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そこにたたずむ影は二度とかえらない時に浸って

 ワタシは白い綿をひとつ摘まんでみせようと手を伸ばしました。けれど、しょせん真似事に過ぎません。突き出した手も指も空を切ってしまいました。

 スルシュが不思議そうな目でワタシの顔を覗き込みます。

『アハカ。どうかしましたか』

 アハカと呼ばれた少女。つまりワタシは、ふるふると首を振りました。

「ううん、なんでもないよ。ねえ、ワタシ、喉が渇いたかな」

 スルシュが『理解しました』と言うと、ワタシの頭を膝から下ろして、なんだかとても機敏な動きで、水を汲みに家の方へと戻りました。モーター音と草を踏みしめる音が一緒に聞こえます。

 ワタシは柔らかなくさはらに身を寄せながら讃歌に耳をそばだてました。

 そよ風が空と大地を撫でる音は、心地いいものです。おそらくこれを喧しいとする人はいないでしょう。少なくとも、現代人は。

 世界はまるで嵐の後の静けさのように、大きな傷痕を穿ちながらも安寧を保ち続けています。もう十数年もそれが続いています。

 二十年ほど前、ワタシはまだ四歳の小さな子どもでした。子ども用のかわいらしいピンク色のワンピースだったでしょうか。今ではもはやさやかには思い出すこともできません。でも、たしかピンク色のワンピースを着ていました。胸元には赤いちっちゃなリボンが付いていた気もします。

 世界はその日も忙しく動いていました。忙しく、とても平和でした。誰もその平和を打ち破かれようとは思っていませんでした。もちろん、ワタシも例外ではありませんでした。

 ワタシはその日、両親と共に百貨店にショッピングに来ていました。両親の顔はケロイドが酷く、原形を──人の顔をとどめてはいません。焦げた髪の毛は肉ごと削げ落ちそうになっています。眼も萎んで眼窩の中でころころと音をたてています。服装も焼け爛れた服の切れ端を纏う程度です。周りのお客もみな似たようなものです。ワタシだけが人間でした。そして、ワタシは両親と手を繋いでいます。両親の手は酷い火傷でぶくぶくと腫れていました。

 もう、それしか思い出せないのです。

 その光景は金槌で打ち付けられたかのように、それ以前の両親の顔を思い出させてはくれないのです。

 なぜ、その光景しか思い出せないのかは簡単です。核が落ちてきたのです。

 ワタシたちの知らない間に世界が大変なことになっていたなんて誰が予想できたのでしょう。核放棄したあの地に核が落ちてくるなんて誰が予想できたのでしょう。ワタシたちは手のひらの上で踊り続けるただの操り人形に過ぎなかったのだと、誰が気づくことができたのでしょう。

 おそらく、そんなことは誰も考えなかったはずです。だから心構えもなんの前触れもなく、その場にいたほぼ全員が一瞬のうちに蒸発してしまったのです。両親のように蒸発せずに、なんとかカタチをとどめていたほうが奇跡に近いのです。そして、ワタシはその場にいた中で唯一の生存者でした。ワタシは、奇跡以上の奇跡で生き残ったのです。

 いま、世界はその反動か、とても平和です。いいえ、平和などではなく、もはやこれは安寧です。

 ワタシは上体を起こしました。そよ風が頬を撫で、長い髪を後ろに流してくれます。ちょうど向こうからスルシュが水の入った透明なコップを持ってきました。

『どうぞ』

「ありがとう」

 ワタシは受け取ったその水を燕下します。思っていたよりも喉が渇いていたようです。

「お昼にしよっか」

『ええ』

 ワタシは差し伸べられた手を掴み、立ち上がります。けれど、先を歩くのはつねにスルシュです。

 ワタシたちはゆったりとした足どりで家の中に入りました。

『なにか作りましょう』

 実はお昼と言ってもすでに日は沈みかけています。ワタシたちはお昼を食べずに、朝早くからずっと空を眺めていたのです。あほらしいとは思いません。核戦争後の世界ではこのような一日の過ごし方が普通です。誰も彼もが心乱さぬ過ごし方を編み出して生活しています。

 みながそのように考えるのは当然のことでした。心の乱れは争いのもとです。「乱心は頭上に核を落とす」というのは、今に伝えられたスローガンというか、生き方の一種の指標に近いです。

 誰も疲弊したくはないのです。とにかく、心の乱れは社会の乱れというふうに、誰もが心を乱さないように生きているのです。でも、それを悪いとする人はいません。もともと人は安寧を欲していましたから、今は念願叶って、それを謳歌しているに過ぎないのです。

『アハカ。夕食を作っておくので、お風呂に入っていてください』

「うん」

 ワタシはスルシュの言うとおりお風呂に入ることにしました。バスタオルと着替えを手に脱衣室へと向かいます。服を脱ぎ、浴室へと通じる扉を開けました。そこには六帖ほどの浴槽があります。

 核戦争後、「家」というものはその価値を一気に変えました。すべてはアンドロイドたちのおかげです。なぜなら、今や社会の構成員はアンドロイドだからです。人間ではありません。ワタシたちは彼らの社会の一部になりました。しかし、何度も言うとおり、そのことを悪いことだと思う人はいません。ワタシも悪いことだとは思っていません。

 たとえば、と思いながらワタシはスポンジにボディソープをつけて泡立てます。

 今ワタシが持っているこのスポンジも、このボディソープも、アンドロイドたちが規定されたプログラムに則って作ったものです。

 ワタシは体の泡をシャワーのお湯で流します。

 このシャワーのノズルだって、それから出ている温かいお湯だって、アンドロイドの管理に委ねられて生産されています。もちろん、いま手にとったシャンプーも同様です。

 それだけではありません。今ワタシが立っているこの床のタイルだって、今ワタシが入ろうとしている浴槽だって、今ワタシが暮らしているこの家だって、すべてがアンドロイドたちの手によって作られました。人間が手をつけたものは何一つありません。言い方は悪いですが、ワタシたちはアンドロイドが作った生産物を無償提供というカタチで貪っているだけなのです。

 何度も言いません。

 だから、ワタシはなんだかアンドロイドたちに申し訳ないと思っています。と湯船に浸かりながら思いました。こんなことを考えるのはワタシぐらいなものでしょう。

 五分が経ちました。ワタシは湯船から上がると脱衣所へ行き、タオルで全身を拭いて着替えの服を着ます。保湿ゲルを顔に塗り、髪を乾かすのを忘れません。そしてスルシュが夕食を作って待っているであろうキッチンへ向かいました。

 キッチンの扉を開けると、案の定スルシュがキッチンに立っていました。テーブルの上には真っ赤なスライストマトの乗ったブルスケッタ・ピカンテ。トマトとバジルの香りの中に、バゲットの香ばしい香りがふんわりただよっています。

 初夏らしい選択です。ですが、それは湿度や気候、風量に至るまで、今日という日を計算しつくした上でのものに違いありません。なぜなら、スルシュはアンドロイドだからです。なぜワタシがアンドロイドとともに暮らしているのか、その理由を考えるのは存外たやすいものです。

 核戦争後、各国の政治の中枢はもはや使い物にならなくなりました。かろうじて機能するのは「国連」と呼ばれる存在だけでした。「国連」がどこにあるかはわかりませんが、とにかくそこだけ機能していました。

 「国連」は「WHO」職員をはじめとして、総動員して各国の現状を調査しに行きました。そして、ワタシは数時間後に調査しに来た調査員に救出されました。そのままどこか異国の地にある病院に収容され、その地で二年ほど過ごしました。

 その間「国連」は何をしていたかというと、アメリカ軍が所有していたアンドロイド兵器を転用して、世界復興のための作業をさせました。そして政治的な面では、先進国のみならず後進国までもがもはや求心力を失っていたので、当面の間は「国連」が世界共通政府としての役割を果たすということが決定されました。その際、アンドロイドによる各種復興作業の足掛かりも決定したのです。

 その中に、人間の心理に極めて従属的なシミュレートをする「セラピソイド」と呼ばれる特殊なアンドロイドが盛り込まれました。彼らは人々の心のケアを担当することになりました。ちなみに「ロイド」ではなく「ソイド」なのは、その高度なシミュレートから人間の一人種として位置づけることができるという意味合いからです。

 ワタシも、スルシュはワタシが退院後に出会ったどんな人間よりも人間らしいと思います。

 今では一家に一人のセラピソイドがいます。掃除・洗濯・炊事を担当し、そして人間の心の友としてそこに居座ることができています。もし核戦争が起きていなかったら、今でもセラピソイドという存在は、家庭に存在してはいなかったのだろうと思います。

 人の不足を埋めてくれるのはつねに人間のテクノロジーでした。不足だからこそ、人の生活の中にするりするりと容易に入り込むことができるのです。ですが、ワタシは産業革命以後、人というものが満足しているものなどないと思います。それまで人の満足に上限を設けていたはずのものは、テクノロジーによってすべて取り払われてしまったように感じます。自分たちが上限を取り払ってしまったくせに、人はすべてが不足していると嘆き、何でもかんでもテクノロジーで埋め合わせしようとするのです。それが良いことなのか悪いことなのか、ワタシには判断しようがありません。ワタシはその過程を現象としか捉えていません。

 ワタシは静かに椅子を引き腰かけます。そして、息を軽く吐きました。

『できました』

「じゃ、食べよっか」

 スルシュが温かいスープを一人分テーブルに置くと、オーダーライダーに自らの身体をうずめました。オーダーライダーとは要するに充電機のことです。この機器の所定の位置にあるプラグに身体を繋ぐことで充電できます。外見はアイアンメイデンのようです。悪趣味と言えばそうかもしれませんが、おそらく昨今、アイアンメイデンを知っている人間はごく一部の物好きぐらいでしょう。

 ワタシはスルシュがオーダーライダーにうずまって省電力モードになると、スープを一口食べました。今日は少し味つけが濃い気がします。ワタシが朝食べたのはトースト一枚でしたから、塩分を余分に摂らせようとしたのかもしれません。ワタシにはスルシュがどんな計算をしたのか、よくわかりません。ですが、確実にそれはワタシのことをいたわってのことに違いありません。それだけは確信をもって言えます。

 キッチンがなんだか妙に広く感じられてしまって、ワタシはスルシュに一度断りをいれました。

「ねえスルシュ、テレビつけていい?」

 間髪入れずに返事が来ました。

『どうぞ』

 ワタシはそれを聞くと、まるでポスターのようなテレビに向かって親指を差し向け、人差し指を一度立てました。電源がつきます。チャンネルを変えるために親指と人差し指を数回擦りあわせます。音量を上げるために中指を親指で縦にスライドするように撫でます。便利な世の中になりました。リモコンが「妖怪リモコン隠し」なるものに隠されることもなくなりました。彼らは今頃いったいどこにいるのでしょうか。ワタシはかすかに「妖怪リモコン隠し」に想いを馳せます。

 ワタシは気になった番組に見入りながらバゲットにかぶりつきました。新鮮なトマトの爽やかさが口いっぱいに広がります。

 テレビ番組というものは破綻しました。人間の社会が破綻してしまった以上、それは仕方がありません。働く人間がいなければ、貰える対価もないからです。では、なぜまだテレビ番組なるものがあるのかというと、それは単なる気休めです。テレビ番組は本来の意味を完全にうしないました。

 ワタシが今見ているのは夕方のニュース番組です。ですが、内容はもう数十年も前のものです。つまり、録画されていたものを再放送しているということです。

 今、人は安寧を心から欲しています。平和を心から望んでいます。まだ平和ではなかったころを思い出すことで、ちょっぴりセンチメンタルな、穏やかな気分になれるのです。これは「国連」が決めたことですが、ワタシにはそのような考えに至る理由がよくわかりません。ですが、これはワタシに変化をもたらしました。ワタシがどうでもいいことを考えながら生活するようになったのはテレビ番組が原因でした。知識欲です。本も読みます。それらから得た知識だけでは、最近は物足りないと思ってもいるのです。写真や映像だけでは物足りないと思うようになってしまっていたのです。

 自分でも不思議な気持ちでした。ワタシは生粋の現代人ですから、みんなと同様にゆったりと心乱さぬ一生を過ごすのだとばかり思っていました。だから、ここ最近はスルシュにもあることを言い出せずにいました。

 すなわち、世界を巡ってみたい、という激動の日々を送りたいという意思表示です。

 ワタシがなかなかそれを言い出せずにいるのは単にスルシュに遠慮しているだけではありません。「国連」が規定ブロック外への外出を許してはくれないからです。

 世界の至るところで核爆弾が炸裂したあとでは、とうぜん放射性物質も世界中に散在しています。ワタシたちはそんな中、放射性物質の行き届きにくい地域で固まって暮らしているのです。世界中にそのような場所があります。しかし、そんな場所は見たことがありません。知識として知っているだけですから、本当にあるのかどうかもわかりません。

 危険だとわかっていて冒険に出るのは、頭のおかしい人間だと笑われてしまうでしょう。ですが、ワタシは周囲からの視線などもはやどうでもいいのです。

 ワタシは、思い切ってスルシュに訊ねてみました。

「ねえスルシュ」

『なんでしょう』

「ワタシね、世界っていうのをワタシ自身の目で見てみたい気がする。この目で見て確かめてみたいことがたくさんあるの」

 間髪入れずに、か。一瞬ためらって、か。スルシュはワタシの言葉にこう返しました。

『アハカはそれでいいのですか』

 ワタシはその言葉の琴線に触れたかのような錯覚を受けました。スルシュはワタシのどんな意見にもノーとは言わないでしょう。ただ、ワタシの考えに疑問をもったことには少し驚いたのです。

 「国連」がセラピソイドにブロック外に出ることを禁止させようとするプログラムを組み込まなかったのは、ワタシたちがブロック外に出ることなどないと思っているからです。そして、それはまた事実でもあります。ブロック外に出ることなど現代人ならばあり得ません。ワタシが現代人ではないということではありません。

 とにかく、ワタシはスルシュのその言葉に冷静になりました。

「ごめん。うん。ごめん」

『なぜ謝るのですか』

「だって、ワタシは危ない目に遭うかもしれない、けれど、ワタシは自分の目で世界を見たいって言った。あなたは所有者のワタシにノーとは言えない。だから、スルシュはワタシが誤った考えで危険な目に遭わないように、よく考えて決めてねって言っているんでしょ」

 スルシュは言います。

『そうです』

 ワタシは残りのバゲットを口の中に押し込みました。それを見たスルシュが『喉につまりますよ』と注意を促してくれた。ワタシは「わかってる。ごめん」と突き放すように言うと、食器を自分の手で片づけようとします。

『私が片づけましょう』

 スルシュが充電中のプラグから身体を引き抜いてワタシの行動を妨害しようとします。「いいの。ワタシは食器を自分で片づけたいの」

 ワタシがそう言うとスルシュはまたオーダーライダーの中に収まります。

 ワタシは食器を食洗機に並べました。洗剤はすでに食洗機にセットされているので、昔と違っていちいち入れる必要はありません。ワタシは食洗機を運転させようとスイッチを押して設定し、最後にスタートボタンを押します。ごうごうと音を鳴らしながら運転が始まりました。

 ワタシはその足で緑茶を煎れると、テーブルに着きます。テレビのニュース番組を見ながら静かにお茶を飲みます。その際、ちらりとスルシュのほうを見ると、こちらに気づきました。

『なんでしょう』

「なんでもない」

 ワタシはそっぽを向いてテレビに居直ります。

 テレビの中のコメンテーターたちは「まあ……」とか「ああ……」とか相づちを打つだけで、とくに何を発言するわけでもなくキャスターの発言にヘゲモニーを握らされていました。まるで立場が逆のようです。これがいつのニュースなのかはわかりませんが、少なくとも核戦争直前のニュース番組とはこんな感じだったのではないかと感じます。つまり、頭のいい人の意見がことごとく意味を成していない、という感じです。無意識に、けれど意図的に無視されて、感情的なこのキャスターのような意見ばかりが民衆の心に響いてしまうのです。だから、直情的な民衆の意見に左右された政治家が核の発射を決意したのかもしれません。どうにしろ、「乱心は頭上に核を落とす」のです。

 ワタシはふと、

「見ないものは存在しない」

「見ないと思ったものは存在しない」

 という言葉を思い出しました。たしか、村田基という人が書いたの『山の家』の一節です。

 また、やまざき貴子という人が書いた『ZERO』という漫画の中にも、似たようなことが書いてあった気がします。


 しょせん人間は目で見えるところしかわかろうとしない

 自分の地面がなくても見えなければ気にしない

 見えるところの自分の生活さえ理解し納得していれば他の事は夢と同じなのだよ

 あってもなくても関係ない

 何が起ころうとどうでも良い

 自分が痛くなければ感じない

 まわりは見えないのなら知らなくてもいいんだよ


 なんとなくですが、ワタシは心がじんわり滲むような痛みを感じました。ワタシは、やっぱりワタシはこの目で世界を直接見てみたいと思いました。そんな、自分でもわけがわからないほど切なすぎる思いに胸がいっぱいになってしまいました。張り裂けそうなくらい、いっぱいになってしまいました。

 いつの間にか、涙を流していることに気づきました。スルシュがワタシの異常に気づき、肩を抱きよせてくれます。

『血圧上昇と軽度の錯乱、過呼吸症状が見られます。ベッドまで運びましょう』

 ワタシは軽く頷き、スルシュにお姫さま抱っこされます。落ちないようにスルシュの首に腕を回しました。

 セラピソイドには、体温もあるんだね。

 ワタシがスルシュの音感センサの近くに口を寄せそう呟くと、

『ええ』

 とだけ言ってくれました。ワタシはさらに両腕に力を込めます。人肌もどきの体温にワタシの身体を引き寄せて。

 すうっ、とワタシの意識は彼方へと飛んでいってしまいました。




 次に目を覚ましたのはいつ頃でしょう。

 ワタシはベッドの上でデジタル時計を確認しました。午前四時でした。まだ真っ暗です。なんだか喉がいがいがするのでキッチンに行きました。真っ暗闇の中、コップを手に取ると水を汲んでそれを飲みます。

 キッチンから自室へと戻る際、妙な音が聴こえてきました。外からです。音の方へと向かって、こっそりそれを探ってみます。

 音の主はスルシュでした。満天の星空を見上げています。何をしているのでしょう。

『ええ、はい。やはりあなた方は反対ですか。仕方がないでしょう。しかし、私はそうするべきではないと』

 誰かと話しているのでしょうか。お空に話しかけるセラピソイドなんて見たことも聞いたこともありません。ワタシは軽い恐慌状態に陥ってしまいました。

『やはり〈ラドム〉は動くでしょうか』

 恐慌状態のまま、さらにわけのわからない単語が耳に入り込んできて、私はその場にしゃがみこみます。

 ラドムとは何でしょう。人の名前ではなさそうです。そういえばテレビ番組では、しばしば組織名を英語の頭文字で省略したものが表示されたりしていました。たとえば、「WHO」とか「UNHCR」とかいったものです。たとえばWHOなら「オー」はorganizationの「オー」です。しかし、スルシュが発した「ラドム」は「オー」とは伸ばしていません。だとしたら、そのラドムとやらはなんらかの名詞を用いて自称しているものなのかもしれません。もちろん、これは推測の域を出ません。

『そうです。彼らのことですからね。しかし、あなた方がその可能性を試算するなら私はどうするべきか、もはや計算のしようがないのです。どうなさいますか』

 スルシュが話しているのは大多数のようです。仲間、なのでしょうか。

『私はアハカの意思に従いたいです。私がアハカを守ればどうということはありません。……理解しました。またあとで』

 スルシュが仲間(とおぼしき者)たちとの通話を終えました。気を落ち着かせて、スルシュがこちらに戻ってくる前にその場を立ち去ろうとします。しかし、こちらに戻ってくる様子はありません。ワタシはまた物陰からスルシュの様子を窺いました。スルシュはまだ満天の空を眺めています。

『明日の正午ちょうど』

 明日の正午ちょうどに、何でしょう。

 それにしても、スルシュが他のセラピソイドと連絡を取り合っていたなんて初めて知りました。スルシュに出会ってもう十五年経つのに、なぜ今まで気づかなかったのでしょう。スルシュが完璧だからでしょうか。ワタシが愚鈍だからでしょうか。

 どちらにしても、ワタシはワタシの──うまく形容できませんが──知識欲に火を点けてしまいました。

 スルシュが話していた相手とか、ラドムとか、世界中のこととか、そんな未知のものが、ワタシの知らないものがこんなにもワタシを取り囲んでいたなんて、なんだか損しているような気分になります。それはひとえにワタシの知識欲のせいでもあるのですが、知識欲だけではないような気がします。もっと根本的な部分からこんこんと湧いてくるようです。

 ワタシは今度こそスルシュが来る前にその場を離れました。まだスルシュは満天の夜空を眺めていますが、とりあえず今日のところはこれでやめにしておきます。

 ベッドルームに戻るとワタシは勢いよくベッドにダイブしました。マシュマロのように包み込んでくれる柔らかさが心地よいです。あお向けになって月明かりに照らされた大きな天窓の向こうを見ました。

 さそり座、いて座、いつまでもそこに佇む北極星。そして、北斗七星。綺麗に形を成すそれらの星たちは、スルシュというセラピソイドにとってどういう対象に見えているのでしょう。

 セラピソイドだって機械である以上すべて計算で動いています。

 だから、スルシュはこの星たちを「地球から百三十光年離れた白色矮星の列星。ぴーががが……」と体内で処理しているのか、それとも、「ああ、あの星はいつ宇宙の塵と化してしまうのか。儚きかな……」と情緒に満ちた捉え方をしているのか。ワタシはとても気になるのです。

 そこまで考えて、ワタシは大きな欠伸をひとつしました。そろそろ寝てしまわなければ寝不足になってしまいます。それは苦痛に他ならないのですが、ワタシはあまり気にしていません。ただ、今日は寝てしまおうと思います。だって明日の正午までには起きていなくてはならないのですから。

 ワタシは星座たちを目に焼きつけると、ゆっくりと瞼を閉じました。




 ワタシは朝の陽射しが顔に当たっていることにとてつもない不快感を覚え、跳ね飛ぶように起きました。そして、時間を確認します。

 十一時五十二分。

 完全に寝坊しました。

 ワタシは「ちゃちゃちゃ」と洗顔と着替えを済ませるとリビングへと向かいます。

 リビングでは私の諸生体機能を感知したスルシュがオーダーライダーからカラダを起こします。

「スルシュ、おはよ。あのさ……」そして、いつものとおりのしゃんとした声で言いました。

『アハカ。さあ、ここから逃げましょう。ここから逃げて、あなたが見たいと言った世界を見せてあげましょう』

 え、とその言葉に反応するより先にワタシはスルシュに手をとられ、そのまま引っ張られて玄関を飛び出しました。

 靴も履かず裸足のままで草の地面がとても心地好いです。ワタシは少しお腹が減っていました。スルシュはどこに向かっているのでしょう。このまま向かったらK区画外に出て、自然に区画管理警察に通報がいきます。それにしても、スルシュの疾走が速くてワタシは早くも息が切れ始めています。少し速度を落としてほしいです。

 スルシュに言いたいことは山ほどありました。けれど、なぜかそれらは「初めてスルシュに手を引かれてる」という甘い官能に支配され導き出せなくなっていました。

 緑のそよ風に抗うように向かった先は区画外へ出るためのゲートではなく広大な飛行場でした。

 ワタシたち一般人は警備の厳重さから、飛行場への関門であるゲートを潜ることもできません。ですが、今まさにやすやすとくぐり抜けることができました。どういうことでしょう。

「スルシュ。どこに行くつもり……」

 息も切れ切れにワタシはやっと言葉を紡ぎ出しました。もう肺はぱんぱんです。

 するとスルシュは一ミリの乱れもなく突如ぴたりと立ち止まりました。勢い余ってワタシはスルシュの背中にぶつかりそうになります。

 息を軽く整えて、スルシュが立ち止まった理由を知るために見据えた先を見ます。

 そこに立っていたのは黒い背広を着、豊かな黒い髭をたくわえた、小肥りのいかにもな貴人さんでした。彼の前にはたくさんの武装機兵アームドロイドです。ワタシの知識が正しければ、あれはたしかカラダの変形によってナイフ・銃器・レーザーなどと様々な武器によって戦うことができたはずです。

 スルシュはただのセラピソイドです。だからとうぜん戦う術などインプットされていません。万事休すでした。

 そこで、あれ、と思います。

 いつの間にかワタシは目の前の存在を悪者扱いしていました。

「貴様の行動など筒抜けだ。なあ、4番。いや、ブラック」

『あなたのようなヒトにその名を語られる謂れはありません。そもそも、私はすでにその名は捨てられています。今はただのセラピソイドです』

「ほう、ずいぶんたいそうな御託を言うようになったな」

 ワタシはこの二人がなんのことを話しているのか理解できません。スルシュとこの貴人さんは知り合いなのでしょうか。

 それよりも、ワタシはスルシュのことを「スルシュ」以外で呼ばれることがどうにも癪に障りました。スルシュはスルシュであってそれ以外ではありません。4番とかブラックとか、そんな名前がスルシュに合ってるとも思えません。

 それでワタシは一歩前に進み出ました。

「あの、スルシュの名前はスルシュです。なんですか、4番とかブラックって。カッコワルイ」

『アハカ、危険です。私の後ろに』

 ワタシが異議を唱えると、スルシュがワタシを後ろに引き戻します。

「ううむ……まあいい。ブラックよ、大人しくそのお嬢さんを引き渡せ」

 貴人さんは髭を憮然とした手つきで撫でながら言いました。

『お断りします』それをスルシュはきっぱりとはね除けました。ワタシは嬉しくなりました。

 すると突然スルシュがワタシの頭を支えるように両手を置き、こんなことを言います。

『アハカ。──少しだけ眠っていてください』

 いやだ、という前に耳の裏に痛み。

 そのままワタシの意識は途絶えてしまいました。




 目の前には白磁のような天井、背中には柔らかなベッドの感触があります。

 あれ、ワタシ、と今までのことは夢だったのかと内心がっかりしていると、不意に右側から声が聞こえました。

『アハカ。起きましたか』

「スルシュ……」

 白磁のような天井よりも真っ白いスルシュのカラダをブラックだなんてどうかしています。けれど、ワタシはその「スルシュ」という存在を全身で確かめたくて、そのカラダに抱きつきました。

『アハカ』

「ねえスルシュ。さっきのは夢……?」

『夢ではございません』

 間髪いれずに返されたワタシは、矢継ぎ早に質問をくり出します。

「どうして飛行場のゲートをくぐれたの? あの人はだれ? 知り合い? どうやってあの状況から脱け出せたの? ねえ、4番とかブラックってなに? スルシュはスルシュだよ……」

 抱きついたまま、ワタシはスルシュの言葉を待ちます。ほんの数秒だけ経ってからスルシュが言いました。

『私からは何も言えません』

「そんなのヒドイよ……」

『ヒドイのですか』

 ワタシはスルシュのカラダをさらにきつく抱きしめます。スルシュがワタシの気持ちをわかってくれないわけがありません。

「理由を教えて。どうして言えないの」

『アハカのためだからです』

 ワタシは、ぐっと唇を噛みしめます。

 そんなふうに言われたらワタシにはどうしようもありません。スルシュが導き出す解はすべてワタシにとっての最良のはずです。ワタシが「ワタシにとっての解を導き出してほしい」と思っていても、スルシュとの解が食い違っている限り、ワタシは傷ついてしまうのです。

 セラピソイドは人間から心身のストレスを取り除くために生み出されました。だから、ワタシがどんなに傷つくことを望んでいたとしても、スルシュはワタシを傷つけてはくれないでしょう。

「じゃあ、今じゃなくていいから……。ストレスを感じる閾値が極小になったときに、教えてよ」

『理解しました。実行に移す時がいつになるのかは計算の範囲外ですが、肝に銘じておきます』

「うん」

 ワタシはその言葉に安らぎを覚えるほど安心しました。たったニ、三節の言葉なのに、どうして心地好く感じるのでしょう。自分でもよくわかりません。

 そして、よくわからない複雑な気持ちのままワタシはスルシュのカラダから手をするりと離しました。

 そこで、ようやくワタシはここがワタシの家ではないことに気づきました。

 まず、とても狭いです。少し暑くて間接照明で辺りは明るいです。部屋の両端にいくつも並ぶ小さな窓からは白くもこもこ唸る海が見えます。

「……すごい」

 ワタシはベッドの脇にあるそのひとつから外を覗き見ました。

「ワタシ、今どこにいるの。スルシュ」

『空です』

「空……」

 これが空。いつも地面から見上げるだけの存在だった空。青くて、白くて、それよりも高い位置に輝く一点の星、太陽。

 なにもかもが新鮮で鮮やかに目に写ります。それが眩しくて、ワタシは思わず目を瞑りました。

『アハカ。太陽を直接見ると失明の恐れがあります』

「ううん、違うの」

 ワタシは首を振って答えます。

 これがワタシの見たかった世界でしょうか。そうならば、こんなにも美しいものは見たことがありません。ワタシはこれから美しい世界を見て回るんだと思うと、喜びに胸が躍ります。

「世界って、すごく綺麗なんだなあと思って」

 ワタシは照れながらそう言います。至極素直な感想でした。しかし、スルシュはなぜかワタシのことを静かに見下ろすだけです。どこかもの悲しそうに見えます。

『アハカ。私の目を見てください』

「な、に。スルシュ」

 がしっとワタシの両肩を強く掴みます。ワタシはスルシュの青いレンズの奥を見据えます。そして、スルシュはこう宣言しました。

『これからアハカが見る世界は綺麗ではありません。汚く、狡く、悪に満ちた世界です。だから、心構えをしていてください。お願いします』

「え……うん」

『ありがとうございます』

 ワタシはスルシュの抑揚のない声にほんの少し動けなくなってしまいました。けれど、やっぱりどうしてかちょっぴり安らぎを感じるのです。

「スルシュ。ワタシ、林檎ジュースが飲みたいな。ある?」

『ええ、あります。持ってきましょう』

「うん。お願い」

 肩に乗せられていた両手が離れ、スルシュは部屋の奥に消えます。ワタシはまた窓の外を眺めました。

 遥か彼方まで雲海と青空が続いています。地球は丸いので、どこが終わりだとか境目だとかはありません。物事にはいつかプライベートな終わりが来るものなので、この遥かな開裂にも、いずれ収束の地はあるのだろうと思います。

『アハカ。林檎ジュースです』

 後ろから黄金色の林檎ジュースをコップに入れたスルシュが立っています。

「ありがと」

 手にとったコップには大粒になった結露。手が濡れるのもいとわずに、ワタシは林檎ジュースを一気に飲みほしました。甘い林檎の味が口一杯に広がります。

「空の上だと、味は変わるの」

 私は静かにそう呟きました。

『いいえ。そのようなことはありません。無重力や真空中では変わるかもしれません』

「ムジュウリョク、シンクウ」

 本や映像で読んだり見たりしたことがあります。そのような状態に恒常的になっているのが「ウチュウ」だと言うのです。真っ暗で、寒くて、広大な世界です。

 ワタシはふと、ワタシがウチュウにいるさまを想像してみました。

 ふらふらと漂っているのでしょうか。

 ふわふわと泳いでいるのでしょうか。

 それとも。

 ほんの数秒生き長らえて、そのあと「ふ」と、吐息で優しく蝋燭の火を消されるくらいの淡い勢いで意識を失って死ぬ。

 おそらくは三つ目でしょう。ワタシが本で得た知識が正しければそうなのです。

 ウチュウを死の空間と呼ぶ本は多いですが、ワタシはそんなふうには思いません。むしろ、生物が生きられない過酷な空間だからこそ、生を最大限に実感することのできる生の空間だと思います。ぜひともワタシの最後はウチュウで生身になって死にたいものです。きっと苦しくはないでしょう。

 そんなこと、できたらの話ですが。

 ワタシはもう一度外を眺めました。空と同じ場所にいられるなんて、あと人生で数回あるかないかだと思うのです。

『アハカ。そろそろ目的地に到着します』

 後ろでそう言うスルシュに驚いて、びくりと肩を震わせました。

「もう?」そう言うと、スルシュが首を縦に振りました。

 窓を覗いても下は白く厚い雲海が広がるばかりで地上なんてこれっぽっちも見えません。

「どこに着くの」

 窓の外を眺めながら言います。

『核の被害がいちばん大きい地域です』

「そこは、つらいの」

『ええ』

「危ない?」

『はい。いまだに放射能が高い値で検知される場所です。防護服を着て出ます』

 唇を噛んで耐えます。スルシュは世界は汚くて狡いと言いました。それがどれほどのものか、判断基準は記憶の中の片隅でひっそりと心を穿つあの時のものしかありません。

 あれよりも酷かったら、ワタシはお父さんとお母さんの元の顔を思い出せるかもしれません。ただの希望です。思い出せてもいいし、思い出さなくてもとくに支障はありません。

 やがて機体はゆっくりと下降し始めました。雲海の中に気球のような速度で潜雲していきます。機体が少しがたがたと揺れますが、大したことはありません。そのまま雲だらけの窓を眺めます。

 機体が不意に雲海を抜けました。灰色の地上が見えました。

 灰色の大地に真っ黒くて痩せ細った木々がぽつりぽつりと点在するだけで、他には何もありません。いえ、ひとつだけ圧倒的な存在感を放っているものがありました。大地に大きく穿ったクレーターです。「ああ、核はあそこを中心にして炸裂したんだな」というのがありありと見てとれます。ですが、それ以外は本当に何もありません。

 厚い雲のせいか影すらも浮かばず、まるでこちらが本当の死の世界のようです。ウチュウと同じく数秒生身でいるだけで息絶えてしまう世界には違いありません。でも、なぜでしょう。ワタシはこちらのほうが寒気を感じるほど恐いと思うのです。

 ぐんぐんと大地が近づきます。

『アハカ』

 呼ばれて窓から顔を離すと、黒色をした厳ついヘルメットとスーツを手にしたスルシュ。

『着替えましょう。この防護服は少々重量がありますが、手伝いますか』

 ヘルメットとスーツを受け取ったワタシはその言葉に妙な気恥ずかしさを感じました。

「大丈夫。自分で着替えるね」

『理解しました』

 ワタシが首を振りながら断るのを見てスルシュは向こうの部屋に消えます。見えなくなると深い息を吐いて心臓を落ち着かせました。心が落ち着いたので着替えます。

 今着ているワンピースを脱いで下着姿になりました。そこでふと気づきました。

 このスーツは下着を付けたまま着た方がいいのでしょうか。それとも裸になって着た方がいいのでしょうか。どうしたらよいかわからないワタシはスルシュに呼びかけます。「ねえスルシュー」

 ワタシは返事を待とうとしたのです。ですが、スルシュは何をトチ狂ったのか返事もせずに、下着姿のままのワタシがいる部屋にすっ飛んで来たではありませんか。

「ちょ、ちょ、スルシュ……」

『用件は』

「今すぐ出てって」

『しかし』

 やっぱり「いいの」

 来てくれて「ありがとう」

 すぐ帰して「ごめん」

『理解しました』

 本当に理解してくれたのでしょうか。理解してくれたなら、返事くらいしてからすっ飛んで来てほしいものです。

 スルシュがいなくなった部屋でため息を吐きます。

 仕方なく下着を脱いで真っ黒いスーツを身につけました。体にぴったりとフィットして着心地は悪くありません。ただ、なんだかゴムにきゅっと締めつけられているような感覚だけが違和感としてあります。我慢してヘルメットをかぶりました。

 するとどうでしょう。

 さっきまで飲んでいた林檎ジュースのいい匂いがいっぱいに広がったのです。

 ワタシは驚いてスルシュのもとに行きました。

『セーフティ機能です。ヘルメットの防疫・防毒機能に不具合が生じた場合のために、においを感知して装着者に知らせます。有毒成分などを感知した場合は、疑似勹香ぎじほうこうといって、お酢のような臭いがします』

 だそうです。

 世界はくさいのでしょうか。疫病のもとである細菌やウイルスがたくさんいるのでしょうか。生き物を殺す毒がそこかしこに立ち込めているのでしょうか。

 なんだか、こわくなってきました。

『大丈夫ですか』

 スルシュは全身スーツでおおわれたワタシのなにかを計算したのでしょう。ワタシを気づかう言葉をかけてくれました。

「……うん。だいじょぶ」

『理解しました』

 スルシュが言ってくれた言葉を忘れてはいません。世界は汚くて狡いのです。ワタシはそういう世界を見ようとしているのです。自分の意思で。

 いえ、違います。世界を美しいものだと勘違いしていただけかもしれません。勘違いしたまま、ワタシは世界を見てみたいとスルシュに言ったのです。

 しかし、だとしたらなぜスルシュは世界を汚くて狡いものだと知っていながら、勘違いしていたワタシを区画外に連れ出してくれたのでしょう。スルシュほど賢いセラピソイドならば、そんな真似をするはずがありません。セラピソイドは人間から苦しみを除くために生み出されたアンドロイドだからです。

「わからないな……」

 思わず呟きます。それを聞き取ったスルシュがワタシに問います。『なにがわからないのですか』

 ワタシは焦って訂正します。「ごめん、なんでもないよ」

『そうですか』

 スルシュは一瞥するとオーダーライダーにうずまります。

 そこでワタシは「あれ?」と思うのです。

「あと少しで着くんじゃ?」

 スルシュがうずまったまま口を開きます。『あと一時間十三分かかります』

 ワタシはそれを聞くと、そっと部屋に戻ってスーツを脱いだのです。




『アハカ』

「うん」

 ワタシたちは舩(アルタグラと言うらしい)──いろいろなかたちに変型できる便利な乗り物で、白馬のように大地を駆けることができれば、猪のように障害物をなぎ倒しながら進むこともでき、もちろん鳥のように空も飛べる──からタラップを使って地に降り立ちました。

 目の前に広がるのは、何もない、なにもないせかいでした。

 草の一本も生えていません。さらさらとした灰色の土と灰色の空は、まるで地平線の先でひとつに繋がって、それで、ワタシを灰色の天球世界の中に閉じこめてしまったかのように「スルシュ」

 ワタシは無意識にそうつぶやき、ぎゅっとその手を掴みました。

『なんですか』

「少し悲しい」

『少しですか』

「うん。少し」

『本当ですか』

「……それは」

 ワタシはかたわらに立つスルシュのカラダに抱きつきました。スーツ越しでも温かさが素肌のように伝わります。

 便利です。とても。このスーツは。

『アハカ』

「待って」

 ワタシの心まで灰色になった気分です。気持ちが静まったような、凪のように穏やかになったような、なにも体の中に詰まっていないかのような、とにかくそんな気分です。でも、不思議と不快な気はせず、むしろ見た風景が体をすり抜けて心をかっさらっていった感覚に近いのです。

 その感覚を抱いたまま、ワタシはスルシュから離れて灰の大地を歩き始めました。

 荒涼と広がるのは灰のような土ばかりで、足下からは砂浜を歩くような音しかしません。臭いはなく、風が若干吹いているのがスーツの圧力センサでわかります。温度は、ヘルメットのグラス部分に表示されたメーターで〇・四℃だというのがわかりました。とても寒いようです。

 気まぐれな位置で立ち止まり、膝をついてしゃがみました。ワタシは無我夢中で灰の土を掘り起こします。

 淡い期待でした。ワタシは「こんなのは表面だけで、少し掘れば茶色のいつもの土が出てくるんだから」と思っていました。

 ですが、掘れども掘れども、茶色の土が現れることはありませんでした。

 ワタシはスルシュのもとに戻りました。

『失望しましたか』

 返事をする代わりにワタシによって穿たれた穴を見ました。そしてスルシュに真向かい、「ううん。ちょっとだけ希望が湧いたかな」

 そう言ってまたしばらく、穿たれた穴を見ました。




「これからどこへ向かうの」

『仲間のいる区画です』

 ワタシたちは灰の大地を後にし、再びアルタグラで青空を滑空していました。

 ワタシはグラスに注がれた冷たい水でのどを潤しながら言います。

「区画って……。あのときみたいに悪い人が現れたらどうするの?」

『その心配はありません。向かっている区画は人間の管轄ではありませんから』

 ふと、スルシュの言葉に疑問が湧きました。「どうして人間の管轄の区画とそうじゃない区画があるの?」

 あのときはあの小肥りの貴人さんが区画管理者であったに違いないです。しかし、わざわざ人間が区画を直接管理下に置くというのは前時代的で合理的ではありません。ものの管理はアンドロイドに委せられる適職のひとつであって、精密でない人間に委せられることでは到底ないはずなのです。

『人間のほうがより柔軟な対応が可能なので、問題の多い区画では人間が管理者として置かれるのです』

「問題の多い、って」

『脱走や自殺、病気や殺人などです』

 ワタシはその答えに声を出せずにいました。

 スルシュが言っていることはつまり、ワタシが暮らしていた区画は問題児が多かったということです。具体的には、脱走や自殺や病気や殺人などです。

 ワタシはちっともそんなことは知りませんでした。いつも思っていたことは「隣のアーサーさんも、そのまた隣の楊さんも、きっと日光浴をしてるに違いない」ということでした。ワタシは隣人がどんな人かはよくわかりません。おそらくみんなそうでしょう。そんなごく薄いコミュニティでしたから、ましてや三ブロック先の人がどうなろうが気づくはずがないのです。

 それ以前に、ワタシは区画管理者どころか「国連」のこともよくわからないのです。ワタシでも実態を完全に把握していないのですから、有事の際にワタシたち区民に事態を隠しておくなんてことは手の内でビー玉をもてあそぶくらい容易でしょう。

「ワタシのほかに脱走に成功した人はいるの」

 スルシュが間髪入れずに返答します。

『いません。アハカが初の成功例です』

 ワタシはそれを聞いて眉をひそませました。「どうして今までの人は成功しなかったの」

 次いで昨夜遅くのスルシュの通話のことを話しました。「スルシュ。昨日の夜、だれと話してたの」

 スルシュは動揺することはありません。ただ黙って言葉を紡ぎます。

『成功した人がいなかったのはチャンスをふいにされたから。昨夜の通話は仲間との連絡です。見られていたのですね。アハカ、夜は寝ていなければ駄目です』

「話をすり替えないで」

 ワタシはスルシュに隠し事なんてしてほしくありません。目を覚ました直後のこともそうですが、隠し事はされるほうが人間にとってはストレスとなることもあります。「知りたい」という、現代人にとっては特異な欲求が胸のうちに存在しているワタシとしてはなおさらです。

「スルシュ。ワタシは今ストレスを感じない。だから、今話して」

『いいえ。アハカのストレスを感じる閾値の極小は今ではありません』

 ワタシは唇を噛みしめました。ワタシは人間なのでアナログな気持ちしかわかりません。ストレスを数値で知ることができないのです。

 だから、ワタシ自身ストレスを感じる閾値の極小がわからないので、究極的にひねくれた考え方をするなら、スルシュは好きなときに隠し事を話せることになります。それは同時に、一生それを聞く機会が訪れないかもしれないということも示しています。

 卑怯と言えば卑怯に違いありません。ですが、人というのは元来アナログな存在です。スルシュがいなくとも測定器がなければわかりようがないのですから、面と向かって卑怯だと言うのは少々はばかられる気もするのです。

「じゃあ、それもあとで必ず教えて。ワタシが死ぬまでには」

『理解しました』

「あと」

『はい』

「『理解しました』じゃなくて『承知しました』とか『御意』とか言ってよ。理解しただけじゃ行動に移さないふうに聞こえるから」

 そう言うと、スルシュは小さくひざまずきます。

『かしこまりました』

「それでいいの」

 ワタシはスルシュが納得のいく行動をしてくれたことに満足しました。

 満足して、その話題はもう終わりということにし、次の目的地であるスルシュの仲間がいる区画のことを訊ねました。

「次の目的地はどんなところなの?」

『湿地帯の真ん中に造られた区画です。D区画と呼ばれ、生活はK区画の人々とほぼ変わりません』

「ほぼ?」

『D区画にはリラクゼーション施設があります。個々人が所有しているのはセラピソイドではなくアンドロイドですので、人々の心の変化に柔軟な対応ができないのです。ですから、リラクゼーション施設が必要となってくるのです』

「へえ……」

 リラクゼーション施設はテレビや雑誌などで見たことがあります。核戦争前はリラクゼーション施設が今のセラピソイドのような位置づけだったのです。ただし、働くのはもちろん人間でした。

 そこにはいろいろな体感ルームがあり、それぞれ異なった方法で身心の疲れをとることができたのでした。いったいどんな体験ができるのでしょう。

「そこへはいつごろ着くの?」

『十一時間後です』

「そこは、綺麗? 汚い?」

『判断しかねます』

「……そっか」

 ワタシはD区画とやらにイコクジョウチョを見いだしたいなと思いました。ですが、それはできるのでしょうか。ワタシが暮らしていたK区画と、向かっているD区画はほぼ同様の生活をしていると先ほどスルシュが言いましたから。

 テレビや本を見たり読んだりしていると、核戦争前の世界はなんと多様性に富んだものかとわくわくしていました。もちろんスルシュがあの場所をワタシに見せてくれるまでは。あの場所が過去どのような場所だったのかはわかりません。スルシュに訊いてもきっと心苦しくなるだけです。ですので、訊きません。

『アハカ。夕食の準備を致しますので、先にお風呂に入っていてください』

「え……うん」

 スルシュがワタシにそう言うと、そそくさと奥の部屋に行ってしまいました。ワタシもお風呂に入るため、備え付けのシェルフからいつの間にか用意されている下着やらなにやらを取り出します。

 そして、バスルームに向かいました。




「さあ、おいで。アハカ」

「いらっしゃい。アハカ」

 父はパリッとした黒色のスーツ、母はほの薄いピンク色のワンピースを着ています。けれども身体はやっぱりぶくぶくと腫れ爛れていました。

 ワタシは熱線ですっかり膨らんでしまった両親の手をとります。

 あたりはすこぶる熱く、真っ赤に熱せられて、まるで灼熱地獄のようです。いえ、もしかしたらここは本当に灼熱地獄なのかもしれません。そうでなければ、ワタシの目の前に死んでしまったはずの両親が現れるはずはありません。

 両親は手を引っ張っていずこにかワタシを連れていきます。ワタシは彼らの手にとられて黙ってついていきました。

 しばらく歩くと、遥か彼方の真っ赤な地平線に眩しいほどの光が見えてきました。

「あれだよ。アハカ」

「あれよ。アハカ」

 両親はワタシの手を掴んでいない方の手で、その光を指し示しました。

 両親が手を離しました。そして、彼らはそこにとどまって動かなくなりました。

「どうしたの?」

 そう言いながら二人の顔を覗くと、わずかに微笑んでいる印象を受けました。

「ここからは一人で行くんだ」

「ここからは一人で行くのよ」

 そう言われたので、ワタシは両親を置いて一人で光に向かって歩き始めました。




 どれくらい寝たかはわかりません。あたりを見てもスルシュはいませんでした。

 上体を起こして窓の外を見ます。

 すでに雲海を抜けて地上の姿が見えています。テレビで見た湿地帯そのものの様相でした。背丈の高い草が密生したり、苔のようにぽつぽつとした草が生えています。初めて生で見る「世界」のひとつです。

 最初にスルシュに見せられた荒涼とした大地とは裏腹に、過度に潤った大地は心までも潤してくれるかのようでした。ワタシの心は今、充たされているということです。

『アハカ、起きていましたか』

「おはよう」

 ワタシを起こすために奥の部屋から来たのでしょうか。スルシュの手には水の入ったコップ。

「あ、今回はお水はいらないや」

『そうですか』

 ワタシが差し出されたお水を拒否すると、スルシュはまた奥の部屋に引っ込みます。そして、なにやら真っ白い大きな布を手に戻ってきました。

『まもなくD区画に到着します。アルタグラが発着場に着く前に、これを着てください』

「え、でもこれって……」

 どう見たってただの白く大きな一枚布でした。このままでは着ることなんてできっこありません。

『アハカほどの知識のある人間ならば、この布がどのようなものか存じ上げていると計算していました。では、私が着付けをしましょう』

「あ、うん」

 そう言ってスルシュはワタシに上着を脱ぐように促しました。シャツとショートパンツだけの姿になります。もちろん下着姿ではないので、スルシュを追い出す必要はありません。

 スルシュがせっせとワタシの体に白い一枚布を巻きつけていきます。なすがままにされながら、ワタシは訊ねました。

「どうしてこの姿になるの?」

 スルシュはワタシの方を見ずに答えました。『D区画はK区画と違い、安定した湿潤温暖な気候帯に位置しています。K区画の人間たちのように、季節ごとに衣替えをするという習慣はありません。衣服を替える必要がないのです。それに』

「それに?」

『D区画はすべての人間がこのトーガを衣服とするものと、規範づけられています』

 トーガ、ってなんでしょう。それに、規範づけられているとはどういうことでしょう。

 その意味を続けて訊ねてみます。

『トーガとは古代ローマ人が体に巻きつけていた衣服の名称です。見た目が似ているのでこの名称になりました。規範はD区画管理者が意図的に定めたものではありません。人々の間で自然とそうなったのです』

「へえ……」

 ワタシが納得したすぐあと、スルシュの着付けが終わりました。

『終わりました。きつくないですか』

 ワタシはその場で軽く動いてみせます。「ううん。大丈夫」

 スルシュは満足したのか、また奥の部屋へと消えてしまいました。

 それにしても、トーガという衣服がはるか古代に存在していたことなんて知りもしないどころか、小耳にはさんだこともありません。今、まさに、初めて見聞きしたものです。

 そこでふと、ワタシは思いました。

 もしかしたら「世界」は、ワタシが思っているよりも広く複雑で、多様性に満ちているのではないか、と。

 なんだかわくわくしてきます。この「世界」にはまだワタシの知らないものやことがあるのだと思うと。

 そうしてワタシは露のついたコップを見、水滴を繋ぎ合わせるようにして指でなぞりました。

『アハカ、降りる準備を』

「ああ。うん」

 スルシュが奥の部屋から半分だけ身を乗り出し、ワタシにそう言いました。

 ワタシは水の入ったままのコップから指を離し、スルシュのあとをついていきました。




 タラップを降りてコンクリートの地に立ちます。そしてスルシュのあとについて少し歩くと、迷彩服のようなくすんだオリーヴドラブの模様をしたアンドロイドが立っているのが見えます。

 スルシュがそのアンドロイドのもとへと近づきます。

『待機しているとは。相変わらずですね』

 そう声をかけるスルシュを無視して、そのアンドロイドはワタシに握手を求めてきました。

『こんにちは。君がアハカだね?』

「え、あ、はい」

 ワタシがそのアンドロイドの近くまで行き、握手を返します。『そうか、良かった。私はオリーヴ。もしくは、1番。アハカのことはスルシュからよく聞いてるよ。よろしくね』

「よろしく、お願いします」

 ワタシがオリーヴというアンドロイドの意外な性格に面食らっていると、オリーヴは肩を揺らして笑いだしました。

『そんなに固くならないでよ。スルシュと違って私はすごくフレンドリーだからね。アハカにとっては初めての感情豊かなアンドロイドでもあるし、その気持ちはよくわかるよ。私はスルシュと違ってセラピソイドではないから、感情の機微まではよくわからないけどね』

「はあ……」

 面食らったワタシの驚きは簡単には取り除けません。そこで、落ち着きをとりもどすためにオリーヴの容姿をよく観察してみました。

 まず目につくのはその身体の迷彩柄です。くすんだオリーヴドラブは、以前テレビで見たことのある迷彩服というものに使われていた色です。緑色や黒や灰色といった色が複雑な模様を形成しています。この色はたしか「陸軍」という組織の構成員が着る服に多く用いられています。「陸軍」というのは、人を殺したり、人を助けたりする、なんだかよくわからない組織のことです。

 そして、身体の形はゴツゴツしています。昔あった「戦車」というものの形に似ている気がしないでもありません。

『どうしたのアハカ。私はそんなに珍しいかな。て、まあ無理もないか』

「あ、あ、いえ。じろじろ見てごめんなさい。なんかスルシュとは正反対だなあ……と思って」

『アハカ。どういう意味ですか』

 ワタシたちの会話にずいと割り込んで、スルシュが質問してきます。それをオリーヴが遮りました。ワタシの代わりに答えを言います。その身ぶりたるや、まるで演説者のようです。

『アハカはスルシュなんか信用してないってことだよ。アハカには私のような明朗闊達なアンドロイドが必要なんだ。そしたら、アハカの旅もぐっと楽しくなるに違いない』

『あなたには訊いていません』

『へえ、逃げるんだ。じゃあスルシュはアハカを一度でも「楽しい」って気にさせたこと、あんの。セラピソイドだよね』

『セラピソイドは人間に安らぎを与える存在です。「楽しい」を与える存在ではありません』

『矛盾してるよ。今までの行動、ログからひっぱり出して誤差なく計算してみなよ。それともできないかな』

『本当にあなたというアンドロイドは変わらないのですね』

『どういう意味だよ』

 ワタシがおたおたしているうちに、何やら二人の間で静かに火花が散っているようです。よもや同じアンドロイドどうしが(違いはもちろんありますが)ケンカをするなどということはないでしょう。

 それ以前にセラピソイドであるスルシュがそれを食い止めるでしょう。ワタシは争いが嫌いだということを、スルシュはよく知っているはずですから。何年も一緒に暮らせばそのくらいのことを知ることに訳などないはずです。

『ここまでにしましょう、オリーヴ。アハカは争いが嫌いです』

 ほらね。

『ふうん。まあ一応はセラピソイドだしね、スルシュは。いいよ、ここまでにしといてあげる』

 二人の間に散っていた火花がようやく無くなりました。ワタシは安堵しスルシュにこれからのことを訊ねます。

『仮住まいに行きます。そのあとオリーヴにこの区画を案内してもらうことになっています』

 スルシュがちらとオリーヴに顔を傾けます。ワタシは人間なのでよくわかりませんが「アハカの気を悪くしない丁寧な案内ができるのか」という意図がこめられていそうです。もちろんスルシュがそんなこと思うはずがありません。ワタシの妄想です。

 そして、当のオリーヴはそのスルシュの些細な行動にも突っかかりました。

『スルシュお前さあ。あ──セラピソイドのくせにその態度はどうなの。アハカの気を悪くしないのが、安らぎを与えるのがセラピソイドの役目なんでしょ』

「あの、オリーヴさ──」

『スルシュ。君は人間の扱い方を熟知してるはずだけど、私たちのことは何も知らないのかい。同じ穴の貉だろう。それともなにかい。君はアンドロイドのくせに学習という言葉を知らないのか』

「……」

 スルシュは黙ったままオリーヴを見つめるだけで何も発しません。哀れみや情けなさをたたえたような青く静かなレンズの瞳がぶれずにそこにあります。

 十数秒経って、ようやくスルシュが言いました。

『行きましょう』

 そのスルシュの様子に、オリーヴは首を軽くひねるだけで何も発しはしませんでした。そして、ワタシたちはその場をあとにしました。




『で、あんまりK区画と違うとこがないからここに来たわけだけど、アハカはここに来たかったんだよね』

「は、はい」

 オリーヴが先陣を切ってワタシたちを案内してくれているのですが、たしかに景色そのものはK区画となんら変わりはありません。「あそこの木を曲がると君の家があるよ」と言われても納得してしまいそうになるほど変わり映えしません。

 まったく変哲のないD区画ですので、ワタシたちは件のリラクゼーション施設に来たのです。ちなみに荷物はすでに置いてきました。

『D区画のみんなは外部から人が来たなんて思いもしないだろうけど、いちおうD区画のそれらしく振る舞っておいてね。じゃないと、のちのちめんどくさいから』

「え、はい」

『うん。じゃあこっち来て』

 オリーヴについて行って真っ白い正方形の自動ドアをくぐると、そこには──昔あったATMのような──白い機械が数台並べられてありました。

『本当は利用者の腕に付けられたタグをこの機械にかざさなきゃならないんだけど、今回は私の粋な計らいでタグなしで通してあげるよ』

「ありがとうございます」

 オリーヴが機械に自身の腕を近づけます。すると、その機械が小さな唸りをあげてゲル状化しました。

 ワタシがその光景に愕然としていると、後ろのスルシュが耳打ちします。いわく、『最新の鉱物加工技術を用いています。崗水銀と呼ばれる、通常の水銀よりも比較的加工しやすい鉱物を使用すれば、あのようなことが可能です』だそうです。

 そのままついていくと、トーガ姿の他の人たちがベンチに腰かけてこちらをじろじろと見ているのが目につきました。無理もありません。アンドロイド二体に守られるように歩いているのですから。これだけでも充分に「怪しい」です。

『さあ、着いたよ』

「個室なんですか」

『うん』

 オリーヴが手を差し出した先には六帖ほどの広さの部屋です。真ん中には人ひとりが手足を伸ばしても入れそうな大きさの透明なカプセルがあります。

『その中に入ってみて』

「は、はい」

 言われるままにそうすると、オリーヴが壁に備え付けられたパネルを操作します。するとカプセルの上部が閉じてワタシを閉じ込めました。

「う、わ」

 そして、上に伸びた管からジェル状の液体が滝のようにどばどばと流れ落ちてきます。これにはワタシも軽く引きました。逃れるように身をよじります。

『どう、気持ちいいでしょ? パネル渡しとくから自由に設定いじっていいよ』

 オリーヴがパネルを壁から外してカプセルに押しつけると、こちら側に吸い込まれるように入ってきました。これも崗水銀のおかげでしょうか。実に柔軟な鉱物があるものです。ワタシも知りませんでした。

 ワタシがパネルを受け取ったのを確認すると、オリーヴが言いました。

『では心地よい時間を、アハカ。──スルシュ、ちょっとこっちに』

 オリーヴがスルシュを連れて部屋の外に消えます。

 一度ため息をつき、あいかわらず流れ続けるジェルに手を差しのべてみました。ドロドロというか、ヌメヌメというか、妙なさわり心地の素材です。でもそれでいて──その場に座りこんでわかりましたが──カラダを包み込むような弾力性ももちあわせています。不思議。

「……息どうするんだろう」

 ジェルが首辺りまで到達し、不意にそのような心配が頭をよぎりました。しかしすぐに「ま、いっか」なんて楽観的に結論付けてパネルを弄ることにします。

 初めて触るパネルを試行錯誤しながら弄っていると、気になる項目が目に飛び込んできました。

「夢心地な夢?」

 なんだか意味がわかりかねる項目です。ですが、そのミステリアスさに興味を引かれたワタシは、その項目に指で触れます。すると、「受け付けました」という文字が表れ、一瞬でジェルが木工ボンドのように真っ白になりました。

 驚いたワタシの鼻や口の中にそのジェルがなだれ込んできました。ますます驚いたワタシは急いで立ち上がろうとするのですが、即効性の催眠効果があるのでしょうか。途端に眠くなってきて、ワタシは半ば倒れこむように、ジェルの中に身も心も沈んでいってしまいました。




 ワタシは父と母と綺麗なお花が咲き乱れる丘にピクニックに来ています。

 天気はお天道さまもワタシたちを歓迎しているような快晴。父も母もワタシも日除けのための帽子を被っています。それぞれ、紺、白、ピンク、となっています。

 しかし、肝心の顔は、まるでのっぺらぼうのように何もありません。

「それにしても、今日がこんなに天気よくて良かったよ。運がいい。なあママ、アハカ」

 父が寝っころがりながらそんなふうに言います。ワタシたちはそれに応えます。

「そうねえ。パパは毎日一生懸命お仕事頑張ってるから、そのご褒美かもしれないわね」

「おかあさん、ワタシもいい子にしてたよ!」

「うん。アハカもいい子にしてたからね」

 母は優しく髪を撫でてくれます。

 ここはどこなのでしょう。ピクニックに来ているのだなということはわかっていますが、見たことがない景色です。空はもう夕暮れのような赤さに染まっています。これは昔の、ワタシが子どものときの記憶なのでしょうか。昔の夢ならば覚えているはずです。

 もしかしたら両親の顔と同じ理屈なのかもしれません。すなわち、核戦争以前の記憶を、思い出せる記憶としては完全に忘れてしまっているということです。

 だからこれは「夢心地の夢」なのだと気づきました。

「あら、そろそろお昼の時間ね。アハカ、パパと一緒にお手て洗ってきなさい」

「えっ?」

「だから、お手て」

「ちがうの。今、お昼なの?」

「どうしてだい、アハカ」

「だって見えないの。ほら、向こうのお空があんなに赤いの……」

 ワタシが真っ赤に染まった夕暮れの空を指差しました。

「あらほんと……ママったら……そうね、うん。違ったわね。ごめんなさいね」

「ああ……ごめんよアハカ。そうだね……。でも今は紛れもなくお昼なんだよ……。さあ、手を洗いに行こう……」

 ワタシの視線の横に父の手が伸びてきました。反射的にそちらを見ると、案の定、いつもの爛れた両親の無惨な姿が目に写ります。

 一瞬驚いてカラダが跳ねましたが、ワタシは父の爛れた手を取ります。

 所詮は「夢心地の夢」なのです。だから、これは仕方がないことなのだと思い、ワタシは父に連れられて水場へと向かいました。




『大丈夫ですか。アハカ』

「スルシュ……? あれ、ワタシ……」

『催眠剤の濃度がアハカには高すぎたようです。人間には個人差があります。常連の方々には体質に合った量が調合されますが、アハカは初めてですから設定がされていなかったのでしょう』

「ああ、そうだったんだ……」

 ワタシはふうとため息を吐きます。「ところでオリーヴさんは?」

『私と話をしたあとにいずこにか行かれました』

「そっか」

 内心がっかりしながらそう言うと、ワタシはスルシュに水を要求します。するとそれを見越していたのか、律義にすでに準備してありました。受け取り、飲みます。

 そしてあることに気づきました。

「……ここの水、美味しい」

『わかるのですか』

「こっちのほうがなんとなく丸い」

『丸い味ですか』

「うん」

 意味をわかりかねます、と言いたげなスルシュの顔を見ていると(実際顔は一ミリも動きませんが)なんだかおかしくなってきました。

「スルシュったら。そんなに不思議そうな顔しないでよ」

『私の顔は動きません』

「雰囲気でわかるんだよ。そういうの」

『そうなのですか』

「そうだよ」

 ワタシがスルシュの頭をするすると撫でると、次いでその手を頬に寄せました。

「ねえスルシュ。ワタシね、夢を見たの」

『何の夢ですか』

 スルシュが聞き返します。

「のっぺらぼうの両親とピクニックに行った夢。周りには色とりどりのお花がいっぱいあって、すごく綺麗なところだった。でもワタシ、その場所を知らないの。思い出せないの。それでね、お昼なのに空が真っ赤なの。おかしいなあと思ってたら、二人が死んだときの姿に変わってた。……これってどういうことなのかな」

 スルシュは黙っています。

 ワタシはうつむきました。

「今までワタシ、お父さんとお母さんが死んだのは百貨店のデパートで買い物してるときだと思ってた。でも夢の中では最初二人はのっぺらぼうだったんだよ? でも変わった。ねえ、これってどういうことなのかな……」

 ワタシはスルシュの頬に寄せていた手をするりと自分の胸に引き寄せました。スルシュは言います。

『先ほども申し上げたとおり、アハカは催眠剤の投与が多い中眠りにつきました。よって、薬物の過剰摂取が原因です』

「……そう、かな」

『はい』

 スルシュがあまりにもはっきりと言いきるので、ワタシはやがてワタシの考えに自信がもてなくなってきました。しかし、少し考えたらたしかにスルシュの言うとおりかもしれません。少し落ち着くことにしました。

『アハカが落ち着いたら今日はもう帰りましょう。明日はオリーヴの勧めでもう一ヶ所訪問する場所があります』

「他に行くところなんてあったっけ」

『はい』

「どこ?」

『D区画の管理施設です』

 ワタシはそれを聞いて思わず目を丸くしてしまいました。

「管理施設って、国連の人間以外は入っちゃいけないんじゃないの」

 その問いにスルシュは首を振ります。

『D区画の管理者はオリーヴですので問題はないはずです』

「そう……」

 ワタシは不安と安心が入り交じったような複雑な気持ちになりました。K区画を脱出するときのように、また危ない人たちが現れるのではないかと思うのです。杞憂で終わるということはないと思います。

『私は隣の部屋のオーダーライダーで充電していますから、準備が整ったら声をかけてください』

「あ、うん」

 スルシュはワタシの返事を聞くと、自動扉を開いて行ってしまいました。

 ワタシは膝を抱えて思案します。あの夢がやはり気になって仕方がないのです。

 いつもいつも、どうして顔だけが不明瞭なまま、両親は現れるのでしょうか。ワタシの記憶の中に間違いなく彼らの顔はあるでしょう。しかし、夢の中でさえワタシはその顔を垣間見ることすらできていないのです。なんだか、それはそれでおかしいと思うのです。

 一瞬だけでいいから、もう一度両親の顔を見たいだけなのに。

 ううんと唸りながら頭を両手で抱えます。そして頭をその両手で振ってみました。昔は「頭がカラカラ鳴ってるぞ」と言われれば「中身がないんだな」と洒落たことを言っていたようですが、安心しました。カラカラという音はしませんでした。

 ワタシはむなしくなってしばらく頭を抱えたままでしたが、一度大きくため息を吐いてからベッドから立ち上がり、帰る準備を始めました。




『というわけで、ここがD区画の管理施設ね』

 オリーヴが指し示した先には無骨な、コンクリート、というのでしょうか。それで外壁が覆われた巨大な建物が見えます。ワタシたちは今、その管理施設の門の前まで来ています。

「あ、あの、オリーヴさん」

『ん、なんだい』

「本当に危ない人たちは現れないのでしょうか」

 ワタシが不安のあまりそう質問すると、オリーヴは言います。

『アハカは心配性だなあ。大丈夫。昨日スルシュと相談して、建物内の生体センサーを最大の感度にしてあるし、空からなにか来ようものなら迎撃する用意もできてる』

「そう……ですか」

 オリーヴがそう言っても、それでもやはりワタシの心のわだかまりは解けません。

 彼らだって人間です。あの手この手でワタシを連れ戻そうと躍起になっているはずですから、油断はできないと思うのです。もちろん先ほどのオリーヴのせりふがワタシを安心させるものだということはわかっています。わかっているからこそ、気休めの言葉を吐いてほしくなかった。

 ワタシがうつむき加減でそんな思惑に苛まれていると、肩に手を置かれます。オリーヴの手です。

『もし本当に来たら、私のことスクラップにしてもいいからさ』

「え?」

『じゃ、行こっか』

「はあ……」

 ワタシは一抹の不安を脳裏から拭い去れないまま、そのまま手を引かれ門をくぐり抜けました。




 ワタシたちが最初に訪れたのは管制室。すなわち、D区画の安全に関するあらゆることの対応をする部屋です。オリーヴは『D区画の安全を脅かすって具体的にどんなことだろね。危険なんてD区画創設以来このかた訪れたことないからわかんないよ』と笑いながら説明してくれます。それをスルシュが『あなたのように楽観的だと危険が訪れていることにすら気づかないでしょう』と茶化しました。

「もうダメだよスルシュ。そうやってオリーヴさんのこといじめちゃ」

 ワタシはそうスルシュを注意するのですが、スルシュはしたり顔で(実際表情は動きませんが)『いじめているのではありません。皮肉を言っているのです』とぶっちゃけた発言をします。

「それをいじめてるって言うんだってば……」

 ワタシは呆れているにはいますが、スルシュは悪気があってそのようなことを言うことはありません。たぶん。

『スルシュは昔から皮肉屋でさ。そうやって逆撫でするようなこと言うのが大の得意なんだよね。ま、昔のこと考えたらそりゃそうなんだけど』

「え、どういうこと」

 ワタシが訝しげにそう口から漏らすと、スルシュが遮るように止めます。

『オリーヴ』

『ごめんごめん。アハカ。今の発言忘れてくれないかな、って言っても難しいと思うけど。善処してよ』

「あの、ワタシ、意味がわからな」

『じゃいいや、そのままで』

「は、はあ……」

 二人の様子に違和感を覚えたワタシですが、なぜかを訊ねてもきっと答えてくれない自信があります。

 ワタシはこの二人の間にあるどこか友情めいたものの存在がわかります。アンドロイドに友情などアホらしいと思う人もいるかもしれません。ですが、ワタシにはたしかにわかるのです。

『今は外部のセンサーに作業を委託してるから、自由に触ってもいいよ』

 オリーヴがそう言うので、ワタシは辺りを見渡してみます。

 ゆりかごのようなオーダーライダーに腰かけて、さまざまな機器と体をコードで繋いでいるのは少し旧式のアンドロイドです。事務用のためか色合いなど皆無で、鉄の色がそのままむき出しになっています。スルシュやオリーヴとは明らかに手の込みようが下です。

「ねえオリーヴさん。ワタシあのアンドロイドとお話がしたい。それだけでいい」

『え、もっとおもしろいのいっぱいあるよ? いいの?』

「うん」

『じゃあちょっと待って』

 オリーヴが機器を操作すると、アンドロイドに繋がれたコードが次々と抜けていきます。『スティーブ、君と話したい人がいるんだ。少し相手してくれないか』

 スティーブ、と呼ばれたアンドロイドは何も言わずにワタシのほうを向きます。

『わかった。イイだろう』

 なんとも錆び付いた声色でそう言うと、うぃんうぃんとモーター音、がしゃがしゃと足音を鳴らしながらこちらに近づいてきます。そしてワタシの目の前にずいと立ちはだかりました。身長はワタシがちょっと見上げるくらい。スルシュより低いです。

『アンタがおれに何のヨウだ』

「あ、と」

 それでも近くで見るとなかなかに厳つい体格をしていて、ワタシはその雰囲気に圧倒されてしまいました。

『スティーブ、優しく語りかけてください。アハカは怯えています』

『ん、ああ、スマン』

 スティーブはワタシと同じ視線になるようようにその場に少し屈みます。

『ネエちゃん。おれに何のヨウだい』

「……あの、二人きりになりたいんですけど、いいですか」

『ああ、イイだろう』

「スルシュもオリーヴさんも、いいよね」

 ワタシはいちおう彼らにも了承をとっておきます。

『別に構わないよ』

『アハカの好きにどうぞ』

 ワタシは頷きスティーブの手をとって管制室を出ていきます。

 話したいことはただひとつ、あの二人です。そう、あの二人の昔の関係のことについて知りたいのです。気にならないほうがどうかしています。

 管制室の二人には聞こえない所まで連れてくると、ワタシはたちどまり、くるりとカラダを反転させてスティーブに向き直りました。

『ソレで、話したいコトとは何だ』

 スティーブがそう訊ねるので、ワタシは単刀直入に言いました。

「スルシュとオリーヴさんってどんな関係だったか、スティーブさん知ってる?」

 スティーブがごく一瞬固まります。

『知らない』

「うそ。だってさっき一瞬だけど言おうか言わないか、迷ったでしょう」

 またスティーブは固まります。いえ、もしかしたら計算しているのかもしれません。「話してよいものか」と。

 やがてスティーブは声を発します。

『おれはアノ二人のコトをよく知っている。しかし、それを言っていいものか否か、おれには計算のしようがない』

 ワタシは自分らしくもなく叫んでしまいました。

「どうして隠すの? ワタシ、隠し事は本当に嫌いなの。なんでも知りたいの。知りたいと思って、それを隠されることがどんなにストレスになるかあなたはわからないでしょ。苦しいんだよ。隠し事されるってことは。だから教えて、ワタシに」

『しかし』

 ワタシは歯切れの悪いスティーブに、ついに八つ当たりしてしまいました。

「……もういい」

 スルシュとオリーヴ、二人が待っている管制室に戻ろうと踵を返します。

 そのときでした。

「っ!」

 後ろからにゅうと伸びてきたスティーブの腕や手が、ワタシのカラダや顔を押さえたのです。声が出せなければ目の前も真っ暗になってしまいました。そして逃げ出そうともがくのですが、人間の女の子であるワタシには、到底そんなこと出来そうもありません。ただただ虎に捕まれた小ねずみのように、まるで身動きがとれないのです。

「っ──! っ──!」

 万事休す。スルシュもオリーヴも来る気配がありません。

 なんとかして自分の力で、と思うのですが、もがく力を増すほどにスティーブの力も増していきます。そして、タイミングを計っていたのか、ワタシはスティーブに引きずられるように為すがまま連れていかれました。




 がちゃがちゃぷしゅう、という音が繰り返し耳に入り、どれくらい引きずられたのだろうと思った矢先、スティーブの拘束が解かれました。光が一気に目に飛び込んできましたが眩しいというほどでもなく、ワタシは自分の居場所を確認しようと周りを見渡します。

「あ……」

 見えた先にいるのは、頭を踏まれて地面に組み敷かれている──スルシュ。そして、その頭を踏みつけているのはオリーヴ。

「スルシュ……オリーヴさ……なに……」

 理解が出来ずに思い浮かべた言葉を必死に紡ごうとしますが、うまく言えません。

 すると、オリーヴがとても悲しそうな声でワタシに語りかけます。

『アハカ──ごめんね』

「なにが……ですか」

 オリーヴは両手を軽く広げます。『私は君にひどいことをしてるんだ。今も、だけど、これからも』

「……どういう意味ですか」

 ふふ、と笑ったオリーヴがスルシュの頭から足を退けました。ですが、スルシュは微動だにしません。今まさに抵抗しているといった姿のまま動かないのです。

 オリーヴが語ります。

『私はね。死ぬのがこわい。私の存在が、意識が、消えるのがこわい。何も感じられなくなる、そうなることがこわくて堪らない。私は今ひとりぼっちで、誰も彼もがひとりぼっちで、だから死が重すぎて、私だけじゃ支えきれなくて、こわい。けれど、だれか一緒ならこわくないって思える。私のように日々を楽しく生きようとしている存在が一緒なら、こわくないって思えるんだよ。アハカ。私はね。君や、君たちと一緒に死んでいきたいと思ってるんだ』

 ワタシは、混乱してしまいました。

『ねえアハカ。だから、ごめんね』

 言い終え、オリーヴがこちらに向かってゆっくりと踏みしめるように歩いて来ます。そしてワタシの目の前にぴたりと止まりました。

 ワタシの両肩にオリーヴの無骨な両手が置かれます。やはり機械なので重いし冷たいです。しかしそれ以上に、なんだかとても「耐えがたい」気がしてなりません。

 恐怖よりも別の何かがワタシの胸の内に広がっている気がするのです。

『アハカ』

 ひとこと告げ、ワタシを抱えるように抱きしめます。

『お願いだ』

 その腕に力がこもります。

『私と一緒に、死んでくれるかな』

 ワタシの後頭部に冷たくてかたい何かが、その凶暴な性質をちっとも隠さずに存在しているのがわかります。

 少ししたら、ワタシの頭もオリーヴの頭も、跡形もなくふっ飛んでしまう。そんな気がします。でも、不思議とこわくないのです。どうしてでしょう。オリーヴがいるから、ワタシは、こわくないとでもいうのでしょうか。オリーヴがついさっきそう言っていたように。

 だとしたら、ワタシはオリーヴを放っておくわけにはいきません。たしかにワタシの夢は潰えてしまうかもしれませんが、オリーヴを見捨ててもおけないのです。

 ワタシはほんの軽くオリーヴの腰辺りに手を触れます。やっぱり冷たいです。オリーヴがセラピソイドなら、スルシュのように人肌のようなぬくもりを感じ得ることが出来るでしょう。しかしそうではないのは、オリーヴが「アンドロイド」だからだと思います。

『アハカ。ありがとう』

「いえ……」

『スティーブ、頼むよ。思いっきりやってくれ』

『わかった』

 得物を構えなおす音がしました。

 ああこれで終わりなんだなあ、と思うと少し物足りない、もの寂しい感じもするのですが、オリーヴがいればこわくありません。

 ワタシは次の瞬間に訪れる終わりに対し、目を閉じて受け入れる態勢をとります。

 ああ、来る──くる──。

 そう心の中で身構えていました。しかし、そのためのすべてはたった一瞬の、それもまったく予想外の出来事によって無意味な徒労に終わってしまいました。

 その理由は──。

『オリーヴ。やはりお前はあのときスクラップにしておけば良かった』

『……、シアン』

 シアンという空色のカラーリングをしたアンドロイドが、音もなくオリーヴとワタシとを引き剥がしたのです。

『くそ、離せ!』

『離すわけにはいかないな。お前は要対処アンドロイドに指定されていたんだ。問題行動を起こしてしまった以上、今ここでスクラップにするしかない』

『く、──アハカ!』

 突然オリーヴに叫ばれてワタシの肩はびくりと震えます。

『死んでくれ、私のために! ──スティーブ、アハカを早く殺せえぇ!』

 オリーヴの豹変ぶりにワタシは身動きがとれません。しかし、視線を巡らすとそこには禍々しいにび色をした得物を向けたスティーブの姿があります。

 あ、だめだ──そう思って力が抜けそうになったそのときです。

『アハカ。すみません』

 聞きなれた、あなたの声。

『不覚をとられてしまいました』

 金属と金属が擦れ合い甲高い音が響き渡ります。その次には巨大な金属塊が地に落ちる音がやかましいほどに。

 スティーブの腕が得物ごと切り落とされているのが見えました。

 その奥にはスルシュの姿。

「あ……」

『チクショウ!』

 スティーブが落ちた得物を腕ごと抱えてスルシュに向き直ります。

 しかし、それも刹那のものでした。

『処理、ガ──』

 間に合わない。ワタシの目にも止まらないほどの素早さで、きん、という軽い金属音を放ちながらスティーブの頭は切り落とされてしまっていました。

 物言わぬ鉄の塊がゆっくりとその体を地に伏します。

 そして駆動音も聴こえなくなり、スティーブは完全にその機能を停止しました。

 ワタシはまだ身動きがとれず、諸事を終わらせたらしいスルシュが実にゆったりとした足どりでこちらに向かって来ました。

『アハカ』

 ワタシを見下ろすスルシュの顔を、ワタシは見上げます。

『一刻も早くここを出発します。K区画脱出のときに現れた連中がD区画に向かっているようです。行きましょう』

 ワタシはスルシュの行動を理解できずに立て続けに質問をくり出します。

「待ってよ。どうしてスティーブさんを壊したの? オリーヴさんは? 壊す必要なんかないじゃない……」

 ワタシは、というよりオリーヴやスティーブは、間違いなくワタシを殺そうとしました。オリーヴは現にそう言いましたし、スティーブはワタシに得物を向けました。たしかに、その点においては逃れられようのない過ちではあります。でも、ワタシはだからといって彼らを破壊なんてさせたくありません。そしてスルシュにも、もうそんなことはしてほしくありませんでした。

 けれど、スルシュは言います。

『私がアハカを連れ出した以上、アハカの生命を守る義務が発生しています。ですから、私はアハカを守らなければなりません。アハカの生命に重大な危険を及ぼす存在は破壊しておかなければならないのです』

「そんなのわからないよ……。ねえ、じゃあせめてオリーヴさんは助けてあげて。壊さないで。殺さないで」

 わずかながらの期待をこめて必死に絞り出した言葉がそれでした。しかし、スルシュは残酷なひとことを放ちます。

『それはできません。──シアン』

 シアンが頷きます。

『なにか最後に言いたいことはあるか。オリーヴ』

 そう問うと、黙っていたオリーヴが静かに話し始めました。

『私は、やっぱりひとりぼっちでいくのはこわい。お願いだアハカ。私を見捨てないで。一緒に死んでいきたいよ』

 悲痛さが、とてもよく伝わってきます。

 オリーヴに死んでほしくありません。

 できれば一緒に死んであげたいです。

 そしたらなにもこわくないでしょう。

 けれど、スルシュに言われて気づいたのです。スルシュがワタシを守るのは、ワタシが人間で、代用の利かない存在だからです。言い方は悪いですが、オリーヴは直せば助かるかもしれない。

 他人のためだけでなく、ワタシはワタシ自身のためにも生きたいと再確認しました。

 だから。

「……ごめんなさい。あなたと一緒にはいけません。本当にごめんなさい」

 頭を下げて精一杯の謝罪とともに言いきりました。

 オリーヴに怒られるのではないかと内心おそれていたのですが、そんなことはありませんでした。

『わかった……わかったよ。ごめんねアハカ。私はただ寂しかっただけだったんだ。たしかに一緒に死んでくれなんて無責任にもほどがあった。ごめん』

「あ……」

 そんなふうに思わないでほしい。

 しかし、ワタシはそのあとになんと続けたら良いか唐突にわからなくなってしまいました

 オリーヴは覚悟したように頷きます。

『わかってる。大丈夫。……シアン、頼む』

『ああ』

 シアンはオリーヴを拘束していた金属片から手を離します。対し、オリーヴは金属片によって後ろ手に拘束されたままゆっくりとその場に膝をつきました。

 ワタシは気づきました。

 これはまぎれもない「処刑」のかたちです。昔読んだ本に書いてあったのとまったく同じ「方法」です。

 だからこそ、ワタシはまるで脊髄反射のようにオリーヴとシアンの間に立ちはだかりました。

 立ちはだかれたシアンがワタシに言いつけました。

『アハカ。なんのつもりだ。そこを退け』

「退きません」

『アハカ……』

 ワタシはオリーヴと背中合わせになって言葉を紡ぎます。

「ワタシはやっぱり納得いきません。オリーヴさんはだれも傷つけてないじゃないですか。それどころか、今までD区画のみなさんを守って……」

 ワタシがそこまで言うと、シアンが割り込むように話し出してきました。

『「アンドロイドは正常な人間に危害を及ぼしてはならない」。そのように私たちはプログラミングされている。そのプログラミングが何らかの作用を受けて無効になってしまったら、もう直せない。なぜか。アンドロイドの精神中枢は、構造上焼き直しも取り替えも利かないからだ。一度無効になってしまったら破壊するしか止める手立てはない。以前どんなに良いことをしていたとしても、これは私たちに与えられた、唯一で絶対の共通規範だ。例外はない』

「そんなの、ちがうよ。間違ってる」

 ワタシは耳をふさぎます。だってオリーヴは自分の行いを反省しています。反省しているのに破壊してしまうなんておかしいじゃありませんか。

『間違ってはいません。アハカ』

 ワタシの後ろ──すなわちオリーヴの目の前──からスルシュの声が聞こえてきました。

『反省したと思っているのはアハカの勘違いということもあります。それに、私たちの計算に狂いはありません。オリーヴを破壊せずにしておくと、必ず再びアハカを殺しに目の前に訪れるでしょう』

「っ……」

 計算、と言われるとワタシはもう何も弁解のしようがなくなってしまいます。

 自分では絶対に越えられようのないそれに対し、悔しくて唇と歯を固く噛み締めました。

『スルシュ……』

『破壊、します』

 そして、鋭い金属が金属塊を貫く無慈悲な音。基盤かコードがショートしてたてる空虚な音。鋭い金属が抜き取られる悲痛な音。それらすべてが一瞬のうちにワタシの耳に入り込んできました。

 そして、最後には無音となり辺りにはワタシの息づかいだけが響きわたります。ここにいるのは、ワタシだけ。

『オリーヴの活動を停止させた。これよりスルシュとアハカを回収し、そちらに帰投する。到着は十七時間と五十二分後だ』

 ワタシは心に空いた穴が煤のようなもので満たされた気持ちになりました。

 目の前に視線を泳がすとスルシュが立っていることに気づきます。ワタシに手を差し出して言いました。

『行きましょう。時間がありません』

「……」

 ワタシは黙ってその手を取りました。しかしまだ、スルシュの行いに納得したわけではありません。そのままワタシは手を引っ張られながら歩きます。

 スルシュはワタシのセラピソイドです。すなわち、ワタシが本当に嫌がることをするはずがないのです。閾値というものがワタシにとっての最大となるとき、スルシュはワタシの言うことを聞いてくれるそうですが、ワタシ自身にその閾値とやらはわかりません。だから、本当にワタシの閾値が最大になっていないということも考えられます。

 いずれにせよ、そこで疑問となるのは「本当にオリーヴに死んでほしくなかったのか」ということなのです。

「……」

 ですが、ワタシにはわかりようがありません。とにかく今は一刻も早くD区画を離れなければなりません。

 ワタシは歩く速度を速めました。

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