けれど、そんな不安などどこかへ去ってしまえ、とR少女は言いました。
『ううん、それでいいの。自分の気持ちは自分に対して思うものじゃない。アハカのその気持ちは、アハカのその優しい気持ちを向けてほしいと願ってる人に向けるものなんだよ。もし、アハカが自分の思いに反した気持ちを他の人に向けても、きっとさっきみたいに「これはワタシらしくない」って、気づいてくれるってあたしは信じてる。だから、アハカはアハカのまま、変わらないで』
そして、R少女はかすかなそれではなく、たしかな笑顔をワタシに向けてくれました。対し、ワタシはまたしても顔を涙に濡らしながら何も言えなくなってしまいました。
ワタシは今まで自分の心、思いや気持ちを顧みたことはありません。ただ自分のしたいことを第一に考えて行動していたように感じます。だから、彼女のようなことを言われるとはまったく思いませんでした。
だって、なんらかの理由で彼女に会えなかったら、彼女に会うまでの気持ちをそのまま抱いていたかもしれないと思うのです。ですから、「もし彼女に会わなかったら」と思うとぞっと身の毛もよだつ思いがします。そう思えるのも、彼女に会って自分の気持ちを省みれたからなのかもしれません。
けれど、まだ自信が持てません。
「ワタシ、本当に優しいのかな」
ごく自然に口からすべり出たその言葉に対しR少女は諭すようにこう言います。
『アハカ。あなたを優しいって決めるのはあなた自身じゃないんだよ。あなたを取り巻くまわりの人があなたというものを決めるの。……わかる? アハカが「優しさ」を向けて、それを優しいねって返してくれる存在がいなきゃ、アハカは自分が優しいこともわからなかったかもしれない。だから、自分で自分を決めつけないで。周りの人にアハカの素直な気持ちを向けてあげるだけでいいんだよ。アハカは優しいもの』
R少女が言い終えしばらくは涙で喋られなかったワタシですが、ようやく落ちついてこう言いました。
「……ありがとう」
ふっ、と再び彼女は微笑みます。
『どういたしまして……』
ワタシとR少女はそれからいろいろなことを話しました。
今までワタシが本やテレビで見聞きしたもの。
K区画を脱出したときのこと。
初めて見た灰色の世界。
D区画にあったリラクゼーション施設。
そこでオリーヴを殺してしまったこと。
ワタシがそれで考え悩んだこと。
ここに着いて、白銀の世界がとても美しく綺麗だと感じたこと。
R少女と会えて、話せてよかったこと。
ワタシは包み隠さずすべてをR少女に教えてあげました。すべてというのは文字どおりすべてです。まるで昔のキリスト教というやつの告解のようです。
告解とは、洗礼を受けたあとに自らが犯した罪を神様にもれなく言いあらわす行為のことです。昔は神様とは絶対な存在とされ、たとえ嘘を吐いてもそれを見抜き、その者に天罰を与えるのだと伝えられていました。
ワタシは別に、自分が感じたことや見聞きしたものが罪だと思ってはいません。「まるで告解のようだ」と感じただけです。
すべてを聞いたR少女は、ワタシにひとつ訊ねてきました。
『ねえ、アハカのお父さんとお母さんは? 心配してないかな……』
悪気があって訪ねたのではないでしょう。しかし、それを聞いたワタシは一気に胸が高鳴ったことに動揺してしまいました。全身から冷や汗が出る感覚がし、血の気のひく思いとはまさにこのことです。
「わ、ワタシのお父さんとお母さんは」
『うん』
「い、いないの。もう」
『え?』
妙な早口で矢継ぎ早に結論だけを述べ、彼女が聞き返したことにも反応せずうつ向きます。
『ごめんね。聞かなかったことに』
彼女が質問を無しにしてしまうのをワタシは慌てて遮りました。
「ワタシは大丈夫。ねえ、聞いて」
そのことを忘れていたわけではありません。もちろん病室前でR少女に抱いていた気持ちも。ただ、訊かれた以上は答えてあげなければならないと感じました。
『……うん』
彼女が返答し、ワタシは静かに「告解」を始めました。
「ワタシのお父さんとお母さんはもうこの世にはいない。二十年くらい前に核戦争があったでしょ。それで、何も知らないワタシたち家族が買い物してた百貨店の近くに核弾頭が落ちて、ワタシのお父さんとお母さんは熱で膨張して全身やけどしてどろどろに融けて、それで死んでいった。二人の顔は、もう、どんなだったか覚えてない」
ワタシは自分が持っているだけの記憶をたぐりよせてR少女に語ります。もちろん、その記憶をふりかえることは両親の顔を思い出すことにもつながるとは思いますが、それでもその片鱗すら見せずに過ぎ去ってしまいました。
そしてワタシは、静かに耳を傾けるR少女に「言わなければならないこと」を言いました。
「それで、ワタシがさっき泣いちゃったのは、あなたの奇形を見ることで両親の顔を思い出せるかもって、そういうふうに考えていたからなの。──それが、ごめんなさい」
ワタシは言いきって頭を下げました。
言いきったのはよいのですが、少しだけこわいです。だって、R少女に幻滅されたくない。
しかし、それは杞憂でした。
R少女はワタシが下げた頭に右手を乗せ、まるで赤ん坊をあやすかのように優しく撫で始めたのです。
これにはワタシも面食らいます。面食らってまたしても涙が溢れてきました。頭を上げます。
『アハカって、あたしより年上のはずなのに泣き虫さんなんだね』
「だ、だって、こわかったんだもん……」
『なにが?』
「幻滅されるんじゃないか、って……」
ワタシがそう言うと、R少女は目をほんの少しだけ見開きました。そして、目を細めて柔らかく微笑みます。
『ばかだなあ。アハカを嫌いになるわけないでしょ。まだ出会って一時間も経ってないけど、あたしはアハカのこと、もう信じてるよ』
「……ありがとう」
ワタシはR少女にお礼の述べ、
「ワタシも、君のこと信じる」
『うん』
R少女は頭を撫でていた右手をふたたびベッドの中に戻し、そういえば、と何かに気づきました。シアンのほうに視線を向けます。
『シアンはあたしのこと男の子だと思ってたみたいだけど、どうして女の子だって言わなかったかわかる?』
壁に背を預けながらワタシたちを静観していたシアンは久しぶりに声を発します。
『……なぜだ』
わからない、というよりも、教えてくれ、というニュアンスが先行します。
R少女は得意げに言いました。
『シアンは頭がかたいから。今まで「ぼく」って言ってたのに、「実はあたし女の子なの」なんて言って、あなたは信じてくれたかな』
シアンは黙ったまま。
『もしあたしが信じてよと言ったら、あなたは確実にあたしの体を見て確認しようとしたでしょ。もしくは触って。そんなの女の子には無理な話だったから。アハカ、ありがとね。あなたが来てくれたおかげで、あたしは誤解を晴らせたよ。──まあ、あたしが初めに「ぼく」って一人称使ったのがいけなかったんだろうけどね』
「ああ……はは」
なんだか彼女のペースに持っていかれて、ワタシの両親の話がどこかへ行ってしまった感じです。ですが、それは『気にしないで』という彼女の優しさでしょう。
ワタシは素直にそれを受けとることにし、心の中でありがとうと言いました。
『私をからかうのはこれっきりにしてほしいな』
『わかってるよ。ごめんね』
茶目っ気あふるる『ごめんね』に、堪えきれず失笑してしまいました。人工音声のはずなのに、ここまで感情が乗ったように聞こえるのは不思議です。
『あ、アハカ。笑った』
「だっておかしくて」
『まったく』
ワタシたちが和やかな空間を演出していると、水を差すようにスルシュが割り込んできました。
『そろそろ面会時間は終わりではないですか。シアン』
『いや。あと三十分ほどあるが』
『室内の空気が淀んできています。そろそろ終わらせなければR少女のお体に毒です。アハカ、行きますよ』
勝手強引に話を進めようとするスルシュに、また和やかな雰囲気をみごとにぶち壊したスルシュに、途端に腹が立ってしまいました。ワタシは眉をじりじりと逆ハの字にしてスルシュの眼前まで迫ります。
「なんでそんなこと言うの。こんなに楽しい場面でなんでそういうこと言うの。K区画出てからスルシュ、なんか冷たいよ」
ワタシはスルシュにそう抗議しました。
思ってみれば、K区画を脱出してからのスルシュはどことなく棘のある物言いが増えました。なんとなく自己主張も増えた気がします。それに、ワタシに対してノーとは言わないにしろ、否定的な態度をとることも多くなりました。
別にそれ自体はどうってことありません。もしかしたらそれも、ワタシを守るためのかたちかもしれないのですから。
しかし、それを、今のこの状況にまで持ち出すのには納得がいきません。
『アハカ。私は間違ったことを言いましたか』
「え?」
ワタシは唐突にそう言ってきたスルシュの言葉に戸惑ってしまいました。
スルシュはもう一度言います。
『私は間違ったことを言いましたか』
「……」
言ってません。
間違ったことは何も言ってません。
けれど。
「ワタシは気に入らない。スルシュがこの場面でそう言って雰囲気を壊そうとするのが、気に入らない」
そう。気に入らないのです。
機械であるスルシュにこの気持ちがわかるでしょうか。おそらくわからないでしょう。すべて計算で動くスルシュにとって、言葉や数字などではなんとも形容しがたいこの気持ちを理解することなんて。
しかし、スルシュは言外に『そんなことはわかりきっています』とでも言いたげにこう言い放ちました。
『R少女にとって、このまま私たちがここにいるとお体に毒であるということが問題なのです。私はアハカが私の発言を気に入るか気に入らないかを問題にしているのではありません。勘違いなさらないでください』
「ちがう。私は、どうしてこの場面でそういうこと言うの、って言ってるの」
『ならば尚更R少女のお体をいたわる選択肢をとるのがよろしいです。アハカの気に入るか気に入らないかで、R少女に対して過失があってはなりません』
「う……」
スルシュの、言うとおり、なのでしょうか。
けれど、だったらワタシのこの気持ちはどうしたらよいのでしょう。スルシュの言葉や計算の前では、こんなどうしようもない気持ちでさえ意味のないものなのでしょうか。
ワタシにはわからない。
「……わかった。R少女にの容態が悪くなっちゃうなら、もうお話はおしまい」
『アハカ』
「ごめんね。ワタシ、スルシュに何も言い返せないや」
ワタシはR少女に向き直り、ベッドの中にある彼女の手を頬に当てます。
温かいです。とても。
『もうちょっと話していたいし悲しいけど、仕方ない、ね。あたしもまだまだ生きていたいし』
「……うん」
ワタシは彼女の骨ばった手を両手で包み込み、その合間から彼女の手の甲へと唇を軽く当てました。
『アハカ』
「手、あったかいね。たぶんもう一度会うのは難しいだろうから、忘れないために」
『……』
「行こう」
ワタシは立ち上がり、彼女の手を離しました。そして、スルシュの前を通って扉の前に立ちます。振り返りました。
「また会おうね。それで、そのときはいっぱい話そう」
ワタシの宣言に彼女の目にも薄く涙の膜が張り、その目が潤みました。
『うん。また今度』
そう言って彼女は右手を力なく振り、精一杯の「バイバイ」をします。ワタシも小さく手を振って、そのまま病室を出ていきました。
その日の深夜。午前二時頃。ワタシは数多く並ぶ病室の一室を居住空間にした部屋で、寝ているふりをしながらあれこれ考えていました。
ふり、というのはスルシュがすぐ近くでオーダーライダーにうずまって充電しているからです。寝ているふりをしなければ、スルシュはすぐに『お体に毒です』とか言いながらワタシを寝かしつけるでしょう。
ワタシが考えているのはR少女の余命とか、スルシュの変異とか、今日は晴れるといいなとか、そんなことです。
本当は就寝時間は四時間ほど前に過ぎ去っているのですが、やたら考えているうちに眠れなくなってしまったのです。すっかり目は冴え、手持ちぶさたな感がぬぐえません。
ワタシは外を眺めたいと思いました。そして故意にカラダを動かしました。
『アハカ、寝つけませんか』
「……まあね」
ワタシは案の定起き上がったスルシュに対して少し呆れた声を出します。
『お供します』
「いいよ、外の景色眺めるだけだし。月明かり差してるから見えるよね」
『それならば、私も見ても良いでしょうか』
「え」
スルシュのあり得ない提案に少々身構えるワタシ。
スルシュが自分からワタシに対して『私も見ても良いでしょうか』なんて言うはずがありません。今までで一度だってありませんでした。それなのに、いきなりのその提案にワタシがうろたえないわけもありません。
「いいけど。な、なんで?」
声が上ずってしまいました。
そして、スルシュはまたしてもあり得ない返答をしました。
『私も、綺麗な世界を見てみたいと』
「ええっ?」
スルシュが言い終わる前にワタシがすっとんきょうな声をあげたので、さすがのスルシュも一瞬身構えました。
『なにかおかしいでしょうか』
「どう考えてもおかしいでしょ。だってスルシュ、この世に綺麗なものなんてないし、そもそも世界は汚いんじゃなかったの」
さらっ、と言ってのけます。
『夜は綺麗です。見たくないものは闇にまぎれて見えません』
「どういう論法……」
ワタシが心底呆れていると、スルシュに手をつかまれます。今日の今日でスルシュにはあまり良い感情は抱いていないはずのワタシですが、なぜかこう、そんなに悪くない気持ちになるのはなぜなのでしょうか。ワタシにはわかりません。
そうこうしているうちにスルシュが窓を開けてワタシを促しました。
『アハカ。見てください』
スルシュが指さした方を見ると、視界に広がるのは無数に煌めく星々。
「わあ……」
ワタシは凍りつきそうな外気をものともせず、その光景に心奪われました。
天の川のように群れをなし淡い光を放つ星たちは、まるでワタシが地球にいることを忘れさせてくれそうなほど、幻想的で雄大な景色を演出してくれているのです。
『アハカ。あちらに見えるのは竜座、あちらに見えるのは夏の大三角形。あれは蠍座。ふたつに挟まれているようにあるのが蛇座です。わかりますか』
「うん。形なら図鑑とかで見たことあるから……あ、あった」
『ところでアハカ。星座はそれぞれ、名称のもととなった神話に由来しているというのはご存知ですか』
「うん。知ってるよ」
『では、蛇座の神話はわかりますか』
「うん、知ってる。でも、なんで?」
スルシュがそのようなことをわざわざ話そうとするのにはわけがあるに違いありません。
『蛇という生き物は、神話の中ではしばしば悪神もしくは悪神のひとつととらえられています。もちろん悪神ととらえていなかった神話もあります』
「何が言いたいの?」
もったいぶったように話をくり出すスルシュに少々苛ついてしまいました。そのことに気づいていったん落ち着きます。
静かに星たちを眺めながら、スルシュは独白のように言います。
『蛇は、見ても触れてもいけません。もし見てしまったら楽しいことを思い出してその姿かたちを忘れましょう。触れてしまったら触れた部分は綺麗にしなければなりません。蛇は、見ても触れても駄目です』
「スルシュ?」
『だからといって殺してしまうことも許されません。蛇はただ、鎌首をもたげてじっと狙っています。ただ黙って、それを知らないふりをして過ごさなければならないのです』
「スルシュ、ねえ」
『蛇を知っていることは大いに結構です。問題は蛇を知りながら、その存在をかたわらにいるのを感じながらどのように過ごすか。それだけなのです』
「スルシュ!」
ワタシは一体全体どうかしてしまったスルシュを我に返すために叫びました。その声が届いたかどうかはわかりませんが、スルシュはワタシのほうを向きました。
『私はそういうことをアハカにわかってもらいたいという希望的観測の話をしています。星座の話は前置きにすぎません。ですから、わかってもらえなくともそれはそれで仕方がありません。ただし、私の話をわかってもらえなかった先にアハカを待ち受ける未来は絶望しかありません』
「……はあ?」
もうスルシュの言っていることがちんぷんかんぷんで、ワタシは苛立ちを隠すことなくその思いを疑問の嘆息に乗せて放ちました。ただ、スルシュがワタシのその行動に反応するかどうかはまったくの別問題です。
その証拠に突然スルシュはワタシの肩に両手を置きました。必然的にワタシたちは向かい合う体勢になりました。それも、満天の星空を切り取った窓をバックに。
なんてロマンチックな展開なのでしょう。自然と胸が高鳴ります。
『アハカ』
「あ、あ、なに、スルシュ」
胸がどきどきして焦って、うまく言葉が出ません。相手は機械だというのに、しかも顔は仮面のように微動だにしていないのに、どうしてワタシはこんなにもスルシュのことを。
スルシュの真剣な顔が近づいてきます。ワタシはなんだかこわくなって目をつむってしまいました。
『目をつむらないでください』
「そんなあ!」
スルシュは鬼畜です。きききす──するのに目を開けていなさいだなんて。
と思ったら。
『抜けたまつ毛が目頭の中にあります。今取るので目を開けたままでお願いします』
「ほ?」
沈黙。静寂。
時間軸が狂って悠久のときをめぐりめぐったかのような感覚に陥ってしまいました。次いでワタシは顔が真っ赤になってゆくのを直に感じました。
恥ずかしい。それで、ワタシはとんでもないバカでした。
スルシュがワタシなんかにレンアイカンジョウを抱くはずがないのです。
ただ、ワタシが空想でスルシュがきききす──してくれるものだとばかり思っていました。だから、ワタシはバカです。バカすぎて話になりません。
『取れました。あまり目を擦ってはいけません』
なんだか途端に心の中が空虚になった感じがして、目に風を受けたかのように、じんわりと涙がにじみ出てきてしまいました。そして、次には涙。今日は泣いてばかりです。
ワタシの様子を黙って見ていたスルシュが静かに言葉をつむぎます。
『アハカ』
「……っ、なに、スルシュ」
『私はアハカを裏切っていると思いますか』
のどがつまるような感覚と鼻がつんとするような感覚が同時に襲い、ワタシの目からはとめどなく流れる大粒のしずく。
「裏切ってないよ、スルシュは……っ。だって、最初からワタシのこと騙してないもん……」
『そうです。アハカは勘がいいですね。しかし、私はアハカのことを騙しているし、騙していません』
「なにそれわかんないよ……。スルシュの意地悪、ど畜生……」
『聞き捨てなりませんね』
ワタシはいつの間にかスルシュの体に抱きついてわんわん泣いてしまいました。スルシュはただ、ワタシのカラダを包み込んで頭を撫でてあやすだけです。
それがワタシにとって苦しくて、辛くて、堪えがたくてしょうがないのを、スルシュはわかってくれているのでしょうか。
ワタシはスルシュの腕の中で泣き続けるただの赤ん坊なのでしょうか。
スルシュにとってワタシは、何も知らず泣きわめく無辜の民なのでしょうか。
ワタシはなにもかもわからず、一晩中、声が枯れ果てるまで泣き続けました。