6話 Pushing through:ごり押し
部屋にやってきた由美子は事情を知ると、
寮にある救急箱を持ってきて眼帯のガーゼを取り換えてくれた。
「だめだよー。定期的に交換しなくっちゃー」
「は、はい。す、すみません。
わざわざ、ありがとうございました」
心愛が実りすぎた稲穂のように頭を下げると、
由美子はニコニコした。
「それにしても中井さんは、
いつの間に松原坂さんと仲良くなったのねー?」
「え? な、なんで私のことを」
「知ってるわよ。同じ寮で生活しているんだものー」
同室の176センチですら本名をしらない心愛は首を傾げた。
そんなものなのか。
「松本先輩、ですよね?」
ソーニャが訊くと、由美子が膝の上で両手を重ねた。
丁寧な動きがすごく大人っぽい。
「ええ。私のこと知ってたんだー」
「有名ですよ。吹奏楽部部長。
1年生の頃から競争率の高いフルートのファーストで、
さらに成績優秀。T大学現役合格間違いなしって」
「そんなんじゃあないよー。教えてくれた先輩がすごかっただけ。
それより2人はもうご飯食べたー?」
話をそらした由美子を見るソーニャの視線が
険しくなったのを感じて、心愛は声を高くした。
「はい! 食べました!! お弁当ぅおおをぉ!!」
「・・・」
「・・・」
由美子はちゃぶ台の上に乗っかっている
空の弁当箱を見て、眉を寄せた。
「あー。だめだよ。外食ばっかりじゃあ。
今日の夜からは、みんなで食べよー。私が作るからーうふふ」
心愛はこころの中で、お母さーん、と叫んだ。
ソーニャの希望により、晩御飯は鍋に決定した。
由美子とソーニャは買い出しに行き、
留守番の間に心愛は2つのことを言いつけられた。
まず1つは、キッチンと共有スペースの掃除だ。
キッチンは鍋を作るために、
共有スペースはみんなで食事を摂るために、
ちゃーんとキレイにする必要があるのだ。
どちらも普段から使われている場所だけあって、
細かいところに埃が溜まったり、ゴミが落ちていたりしている。
心愛は掃除機と雑巾を出してきて、
スミからスミまできれいに掃除をした。
「よしっ。終わった」
掃除は嫌いではない。
心愛は2つめの言いつけを果たすべく、
寮を出て学校に向かった。
「あれ・・・この音」
校舎に入ったとき、どこからともなく笛の音が聞こえた。
この音は確か、筆を踏みつけられた時にも響いていたっけ。
心愛は山田に挨拶をするのも忘れて階段を登った。
あの時はとても悲しい音だと思ったが、
よくよく聞いたうえで、やはり悲しい感じがする。
「~♪」
確かフルートといったか。横に構えて吹く笛の音だろう。
そういえば、由美子がフルートを吹くのだと
ソーニャが言っていた気がする。
「ふぅ・・・ふぅ・・・はぁ・・・」
最上階になる4階まで上がると、
普段運動をしない心愛は息が苦しくなった。
今度は長い廊下を進んだ。
ここの突き当りにある音楽室から、
音は響いてきている。
「・・・お、おじゃま、しまー・・・っす」
少しだけドアを開けて中をノゾいた。
誰もいない。
そーっと中に入った瞬間、フルートの音が途切れた。
世界からすべての音が消えたかのような静寂が訪れる。
「なんだぁ、おまえは?」
「ふぎゃあああああああああああああ!!!」
突然背後から声をかけられ、
ぶったまげた心愛は腰を抜かして床に転がり込んだ。
「うぅぅ・・・・び、びっくりしたぁ・・・」
腰をへなへなさせながら振り返ると、
そこには銀色の短い棒を持った女子が立っていた。
身長は心愛より少し高い位だが、太い眉と目力のせいで
ケンシロウみたいに凄まじい威圧感がある。
「勝手に音楽室に入るな! 部外者がっ」
「ひぃぃ。も、もももも申しわけぇ!!」
心愛は打ち首を言い渡された罪人のように
音楽室から逃げ出そうとしたが、ケンシロウに首根っこを
ぐいっと掴まれて引き寄せられた。
「まてこらぁ!!」
「ふぎゃあ。やややめてくださいっ。
わ、私はただ、由美ちゃん先輩に言われて・・・」
「由美ちゃん先輩? 松本部長のことか?」
「はいぃぃ・・・」
ケンシロウは心愛から手を離すと、
銀色の棒を両手で大事そうに持ち直した。
「おまえ、松本部長の使いか」
「へ・・・へいへい。
そ、そうです」
無意識にゴマをすりつつ顔を上げると、
ケンシロウが持っていたフルートであることと、
スカーフの色で2年生であることがわかった。
「2年生・・・先輩・・・フルート」
完全にカタコトしかしゃべれない幼児と化した心愛を、
ケンシロウが見下ろしてくる。
「おまえ、楽器が分かるのか」
ケンシロウが太めの眉を上げた。
勝ち気な瞳が心愛を貫く。
「は、・・・はい。
ががが、学校の外からも、よ、よく聞こえてきます」
「そうか」
ケンシロウがちょっと嬉しそうに
手にしたフルートを見つめた。
「どう聞こえた?」
「え?」
「どう聞こえたかってきいたんだよ。
正直にいえ」
どう聞こえたかって、
もしかして演奏の評価をしろということだろうか。
吹奏楽のコトなんて何も知らないのに、
演奏の評価をしろといわれても、どうしたら良いかわからない。
「わた、わたし、素人・・・ですよ?」
「見りゃわかる。素人が聞いた音を知りたいってことだよ。
さっさと言えって」
心愛は無意識に、同級生の風景画を評価して、
大失敗をしたのを思い出した。
今思えば、学校生活が転落していくきっかけとなった出来事だった。
胸がきゅうっと締め付けられるように痛んだせいで、
ゴッホのことは思い浮かばなかった。
「あ、あの。
か・・・悲しい音だなって・・・お、思いました」
気付いたら心愛は、ケンシロウに胸ぐらをつかまれていた。
なんでこうなるのー。
すぐ近くにあるケンシロウの目は、
勝ち気なままだったが、少し悲しそうでもあった。
「おまえ・・・おまえに何が分かるってんだ」
そうですよー。
素人なんで何もわからないんですよー。
「あー! やっぱりいたー」
ケンシロウと心愛が声の出所に顔を向けると、
そこには笑顔の由美子と真顔のソーニャが立っていた。
「うおおおおーん。由美ちゃん先ぱーい!!」
心愛はゴキブリのようにカサカサ動いて、
お母さーん、ではなく由美子の後ろに隠れた。
「心愛ちゃん。遅いから心配したよー」
言いながら由美子がケンシロウに向き直った。
由美子とケンシロウ1対1の状況だ。
「ゆ、由美ちゃん先輩・・・」
いかに由美子がいろいろな意味で大人だろうと、
腕力と目力凄まじいケンシロウにかなうはずがない。
心愛は由美子の身体中から血が吹き出して、
『あぎゃぱー』してしまわないか本気で心配した。
「かさねちゃん。練習は終わった?」
「松本部長・・・うっす」
「こらっ。もう部長じゃないんだからね」
「・・・うっす」
はうあ。
あの暴れん坊なケンシロウが忠犬のように静かになっている。
さすが『フルートファースト、吹奏楽部部長、
T大学現役合格間違いなし』の異名をもつ由美子だ。
由美子は笑顔でケンシロウの手を掴むと、
ソーニャと心愛を見た。
「2人とも、この子は橘 三重ちゃん。
みんなかさねちゃんって呼んでるよ」
「か、かさねちゃん・・・?」
心愛が呟くと、かさねが目をぎらりと光らせた。
「おまえっ! 先輩をつけろ。一年だろうがぁ。
てか、松本部長を由美ちゃん先輩って舐めてんのかこらぁ」
「ひぃぃ」
心愛は恐怖のあまり由美子のお尻にしがみついた。
「いいのよ。かさねちゃん。
私が呼んでって2人に頼んだんだからー。
かさねちゃんだって、みんなみたいに由美って呼んでほしいなぁ」
「自分は、無理っす。松本部長を尊敬してますから。
それより、何か用事があったんじゃ」
「うん。そうだった」
由美子が音楽室の奥から、黒いケースを持ってくる。
心愛は笑顔を浮かべる由美子の頬が、少し赤らんでいるのに気付く。
「フルート。ずっと置きっぱなしでごめんねぇ」
「いえ。自分は気にしてないっす」
「かさねちゃんも一緒に帰ろう。
今日は鍋作るからね」
「自分も手伝います」
「ありがとー」
それから4人で音楽室を戸締りすると、
山田に礼を言って学校を後にした。
まだ17時ごろなのに、辺りにはもう夜の幕が下りてきている。
校門の脇にある小さな柵をすり抜けた。
ここから寮までは数十メートルの距離である。
由美子とかさねが2人並んで前を歩き、
ソーニャと心愛はその後ろに続いた。
「ようやく揃ったね」
由美子がこちらを振り返ると、とても嬉しそうに言った。
「何がっすか?」
言っている意味がわからないのか、かさねが小首を傾げる。
「居残り組みはこの4人で全部だよー」
「そうなんですか? 結構少ないんですね」
音楽室を出た後からずっと黙ったままだったソーニャが言った。
「逆だ。松原坂。
4人もいたら多い方なんだよ」
かさねが訂正する。
そっか。4人いたら多い方なんだ。
心愛はちょっとだけお父さんとお母さんが恋しくなった。
「あら、かさねちゃんも松原坂さんのこと知ってたのねー」
「知ってますよ。こいつ有名人だから」
横目にソーニャの表情が強張ったのが見えた。
これはまずい。
心愛はとっさだったので、
「わ、わたた、私は、知りませんでしたっ!
見たことも、ありませんでした!」
と口走り、どれだけ自分の視野が狭いか告白するハメになった。
瞳を細めたソーニャがこちらを向く。
彼女はマツ毛が白いから、目の輪郭が分かりにくい。
「さっき、山田先生も言ってたけど、
女子寮に居残り組が多い年は、奇跡が起きるんだってー」
「どんな奇跡っすか?」
「私も、気になります」
この手の噂みたいなのに、ソーニャとかさねが
興味を示すのがちょっと意外だった。
かくいう心愛も、ちょっとだけ気になる。
「いろんな悩みが解決して、新たな道がひらけるって」
「へー」
「マユツバっぽい」
とにもかくにも。
心愛、ソーニャ、由美子、かさね、居残り組の4人が揃った。
この4人で年末を過ごすことになる。
起こりうる奇跡を目指して。
ありがとうございました。
またよろしくお願いします。