第115.5話:女神ララァ降臨
隠れ家の最上階。
城塞都市の喧騒が深い眠りに落ち、深夜の重厚な静寂が冷ややかに支配する時間。
最高級の羽毛が詰まったベッドに身を沈めながら、俺の意識は深く、底知れぬ暗い泥沼のような眠りへと引きずり込まれていった。
レベル16へと至った肉体は、蓄積した疲労を魔力によって全自動で修復する。そのため、睡眠中の俺は一切の夢を見ることなく、ただ無機質なシャットダウン状態を維持するのが常だった。
だが、その夜の眠りは、決定的な「エラー」を含んでいた。
『……トールよ……』
ピチャリ、と。
静止した水面を一点の水滴が叩くような、硬質で透き通った音が鼓膜の奥で反響した。
(……なんだ?)
俺の意識は反射的に覚醒を試みた。だが、三十代の社畜時代に研ぎ澄ませた論理も、この異世界で積み上げた圧倒的なステータスも、今は鉛のように重く固まり、指一本動かすことすら許されない。
まぶたの裏に展開されたのは、見慣れた執務室の天井ではない。
果てしなく続く、鏡のように凪いだ薄青い水面。そして、足元から這い上がる、むせ返るような純白の霧だった。
「あなたにも幸せが訪れますように……」
脳髄を直接愛撫するような、透明な声。
それはあの日、日本の駐輪場で落雷に貫かれ、意識が死の水底へと沈んでいく中で聞いた「あの声」と、一分の狂いもなく一致していた。
霧がゆっくりと晴れ、水面の上に一つの影が浮かび上がる。
そこに立っていたのは、威圧的な神威を放つ巨神などではなかった。大聖堂に俺が彫り上げたあの「無名の女神像」と寸分違わぬ姿――いや、それよりも遥かに幼さを残した、純白の衣を纏う一人の「童」であった。
『トールよ。童の女神像建立、まことに大義であった』
少女が花が開くように微笑む。その笑顔は、どこまでも慈愛に満ちていながら、同時に俺という存在の深淵をすべて見透かしているような、底知れぬ透明感を湛えていた。
(……俺の脳内に、直接ハッキングしてきたのか? いったい何者だ)
俺は叫ぼうとしたが、夢の中の肉体は不可視の鎖に縛られたように反応しない。
『童の願いはただ一つ。この苛烈な世界に、そなたを呼び込んで……』
少女は悲しげに長い睫毛を伏せ、水面を音もなく歩いて俺の至近距離まで歩み寄った。
冷たい霧の匂いに混じって、どこか懐かしい、陽だまりに干した綿布のような甘い香りが鼻腔をかすめる。
『そなたが、そなた自身の足で歩み、生きた証を刻むこと。……よくぞここまで、己の運命を切り拓いてくれました』
(笑わせるな。俺をこの不条理な世界に引きずり込んだ張本人が、どの口で言う)
俺は心の中で冷たく吐き捨てた。
誰かの家畜としてすり減る日々から脱却し、絶対的な自治都市を築き上げたのは、神の恩寵などではない。俺自身が血反吐を吐きながら設計したシステムと、魔物の首を撥ね続けてきた俺自身の「暴力」がもたらした成果だ。
俺の冷徹な拒絶を敏感に察したのか、少女は困ったように小さく笑うと、そっと俺の胸元――魔力回路の中枢へと、白く透き通った指先を触れさせた。
一瞬、雷に打たれたような熱波が全身の神経を駆け巡る。
『そなたはそれでよいのです。……ですが、人々には縋る名が必要。童の名前は、ララァ』
ララァ。
その三文字が発音された瞬間、夢の世界の薄青い水面が、目も眩むような光の渦となって爆発した。
「……ッ!!」
ガバッ、と俺はベッドの上で上体を跳ね起こした。
シーツは、じっとりと嫌な寝汗を吸い込んで重苦しく肌に張り付いている。
開け放たれた窓からは、白み始めた夜明けの蒼い光が差し込み、遠くで朝を告げる一番鶏の鳴き声が、現実の音として響いていた。
「はぁっ、はぁっ……」
俺は荒い息を吐きながら、濡れた前髪を乱暴に掻き上げた。
心臓が、肋骨を内側から突き破らんばかりの早鐘を打っている。
「……チッ。珍しく、夢にうなされたな」
俺は毒づき、サイドテーブルに置かれた水を一息に煽った。
俺の脳髄に外部からアクセスし、強制的に幻覚を見せるなど、並の精神魔法では到底不可能だ。それが神という「システム管理者」による不当な干渉だというのなら、あまりにも不愉快なバグと言わざるを得ない。
「神だか何だか知らないが、俺のシステムに余計なノイズを混ぜるな」
苛立ちと共にベッドから降りようとした、その時だった。
「……トール様! 朝早くに、申し訳ございません!」
重厚な扉の向こうから、切羽詰まったシスター・クレアの声が響いた。
俺が扉を開くと、純白の修道服を纏った彼女が、ひどく上気した面持ちで立っていた。その顔は蒼白でありながら、灰色の瞳には熱病のような狂信の炎がギラギラと揺らめている。
「どうした、クレア。大聖堂の儀式の準備で忙しいはずだろう」
「トール様……! 昨夜、奇跡が……奇跡が起きたのです!」
クレアは俺の足元に崩れ落ちるように膝をつき、震える両手を胸の前で固く組んだ。
「昨夜、私の夢の中に、大聖堂に建立されたあの女神様が現れました。そして、私に直接語りかけてくださったのです……! 御自ら、『ララァ』と名乗られました。我らが祈りを捧げるべきは、女神ララァ様であったのです!」
「…………」
俺は、クレアの熱狂的な報告を、氷のような視線で受け止めた。
三十代の論理的思考が、瞬時に事態を冷徹に分析する。
(なるほどな。俺の脳だけでなく、クレアという『外部スピーカー』にも同時にハッキングを仕掛けたわけか。無名という俺のプロトコルを、強引に上書きしに来やがったな)
クレアに『慈愛の聖域』を覚醒させたことといい、あの女神は、俺の構築したシステムを自らの「布教用プラットフォーム」として利用するつもりらしい。
なんとも図々しく、狡猾なウイルス(神)だ。
だが、経営者としての俺の判断は、個人的な不快感とは別の場所にある。
民衆という愚かな羊たちは、「無名の概念」よりも、「名前のある偶像」に対してより強固な依存を見せる。クレアが本物の神託を受けたと熱狂し、その名をもって布教を行えば、民衆の精神的統治はさらに効率よく、完璧なものになるだろう。
「……好きにしろ」
俺は冷徹に言い放ち、ひれ伏すクレアを冷たく見下ろした。
「神が自ら名乗り出たというなら、今日からの儀式は『女神ララァ降臨祭』に変更だ。民衆にその名を刻み込め。俺の都市の労働力を、その名で完璧に癒やしてみせろ」
「は、はいっ! 必ずや、女神ララァ様の御名のもとに!」
歓喜の涙を流して足早に去っていくクレアの背中を見送りながら、俺は右手の黒い金属棒を呼び出し、チリッ、と青白い火花を散らした。
「童の願い、か。……だが、最後にこの盤面を支配し、利益を啜り尽くすのは俺だ。神の奇跡だろうが何だろうが、俺の帝国の歯車として使い潰してやる」
窓の外では、完全に夜が明け、城塞都市が今日も力強い工場の黒煙を上げ始めていた。
夕暮れに行われる大聖堂での熱狂の儀式に向け、街全体が新たな「名前」に染まっていく。
十一歳の絶対者は、神すらもシステムの部品として再計算し、残酷な笑みを深くその貌に刻み込んだのだった。




