表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/5

第一部(4)

船での生活にも慣れたローレンス。

ある日、ライバル船との戦闘中に、海に落ちてしまう。

その時、ローレンスを助けたのは……。

 ローレンスは汗で濡れた前髪をかきあげた。


肉体労働という点では、商船も海賊船も変わらない。


濡れたロープを手に、マストの上に登って、重たい帆布を調節する。


この労働のつらさに海賊業をやめる人もいるらしいが、なるほど、これはきつい。


 ローレンスはマストからおりて、一息ついた。


太陽はすでに水平線のむこうに沈みかかって、海をオレンジ色に染めている。


「お疲れ」


 アンナが近寄ってきて、水をくれた。


そのアリエルも、さっきまでポンプを一時間近く押し続けていたため、少し疲れた顔をしている。


しかし、こんなものは序の口で、二人にはまだ別の仕事が待っている。


「それじゃあ、あたしはドクター・イヴォンのところに行ってくるね」


 アンナは手をひらひらと振りながら、階段をおりていった。


アンナは外科医助手〈ロブロリ・ボーイ〉という肩書を持っており、普段は雑務に加えて、船医であるドクター・イヴォンの手伝いをしている。


そして、海賊船に乗って二週間、ローレンスにも役割が与えられた。


海図を編纂し、読み解くことができるとわかると、ローレンスは“海の技術者”として認められた。


主な仕事は、操舵手の手伝いで、立場的にはアンナと似ている。


 ローレンスも濡れた手を拭いて、シルヴィオの部屋を訪ねた。


「入るよ」


 ローレンスがノックすると、すぐに返事があった。


海賊船の規律として、ドアに鍵をかけてはいけないことになっているので(隠しごとをしないためだが、隠しごとがどれだけ重大な罪かを知り、ローレンスは驚いた。レイモンドに聞いた話によると、仲間に隠れて財宝をくすねた乗組員は、びん一本の水と銃だけ与えられて、孤島に置き去りにしてしまうらしい。脅しではなく、本当にやってしまうのが海賊だ)、そのままドアノブを回して部屋に入った。


 テーブルの上には物が散らばっていた。


地球儀や羅針盤、アストロラーベ(天体観測儀)に砂時計、海図、分度器……。


ローレンスにとって、大切な仕事道具だ。


 ローレンスはシルヴィオの向かい側に座り、早速、ペンを手に取り、水先案内書を片手に作業にとりかかった。


「ずいぶん慣れてきたみたいじゃないか。口調もずいぶん柔らかくなった」


 地球儀にコンパスをあてながら、シルヴィオが言った。


滅多なことでは表情を動かさないシルヴィオだが、この時、少しだけ笑っているように見えた。


珍しいこともあるものだと、ローレンスは顔に出さずに驚く。


この二週間で、シルヴィオがどういう人間なのか、だいたいわかった。


もともと陽気な性格ではないようだが、彼は操舵手として乗組員をまとめるために、普段から平常心を心がけている。


シルヴィオが口を開けて笑うところを、ローレンスはまだ見たことがなかった。


「自分ではあんまりわからないけど、前より心が軽くなった気がするよ」


「そのうちお前も、あいつらに混じってバカをやるようになるさ」


「シルヴィオは? あなたがハメを外すところなんて、想像できないけど」


 シルヴィオはわずにかに首をかしげた。


「あんまりやらないな。だが、表情に出ないだけで、私だって浮かれることはある。

お前、私をいくつだと思っている?」


「うーん、三十歳前半?」


「……二十五だ」


「えっ、それは……ごめん」


 シルヴィオは小さく声を出して笑った。


今日は機嫌がいいのかもしれない。


「三十歳を超えて海賊を続けているやつは、滅多にいない。

うちの船長が珍しいんだ。普通、海賊になるのは十代の後半から二十代前半で、十年以上も海賊業を続けることはない」


「どうして?」


「海よりも陸のほうが、楽に生きられるからな。

海賊業で財産を蓄えたら、陸に戻って、どこかに家を建てる奴が多い。

つまらんが、潮時をわきまえるのは臆病とは違う」


 なるほど、とローレンスは相槌を打ち、さらにいくつか質問した後、二人は自分の作業にかかりきりになった。


しばらくの間、部屋の中は静寂が続いた。


作業の音や、時折聞こえてくる船員の足音以外には何も聞こえない、穏やかな時間だ。


 それが、突然の爆音で破られた。


ローレンスとシルヴィオは同時に立ち上がった。


船のすぐ近くに、大砲が撃ち込まれたのだ。


顔を見合わせ、海図を放り出して甲板にかけあがった。


すでにほとんどの船員が所定の位置についていた。


ローレンスは素早く四方を見渡し、一隻の船を見つけた。


海賊船だった。


「ちっ、また奴らか」


 シルヴィオが面倒臭そうに言った。


だが、どこか緊張感に欠ける。


舵を取るため、歩き出したシルヴィオとは離れて、ローレンスはアンナのそばに駆け寄った。


こちらも、短刀カトラスを抜いているが、のんきに布で磨いていた。


「ねえ、なんでそんなに落ち着いているんだい?

あの海賊船、大砲を打ってきたんだよね?」


「あそこは本気でかかってこないから、いいんだよ。

大砲は、訪問のベルを鳴らす感覚なんじゃないかな」


 ローレンスはいまいち理解できず、レイモンドとクロードの姿を探した。


すると、彼らは海賊船が近づいてくるのを、今か今かと待ちわびているようだった。


剣を引き抜いて、すでに戦闘態勢にはいっている。


しかし、顔は子どものように輝いていた。


ますます訳がわからず、ローレンスは二人に声をかけた。


「なんだか、みんな様子が違うんだけど?」


「あそこに見える海賊船は、〈ラッカー海賊団〉といって、俺たちのライバル船だ」


 クロードが楽しそうに答えた。


「ラッカー……〈難破させる者〉?」


「おう、あの船の連中は強いぜ。数々の海賊船を沈めてきた強者ぞろいだが、うちだけは倒せなかった。

それで、こうやって、時々ケンカを売りに来るんだが、どうやら気に入られたみたいでな。

命を狙ってくることはないから、練習試合と思っておけ」


 どうやら、敵ではないようだ。


とりあえず、ローレンスも武器を手に取った。


海賊の一員として、ローレンスは船長から二挺のピストルと二本の剣を与えられている。


ローレンスは肩にかけた吊革の端に二挺のピストルをつるし、剣を引き抜いた。


 やがて、海賊船がぎりぎりまで接近し、戦いが始まった。


そして、ローレンスはさっきの答えの意味を知った。


ラッカー海賊団は剣を手に殴りこんできたが、誰もピストルを持っていなかった。


 ローレンスのところにも、同い年くらいの少年が斬り込んできた。


「アンタ、新入りだな!」


 剣で攻撃を受け止め、力での押し合いになった。


顔を間近に寄せて、少年は引き絞るような声で言った。


「シルヴィオと同じタイプか」


「どういう意味?」


「必要以外、戦うのは好きじゃないだろう。

アンタには闘志が見えないぜ」


 その言葉に、なぜか胸が熱くなった。


今まで無意識のうちに抑えていた闘争心だとか熱い衝動だとかが、一気に噴出したようだった。


 ローレンスは目つきを変え、真剣に打ち合うことにした。


この二週間、レイモンドとクロードの両方に鍛えられたのだ。


負けたくないし、その成果を出し切りたい。


「いいぜ、その目! それでこそ海賊だ」


 少年は嬉しそうに笑った。


 そこから、周囲が注目するほど苛烈な打ち合いが始まった。


一瞬も息をつけないのに、ローレンスの胸から湧き上がるのは、歓喜の気持ちだった。


ローレンスははじめて、好敵手というものを見つけた。


そのことに、どうしようもないくらい闘志がわきあがって、剣を持つ手に力がこもる。


 一対一の斬り合いは、思いのほか長引いた。


〈ラッカー海賊団〉が乗りこんできたとき、すでに陽は沈んでいたが、今はもう暗く、完全に夜になっている。


 ローレンスと少年は互いに剣の切っ先に傷つき、所々血を流していた。


ローレンスが少年の頬に一筋の傷を作ったとき、少年がこれでとどめとばかりに、胸に飛び込んできた。


素早い動きに反応しきれず、ローレンスは思わず飛び退った。


 そのとき、誰かが叫んだ。


「危ない!」


 ローレンスが状況を理解するまえに、ローレンスの体は重力に従って落下していた。


後ろを確認しなかったのがいけなかったらしい。


ローレンスは頭からまっさかさまに、海に落ちてしまった。


 体が海面に叩きつけられ、鼻から海水を吸いこんでしまい、頭が混乱する。


ローレンスは海面に顔を出そうと、必死に手をばたつかせた。


だが、息がもたない。


急速に思考がにぶくなっていくのがわかる。


肩にかかった二挺のピストルと服が重りになって、ローレンスの体はどんどん沈んでいく。


ローレンスは肩にかけた吊革とブーツを脱ごうと、やっきになったが、焦れば焦るほど、指がうまく動かない。


 もうだめだと思ったとき、誰かの手が肩にかかった。


目が染みるので開けられないが、女の子の手だ。


(落ち着いて、ゆっくり息をして)


 耳元で、聞いたことのない声が囁いた。


そんなことをしたら死んでしまうとか、なんで海中で声が聞こえるんだ――と思う前に、ローレンスは言われた通りにしていた。


ゆっくりと、半信半疑で息を吸う。


すると、信じられないことに、息ができた。


だが、海中で長く目を開け続けたせいで、頭痛がする。


(目は、人間の目なのね)


 これは夢なのかと、ローレンスは自分の耳を疑った。


(ここから流されたとしたら、近くの無人島に着くわ。

あなたの船の航海士は、それを読んで、明日の朝にでも迎えに来てくれると思う。

その無人島まで、連れていってあげる)


 片方の腕が引っぱられ、ローレンスはされるがままになっていた。


これが現実なのか、夢なのかもわからない。


しかし、恐いとは思わなかった。


 ローレンスは少しだけ目を開けた。


そして、思わず目を見開いてしまった。


予想通り、自分の手を引いているのは少女だったが、彼女には、足の代わりに魚の尾があったのだ。


半人半魚、セイレーン、人魚……言い方はどれでもいい。


ローレンスは急に心臓がどきどきしてきた。


人魚は今も海賊や船乗りの間で信じられている。


しかし、最近の学会では、古くから人魚と呼ばれているものは、マナティーやアザラシの類だという説が一般的になっている。


それに対するローレンスの意見は、微妙だった。


後者のほうが説得力はあるとは思うが、人魚についての資料(なぜか、家の本棚にはこういった本がたくさんあった)を読んでいると、本当にいるのではないかと思うのだ。


 それが、今、目の前にいる。


ローレンスははやる心を抑えて、腕に触れている手に、自分の手を重ねた。


すると、それに応えるように、腕をつかむ手に力がこもった。


(もう少しよ。ほら!)


 突然、体が上昇して、海面に顔が出た。


ローレンスはずぶ濡れになったシャツを絞り、かがんで、そばにいる人魚をまじまじと見つめた。


「君、人魚?」


 少女はにこっと笑った。


長い黒髪が、水できらきらと光っている。


「どうしてぼくを助けたの?」


 少女はすっとローレンスの額に触れた。


正確に言うと、バンダナで隠した痣に。


「この痣……?」


 少女は何も話さない。


ローレンスは少女の藍色の目をのぞきこんだ。


「もしかして、陸じゃ話せない?」


 少女はこくりと頷いた。


これは残念だった。


海中で聞いた彼女の声は、この世のどんな楽器よりも心地よかったのに。


「でも、練習したら話せるようになるかもね。

声は出せる?」


「……あ」


 人魚は驚いたように喉を押さえた。


自分で試したことがなかったようだ。


「あんまり、海から出たことがない?」


「……う、ん」


「歌は? 人魚の言葉なら、陸でも話せるんじゃないかな」


 人魚はちょっと息を吸い、歌いだした。


ちゃんと声は出ているが、人間には出せない声だ。


喉の構造が違うのかもしれない。


 ローレンスは歌を聞いているうちに、眠たくなってきた。


 しまった、人魚の声には、催眠作用があったんだっけ……。


 ローレンスは必死に眠気と戦ったが、そのうち、意識が途切れた。



「おい、起きろ」


 その言葉とともに、体が抱き起こされた。


目をしばたかせると、レイモンドの顔が目の前にあった。


「レイモンド?」


「どこも怪我はないか?」


「うん。あれ、もう朝?」


 ローレンスはレイモンドの肩を借りて立ち上がった。


ローレンスは浜辺で眠っており、背中についた砂をアンナが払ってくれた。


「ごめんね、遅くなって」


「いや……それより、〈ラッカー〉の人たちは?」


「もう帰ったよ。カルヴィン……あんたと戦ってたやつは、むこうの船長に怒られてたけどね。

熱くなりすぎだって」


「それなら、今度会ったときに、謝っておかないとね。

熱くなってたのはお互いさまなんだから」


「それにしても、運が良かったな。

このお嬢ちゃんが、お前を助けてくれたんだぜ」


 レイモンドが親指で背後を指す。


つられて振り返ると、人魚の少女がいた。


だが、昨日とは違い、人間の足がある。


あれは夢だったのだろうか?


「声帯に問題があるようだな。

名前は言えるようだが。嬢ちゃん、もう一度、名前を教えてくれねーか」


「セ、シリア」


「だ、そうだ。ありがとうな、お嬢ちゃん。さて、船に戻るか」


「みんな心配してるよ」


 アンナの顔をみると、目の下にうっすらとくまができていた。


「ごめん」


「こういう時はありがとう、でいいのよ。心配してくれてありがとうって」


「うん。ありがとう。セシリアも、助けてくれてありがとう」


 ローレンスは感謝の気持ちをこめて、セシリアの頬をなでた。


すると、その腕にセシリアが抱きついてきた。


「え?」


 がんとして放そうとしない。


その様子を見て、レイモンドが大笑いをした。


「罪な男だな、ローレンス。ただ倒れていただけで、女を惚れさせちまうなんざ」


「そ、そういう訳じゃ……」


 ローレンスは戸惑って、セシリアを見た。


そこには、切実になにかを訴える目があった。


助けを求めている目だ。


「ぼくと一緒に来る?」


 思わずそう言うと、セシリアは必死に頷いた。


「でも、君の正体を隠しておくことはできないよ。

少なくとも、船長たちには話しておかないと」


 セシリアはびくりと肩をゆらしたが、ゆっくりと尋ねた。


「悪い人……じゃない?」


 それは、人によって意見が異なるだろう。


略奪行為については、ローレンスは一切口出ししないことにしているが、「良い人」の行動ではない。


しかし、ローレンスはファム・ファータル号の乗組員たちが悪人のようには思えなかった。


「悪い人なんかじゃないよ。それに、もし君が危なくなったら、ぼくが責任を取る」


 セシリアはほっと息をついた。


「おい、どうしたんだ?」


 レイモンドがローレンスの肩に手を置いた。


「船に乗りたいらしいんだ」


「うちは海賊船だぞ。それでもか?」


 さすがのレイモンドも驚いて、少し困惑気味だった。


「それと……この子は、人魚なんだ」


 レイモンドとアリエルは、怪訝そうにセシリアを見た。


二人とも、信じていないのだ。


「俺の目が間違ってないなら、人間の足が二本あるようだが」


 セシリアはそれを聞くと、海に向かって歩き出した。


「おい、お嬢さん、そこは深いぞ――」


 レイモンドが言い終わらないうちに、水しぶきとともにセシリアの姿が消えた。


「セシリア!」


 足でもすべらせたのか?


 ローレンスは慌てて駆け寄り、セシリアの脇に手を入れてひきあげた。


背後ではっと息を呑む音が聞こえた。


視線を下に向けると、昨日見たのと同じ、魚の尾があった。


「本当に人魚なんだ……」


 アンナが目を丸くしたまま、ぼうぜんとつぶやいた。




 船に戻ったあと、ローレンスは服を着替えた。


このあと、遅めの朝食をとったら、セシリアと一緒に船長室に行くことになっている。


ローレンスはセシリアがベッドの端に座り、物珍しそうに部屋を見回しているのを横目で見ていた。


 そうやって観察しているうちに、ローレンスは聞きたいことが山ほどあったのを思い出した。


ひとつは、初対面であるはずの彼女がバンダナの下の痣を知っていたこと、もうひとつは、ローレンスが水のなかで呼吸できたことだ。


ローレンスの聞き間違いでなければ、「目は人間の目なのね」と言われたような気がするし、そちらのほうも聞いておきたい。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ