第118話:大河の暴君と鋼鉄の航跡
初夏の熱波が、重苦しい潮の匂いと泥の混じった独特の湿気を孕んで吹き抜ける。
大陸の深奥から湧き出し、海へと注ぐ巨大な水脈――「蒼翠の大河」。その河口に位置する港湾都市リヴァリアは、無数の木造帆船の帆柱が林のように立ち並び、労働者の濁った怒号と荷馬車の軋み音が絶え間なく交錯する、大陸屈指の水運の要衝であった。
リヴァリアの港を一望できる、領主の館の最上階。
豪奢なペルシャ絨毯が敷き詰められた応接室には、むせ返るようなジャスミンの香油と、窓から忍び込む魚の生臭さが奇妙に混ざり合い、肺にまとわりつくような不快な空気として澱んでいた。
「ふむ……。城塞都市の新興商会が、わざわざ我がリヴァリアに何の用かな?」
上座の彫刻が施された椅子に身を沈め、傲岸不遜な態度でワイングラスを揺らしているのは、この都市の絶対的支配者、ガルドス辺境伯だ。肥え太った顎の肉、脂ぎった肌、そして細められた瞳の奥に潜むのは、利権を長年独占し、他者の汗を吸い続けてきた者特有の、底なしの強欲さであった。
対面のソファには、大商人グレンと、その後ろに影のように控える一人の少年がいた。
少年は、月光を吸い込む鉄羽と深海の青鱗が編み込まれた『蒼黒の鱗羽鎧』を纏い、右手には漆黒の金属棒を杖のように立てかけている。十一歳という年齢には到底そぐわない、凍てついた湖面のような瞳が、ガルドスを静かに、射抜くように見据えていた。
「ガルドス閣下。本日は、我が主トール様より、大いなる『友誼』の証をお持ちいたしました」
グレンは恭しく頭を下げ、テーブルの上に重厚な木箱を置いた。
中から取り出されたのは、光を乱反射するクリスタルボトルに詰められた『極上・琥珀の魔酒』。そして、第一縫製工場が吐き出した、鮮烈な「トール・ブルー」に染め上げられた極上綿布の衣服だ。
「ほう……? 子供が主とは滑稽だが、品は悪くない」
ガルドスは鼻で笑いながら、ボトルの栓を抜いた。
その瞬間、部屋の澱んだ空気を一掃するような、芳醇なバニラの香りと暴力的なまでの甘美な芳香が爆発した。ガルドスは怪訝な顔をしながらも、黄金の液体を口に含む。
「…………ッ!?」
途端に、ガルドスの瞳孔が限界まで見開かれた。
喉を焼き尽くすアルコールの熱波。だがその直後、ルミナス・トレントのシロップに溶け込んだ圧倒的な魔力が、彼の脂肪に埋もれた魔力回路を強制的に賦活させていく。全身の細胞が歓喜に震え、脳髄を痺れさせるような暴力的な快楽が背筋を駆け抜けた。
「な、なんだこれは……! 身体が熱い……! 魔力が、内側から溢れ出てくるぞ……!」
震える手でグラスを置き、ガルドスの目は血走った。独占権力者としての本能が、目前の品々がもたらす天文学的な利益を瞬時に弾き出したのだ。だが、その強欲さが、彼の眼を完全に曇らせた。
「素晴らしい。……実に素晴らしい品だ、グレンよ」
ガルドスは脂ぎった唇を舐めずり、これ見よがしにふんぞり返った。
「貴様らが我が大河の水運を利用し、これらの品を大陸中に売り捌きたいという意図は理解した。……よかろう、リヴァリアの港の使用を許可してやる。ただし、関税は通常の『十倍』だ。さらに、この酒と衣服の流通は、我が家が完全な独占販売権を握る。……大河の主である私への対価として、当然の条件だろう?」
グレンの顔から、さっと血の気が引いた。関税十倍に、独占販売権の譲渡。それは事実上の接収であり、表向きの友好を装った略奪に他ならない。
「閣下……! それはいくらなんでも……ッ!」
グレンが抗議の声を上げようとした、その時だった。
「……交渉は終わりだ、グレン」
応接室の温度が、急激に数度低下したかのような錯覚。トールが、ゆっくりとソファから立ち上がった。
「小僧……。大人の商談に口を挟むな。我が軍船が大河を封鎖すれば、貴様らの荷は一歩も海へは出られぬのだぞ?」
ガルドスが不快げに顔を歪める。だが、トールは冷酷に口角を吊り上げ、黒い金属棒の先端で、チリッ、と青白い火花を散らした。弾ける放電と焦げたオゾンの匂いが、室内の香油の香りを一瞬で切り裂く。
「風任せの脆い木造船で、ちまちまと物を運んでいるだけの分際で……俺の足元を見たつもりか?」
十一歳の少年の口から放たれた、重厚で絶対的な殺気。ガルドスの喉の奥で、悲鳴のような息が詰まった。
「見せてやる。……俺の『規格』をな」
トールが指を鳴らした瞬間。
ボーーーーーーォォォォォォッ!!!
突如として、リヴァリアの港全体を揺るがすような、鼓膜を破る重厚な汽笛の音が轟いた。
「な、なんだ!? 敵襲か!?」
ガルドスが慌ててバルコニーへと駆け寄る。眼下に広がる蒼翠の大河。
その河口の向こう、水平線の彼方から、真っ黒な噴煙を空高く吐き出しながら、巨大な『怪物』が潮流をねじ伏せて逆流してくるのが見えた。
「あれは……船……? いや、帆がないぞ! なぜ風に逆らって進んでいるのだ!?」
ガルドスが手すりにしがみつき、絶叫する。
近づいてくる怪物の全貌。それは、木材の温もりなど一切排した、黒光りする鉄の塊だった。バルカスが組み上げ、ミスリルと魔物素材の複合装甲を施された、巨大な『外輪蒸気船』。
船体の両舷に備え付けられた巨大な水車が、蒸気機関の圧倒的な圧力によって高速回転し、大河の水を暴力的に粉砕している。水面には真っ白な飛沫が竜巻のように舞い上がり、ズン、ズン、ズンという腹の底を揺らす重低音が、港の空気を物理的に震わせていた。
「な、何をしている! 警備の軍船を出せ! あの化け物を港に入れるな!」
ガルドスの怒号に応じ、リヴァリアが誇る数隻の大型ガレー船が、風を孕んでアイアンクラッドの行く手を阻もうと展開した。
「木っ端が。……轢き潰せ」
トールが冷たく呟いた。
アイアンクラッドは速度を緩めることなく、真っ直ぐに木造の軍船へと突進する。
そして――。
メキィィィッ! バキィィィィィィンッ!!
悲鳴すら上げる間もなかった。
外輪蒸気船の鋭角な鋼鉄の船首が、リヴァリアの軍船の横腹に激突した瞬間、強固なはずのオーク材の装甲が、まるで濡れた紙細工のように粉砕されたのだ。
木っ端微塵に砕け散る船体。水中に投げ出される兵士たち。アイアンクラッドは、抵抗らしい抵抗を一切受けることなく、軍船を波ごと轢き潰し、悠然と港の中央へと進み出た。
「あ……あぁ……私の、軍船が……」
ガルドスは腰から砕け落ち、バルコニーの床に這いつくばった。彼の誇っていた権力と武力が、文字通り一瞬にして「鉄の質量」によってへし折られた瞬間だった。
「関税の壁など、あの船首で物理的に叩き割ってやってもいい。だが、俺はビジネスの提案をしに来たんだ」
トールは、這いつくばるガルドスを冷酷に見下ろし、氷のような声音で告げた。
「見ろ」
アイアンクラッドの甲板から、幾本もの鈍く光る鋼鉄の腕が持ち上がった。
超高出力の「蒸気クレーン」だ。
シューシューと鉛色の蒸気を吐き出しながら、クレーンは自船の船倉から、数百キロはある巨大なコンテナを軽々と持ち上げ、港の石畳へと正確に、そして音もなく降ろしていく。
人力で数十人がかりで半日かかる荷降ろしが、わずか数分で完了してしまった。
「な、なんだあの腕は……魔法か……?」
ガルドスの瞳から強欲の光は消え失せ、底知れぬ恐怖と畏敬だけが張り付いていた。
「俺は、お前の港を俺の規格に作り変える」
トールの言葉が、逃れられぬ宣告としてガルドスの脳髄に響く。
「あの蒸気クレーンを港に並べ、物流の速度を百倍に引き上げる。表向きは友好と経済協定だ。極上の魔酒と規格衣服の優先取引権を餌に、リヴァリアの港湾施設を間借りしてやる。だが、その裏で水上物流のすべてを、俺のシステムに依存させろ」
トールは金属棒の先端を、ガルドスの顔のすぐ横の石壁に突き立てた。チリッ、と火花が爆ぜ、石が焦げる。
「俺のインフラなしでは、この港は明日から回らなくなる。……逆らうなら、大河の利権ごと、すべてをあの船で飲み込むまでだ」
筋肉に頼った古い物流と、風に頼った不確かな航海。それらをすべて過去の遺物とする「産業革命」の産声が、リヴァリアの港を完全に制圧していた。
「ひ、ひぃぃっ……! 従います! 港でも、利権でも、すべてあなた様のシステムに捧げます! どうか、どうか我が命だけは……!」
大河の暴君と呼ばれた男は、恐怖と圧倒的な富の暴力の前に完全に屈服し、十一歳の少年の靴を舐めるように平伏した。
「商談成立だ」
トールは冷たく言い放ち、バルコニーから港を見渡した。
城塞都市(生産)、迷宮都市タルタロス(資源)、そして、ここ港湾都市リヴァリア(物流)。
大陸の経済を根底から支配する太いインフラ網――『覇道のトライアングル』が、今、完璧な形で繋がり、力強く鼓動を始めた。
「さあ、動脈は世界へと開かれたぞ。……王都の玉座でふんぞり返っている連中に、本物の『支配』というものを教えてやる」
大河を渡る初夏の風が、石炭の匂いと、無限の富の予感を運んでくる。
すべてを掌握した十一歳の絶対者は、眼下で蒸気を吐き出す鋼鉄の航跡を見据えながら、狂気と論理が入り混じった不敵な笑みを、その貌に深く、深く刻み込んだのだった。




