第103話:生態系のバグか、進化か「真・大森猪(グランド・ボア)
城塞都市が「白き死」と渾名される猛吹雪の白濁に呑み込まれ、俺が構築した温熱インフラの熱と氷室の備蓄肉が、民衆を抗いようのない狂信的な依存へと沈めていた冬の最中。
俺は五人の取締役に都市の歯車を委ね、独り、凍てつく大森林の深淵へと足を踏み入れていた。
目指すは、魔法と機械の境界を融解させる『産業革命』の心臓——究極の超伝導体『魔力銀』の原鉱である。
膝まで没する新雪を掻き分ける。十一歳の小さな肉体は、月光を呑み込んだ鉄羽と深海の青鱗が重なり合う『蒼黒の鱗羽鎧』に護られ、外界の牙を冷徹に弾き返していた。
一歩踏み出すごとに、凍てついた雪が「シャリッ……シャリッ……」と、ガラスを噛み砕くような硬質な悲鳴を上げる。
吐き出す息は瞬時に白銀の霧と化して虚空へ溶け、肺胞を刺す氷の冷気が、逆に俺の演算回路を極限まで研ぎ澄ませていった。
右手の黒い金属棒からは、時折「チリッ」と青白い火花が爆ぜ、焦げたオゾンの刺激臭が冬の静寂の中に微かな「現在地」を刻印する。
「……地下のノイズが耳障りだな。地脈が雪の魔力で飽和している」
『管理者権限:支配領域 Lv.5』を駆動させる。
瞼の裏側、脳髄から放たれた意識の触手を、雪に覆われた分厚い岩盤の底へと突き立てる。半径百五十キロメートルを覆う俺のレーダーは、何日も不眠不休で地底の地脈を走査し続けていた。だが、ミスリルが放つ青白い特異点は、厚い冬の帳に隠されて容易にはその姿を現さない。
その時だった。
『——警告。第一区画のサプライチェーンにて、リソースの異常な欠損を検知』
脳内の管理モニターに、どす黒いノイズが点滅した。
『先行市民』たちに管理させている、外縁部の自動狩猟ライン。そこに張り巡らされたモジュール式括り罠の稼働率が、ここ数日で急落している。いや、罠は確実に作動している。にもかかわらず、回収されるはずのレッサーボアという「資源」が、システムから消失しているのだ。
「……罠の不具合ではない。何者かが、俺の仕掛けた獲物を横取り(フック)しているな」
地下へ向けていた意識のベクトルを、地表へと一気に引き上げる。
『気配察知 Lv.4』が捉えたのは、周囲の凍てつく空気を不自然に歪ませるほどの、暴力的な『熱源』だった。
俺はミスリルの探索を一時中断し、雪を蹴ってその座標へと疾走した。敏捷(AGI)90を超越した速度は、雪原を滑る風そのものだ。
やがて、猛吹雪の向こう側に、惨劇の跡が姿を現した。
純白だったはずの雪原は広範囲にわたって赤黒く汚染され、強靭な鋼糸の罠は、根元から無惨に引きちぎられている。鼻腔を突くのは、むせ返るような生温かい血の鉄錆臭。そして、凍りついた空間を支配するのは、重く、太い、獣の呼吸音だった。
ズシンッ……。
大地が、腹の底から揺れた。
視界を遮る土煙を突き破り、なぎ倒された巨木の向こうから姿を現した「それ」に、俺は思わず目を細めた。
「……なんだ、この異形は」
体高は五メートルを優に超える。ダンプカーほどの質量を持つ巨体は、雪を弾く鋼線のごとき漆黒の剛毛でびっしりと武装されていた。顔面には、攻城兵器を思わせる四本の巨大な牙が、銀光を放ちながら反り返っている。
足元には、喰い散らかされたレッサーボアの残骸。それは、もはや原型を留めぬ肉塊と化していた。
「真・大森猪……とでも呼ぶべきか」
スリット状に細められた、血走った赤い瞳が俺を射抜く。
これは単なる突然変異ではない。俺が森に設けた「絶対的な死」という淘汰のストレスと、電磁パルスによる繁殖制限、そしてこの苛烈な冬。そのすべてが過酷なデバッグとなり、生態系が自ら生み出した進化の極致。
鋼糸を物理的に粉砕する質量と、極寒を耐え抜く濃密な魔力を宿した、新たな王。同族の肉すらも貪り食って己の血肉へと変換する、強欲な暴食の獣。
「ブルルルルルルッ!!」
大気を震わせる咆哮と共に、グランド・ボアが突進を開始した。
捲れ上がる大地、押し寄せる凄まじい風圧と生臭い熱波。
だが、かつて一頭の魔物の殺気に当てられ、恐怖でフリーズしていた三十代のサラリーマン「佐藤通」は、もうどこにもいない。
知力(INT)150。知覚の限界を突破した俺の網膜には、雪崩のような突進すらも、静止画のごとき幾何学的ベクトルとして処理されていた。
「……図体がデカければ、それだけ的も大きくなる。単純な論理だ」
俺は逃げない。黒い金属棒を、真っ直ぐに吹雪の中へ構える。
「『雷霆の網』、対個体・多層収束」
バギィィィッ! という鼓膜を裂く轟音。数十万ボルトの青白い閃光が放射状に展開され、幾重もの光の網となって獣の巨体を縛り上げた。
しかし——獣は止まらない。
剛毛に宿った魔力が天然の避雷針となり、俺の電撃を強引に体表で散らして雪面へと放電させているのだ。周囲の雪が爆ぜ、白い霧が立ち込めるが、獣はその質量を減じることなく迫りくる。
「見事なバグ(耐性)だ。ならば、内側に直接撃ち込むまで」
唇の端が、不敵な弧を描く。
俺は迫り来る牙の壁を避けるように雪面を蹴り、跳躍した。重力を嘲笑うかのように舞い上がり、死の突進をやり過ごす。
眼下を通り過ぎる、漆黒の剛毛に覆われた巨大な背。
「その装甲の隙間……頸椎の継ぎ目ならどうだ?」
空中で身を反転させ、落下の全エネルギーを金属棒の先端に乗せる。首筋の僅かな隙間へと、真っ逆さまに突き下ろした。
「『極大天雷』、零距離射出」
——ドゴォォォォォォォォォッッ!!!
棒を導線とし、凝縮されたプラズマの熱波が獣の体内へと直接雪崩れ込む。
「ギィゴォォォォォッ!?」
森を根底から揺らす、凄絶な絶叫。
分厚い脂肪と筋肉を内側から沸騰させられ、脳髄の神経回路を焼き切られたグランド・ボアは、自らの運動エネルギーを殺しきれず、雪原を数百メートルにわたって削りながら激突し、ついにその沈黙を迎えた。
肉が焦げる強烈な匂いと、オゾンの残香が立ち込める。
着地した俺は、チリチリと黒い煙を上げる巨大な骸へと歩み寄った。
『解体・加工 Lv.3』を起動。視界に走る光のガイドラインに従い、銀色の牙ナイフを一閃させる。刃が吸い込まれるような、極上の手応え。
「……これは」
驚くべき光景だった。皮下から現れたのは、これまでの汎用肉とは次元が違う代物。大理石のように美しい白銀の霜降りが芸術的に入り込んだ、真紅の極上肉だ。
そして心臓の傍らには、高密度に圧縮された深紅の魔石が、溶岩のような熱を持って脈打っていた。
「……素晴らしい」
血に濡れた巨大な魔石を雪空へ掲げ、灰色の光に透かす。
これは単なる生態系の反逆ではない。俺がこの森に負荷をかけ続けた結果生み出された、奇跡の「超高級ブランド」だ。
「この肉を、琥珀の魔酒と共に王都の貴族どもの喉に流し込めば……奴らは二度と、俺の帝国から逃れられない依存の奴隷と化すだろう」
バグを仕様と定義し直し、さらなる資本の還流システムへと組み込む。
『マジックバッグ Lv.4』の深淵へ、この戦利品をすべて飲み込ませた。
「生態系の反逆すらも、俺の資本だ。いずれ、こいつらを『養殖』する特別セクターを造るとしようか」
誰もが俺のシステムの中で命と欲望を消費していく。
貴族どもが古い権威にしがみつき、雪に震えている間に、俺はこの世界を一つの巨大な「企業」として完全に掌握し、骨の髄まで搾り尽くす。
「さて……横道に逸れたな。探索に戻るとしよう」
凍てつく吹雪が、額に滲んだ汗を心地よく冷ましていく。
十一歳の絶対者は、次なる富の奔流を確信し、白銀の森の奥深くで、残酷なまでに完璧な支配者の笑みを刻み込んだ。




