4時45分、3両目、ドア付近
あ、また――。
平日4時45分の電車の3両目。いつも同じドアに肩を預けて立っている男の子がいる。
名前は知らない。血液型も星座もどんな声をしているのかも、知らない。
彼はいつもガラス窓の外をぼーっと見ている。毎日毎日変わらない景色を見て飽きないんだろうか。
そんな私も、彼の横顔を飽きずに見ているのだけど。
初めて彼を見かけたのは、3週間前。いつもよりたまたま早い時間に乗ったこの車両で、彼を見つけた。
触れると柔らかそうな栗色の髪の毛に、二重に癖付いた瞳。左耳にはブラックストーンのピアス。整ったその容姿もそうだけど、何よりあの日彼の口端についていた新しい傷に目を奪われた。まるでどこかで喧嘩をしてきたよう。よく見ると、制服の袖に血のような斑点が着いていた。
綺麗な顔して、意外だ。
そう思った矢先に気付いた。
彼の着ている制服に。
真っ黒な学ランに、ボタンに描かれているあの紋章は――
市立大成学園高校
偏差値30以下と言われる県下でも指折りの馬鹿学校。
共学でありながら生徒の9割が男子生徒。
その上、学校は荒れ放題で不良の集まり。大成学園周辺の地域は、間違っても女一人で踏み込んじゃいけない場所ナンバーワンと言われている。
悪い噂は絶えず、ニュースになるような事件のほとんどは大成学園の生徒によるものだ。
私は直接学校を見たことがないんだけど、聞いた話によると学校を取り囲む塀には有刺鉄線が満遍なく張られているとか。
彼は、そんな大成学園の生徒らしい。
だけど、電車に揺られながら景色を眺める彼は悪い風には見えなかった。腰までずらしたズボンも、着くずしたシャツも、普通の高校生と変わらない。
確かにその日以外にも喧嘩したであろう新しい傷が増えていたり、学ランのボタンが外れていたりとはしていたけど。
(もしかして、本当はすごく恐い人なのかも)
見かけるたびそんなことを考えていると何だか違う意味で彼を気になっている自分に気が付いた。まさか、これが恋。何も知らない相手に。
彼の立っている位置から向かって斜めに位置する場所に座っている私。先に彼が電車を降りるまでのこの10分間が楽しみで、彼の姿を見つけては高鳴る胸を必死で抑えている。
電車が本橋駅に着くと、彼は降りてしまう。今日もまた、いつものようにポケットに手を突っ込んだまま、気だるそうに去って行った。
今日も話しかけられなかった。
あぁ、どうしよう――
「それって、ストーカー」
頬杖をついたまま、英里子がぶっきらぼうにそう言い放った。
まだ朝のHRが始まる前の教室。
電車の彼のことを相談したのに、これだ。
少しむっとした私はすぐさま、違うよと言い返す。
すると英里子はシンプルに装飾された長い爪を弄りながら退屈そうに言った。
「だって、話しかけもせずに見つめてるんでしょ。気味悪いよ、ミナミ」
「純愛だよ!嫌われるの怖くて話しかけられないんだもん!」
「そういうのは、純愛って言わないよ」
「……」
英里子は、美人だ。何をしても人より目立つ。
例えば私や他の子が髪を巻いたり染めたり、化粧をしても、英里子が同じことをすると何故か霞んでしまう。
故に生活指導に目を付けられやすい英里子だけど、女としてその才能は羨ましい。
英里子と毎日一緒にいる私も、頑張って濃い化粧をしたり髪を染めたりしているけど、やっぱり何をしても英里子にはかないそうにない。言わば目標なのだ、私の。
「じゃあどうすればいいと思う?やっぱり話しかけるべきかな!」
「いや、それはそれで気味悪いでしょ」
「だよね……英里子ならどうする?」
「そうね、」
少し考えるように空を見つめたあと、何かを思い出したように呟いた。
「あ、」
「なになに」
「大成学園なんだよね、その彼」
「うん」
「私のひとつ下の弟、大成学園だ」
「え、」
うっそ!と思わず叫んでしまった私に、近くで本を読んでいたクラスメートが迷惑そうに眉をしかめた。
だって、だって、英里子に弟がいたなんて!
しかもあの悪の巣堀、大成学園だなんて!
「弟大丈夫!?」
「なにが」
「だって大成学園だよ!」
「問題ない。中学の時からやんちゃだったから。うちの両親も元ヤンだし」
そう言えば、英里子も中学の時は荒れていたというのを別の子から聞いたことがある。英里子の口からは聞いたことがないから、あえて問い詰めたことはないけど。それに、今は今だ。
「今日聞いといてあげるよ、その彼のこと」
「ありがとう!でも分かるかな……特徴だけで」
「写メ。写メ撮っといて。今日もどうせストーキングするんでしょ」
「いや、無理」
「じゃあ知らない」
「そんなぁ!」
「写メなんて一瞬じゃん。大丈夫だって」
頑張って、とニヤリと笑った英里子が悪魔に見えた。
4時45分。今日も1分の狂いもなく、電車は駅に到着した。
帰るだけだというのに学校にいる時よりばっちりメイクを直している私。まだ一度も目が合ったことはないけど。
緊張しながら3両目に足を踏み入れる。
いた――!
やはり彼はドアにもたれかかって外を見ている。整った横顔を見ると、自然に心臓が早くなる。
私も座席に座り、足を組み、携帯を取り出しカメラの画面に設定する。
ここまでは順調。向かいの席にも隣の席にも誰も座ってない。というか、乗客自体が少ない。
そこでふと思った。
彼はどうして、席が開いているのに座らないんだろう。
何かこだわりがあるんだろうかと考えているうちに、電車は順調に進んでいく。
やばいと思った私は携帯のカメラをカバンで隠しながら彼の方に向けた。
目一杯ズームにしてから、シャッターボタンに指を添える。
これじゃ本物のストーカー女だ。バレたらやばい。完全に嫌われる。でも、バレなきゃ大丈夫!
焦る心臓に、冷や汗で滲む手のひら。
意を決してボタンを押した。
(っしゃ!)
彼に気付かれることなく任務を遂行できた。ホッとして全身から力が抜ける。
間違って消してしまわないようすぐさま保存する。
画面の中でも、彼はやはりイケメンだ。
そして早速この写メを英里子に送った。
返事はすぐにきた。
女好きそう、と。
英里子は同世代には興味のない年上キラー(それもかなりの)だから、彼の良さが分からないんだ。
とにかく、これで一歩を踏み出せた。
まさか電車内で女子高生に自分の写真を撮られたとは思っていないだろう彼は何も知らずに、落ちていく夕焼けに目を細める。
私も彼も、これから始まる恋にまだ気付いていない。
4時45分、3両目、ドア付近
(偶然がくれた恋だった)