第114話:黄金の窯と覇道のトライアングル
初夏を思わせる湿り気を帯びた熱風が、開け放たれた窓から勢いよく吹き込み、重厚なビロードのカーテンを不吉な羽音のようにバサリと揺らした。
隠れ家の最上階。アンティークの執務机に腰を下ろす俺の鼻腔を、むせ返るような「命の飽和」が満たしていく。それは、川沿いに立ち並ぶ巨大蒸留所から吐き出されるアルコールの刺すような刺激とオーク樽の芳醇な残り香であり、同時に、都市の外郭から風に乗って運ばれてくる、濡れた土と青葉の力強い匂いだった。
窓の向こう、陽光を乱反射して眩しく輝く城塞都市の外側には、かつて死に絶えていたはずの荒野が、見渡す限りの鮮やかな緑の絨毯へと変貌を遂げている。
春の初めに『蒸気駆動式耕運機』という鋼鉄の獣に大地を食い破らせ、俺が品種改良を施した黄金の種を蒔いた農地。大森林から引き込んだ魔力水を含んだその土壌は、俺の冷徹な計算すらも上回る暴力的なまでの生命力を爆発させ、今や重く力強い穂をつけ、黄金色に色づくための準備を静かに、だが確実に進めていた。
「……見事なものだな」
右手に握った漆黒の金属棒の先端で、チリッ、と青白い火花を散らす。一瞬、鼻を突いた焦げたオゾンの匂いが、室内に澱んでいた甘い香りを無慈悲に駆逐した。
俺の網膜の裏側に展開された『管理者権限:支配領域 Lv.5』のホログラムは、大地の中で無数に脈打つ麦の生命力を、まるで溶岩の流動のような、赤々とした力強い熱源として捉えていた。
単位面積当たり収穫量三倍。
俺が弾き出したその予測は、もはや控えめすぎた数字だった。このまま初夏の太陽を浴び続ければ、街の胃袋を完全に満たし、さらに余りあるほどの『超豊作』となることは、もはや物理的な確定事項だ。
だが、豊かな実りがもたらすのは、手放しの歓喜ばかりではない。
「……トール様。お寛ぎのところ、申し訳ございません」
背後のオーク材の扉が控えめに叩かれ、都市の金流と物流を掌握する大商人グレンが、静かに絨毯の上へと足を踏み入れた。
彼が手にしているのは、分厚い羊皮紙の束――最新の在庫管理帳簿だ。
「構わん。報告しろ、グレン」
俺はクリスタルグラスを僅かに傾けた。カラン、と氷が涼やかな、しかしどこか研ぎ澄まされた音を立てるのを耳で愉しみながら、琥珀色の魔酒を口に含む。舌を刺すアルコールの熱とバニラの甘みが、冷え切った脳髄を心地よく撫で上げた。
「はっ……。先般、トール様のご指示により『港湾都市リヴァリア』を姉妹都市とし、大河を通じた水運物流網を確立いたしました。その結果、南方や近隣諸国から買い集めた小麦、大麦、ライ麦、そして極上のワインが、我々の想定を遥かに凌駕する速度で都市へと流れ込んでおります」
グレンの額には、初夏の暑さとは無縁の、脂ぎった冷や汗が滲んでいた。商人の本能が、目前に迫る「幸福な危機」という名の怪物に警鐘を鳴らしているのだ。
「水路の輸送力は、馬車とは桁が違います。現在、都市に設置した巨大サイロの七割が、すでに輸入された穀物で埋まりきっております。……しかしトール様」
グレンは窓の外、広大な農地の方角へ震える視線を向けた。
「あの農地で育っている『春小麦』……。あれは、あと一ヶ月もすれば収穫の時期を迎えます。農民たちの報告によれば、過去に類を見ない歴史的な大豊作になると。……すべてを刈り取った時、この城塞都市に、その莫大な麦を収容する物理的な空間は、もう一寸たりとも残されておりません!」
グレンの声が、執務室の静寂を切り裂いて悲痛に響いた。
「輸入を直ちに停止すれば、各国の商会との契約不履行により天文学的な違約金が発生します。かといって、農民たちが血と汗を流して育てた黄金の麦を、野ざらしにして腐らせるわけにもいきません! これは……圧倒的な『供給過多』にございます!」
かつて三十代の社畜として生きた時代、企業のサプライチェーンにおいて、過剰在庫は赤字という名の出血と同義であり、在庫管理の失敗は担当者の首を物理的に飛ばすほどの致命的なエラーだった。
だが、ここは俺がすべてを支配する異世界だ。
過剰な供給? ボトルネック?
笑わせるな。器から溢れるのなら、その器ごと世界を広げてやればいいだけのことだ。
俺はグラスを執務机に置き、口角を深く、残酷なまでに吊り上げた。
「グレン、パン屋をやるぞ」
「……はい? パン屋、でございますか?」
あまりにも日常的で、拍子抜けするような単語。
国家の命運を左右する莫大な物資の話をしていたはずが、突然「パン屋」という言葉を投げつけられ、大商人であるグレンの表情は、完全に思考が停止したように間抜けな空白に支配された。
「うむ。お前の懸念通り、今回の春小麦は大豊作となる。とはいえ、俺の帝国の胃袋を支えるために敷いた各地からの輸入ルートも、すぐには減らせまい」
「そ、その通りでございます。……つまり、小麦を『使い切る』方法ですね」
グレンが何とか商人の脳髄を再起動させ、言葉を絞り出す。
「しかしトール様。この都市の数万人の市民に毎日パンを食わせたとしても、あの莫大な量の麦を消費し切るには数年かかります。ましてや、パンは日持ちしません。焼いた端から腐っていくような代物では、利益を生むどころか――」
「誰が『この街で消費する』と言った?」
俺は立ち上がり、月光を吸い込む『蒼黒の鱗羽鎧』の鉄羽と青鱗を、重厚な金属音と共に鳴らした。冷たい鉄の感触が、俺の闘志を研ぎ澄ませていく。
「街角の小さなパン屋を想像するから思考が止まるんだ。俺が造るのは『巨大食品工場』、そして『超大型魔導製粉所』だ」
俺は引き出しから新たな羊皮紙を取り出し、机の上に乱暴に広げた。
「第一紡績工場で用いた蒸気機関の熱を、そのまま巨大な窯の動力として流用する。ベルトコンベアに乗せた生地が、自動的に成形され、蒸気の熱で均一に焼き上げられていくラインを構築しろ。職人の熟練した手などいらん。必要なのは、素人でも機械の前に立てば、千個、万個のパンが寸分の狂いもなく焼き上がる『規格化』だ」
「き、規格化されたパン……!」
「そうだ。そして、焼き上げるのはふんわりとした軟弱なパンではない。水分を極限まで飛ばし、ルミナス・シロップの糖分を微量に練り込んだ『高カロリーの硬焼きパン(ハードタック)』だ。これなら数ヶ月は腐らん。……そして余った麦はすべて蒸気機関で動く石臼で粉にし、魔導乾燥にかけろ」
俺は不敵に笑い、冷徹な一撃を付け加えた。
「あるいは小麦粉にして逆輸出してやろう。他国の商人が、高い輸送費をかけて俺たちに売りつけてきた質の悪い麦。それを俺の『規格』で最高品質の粉へと再生し、連中の市場へ、元の麦よりも安い価格で流し返してやるんだ」
「リヴァリアから……他国へ、逆輸出……!」
グレンの喉仏が、大きく上下に動いた。
彼はようやく、俺の描いている侵略の全容を理解した。加工品である「パン」による食文化の支配、そして主食の根源である「小麦粉」による市場の蹂躙。その二段構えの経済攻勢。
「他国の農民が細々と麦を育て、かまどで焼いているパンの市場へ、俺たちの工場から吐き出される『安くて、美味くて、絶対に腐らない規格パン』、そして『安くて白い最高級の小麦粉』を暴力的な物量で叩き込む。……どうなると思う?」
「あ、圧倒的な価格破壊……。近隣諸国の農民やパン屋、果ては製粉業者までもがすべて廃業に追い込まれ、気づけば、誰もがトール様の作った食料なしでは生きられない身体に……!」
「その通りだ。衣・食・住の『衣』は第一工場で制した。『食』の最高峰である魔酒も俺が握っている。そして今度は、大衆の主食という最も根源的な『食のインフラ』を、世界規模で俺のシステムに依存させる」
俺の言葉が落ちるたび、グレンの顔からは血の気が引き、同時に商人の本能が放つギラギラとした狂熱が、その瞳孔を真っ黒に染め上げていく。
「しかし、トール様……!」
グレンが地図を食い入るように見つめながら、震える声を上げた。
「この都市の工場で焼き上げた万単位のパン、積み上げられる小麦粉の袋、第一工場の衣服、蒸留所の魔酒。これらすべてを港湾都市リヴァリアまで運び出し、さらに迷宮都市タルタロスにも還流させるとなると……現在の街道では、到底処理しきれません! 馬車が連なって立ち往生し、道がパンクしてしまいます!」
「だからこそ、血管を太くするんだ」
俺は黒い金属棒を指揮棒のように振り、地図の上の「城塞都市」「迷宮都市タルタロス」「港湾都市リヴァリア」の三点に、激しい熱を帯びた線を引いた。
「そのためには、ここ城塞都市と港湾都市の間、迷宮都市と港湾都市との間も『4車線化』して、鉄の道を敷設しろ」
「よ、4車線……!? さらに鉄道を……この広大な大地のすべてに!?」
グレンの絶叫が、執務室の空気を激しく震わせた。
「そうだ。すでに城塞都市からタルタロスへ向けて敷設を進めている『白銀の軌条』を、リヴァリアにも繋ぐ。蒸気機関車が昼夜を問わず黒煙を上げ、数百トンの物資を牽いて大地を疾走する。それと並行して、巨大な荷馬車が四台並走できるだけの舗装されたハイウェイを、三つの都市の間に真っ直ぐに叩き通せ」
「山が、森が、川が立ち塞がっております! それらを切り拓き、鉄の道を敷くなど、どれほどの莫大な金貨と、何万人の労働力が必要になるか……!」
「労働力なら、パンを食わせてやればいくらでも集まる。金なら俺の『マジックバッグ』に腐るほど唸っている。邪魔な山があれば俺が雷で吹き飛ばし、森は蒸気耕運機で根こそぎ薙ぎ払う。……俺の帝国に、『不可能』という変数は存在しない」
俺は窓辺に歩み寄り、初夏の夜空に浮かぶ二つの銀月を見上げた。
俺の脳内にはすでに、巨大な蒸気機関車が汽笛を鳴らして平原を駆け抜け、大河には装甲蒸気船が黒煙を吐いて海へと下っていく、圧倒的な未来図(青写真)が完成している。
城塞都市(生産と政治の中枢)、迷宮都市タルタロス(無尽蔵のエネルギーと上位素材の採掘)、港湾都市リヴァリア(世界を呑み込む物流と貿易の心臓)。
この三つの都市を、太い4車線のハイウェイと鉄の道で繋いだ時。それはもはや、単なる点と線の繋がりではない。
「……覇道のトライアングルだ」
俺の唇から漏れた言葉に、グレンはもはや立っていることすらできず、深紅の絨毯に両膝を突き、その場に平伏した。
「すべては、俺のシステムを永遠に、そして全自動で回し続けるためだ。世界中から搾り取った富が、このトライアングルを駆け巡り、俺の蔵へと還流してくる。王都の貴族どもが古い剣と魔法の時代でふんぞり返っている間に、俺は物理と経済でこの世界を完全に塗り替えてやる」
「ははぁぁッ……! 我らが絶対者、オーバーロードの命のままに! このグレン、商会の全霊を懸け、大地に鉄の動脈を打ち込み、世界をトール様のパンと白銀の粉で染め上げてご覧に入れます!」
額をこすりつけるグレンの姿を冷徹に見下ろし、俺はグラスの残りを喉へと流し込んだ。
アルコールの熱波が、俺の身体の奥底で燃える野望の炎に油を注ぐ。
筋肉(タンパク質)に依存した古い物流の時代は終わり、蒸気と鉄が世界を蹂躙する産業革命の嵐が、いよいよ大陸全土を呑み込もうとしている。
初夏の生温かい夜風が、俺の『蒼黒の鱗羽鎧』を妖しく撫でていく。
すべてを掌握した十一歳の絶対者は、地図上に描かれた巨大な「覇道のトライアングル」を見据えながら、狂気と論理が入り混じった不敵な笑みを、その貌に深く、深く刻み込んだのだった。




