アボガド
昼休みだった、音楽室から静かにピアノの音が流れ始めてくる。
どこか悲しげで、虚し気なピアノの音。
それはショパンだった。
しかし生徒は誰もそれを聞いていなかった。
何時のころからか、昼休みに音楽の教室で、道子が弾き始めていた。
そもそも彼女は音楽の教師ではなかった。
数学の教師だった。
学校は道内でも5本の指に入る進学校。
進学校と言っても、トップの生徒でも国立大に入学する生徒は五、六人程度しかいなかった。しかも、受験の時期になると、その生徒には特別授業が行われている。
道子は学校に赴任してから三年目のまだ二十五歳の若い教師、その若さで女子生徒からも男子生徒からも慕われる存在だった。
その学校のグランドの隅には、大きな木が一本たっていた。
道子はその木が好きだった。
毎年、三月には何人かの卒業生がその木の下で写真を撮り、四月になると毎年、木の下で新入生が写真を撮るのだった。
学校は部活動も盛んだった。バスケットボール部、テニス部などは全国大会でも活躍し、いわゆる文武両道と言える学校だった。特に女子バスケットボール部は、全国でも優勝経験のある実力だった。
また、学校の近くには、生徒たちが、家に帰る途中によく寄っていく、古くて美味しいお好み焼き屋があり、道子も同僚の教師と時々、帰宅途中に利用していた。
そして今年も受験の時期が来て、特別授業が行われていた。琢磨は特別授業に参加していたが、彼は国立志望で、選抜されて特別授業に参加していた。
実は、教師でありながら道子は、人前で話すことが本当は苦手だった。黒板の前に立ち、生徒たちの眼差しにさらされ、話すことが嫌だった。何人かの生徒たちの真剣な眼差しは、彼女には刺すように痛かった。その眼差しは、どこか自分の心の内を探り出そうとしているようにさえも思えた。
そして、そんな生徒達の中の、ある眼差しを、何時頃だったからか、彼女自身の記憶にもなかったが、強烈に意識するようになってしまっていた。何故かその眼差しが、瞳が、彼女にはまるで紫の夜空に輝く美しい、二つの星の様に、静かに輝いて見える様になってしまった。その美しく輝く二つの眼差しが琢磨だった。
そんな道子は今日も教団の前に立っていた。何時もの数学の授業の最中だった。
「いいですか、最後の問二の結果を考慮して、答えはX=3となることが分かります。質問はありますか?」道子が言った。すると、その美しい眼差しが、スッと手を挙げた。琢磨だ。
「先生、最後の問二の結果がどうしても理解できないのですが」
道子はドキリとしてしまった。道子は質問の内容にドキリとしたのではなく、質問者が琢磨だった事にドキリとした。
しかし、その時ちょうど彼女を救うように、授業の終了を知らせるチャイムが鳴り響いた。
道子は言った。
「琢磨君、あなた特別授業を受けてるわよね?それに関しては今日の特別授業で説明しましょう」道子は内心ホッとしてしまっていた。
そして教科書を持つと、そそくさと教室を出た。
その日の数学の特別授業は偶然、琢磨一人だった。
二人は席を並べ、肩が接近する程に寄り添い、座っていた。
「いい、琢磨君。ここの式の結果があなたは間違っているわ」道子は、そう言うと、ずいっと琢磨に体を近づけた。
その時、道子に、彼の息遣い、彼の臭い、彼の体温がなまなましく感じられた。
「でも・・・」琢磨はそう言うと、振り向き、ノートに落としていた目を、そんな道子に向けた。するとその時、二人の顔が急激に接近し、二人の唇は接しそうな程に近ずいてしまった。二人は瞬時に見つめあった。道子は再びドキリとした。
と言っても琢磨は何も感じていなかった。
道子が一人でトキメイてしまっていた。
思わず彼女は身を引いた。彼女の頬は赤く色付いてしまっていた。
琢磨は、そんな 彼女の目の内を、不思議そうにただじっと、あの星の様に輝く瞳で見つめた。
「どうかしましたか先生・・・」彼が言った。
「えっ、いっ、いや・・・」
「琢磨君、大丈夫、今日の授業のノートを、家でもう一度、見直して御覧なさい。分かるはずよ」
「今日はこの辺にしましょう」彼女が逃げるように言った。
琢磨は何となく釈然としない気分で席を立った。授業の内容ではなく、道子の様子に釈然としないものを感じていた。
その日の帰り、道子は同僚の国語の教師、幸子と学校の近くの例の古いお好み焼き屋に寄っていた。店の中には、その時間、部活帰りの生徒が数人見られるだけ。
「道子先生、最近おかしいわよ」幸子は少しいぶかし気な表情を見せ、道子に言った。
「何処が?生徒から授業に対する不満でも聞いた?」
幸子が非常に鋭い感を持っている事を、彼女は知っていた。
「好きな人でもできた?」
幸子は、ためらわずに道子を問い詰めた。
「な、なに?私が恋をしちゃいけないの?」
道子は思わず語気を強め、幸子を睨みつけた。
「いや、私が心配してるのはね・・・。まさか、誰か生徒に・・・」
「何言ってるのよ。どうして私があんな子供相手に・・・」
そう言った道子は、きまり悪そうに幸子から目をそらせた。
すると幸子が言った
「あなた岡田先生の気持ち知ってるんでしょ?」
岡田は美男の体育の教師である。
彼は以前から道子に思いを寄せていた。
「このままでいいの?」
道子は幸子が岡田に思いを寄せているのを知っていた。
「あの先生・・・・・・」
「やめて!」道子が叫んだ。
「そう・・・、ならいいけど」二人は、それ以上何も言わずに伝票を持って立ち上がった。
そんな幸子の後姿を見つめ、彼女に気付かれているなら、琢磨本人も気付いているのではないだろうか。そう思った彼女の胸中に、恐怖というか喜びというか、強い衝撃が走った。
しかし当の琢磨はそんな事には、全く気付いてはいなかった。
彼はまだ17、今年の9月にようやく18になる。
一方、道子は5月にはもう26になる。
そんな道子は、自分の中の女心に醜さ程覚える彼女だった。
そして、いつもの電車に乗って10分程度の帰り道だった。
彼女はこの電車の中の10分がなぜだか好きだった。
地下鉄で帰れば5分とかからない家路だったが、なぜか電車の10分を選んでしまう。
家に着くと、彼女は母に言った。
「帰りに、お好み焼きを食べてきたから晩御飯は、いらないわ」
「あらそう」言わなくてもこの時間に帰ってくる時、道子は、だいたい晩御飯を済ませていることを母は分かっていた。
すると道子は二階の自分の部屋に上がり、着替えを済ませ、再び母のいる居間へ降り、そしてテレビのスイッチをつけた。
「お父さんは今度いつ帰ってくるの?」道子はテレビを見ながら何気なく母に聞いた。大手商社に勤めている父は、道子が高校に入った時から、函館に単身赴任に出ていた。
「知らないわ」母は少し怒ったように言った。道子には、その時の母の心の内が見えていた。父は函館に女を作って、何時の頃からか、札幌には滅多に帰ってこなくなったのだった。しかし、母にはそんな父を非難することはできなかった。
何故なら、もともと父が単身赴任することになった理由は、母の浮気にあった。
十年前、父が「函館に転勤になったから、みんなで引っ越そう」そう言った時、母は嫌だといった。道子は函館の街に魅力を感じていたし、どうせ大学は札幌の大学を受験するつもりでいたので、反対はしなかった。しかし、母は絶対に嫌だといった。その理由を父も道子も知っていた。その頃、母は週に二回体操に通い、その体操の講師と彼女は浮気をしていたからだった。
その講師とはもう別れたらしいが、そんな母が父の今の浮気を非難できるはずがなかった。母は、今の父の浮気を、あの頃の自分に対する復讐とさえ、とらえているらしい。それでも、道子は母の命を受けて、時々父の様子を探りに、函館に出かける事もあった。彼女にしてみればいい観光旅行だった。経費はすべて母から出るのだ。
「函館に様子を見に行ってくる?」道子がその夜、母に、かまをかけてみた。
「べつに、そんなことしなくても、いずれ帰ってくるわ、そんなことよりあなた自身の事考えなさい。何時、結婚するの?好きな人はいるの?」
母が投げつけるように、道子に言った。
「いるわけないでしょ」道子が言う。
二人の寝る前のいつものやり取りだった。そうして道子は、自身の寝室へ入った。
本当は、道子は家に帰っても琢磨が忘れられなかった。
あの眼差しが、瞳が、彼女にはまるで紫の夜空に輝く美しい、二つの星の様に、静かに輝いて見えた。
家に帰っても、道子はその美しく輝く二つの星が、愛おしかった。
その琢磨の眼差しが、彼女は恋しくてしかたなかった。
彼がいない、今の家での生活が寂しくてしかたなかった。
寝るときも、自分の寝室に入って、しばらく琢磨の、あの星のように輝く瞳を思うのだった。そして、「大丈夫明日会える。そして明日も特別授業があるわ・・・」
道子は思った。
次の朝、カーテンを開くと、そこには銀世界が広がっていた。初雪だった。
彼女は、本格的な冬が来る前に、一人暮らしを始めようと思っていた。
冬に引っ越す人は珍しいかもしれないが、彼女は少しでも早く、琢磨とそこで
「特別授業」がしたかった。
そう、一人暮らしを始めて、自分の思いのすべてを琢磨に告白し、優しく、愛おしく、そして激しく、そこで彼に「特別授業」を施すのだ。彼女は思っていた。
少しでも早く・・・・・。彼女は少し焦っていた。
部屋を出て、階段を下り、食卓のテーブルに着くと、彼女は朝食の味噌汁を温めている母にむかって、TVの朝ドラを見ながら、何気なく言った。
「この冬が始まる前に、私、家を出ようかと思うの」
「そろそろいいんじゃない」母は味噌汁を温めたまま、振り向きもせずに言った。
「あなたが家を出たら母さん、父さんと離婚しようかしら」
そう言った母に、TVの朝ドラを見たまま道子は言った。
「そろそろいいんじゃない」彼女は反対しなかった。
なぜならこの二人は、すでに、十年以上前から、夫婦として成立していないのだった。
そしてなにか、その日、すっきりした気持ちで、彼女は学校に向かった。
女子バスケット部が昨日、全国大会に勝ち進んだ事で学校は大盛り上がりだった。 去年も全国大会に行っている彼女達の実力からすれば、当然の結果だったともいえる。しかし、道子にはそのことが不安だった。
それは、去年、全国大会に行った時の、応援団長が、琢磨だったことだ。
それには理由があった。
女子バスケット部には琢磨の彼女、レナがいる。
そう、琢磨はレナと、つき合っていた。
だから道子は、琢磨が応援団長になることが不安だった。それは彼の受験勉強に及ぼす影響ではなく、これ以上、二人が接近することが不安だった。
道子は、自身でも恐怖を感じるほどに、レナを憎んでいた。
「道子先生、今年も女子バスケ部の応援団長をしたいので、特別授業をしばらく休ませてください」琢磨が道子に言ってきた時、彼女は怒りつけるように言った。
「ダメよ。あなた自分のことを考えなさい。今年あなた、受験なのよ。そんなことで、第一志望に合格できると思ってるの。今年の応援団長は、他の人に任せて、あなたは勉強に専念しなさい」
本当は彼女は心の中で思っていた「これ以上、琢磨とレナを接近させない。そして、琢磨はいずれ、私のものにする・・・」そんな彼女の思いも知らずに、琢磨は仕方がない、そう思って、応援団長は他の人に、任せることにした。
そしてその日の特別授業も、彼女は彼の横に座り、ほとんど彼につきっきりの状態だった。他の4人の生徒には、質問があれば、その生徒のところに行った。他の4人は「琢磨は難関国立が志望だから」とあきらめていた。
道子は彼の横に腰を掛け、彼の温かな体温、柔らかな息づかいを感じる程に接近し、ただ酔う様にうっとりとしていた。
そして昼休み、彼女はピアノを弾き続けた。いつの日からか、琢磨を思い、情熱的に弾き続けていた。ショパンを弾いていた。
その日の下校時間だった、廊下で琢磨とレナが話をしていた。
「分かった、レナ。このことは誰にも言っちゃだめだよ。僕が何とかする」琢磨が言った。
「でも、だれか先生に相談したほうが・・・。私、怖いわ・・・」レナは泣きそうだった。
「そうだ、道子先生に相談しよう。あの先生なら、きっとなんとかしてくれる」
「・・・・・」レナは黙り込んだ。
「君から明日、道子先生に告白するんだ」琢磨は何も知らずに言った。
その二人を見た道子は鋭くレナを見つめていた。
レナは、逃げるように、琢磨のそばから、離れていった。
一人になった琢磨に道子は近づき、
「応援団長の件はどうなったの?」道子は、それを知っていたのだったが、琢磨と話しがしたかったのだった。
「はい、道子先生の言う通りに、ほかの人に任せることにしました」琢磨が言った。
「そう、安心したわ。とにかく、今は受験勉強に専念するのよ」道子は言った。
琢磨は返事はせずに、少し俯き、その場を離れて行った。
そう言った道子は内心で思っていた。「何時か私の思いを彼に伝え、彼とレナを別れさせ、彼を私のものにするのだ。」彼女は心の中で強く決意していた。
そして、その日。帰ろうとする道子の後ろから、突然声がした。
レナだった。とっさに道子の顔色が変わった。その顔色には、明らかな嫌悪感が浮かんでいた。女の醜い嫌悪感だった。
「先生、お話があるんですけど」レナが言った。
「なに・・・」
「・・・・・・・」レナは無言で、俯いていた。
「何なの・・・・」その口調は生徒に対するものではなかった。
「ここではちょっと・・・・・」レナは困ったように俯いていた。
「音楽室に行きましょう」道子が言った。
二人は音楽室で座ったまま向き合った。道子はピアノの古い木製の椅子に腰を掛け、ピアノに肘をついていた。そして彼女は言った。
「私に何か用があるの?」
その口調からは、明らかに、敵意が滲み出ていた。二人は黙ったまま向き合った。
すると黙り込んでいたレナが、突然口を開いた。
「私、妊娠してしまったんです・・・」
二人の間が凍り付いた様に、時間の流れが一瞬止まった。
「えっ、・・・・」道子は、その瞬間に青ざめた。
彼女は、混乱した「まさか琢磨が、私の琢磨が、こんな子と・・・・・」そして道子は絞り出すような声で、訊ねた。
「相手は、誰?」
「琢磨です」レナは、俯きながら、はっきりと、言い切った。
俯くそんなレナを、道子は震えるような声で怒鳴りつけた。
「両親に言って、さっさとおろしなさい‼」
その言葉に、生徒に対する思いやりは微塵もなかった。
一人の女に対する、憎しみと憎悪に満ちた言葉だった。
しかし、レナが驚いた事を口にしたのだった。
「先生、私、高校を辞めて、子供を産もう思うんです」
「そして、琢磨と一緒に育てていこうと思うんです」
その言葉は道子にとって、レナからの挑戦状にも思えた。
「何言ってんの。琢磨がそんなこと、了解するわけないじゃないの!」
道子はレナを、再び怒鳴りつけた、その時、彼女の背後から声がした。
「いや、僕は了解しました!」
道子が驚いて振り向くと、そこに琢磨が立っていた。
「先生、僕は了解しました。僕は、受験をやめて、高校卒業したら、レナのために働きます!」
「ダメよ、ダメ。私が許さないわ!」彼女が激しく叫んだ。
「先生、レナを守ってあげてください」
「これから変な噂が立つと思うんです。ですから、レナが退学するまでの間、僕と一緒にレナを守ってあげてください」
それを聞いた道子は、呆然とし、何も言えなかった。
そして二人は、手を取り合って、音楽室を出て行った。
道子は思った。「許さない、絶対に許さない。琢磨は私のもの・・・・・」
仕事が終わり教員室を出ようとする道子にその日、岡田が声を掛けた
「道子先生、帰りにお好み焼きでもどうだい?」
「ごめんなさい、今日約束があるの」道子はありもしない約束を理由に断った。
初雪で覆われていた路面の白い雪は消え、並木から降った枯葉で、まるで絨毯が敷かれたように、赤黒く覆われていた。その赤黒い絨毯の上を道子は歩いていた。何かを考えながら・・・・・。
次の日、彼女はグランドに立つ木に近寄って行った。
その木の幹に「琢磨とレナ」と、二人の名前が刻まれていた。
彼女は、そのレナの名前を消して道子と刻みこんだ。
「それじゃあ、今日はこれまで」道子が言った。
みんなが、少し鬱陶しそうに席を立ちあがったり、弁当をカバンから取り出した。 昼休みだった。
琢磨が、道子に近寄り言った。
「先生、、昨日の話・・・・」
「ちょっと待って」道子は琢磨を制し言った。
「レナ、すぐに音楽室に来て」
レナは何も思わずに黙ったまま、音楽室へ向かった。
彼女が部屋に入ると道子が言った。
「そこに座って待っていて・・・」
レナは何も言わずに、言われるままに、音楽室のピアノに背を向けて、少し俯き、腰を掛けた。
すると道子も何も言わずに、ピアノに近づくと、少し重く、古い木製のピアノの椅子に、彼女の冷たい手をそっと掛けた。
そして道子はその木製のピアノの椅子を持ち、後ろから、何も言わずに座っているレナに近づいた。
そして彼女の頭の上に何も言わずに、その少し重く、古い木製の椅子を振り上げ、彼女の頭めがけて、憎しみを込めて、力いっぱいに椅子を振り下ろした。
その日も昼休み、道子はピアノを弾いた。悲しげに、虚しげに、血のついた木製の古い椅子に座り、道子はピアノを弾いた。
ショパンを弾いた・・・・。