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prologue

 ローレンスはドアノブを回し、父の書斎に足を踏み入れた。


ローレンスの父はいわゆる秘密主義者という人種で、自分のいない間に、この書斎に他者が入るのをひどく嫌っていたため、本来ならば許されない行為であった。


しかし、咎められるおそれはない。


ローレンスは父の遺品を整理するために、この部屋に足を向けたのだ。


 誰もが知る有名な冒険家、ウィリアム・ラングマンは、つい一週間前にこの世を去った。


ローレンスがその事実を知ったのは、三日前だ。


それも、新聞で。


その時の感覚を、ローレンスは一生忘れないだろう。


新聞を握る指先は、それこそ死人のように冷え切っていた。


頭は記事の内容で埋め尽くされているのに、すぐには呑みこめなくて、ローレンスは何度もその記事を読み返した。


当然、見つめたからといって、書かれている言葉が変わるわけではない。


記事の内容はあいまいで、ラングマン氏は火事に巻き込まれて死んだため、遺体はなかったとだけ書かれていた。


 ほとんど家に帰ることのなかった父だが、たった一人の家族を失ってしまった悲しみは、予想以上に大きかった。


ローレンスはとにかく、この無気力状態から抜け出そうと、父の死についての情報を集めた。


情報、知識。


これまで、ローレンスが武器にしてきたものだ。


しかし、そのどれもが新聞の内容と大して変わらず、父と親しかった友人たちも、わざわざ遠くから駆け付けてくれたが、有力な情報は何ひとつ得られなかった。


これがどれだけローレンスを落胆させたか、わからない。


 ローレンスは幼い頃から、この広い家で、一人で生活していた。


もちろん、それは近所に住む村人たちが色々と面倒を見てくれていたから可能であったのだが、常に孤独がつきまとっていた。


もしこの家に書物がなかったら、ローレンスはこの家を守ってくれという、父の頼みに背いて、とっくの昔に家を出ていただろう。


幸い、読み書きから始まり、高度な学術知識を父から学んでいたため、本棚にびっしりと並んだ難解な書物がローレンスの心を慰めてくれた。


しかも、ローレンスは、一度見たものを忘れない。


この才能のおかげで、十代の半ばにして、ローレンスは六ヶ国語に精通するまでになっていた。


 一番の問題、お金のことに関しては、心配はいらなかった。


父の書籍はよく売れたが、冒険の末に得た宝石や財宝はその何倍もの価値を持っていた。


あまり家に大金を置いておくと、ローレンスの身が危険だということで、父はそのお金をどこかに寄付したり、大きな買い物(船がいい例だ)をしたりしていたが、それでも、この先困らないだけの金額は残っていた。


それをどう使うかは、ローレンス次第だ。


大学に通うことも、商売を営むこともできる。


今、ローレンスの前にはいくつもの選択肢があり、なろうと思えば、ローレンスにはなににだってなることができるだろう。


 これが自由なのかと、ローレンスはため息をついた。


夢ならあった。


ローレンスが十八になったら、冒険の供をさせてくれると、父は約束してくれていたのだ。


それは夢物語のようではあったが、ローレンスはその未来像を疑ったことはなかった。


 それが、一瞬のうちに壊れてしまった……。


 父の書斎の真ん中で立ち尽くしていると、ふいに、開け放った窓から風が吹いてきた。


かすかに潮の匂いがする。


 ――なぜ?


 ローレンスは眉をひそめた。


ここは港町ではない。


港町まで――海までは、三つほど町を越えなければならない。


 ローレンスは導かれるように、窓辺にふらふらと近寄った。


潮の匂いをたっぷり含んだ風が、ローレンスの頬をなでていく。


その感触が心地よいと感じた、次の瞬間、ローレンスは激痛に襲われて膝をついた。


額が割れるように痛い。


こめかみを押さえながら、ローレンスは父のデスクの上に手を這わせた。


目当てのもの――鏡に指先が触れ、ローレンスは自分の額を映した。


「なんだ、これは……」


 ローレンスは普段、独り言を言わない。


しかし、このときだけは、自然と口から言葉が出ていた。


思わずうめき声をあげてしまうほどのものが、鏡に映っていた。


恐る恐る指先で額の皮膚に触れてみる。


そっとこすってみたが、それはインクの類ではなかった。


 額に痣ができていた。


うろこのような、鮮やかな模様。


蛇に巻きつかれたら、こんな痣ができるだろうか。


 袖で少しきつめにこすってみたが、どうにもならない。


途方に暮れ、これは医者にみせるべきだろうかと思案していると、家のベルが鳴った。


また、父の知人が来たのだろう。


 ローレンスはさっと部屋を出て、救護セットの中から包帯を探し出し、手荒く額に巻いて、家の玄関を開けた。


 目の前に、初老の男が立っていた。


穏やかそうな顔つきの男で、鼻の上に乗った眼鏡が、知的な雰囲気によく似合っている。


訪問客は当たり障りのない挨拶を口にしようとして、ローレンスの額に目をやった。


「その怪我は、どうしたんだい?」


「いえ、怪我ではないんですけど」


 ローレンスは照れて、包帯に触れた。


「ええと、どちら様でしょうか?」


「すまないね、自己紹介が遅れてしまったが……」


 男はジャケットのポケットから名刺を取り出した。


「マイケル・フォスター博士……」


「その名刺に書いてあるように、考古学を学んでいる。

君のお父さんとは親しくさせてもらっていてね……」


 フォスター博士はありきたりな言葉を口にし、自分の口から出たその言葉に顔をしかめた。


「いや、親しかった、なんて言葉では言い表せない。

私たちは親友だった。

君のお父さんは――ウィリアムは、あの通り愛想がよくて、人に好かれるタイプだったから、いつでも人に囲まれていたが……私は彼の一番の親友だったと自負しているよ」


 フォスター博士の目に深い哀愁が漂った。


これまで父を悼んでやってきた友人たちは、みんな目をうるませていたが、フォスター博士の悲しみはそのどれよりも深かった。


この人物をよく知らないローレンスでさえ、その様子が見て取れるのだ。


 フォスター博士はローレンスの視線に気づき、ふっと顔をあげた。


その真剣な眼差しに、ローレンスはぴくりと肩を揺らした。


髪は白髪が混じっていたが、フォスター博士には、老いによる衰えを感じさせないだけの力強さがあった。


「ローレンスは、私にだけは隠しごとをしなかった。

全部話してくれたよ。

おそらく君は、なにも知らないと思うが……」


「父の死について、なにか御存じなんですか?」


「予測はついている」


 ローレンスは少し考え込んだが、客人を立たせっぱなしにしていたことに気付き、非礼を詫びて家にあげた。


椅子に座ると、フォスター博士はすぐに本題に入った。


「いや、紅茶はいいよ。

それより、その包帯を取ってみせてくれないか」


「あまり、気持ちのいいものではありませんけど」


 ローレンスは包帯をほどいた。


フォスター博士の息を呑む音。


どうやら医者に行く必要はないようだと、ローレンスは頭の隅で思った。


「それと同じものを見たことがある。

君のお父さんの背中にも同じものがあった。

君は額に出たんだな……」


「さっき、急に浮かび上がってきたんです」


「それは呪いだよ」


「え?」


「呪いだと、ウィリアムは言っていた。

人間に課せられる、最も残酷な罰だとも」


「なんの呪いなんですか?」


「それは教えてくれなかった」


 そんな曖昧な話を、フォスター博士は信じたのだろうか。


父がそんな嘘をつくとは思えないが、ローレンスは半信半疑のまま尋ねた。


「ぼくは、死ぬんでしょうか」


 自分の台詞に心臓が跳ね上がったが、フォスター博士は静かに首を横に振った。


「君は、この苦痛を知るには、あまりにも若い」


「教えてくださらないんですね。

少なくとも、今はまだ」


「君は聡明だ。父親の思慮深さを受け継いだのか、あるいは母親か……」


「母を知っているんですか?」


 ローレンスは驚いて、無意識に椅子から腰を浮かせていた。


ローレンスは自分の母親を全く知らなかった。


母親の話を聞かなかったわけではなかったが、母の話をするとき、父はどこかおとぎ話を聞かせるような口調で語る癖があったので、正確なイメージ像というものが持てなかったのだ。


「その話も、今度会ったときにしよう。

それより、君に渡すものがある」


 フォスター博士は鞄の奥から一通の手紙を取り出した。


テーブルの上に置かれた手紙を、ローレンスは震える手で受け取った。


「父の筆跡だ」


「自分に何かあった時、渡してくれと頼まれた。

もう何年も前だ」


 冒険家というものは、常に危険と隣り合わせで生きている。


しかし、ローレンスにはいまいちピンとこなかった。


どうしても、こう考えてしまう。


手紙をフォスター博士に託したときから、どこかで死の影を察知していたのではないか、と。


父の死に方が、ローレンスに「おかしい」と思わせるのだ。


「読みますね」


 フォスター博士の目を見て確認をとり、ローレンスは声に出して読み上げた。



 親愛なる息子へ


お前がこれを読むとき、おそらく私は――まあ、そういうことになっているだろう。


不吉な単語は書きたくないので、割愛するが、お前に一言謝っておこう。


父親らしいことをしてやれなかったことも悔やまれる。


しかも、私はお前に、大きな仕事を頼むつもりでいる。


マイクから話を聞いただろうが、呪いのことは、ひとまず置いておいてくれ。


それよりも、差し迫った仕事と、呪いよりも直接的にお前を害す者について書いておこう。


この手紙を読んだら、家を燃やせ。


私の本棚にある赤い表紙の『航海日誌』以外は何も持たずに行ってくれ。


なんとも無責任な終わり方をするが、その日誌を読めばすべてわかる。


それでは、ごきげんよう。



 彼らしい遺書だと、ローレンスはぼんやりと思った。


息子が愛しいのだと、目と声音、行動や仕草で、伝えるくせに、そういった言葉は絶対に言わないのだ。


熱くなる目頭を指で押さえ、ローレンスはフォスター博士に向き直った。


「これがどういう意味か、わかりますか?

僕はどうすればいいのか……」


「その手紙に書いてある通りに、動くべきだろうね」


 フォスター博士にとってもこの遺言の内容は疑問だったらしく、困惑を隠し切れていなかったが、博士の言葉はローレンスに腰を上げさせた。


「じゃあ、そうしましょう。

父の言う日誌を探してきます。

あんまり周囲に被害が及ばない燃やし方がいいんですけど……」


「君が日誌を探している間に、考えておこう」


「お願いします」


 ローレンスは頭を下げ、応接間を出ていった。


ローレンスにとって最も思い入れのあるこの場所を失うのは、たった一人の家族を失うことの次につらいことだった。


しかし、何かに急きたてられるように、ローレンスは書斎に足を向けた。


父の記した日誌を取り、家を燃やすために。


 父の意図はわからなかった。


しかし、この家を燃やしてしまうことは、父の最期の願いを叶えるだけでなく、自分自身のためにすべき行為でもあるかもしれない。


そう考えると、一刻も早くこの家を燃やしてしまいたかった。


この家がある限り、ローレンスはきっと、ここから離れられない。


本当の意味で自由になり、新しい一歩を踏み出すためには、区切りをはっきりさせる「儀式」が必要なのだ。


 ローレンスは自分に言い聞かせ、再び書斎の扉を開けた。



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