予感
休日の朝は遅い。
すっかり太陽が昇りきってしまった頃、ベッドから起き上がった。
背中に鈍い痛みが走る。あぁ、くそ。
昨日喧嘩をしにいった奴らに、後ろからバッドで殴られたのだ。
そのあとすぐさま捕まえてボコボコにしたのは言うまでもないけど。
背中をさすりながら、襖一枚で仕切られた居間に行くと、母親も英吉もいなかった。
低いテーブルの上にはメモ用紙が一枚と、金。
英吉を連れて旅行に行ってきます。
角張った字で、そう書かれていた。行き先も、いつ帰ってくるのかも分からない。
あの女がこういう行動を取るのは初めてじゃない。ある日ふいに、英吉の手を取り俺の前から姿を消すのだ。そして何日か経てばふらりと帰ってくる。
まぁ帰ってきたところで交わす会話もないし、そもそも最後に目を合わせたのだっていつだったか思い出せないくらい。
俺としては、旅行にでも行ってくれた方がちょっとばかし家が広くなって気楽だ。
畳の上に腰を下ろし、煙草に火をつけた。
ベランダにある季節外れの風鈴が甲高く鳴る。
それを聞きながら、俺はテレビもつけずにぼーっとしていた。
スウェットから出した足先が冷たい。もう春も間近だっていうのに、なかなか気温は上がらない。
吸いかけの煙草を灰皿に落としたまま誰もいない居間にごろんと寝転ぶと、すぐに眠気が襲ってきた。
まさに眠ってしまおうとしたその時、携帯がけたたましく鳴り響く。数秒迷ってから電話を取ると、知らない番号だった。
「……もしもし」
電話口に向かってそう言うと、電話はすぐに切れた。イタズラ電話のようだ。
特に気にすることもなく携帯を閉じる。すっかり目が覚めてしまった。
せっかくの休日なのにすることもない。
何てしょうもない人生だ、俺。
昔だったら、こんな日はいつだってアイツが騒がしく押しかけてきていたのに。
「……」
やめよう。昔のことだ。あれから二年も経った。
もう、関係ない……。
暇を持て余した俺は、適当に着替えて家を出た。向かうは、いつも溜まり場になっている学校近くの廃棄工場。どうせ俺と同様に暇で仕方ない奴らが集まっているだろう。
最近エンジンを弄ったばかりのバイクにまたがった。大きな音を立ててエンジンがうなり声を上げる。近所に住む、買い物帰りのおばさんが嫌そうに顔をしかめた。
何の特徴もない街だ。こんな田舎じゃ、悪い噂はすぐに広まるようにできている。中学の頃から俺は腫れ物のように扱われてきた。学校でも、地元でも、家でも。
人通りのない住宅街を抜け、最寄り駅の前を走っている時、俺の目に意外な人物が飛び込んできて、危うくハンドルを手放しそうになった。
あの女――。
胸まで伸ばした真っ直ぐな髪に、いつも見るより薄めの化粧。
デニムのミニスカートを履いた彼女は駅の近くで腕を組み、仁王立ちをしていた。何か迷っているようにも見える。
そう、あれは間違いなく、いつも電車で見かける聖和高校の女。私服なので一瞬分からなかったけど、確かにあの子だ。
何でこんな所に?
分からないが、ここが彼女の降りる駅でないことは知っている。
彼女のしかめっ面を見たとき、俺は思った。あぁ、道に迷っているんだろうと。
「……」
とりあえず、離れた所にバイクを止めてみた。
同じ所を行ったり来たりしている女を見ているとどうしても放っておけない衝動に駆られた。
まぁ、俺には関係ないか――
迷った末、俺は再びバイクを走らせて女のそばを去る。
最後にもう一度振り向いてみたが、俯いていたため残念ながら女の表情は確認できなかった。
「よう、暇人」
溜まり場へ行くと、4人の暇人が集まっていた。
煙草を口にくわえたまま、自分のバイクを弄っている真二がニヤリと笑う。
今いるメンバーは俺を含め彼女のいない奴らばっかりだ。
モデル並みのイケメンだが性格の危ない真二、体はデカいがヘタレの緑川、チビのヤス、そして意外な人物、一年の光輝がいた。
「光輝がいるなんて珍しいな」
すると光輝は口角をきゅっと上げて鋭い眼で俺を見上げる。
眉毛のピアスがキラリと光った。
「俺も最近彼女と別れたばっかで暇なんすよ」
「あぁ、あのS女の美人だろ。何で」
「他に好きな奴が出来たって。しかも相手は進学校のお坊っちゃんですよ。やってらんねえ」
女なんて、と光輝は石ころを投げた。それは工場内の壁に当たり、乾いた音を響かせた。
すると緑川が口を挟む。
「いいじゃねえか。美人な姉ちゃんがいるんだからよ」
「いやいや。アイツはまじで凶暴っすから。女として見れないっす」
そう言った光輝の顔は真剣だった。光輝が首を振るたびに金色の髪が揺れる。
「あ、そういや愛地さん。今彼女いませんよね」
「それが何だよ」
「……いや」
愛地さんに春がくる〜、とわけの分からない(多分即興)歌をうたいながら意味ありげににやりと笑った光輝。
そんなことより、と煙草に火を点けた。
「お前の姉ちゃん紹介しろよ」
一度見かけたことがあるけど、かなりの美人だった。
しかし、無理っすと即答する光輝に若干のイラつきを覚えながら、あぁ?と返す。
「あいつ親父好きですから」
「ファザコン?」
「いや、30過ぎのオッサンと付き合ってんですよ」
「……まじで」
「まじっす」
……分からねえもんだな、人って。
「それに、愛地さん‘彼女’いらないでしょ」
意味深に光輝がにやりと笑う。
まぁな、と俺は返して煙草に火をつけた。
「あーあ、可哀相だな」
「は?」
「いや、こっちの話っす」