第一部(4)
船での生活にも慣れたローレンス。
ある日、ライバル船との戦闘中に、海に落ちてしまう。
その時、ローレンスを助けたのは……。
ローレンスは汗で濡れた前髪をかきあげた。
肉体労働という点では、商船も海賊船も変わらない。
濡れたロープを手に、マストの上に登って、重たい帆布を調節する。
この労働のつらさに海賊業をやめる人もいるらしいが、なるほど、これはきつい。
ローレンスはマストからおりて、一息ついた。
太陽はすでに水平線のむこうに沈みかかって、海をオレンジ色に染めている。
「お疲れ」
アンナが近寄ってきて、水をくれた。
そのアリエルも、さっきまでポンプを一時間近く押し続けていたため、少し疲れた顔をしている。
しかし、こんなものは序の口で、二人にはまだ別の仕事が待っている。
「それじゃあ、あたしはドクター・イヴォンのところに行ってくるね」
アンナは手をひらひらと振りながら、階段をおりていった。
アンナは外科医助手〈ロブロリ・ボーイ〉という肩書を持っており、普段は雑務に加えて、船医であるドクター・イヴォンの手伝いをしている。
そして、海賊船に乗って二週間、ローレンスにも役割が与えられた。
海図を編纂し、読み解くことができるとわかると、ローレンスは“海の技術者”として認められた。
主な仕事は、操舵手の手伝いで、立場的にはアンナと似ている。
ローレンスも濡れた手を拭いて、シルヴィオの部屋を訪ねた。
「入るよ」
ローレンスがノックすると、すぐに返事があった。
海賊船の規律として、ドアに鍵をかけてはいけないことになっているので(隠しごとをしないためだが、隠しごとがどれだけ重大な罪かを知り、ローレンスは驚いた。レイモンドに聞いた話によると、仲間に隠れて財宝をくすねた乗組員は、びん一本の水と銃だけ与えられて、孤島に置き去りにしてしまうらしい。脅しではなく、本当にやってしまうのが海賊だ)、そのままドアノブを回して部屋に入った。
テーブルの上には物が散らばっていた。
地球儀や羅針盤、アストロラーベ(天体観測儀)に砂時計、海図、分度器……。
ローレンスにとって、大切な仕事道具だ。
ローレンスはシルヴィオの向かい側に座り、早速、ペンを手に取り、水先案内書を片手に作業にとりかかった。
「ずいぶん慣れてきたみたいじゃないか。口調もずいぶん柔らかくなった」
地球儀にコンパスをあてながら、シルヴィオが言った。
滅多なことでは表情を動かさないシルヴィオだが、この時、少しだけ笑っているように見えた。
珍しいこともあるものだと、ローレンスは顔に出さずに驚く。
この二週間で、シルヴィオがどういう人間なのか、だいたいわかった。
もともと陽気な性格ではないようだが、彼は操舵手として乗組員をまとめるために、普段から平常心を心がけている。
シルヴィオが口を開けて笑うところを、ローレンスはまだ見たことがなかった。
「自分ではあんまりわからないけど、前より心が軽くなった気がするよ」
「そのうちお前も、あいつらに混じってバカをやるようになるさ」
「シルヴィオは? あなたがハメを外すところなんて、想像できないけど」
シルヴィオはわずにかに首をかしげた。
「あんまりやらないな。だが、表情に出ないだけで、私だって浮かれることはある。
お前、私をいくつだと思っている?」
「うーん、三十歳前半?」
「……二十五だ」
「えっ、それは……ごめん」
シルヴィオは小さく声を出して笑った。
今日は機嫌がいいのかもしれない。
「三十歳を超えて海賊を続けているやつは、滅多にいない。
うちの船長が珍しいんだ。普通、海賊になるのは十代の後半から二十代前半で、十年以上も海賊業を続けることはない」
「どうして?」
「海よりも陸のほうが、楽に生きられるからな。
海賊業で財産を蓄えたら、陸に戻って、どこかに家を建てる奴が多い。
つまらんが、潮時をわきまえるのは臆病とは違う」
なるほど、とローレンスは相槌を打ち、さらにいくつか質問した後、二人は自分の作業にかかりきりになった。
しばらくの間、部屋の中は静寂が続いた。
作業の音や、時折聞こえてくる船員の足音以外には何も聞こえない、穏やかな時間だ。
それが、突然の爆音で破られた。
ローレンスとシルヴィオは同時に立ち上がった。
船のすぐ近くに、大砲が撃ち込まれたのだ。
顔を見合わせ、海図を放り出して甲板にかけあがった。
すでにほとんどの船員が所定の位置についていた。
ローレンスは素早く四方を見渡し、一隻の船を見つけた。
海賊船だった。
「ちっ、また奴らか」
シルヴィオが面倒臭そうに言った。
だが、どこか緊張感に欠ける。
舵を取るため、歩き出したシルヴィオとは離れて、ローレンスはアンナのそばに駆け寄った。
こちらも、短刀を抜いているが、のんきに布で磨いていた。
「ねえ、なんでそんなに落ち着いているんだい?
あの海賊船、大砲を打ってきたんだよね?」
「あそこは本気でかかってこないから、いいんだよ。
大砲は、訪問のベルを鳴らす感覚なんじゃないかな」
ローレンスはいまいち理解できず、レイモンドとクロードの姿を探した。
すると、彼らは海賊船が近づいてくるのを、今か今かと待ちわびているようだった。
剣を引き抜いて、すでに戦闘態勢にはいっている。
しかし、顔は子どものように輝いていた。
ますます訳がわからず、ローレンスは二人に声をかけた。
「なんだか、みんな様子が違うんだけど?」
「あそこに見える海賊船は、〈ラッカー海賊団〉といって、俺たちのライバル船だ」
クロードが楽しそうに答えた。
「ラッカー……〈難破させる者〉?」
「おう、あの船の連中は強いぜ。数々の海賊船を沈めてきた強者ぞろいだが、うちだけは倒せなかった。
それで、こうやって、時々ケンカを売りに来るんだが、どうやら気に入られたみたいでな。
命を狙ってくることはないから、練習試合と思っておけ」
どうやら、敵ではないようだ。
とりあえず、ローレンスも武器を手に取った。
海賊の一員として、ローレンスは船長から二挺のピストルと二本の剣を与えられている。
ローレンスは肩にかけた吊革の端に二挺のピストルをつるし、剣を引き抜いた。
やがて、海賊船がぎりぎりまで接近し、戦いが始まった。
そして、ローレンスはさっきの答えの意味を知った。
ラッカー海賊団は剣を手に殴りこんできたが、誰もピストルを持っていなかった。
ローレンスのところにも、同い年くらいの少年が斬り込んできた。
「アンタ、新入りだな!」
剣で攻撃を受け止め、力での押し合いになった。
顔を間近に寄せて、少年は引き絞るような声で言った。
「シルヴィオと同じタイプか」
「どういう意味?」
「必要以外、戦うのは好きじゃないだろう。
アンタには闘志が見えないぜ」
その言葉に、なぜか胸が熱くなった。
今まで無意識のうちに抑えていた闘争心だとか熱い衝動だとかが、一気に噴出したようだった。
ローレンスは目つきを変え、真剣に打ち合うことにした。
この二週間、レイモンドとクロードの両方に鍛えられたのだ。
負けたくないし、その成果を出し切りたい。
「いいぜ、その目! それでこそ海賊だ」
少年は嬉しそうに笑った。
そこから、周囲が注目するほど苛烈な打ち合いが始まった。
一瞬も息をつけないのに、ローレンスの胸から湧き上がるのは、歓喜の気持ちだった。
ローレンスははじめて、好敵手というものを見つけた。
そのことに、どうしようもないくらい闘志がわきあがって、剣を持つ手に力がこもる。
一対一の斬り合いは、思いのほか長引いた。
〈ラッカー海賊団〉が乗りこんできたとき、すでに陽は沈んでいたが、今はもう暗く、完全に夜になっている。
ローレンスと少年は互いに剣の切っ先に傷つき、所々血を流していた。
ローレンスが少年の頬に一筋の傷を作ったとき、少年がこれでとどめとばかりに、胸に飛び込んできた。
素早い動きに反応しきれず、ローレンスは思わず飛び退った。
そのとき、誰かが叫んだ。
「危ない!」
ローレンスが状況を理解するまえに、ローレンスの体は重力に従って落下していた。
後ろを確認しなかったのがいけなかったらしい。
ローレンスは頭からまっさかさまに、海に落ちてしまった。
体が海面に叩きつけられ、鼻から海水を吸いこんでしまい、頭が混乱する。
ローレンスは海面に顔を出そうと、必死に手をばたつかせた。
だが、息がもたない。
急速に思考がにぶくなっていくのがわかる。
肩にかかった二挺のピストルと服が重りになって、ローレンスの体はどんどん沈んでいく。
ローレンスは肩にかけた吊革とブーツを脱ごうと、やっきになったが、焦れば焦るほど、指がうまく動かない。
もうだめだと思ったとき、誰かの手が肩にかかった。
目が染みるので開けられないが、女の子の手だ。
(落ち着いて、ゆっくり息をして)
耳元で、聞いたことのない声が囁いた。
そんなことをしたら死んでしまうとか、なんで海中で声が聞こえるんだ――と思う前に、ローレンスは言われた通りにしていた。
ゆっくりと、半信半疑で息を吸う。
すると、信じられないことに、息ができた。
だが、海中で長く目を開け続けたせいで、頭痛がする。
(目は、人間の目なのね)
これは夢なのかと、ローレンスは自分の耳を疑った。
(ここから流されたとしたら、近くの無人島に着くわ。
あなたの船の航海士は、それを読んで、明日の朝にでも迎えに来てくれると思う。
その無人島まで、連れていってあげる)
片方の腕が引っぱられ、ローレンスはされるがままになっていた。
これが現実なのか、夢なのかもわからない。
しかし、恐いとは思わなかった。
ローレンスは少しだけ目を開けた。
そして、思わず目を見開いてしまった。
予想通り、自分の手を引いているのは少女だったが、彼女には、足の代わりに魚の尾があったのだ。
半人半魚、セイレーン、人魚……言い方はどれでもいい。
ローレンスは急に心臓がどきどきしてきた。
人魚は今も海賊や船乗りの間で信じられている。
しかし、最近の学会では、古くから人魚と呼ばれているものは、マナティーやアザラシの類だという説が一般的になっている。
それに対するローレンスの意見は、微妙だった。
後者のほうが説得力はあるとは思うが、人魚についての資料(なぜか、家の本棚にはこういった本がたくさんあった)を読んでいると、本当にいるのではないかと思うのだ。
それが、今、目の前にいる。
ローレンスははやる心を抑えて、腕に触れている手に、自分の手を重ねた。
すると、それに応えるように、腕をつかむ手に力がこもった。
(もう少しよ。ほら!)
突然、体が上昇して、海面に顔が出た。
ローレンスはずぶ濡れになったシャツを絞り、かがんで、そばにいる人魚をまじまじと見つめた。
「君、人魚?」
少女はにこっと笑った。
長い黒髪が、水できらきらと光っている。
「どうしてぼくを助けたの?」
少女はすっとローレンスの額に触れた。
正確に言うと、バンダナで隠した痣に。
「この痣……?」
少女は何も話さない。
ローレンスは少女の藍色の目をのぞきこんだ。
「もしかして、陸じゃ話せない?」
少女はこくりと頷いた。
これは残念だった。
海中で聞いた彼女の声は、この世のどんな楽器よりも心地よかったのに。
「でも、練習したら話せるようになるかもね。
声は出せる?」
「……あ」
人魚は驚いたように喉を押さえた。
自分で試したことがなかったようだ。
「あんまり、海から出たことがない?」
「……う、ん」
「歌は? 人魚の言葉なら、陸でも話せるんじゃないかな」
人魚はちょっと息を吸い、歌いだした。
ちゃんと声は出ているが、人間には出せない声だ。
喉の構造が違うのかもしれない。
ローレンスは歌を聞いているうちに、眠たくなってきた。
しまった、人魚の声には、催眠作用があったんだっけ……。
ローレンスは必死に眠気と戦ったが、そのうち、意識が途切れた。
「おい、起きろ」
その言葉とともに、体が抱き起こされた。
目をしばたかせると、レイモンドの顔が目の前にあった。
「レイモンド?」
「どこも怪我はないか?」
「うん。あれ、もう朝?」
ローレンスはレイモンドの肩を借りて立ち上がった。
ローレンスは浜辺で眠っており、背中についた砂をアンナが払ってくれた。
「ごめんね、遅くなって」
「いや……それより、〈ラッカー〉の人たちは?」
「もう帰ったよ。カルヴィン……あんたと戦ってたやつは、むこうの船長に怒られてたけどね。
熱くなりすぎだって」
「それなら、今度会ったときに、謝っておかないとね。
熱くなってたのはお互いさまなんだから」
「それにしても、運が良かったな。
このお嬢ちゃんが、お前を助けてくれたんだぜ」
レイモンドが親指で背後を指す。
つられて振り返ると、人魚の少女がいた。
だが、昨日とは違い、人間の足がある。
あれは夢だったのだろうか?
「声帯に問題があるようだな。
名前は言えるようだが。嬢ちゃん、もう一度、名前を教えてくれねーか」
「セ、シリア」
「だ、そうだ。ありがとうな、お嬢ちゃん。さて、船に戻るか」
「みんな心配してるよ」
アンナの顔をみると、目の下にうっすらとくまができていた。
「ごめん」
「こういう時はありがとう、でいいのよ。心配してくれてありがとうって」
「うん。ありがとう。セシリアも、助けてくれてありがとう」
ローレンスは感謝の気持ちをこめて、セシリアの頬をなでた。
すると、その腕にセシリアが抱きついてきた。
「え?」
がんとして放そうとしない。
その様子を見て、レイモンドが大笑いをした。
「罪な男だな、ローレンス。ただ倒れていただけで、女を惚れさせちまうなんざ」
「そ、そういう訳じゃ……」
ローレンスは戸惑って、セシリアを見た。
そこには、切実になにかを訴える目があった。
助けを求めている目だ。
「ぼくと一緒に来る?」
思わずそう言うと、セシリアは必死に頷いた。
「でも、君の正体を隠しておくことはできないよ。
少なくとも、船長たちには話しておかないと」
セシリアはびくりと肩をゆらしたが、ゆっくりと尋ねた。
「悪い人……じゃない?」
それは、人によって意見が異なるだろう。
略奪行為については、ローレンスは一切口出ししないことにしているが、「良い人」の行動ではない。
しかし、ローレンスはファム・ファータル号の乗組員たちが悪人のようには思えなかった。
「悪い人なんかじゃないよ。それに、もし君が危なくなったら、ぼくが責任を取る」
セシリアはほっと息をついた。
「おい、どうしたんだ?」
レイモンドがローレンスの肩に手を置いた。
「船に乗りたいらしいんだ」
「うちは海賊船だぞ。それでもか?」
さすがのレイモンドも驚いて、少し困惑気味だった。
「それと……この子は、人魚なんだ」
レイモンドとアリエルは、怪訝そうにセシリアを見た。
二人とも、信じていないのだ。
「俺の目が間違ってないなら、人間の足が二本あるようだが」
セシリアはそれを聞くと、海に向かって歩き出した。
「おい、お嬢さん、そこは深いぞ――」
レイモンドが言い終わらないうちに、水しぶきとともにセシリアの姿が消えた。
「セシリア!」
足でもすべらせたのか?
ローレンスは慌てて駆け寄り、セシリアの脇に手を入れてひきあげた。
背後ではっと息を呑む音が聞こえた。
視線を下に向けると、昨日見たのと同じ、魚の尾があった。
「本当に人魚なんだ……」
アンナが目を丸くしたまま、ぼうぜんとつぶやいた。
船に戻ったあと、ローレンスは服を着替えた。
このあと、遅めの朝食をとったら、セシリアと一緒に船長室に行くことになっている。
ローレンスはセシリアがベッドの端に座り、物珍しそうに部屋を見回しているのを横目で見ていた。
そうやって観察しているうちに、ローレンスは聞きたいことが山ほどあったのを思い出した。
ひとつは、初対面であるはずの彼女がバンダナの下の痣を知っていたこと、もうひとつは、ローレンスが水のなかで呼吸できたことだ。
ローレンスの聞き間違いでなければ、「目は人間の目なのね」と言われたような気がするし、そちらのほうも聞いておきたい。
「