第一部(2)
ローレンスが海賊になるまで。
そんなことがあって、ローレンスは商船の乗組員――航海士として迎えられた。最初の数日間は、航海士としてきちんと役割を果たせるか不安だったが――いくら知識を詰め込んでいても、経験に勝るものはない――ローレンスは努力でそれを補った。
前の航海士が置いて行った日誌を見ながら、ローレンスは人一倍働いた。
体を動かしていたほうが、前向きに考えられる、というのもある。
不安と心細さは常にあったが、ローレンスはそれらとうまく付き合う方法を、無自覚に身につけていた。
もともとがきっちりした性格で、細かい作業なども苦にならなかったから、ローレンスは自分の仕事ではなくても、気がついたことがあれば、いやな顔もせずに働いた。
そのおかげで、ほかの乗組員たちともすぐに親しくなったし、そんなローレンスを見て、アストンはひどく満足げであった。
「君はずいぶんまじめなんだな」
航海日誌を書き終え、伸びをすると、タイミングよくアストンが声をかけてきた。
少し前から、ローレンスを観察していたようだ。
「まじめではないと思いますよ。のくは興味のない方面には、さっぱりですから。興味のあることにはすごく熱中するけれど、興味がないと、まったくやる気が出ないときもあります。その中間がないから、お前は極端すぎると、父によく言われていました」
「ほお。だが、天才とはみんな、そういうものじゃないかな?」
アストンがからかうように言ったので、ローレンスは笑いながら答えた。
「それはいいことを聞きました。でも、あなたはぼくのことを、天才というより変人と思っているんじゃないですか?」
「わかるか」
「ずいぶん、はっきりと言うんですね」
「ずけずけとものを言うほどには、親しくなったつもりなんだが」
ローレンスは一瞬、言葉に詰まった。
率直に好意を示されることに、慣れていないのだ。
「こういうとき、なんて答えたらいいのか、わからないんです」
ローレンスがぼそぼそと言うと、アストンは快活に笑った。
「ありがとうと言っておけばいいんだよ」
そんなものなのか……。
またひとつ学んだ気分で、ローレンスは何気なく海に目を向けた。
すると、水平線上の彼方に、大きな船が見えた。
今乗っている船より一回り大きく、とても頑丈そうだ。
商船には見えないが、海賊船でもないようだ。
その証拠に、トレードマークである旗がない。
「ジョージ、あの船は?」
この船に乗ったその日に、アストンが「ミスター・アストン」と呼ぶことを禁じていたので、ローレンスはファーストネームで呼ぶようにしていた。
「どれだ――」
ローレンスの視線の先を見て、アストンの顔からさっと血の気がひいた。
「ローレンス、舵をとれ。今すぐあの船から離れるんだ!」
アストンの切羽詰まった口調から、緊急事態だということはわかった。
ローレンスは甲板を走り抜け、すぐさま、言われたとおりに舵をとった。
その途中で、海賊船がターゲットに近づくとき、意図的に旗をおろすという話を思い出した。
ターゲットに気づかれないためで、十分に近づいたところで突然旗をあげて、慌てさせようとするのだ。
「君があの船に注目しなかったら、どうなっていたことか……」
船員たちに一通り指示をあたえたアストンが戻ってきて、ローレンスの隣に立った。
アストンはもう、逃げ切れると考えているようだが、ローレンスは険しい顔で風を読んでいた。
「まだ安心できません。――追い風なんです。向こうにとっては。僕たちから見ると、風は真横から吹いていますが」
アストンははっと顔をこわばらせた。
ローレンスはちらりと海賊船を見た。
いつの間にか旗があげられて、黒い布が風に吹かれてはためいていた。
中央で日本の剣が交差し、右にガイコツ、左に砂時計が描かれている。
まだ距離はあるが、もう追いつけると確信したのだろうか。
ローレンスは舵をとることに集中し、巧みに進路を変えながら、頭のすみで最悪の事態を思い浮かべてみた。
海賊について、専門的に学んだことはないが、海賊の残酷さについては、いくつも話を聞いて知っている。
そのどれもが、同じ人間とは思えないような話で、共通するのは、海賊の捕虜になったら、二度と自由になれないという点だ。
殺されるか、奴隷として売られるか――殺されたらと考えると、舵を握る手に汗がにじんだ。
恐怖よりも、焦りのほうが強かった。
こんなところでは死ねない。
ローレンスはなにがなんでもこの場を切り抜けてやろうと決心した。
だが、残酷にも、海賊船は着実に距離を縮めてくる。
「危ない!」
アストンの悲鳴のような声が聞こえたかと思うと、ローレンスは強い力で後ろに引っ張られていた。
その直後、パン、という乾いた音が立て続けに鳴り、それまでローレンスがいた場所に穴が二つあいていた。
その後、銃を向けられることはなかったが、状況を理解するのに、数十秒かかった。
アストンが腕を引っ張ってくれなかったら、ローレンスは確実に死んでいるか、重傷を負っていただろう。
その事実に、頭から冷水をかけられたように、震えが止まらなかった。
だが、現実はやさしくない。
そのショックから立ち直る暇もないまま、甲板で乱闘が始まったのだ。
震える足を叱咤して立ち上がり、周りを見回してみれば、海賊たちが船に侵入していた。
商船の周りに二隻のボートがよせられており、そこから入ってきたのだとわかる。
ローレンスはすぐに近くの階段をおり、武器庫に飛び込んだ。
武器庫といっても、あくまで商船なので、大した威力もなければ数もない。
海賊船が近づいてきたとわかったときに、船員の何人かが武器を持って行ったので、残っているのはマスケット銃が一丁と、長剣が一本だけだった。
ローレンスはそれを両方ともつかみ、再び甲板にかけあがった。
海賊船は、もうすぐそこまで近づいてきていた。
ローレンスが甲板に戻ったとき、丸腰のアストンに、海賊が剣を持って迫っていた。
ローレンスは迷わず剣を引き抜き、二人の間に割って入った。
高々とふりあげられた剣を長剣で受け止め、その衝撃に顔をしかめながら、ローレンスは一瞬力を抜いた。
相手がバランスを崩し、前のめりになったところへ、脇腹に回し蹴りをいれると、男は脇を押さえて倒れこんだ。
アストンは尻もちをついたまま、ぼうぜんと一連の動作を見つめていた。
しかし、すぐに正気に戻り、すかさず倒れた海賊の腕をつかみ、近くのロープで縛りあげた。
「護身用に持っていてください」
ローレンスはアストンの手にマスケット銃を押しつけて、自分も乱闘のなかに加わった。
体中が心臓になったのかと思うほど、鼓動の音がうるさい。
得意の回し蹴りがきまったことで自信がついたのか、恐怖よりも、湧き立つような興奮を感じていた。
こんなに好戦的な自分は初めてだ。
自分にむかってくる海賊を視界にとらえ、ローレンスは剣を構えた。
父から教えられ、その後独学で学んだ剣の技は、襲ってくる相手を撃退するぐらいには役に立つ。
しかし、それはあくまで一般人に対してであって、海賊とでは、筋力で負けてしまう。
そこで、ローレンスは片手で相手に斬りかかり、相手がそれを上段で受け止めたときに、腹部ががらあきになる瞬間を見逃さず、蹴りを入れた。
男が膝をついたら、相手の首に手刀をお見舞いする。
そうやって、ローレンスは三人の海賊を気絶させた。
単調な作業ではあったが、疲労は大きい。
疲れて額の汗をぬぐうと、商船の乗組員のなかで、立っているのはローレンス一人だけだった。
死人はでていないようだが、全員が縄で縛りつけられている。
海賊たちが武器を手に迫ってきたので、ローレンスは後じさりした。
その時、船の柱にもたれて、興味深そうにこちらを見つめる男がいるのに気がついた。
たぶん、この場での指揮官は、あの男だ。
長い髪を首もとでひとつくくりにしているその男は、組んでいた腕をほどき、こちらに近づいてきた。
ローレンスが冷や汗を流しながら剣を構えると、男は流れるような動きで剣を引き抜いた。
その瞬間、ローレンスは圧倒的な力の差を感じた。
この男は、小手先の技で勝てる相手ではないと、一瞬でわかってしまった。
「斬り合いには慣れていないようだな」
男は澄んだアルトでそう言った。
そして、それに答える間もなく、男の体が前のめりになった。
踏み出した足にぐっと力を入れて、低姿勢のまま突っ込んでくる。
ローレンスは恐れを押し殺して、剣を背後に放り投げた。
男の目が信じられないというように見開かれる。
その一瞬の隙をついて、ローレンスは男の手から剣を蹴り飛ばした。
すぐさま背後に落ちた自分の剣を引っ掴んで、男の喉に剣を突き付ける。
男はピタリと動きを止めた。
「このめちゃくちゃな戦法は、どこで学んだ?」
男は切っ先を気にするふうでもなく、呆れたように尋ねてきた。
自分でも無茶をしたという自覚があったので、ローレンスは苦笑しながら答えた。
「ぼくが自分で考えてみたんです。百パーセントうまくいくとは、思ってなかったけれど」
「なるほど、戦略をたててから動くタイプか。だが、経験不足だな」
剣を突き付けられているというのに、男は涼しい顔でローレンスを分析していた。
ハッタリなどではなく、それこそ、経験にもとづく自信によるものだろう。
もともと相手を刺してやろうとは思っていなかったため、剣を突き付けているものの、形だけの構えだった。
だから、背後に迫っている気配に気づかず、首に指を引っかけられて、勢いよく床に叩きつけられた瞬間、ローレンスは簡単に剣を手放してしまっていた。
目の前にちかちかと星が飛び、頭には鈍い痛みが残った。
気づくと、ローレンスは仰向けに倒れていた。
痛みにうめきながら目を開けてみれば、精悍な顔立ちの、浅黒い肌の男が、冷たい目でローレンスを見下ろしていた。
ローレンスはぞくりとした。
黒い髪をオールバックにした男は、険しい顔つきで、大振りの長剣をローレンスの首に押し当てたのだ。
もちろん、ただの牽制ではない。
「レイモンド、血が出てる。少し剣を離してやれ」
長髪の男がローレンスに蹴り飛ばされた剣を収めながら、非難するように言った。
「そいつはまだ子どもだ。船長の言葉を忘れたのか?」
「覚えている。女子どもには手を出すな、だろ。
だが、こいつは剣を手にとった。
それなりの覚悟があるってことだろう?
俺は、ガキだろうが容赦しないぜ」
レイモンドと呼ばれた男は、危険な笑みを浮かべた。
筋肉質で野性的な男に似あいの、背筋が凍るような笑い方だ。
レイモンドと長髪の男は、黙って互いを見つめあった。
「おい、なにを手こずっているんだ」
突然、深いバリトンの声が沈黙を破った。
目だけを動かして見ると、男が一人、こちらに近づいてくるところだった。
その背後では、数十人の海賊たちが乗り込んで、金目のものを強奪している。
バリトンの声の持ち主は、海賊たちのなかでも、特に目立っていた。
強烈な存在感を放つその男は、海賊の船長が着ていそうな、赤いフロックコートを肩にかけている。
見た目どおり、この男が船長なのだろう。
「船長」
長髪の男が呼びかけると、男はそれを手で制し、ローレンスの横に膝をついて、顔をのぞきこんだ。
海賊船の船長は、意外なことに、面白がるような笑みを浮かべていた。
「双眼鏡で、俺も見ていた。小手先の技、といえばそうだが――面白い戦い方をするじゃないか。
なにより、うちの斬りこみ隊長を追い詰めるとは、たいしたガキだ」
その言葉を聞いて、レイモンドは舌打ちしながら剣を引いた。
「クロード、お前はいいのか」
レイモンドが長髪の男に声をかけた。
「俺も船長と同じ意見だ。なかなか、面白い展開じゃねーか」
レイモンドは肩をすくめ、乱暴にローレンスを立ち上がらせた。
こうして隣に立ってみると、レイモンドはかなり背が高かった。
レイモンドの横顔を見上げていると、目が合った。
「良かったな、坊主。殺されずに済んで」
本当に、そのとおりだ。
「ありがとうございます……」
「のんきな奴だな。死ぬよりえげつない目に遇わされるかもしれないぞ」
「生きてさえいれば、いいんです。
ただ、ここの乗組員たちには、ひどいことをしないでください。
お願いします」
ローレンスは三人の海賊たちに頭をさげた。
そうすることに、プライドが傷つくとか、そういうことはなかった。
アストンたちの状況が少しでも良くなるなら、そうしたい。
それぐらい、ここで過ごした時間は、ローレンスにとって大切なものになっていたのだ。
海賊の船長は値踏みするようにローレンスをじろじろと観察した。
「いまどき珍しいガキだな。甘いが……そういう奴は、嫌いじゃない。
お前、名前は? 俺はファム・ファータル号の船長をやってる、ジェラルド・バルタードだ」
「ローレンス・ランズマンです」
「ランズマン? あの冒険家の、息子かなにかか?」
ジェラルドが意外そうに眉を動かした。
その反応は、アストンや他の船員たちが見せたものとは、明らかに違っていた。
「父を知っているんですか?」
「友人というほどじゃあないが、二、三度顔を合わせたことがある。
あいつは、遺跡や宝があるところなら、どこにでも現れたからな」
ジェラルドは懐かしそうに言い、そういえば、とローレンスに視線を戻した。
「最近は、見ていないな。あいつはどうしている?」
ローレンスは一瞬目をさまよわせた。
口にするたびに、胸に鉛を流し込まれるような気になるのだ。
「数週間前に、亡くなりました」
「――そうか」
ジェラルドの顔から表情が消えた。
だが、その瞳の奥で、激しい炎がちらついたように見えた。
ローレンスがその目をじっと見ていると、ジェラルドはふっと表情を和らげた。
ちらりと見えた激しい一面は、すでに消えている。
「それで、どうしてお前が商船に乗っているんだ。
海賊船に襲われる危険性くらい、知っていただろうに」
「情報収集のためです。色々な場所を旅すれば、父の死について、なにかわかるかと思って――」
ジェラルドは思案するようにあごに手をあて、なにもない一点を見つめたが、すぐに口を開いた。
「ここの乗組員には手を出すなと言ったな。
商品や金は頂いていくが、お前が俺の船に乗ると――海賊の一員になると誓うなら、人間には手出しせずに、退いてやってもいい。
どうする、ローレンス」
「かまいません。
でも、ぼくを船に乗せて、あなたになんのメリットがあるんですか?」
「メリットならある。色々とな」
そう言って、ジェラルド・バルタードは海賊らしい、すごみのある笑みを浮かべた。