15.求め、過ぎゆく時
「――目が覚めたか」
床に横たわったままの女に声をかける。
「ふむ。熱は下がったようだな」
その汗で髪の張り付いた女の額に、自分の手を当て確かめる。
「なにを――ッ!」
「無理に動くな」
手を当てられ驚く女。その拍子に傷が痛んだのだろう。美しい顔を、大きく歪めた。
「ああ、動いてもらわねば困るか。千寿姫、身を起こすことはできるか?」
「身を?」
「ああ、そうだ。ゆっくりでいい。身を起こして、できれば着替えてもらいたいが、無理なら羽織るだけでもいい。仕度をしろ」
命じながら、脇に揃えておいた着物に視線をやる。薄桃色の小袖。
「なぜ――」
「理由が知りたくば、己の力で庇に出ろ」
言い置いて、先に室を出る。
(ようやく目を覚ましたか)
そのことに、深く安堵の息を漏らす。
勝手に室を抜け出し、俺に襲いかかってきた千寿姫。
「民をどうした!」と食ってかかってきたが、それが限界だったのだろう。熱の塊のような体は、そのまま再び意識を失った。
(まったく。とんでもなく無茶な女だ)
熱に浮かされながら、何度も「民が」「民を」とくり返していた。
(それほどまでに領民を大事に思っていたのか)
出会った山中。
あの隘路で一人立っていたのは、奥へと逃げた民を守るため。
父親に命じられたからか。それとも彼女自身が領民を大事に思っていたからか。
「真保さま」
「姫が目覚めた。仕度を」
「はっ!」
庇で控えていた小姓に命じる。
「――着替えたか?」
小姓が離れていくのと同時に、室のなかでこちらに近づいてくる気配を背中に感じる。
「着替えた。だが、どういうつもりだ」
障子が開き、出てきた千寿姫。
傷を負った身で、小袖を着るのは辛かったのだろうに。それでもきちんと着替えて現れた。
「そのうちわかる。立っているのが辛ければ、そこに座って待てばいいぞ」
「断る」
フッ。
強情な女だ。
俺の前で弱っているところを見せたくないのだろう。
先程まで床についていたというのに。
今だって、熱の名残か、頬が濃い桃色に染まっている。髪はさすがに梳いたようだが、それでも病やつれしてる感は否めない。
「――姫さま!」
庭が騒がしくなる。
緑陰の濃い庭に、一気に人が溢れかえる。
「姫さま!」
「よくご無事で!」
集まった者たちが、姫に駆け寄り、口々に姫に語りかける。
「お前たち……、無事だったのか」
「はい! 姫さまのおかげです!」
老いも若きも。男も女も。
色褪せ、土で煮染めたような古い麻の着物を纏っている。草履を履いているものもいるが、裸足の者もいる。
姫が守ろうとした領民たち。
中には姫の無事を知って、泣き出す者もいた。
「久慈どの、これは……」
「姫が、会わせろ会わせろとうるさいのでな。呼び寄せておいた」
会わせろとうるさかったのは、千寿姫だけではない。領民たちもまた、姫は無事かと、この寺に押し寄せていた。
「そこで、心ゆくまで民と話すがよいぞ」
そばにいて、聞き耳を立てるなどと無粋なことはしない。
姫と領民だけ残し、小姓を連れてその場を離れる。
姫さま、姫さまと口々に話しかける民。その声に耳を傾けようと縁に腰掛けた姫。
時折、笑うような、うれしそうな声も聞こえる。
(慕われて……いるのだな)
角を曲がる時、一瞬だけ垣間見た領民に囲まれた姫の姿。
その横顔に、どうしようもなく胸が締め付けられる。
* * * *
(んあっ……!?)
目を覚まし、自分がさっきまで寝ていたことに気づく。
(ん、あれ?)
夢、見てたのか?
っていうかいつの間に寝てたんだ?
桜町から借りたノート。無理やり頼みこんで、試合までしてどうにか借りられたんだから。読んでる最中に寝てたらダメだろ。
(やっぱ布団のなかでってのが、まずかったか)
眠りコーリング、コーリング。
布団のぬくもりと心地よさが俺を眠りに誘ってくる。
それでなくても、夜の静かな自分の部屋。どんだけでも眠気が襲ってくる。
(ダメだ! 起きろ、俺!)
ガバッと布団をめくり上げ、ノートを片手に机に向かう。
パチンと点けた机の灯り。
滅多に向かうことのない学習机。机なら、机に向かって読んでたら、勉強感覚でちゃんと起きて読めるはず。
軽く頬を叩き、意識をノートに集中させる。
一文字一文字、とても丁寧な桜町のノート。その文字を文章を目で追っていく。
* * * *
「――先日は、ありがとうございました」
「いやなに。民に会わせろと暴れられたままでは、こちらも困るのでな。それより、肩の傷はどうだ」
「はい。少し痛みますが、それでもなんとか」
「それならよかった」
私にあてがわれた室を訪れた男。久慈三郎真保。
この男は、私の父を討った敵。けれど、こうして私の身を案じてくれる。私が気にかけていた民たちにも会わせてくれた。
「みなから聞きました。彼らを元の家に戻し、壊れた家屋などの復興に手を貸してくださっているとか。重ねて御礼申し上げます」
この男が連れてきた領民。彼らから伝え聞いたのは、各々無事に自分の家に戻れたこと。略奪狼藉などは起きておらず、それどころか食料や衣、家を直す人手まで用意されたという。
私の父を亡くしたことは悲しいが、それ以上の悪逆はなく、すぐに戻ってきた平和、日常に、誰もが驚いていると言っていた。
「感謝されるほどのことではない。戦をしてまで手に入れた領地。民草の暮らしを元に戻すのは、新たな領主として当然の責務だ」
新たな領主。
その言葉に、グッと口を引き結ぶ。
そうだ。
この千栄津は、父が印南の殿から預かっていた所領ではなくなった。戦で父が討ち死し、千栄津は、この男、久慈氏のものとなった。
(父さま……)
戦は世の常。
父が不甲斐なかったとは思わない。父はこれまで何度も戦を乗り越え、この地を守っていた。ただ、その父よりも、この男の方が戦上手だった。ただそれだけのこと。
(影孝さま……)
遠く会えない人を思う。
印南の若君。
明るく屈託のない若君。幼い頃より、兄のように慕っていた相手。
〝姫が十六になったら、祝言をあげよう!〟
そうおっしゃってくださってたのに。将来をともにするとお約束いただいてたのに。
(まさか、その十六の年にこんな目に遭うとは)
十六まで待っていただいてたのは、私の祖母と母が続いて亡くなり、その喪に服さなければならなかったから。遅くなった婚期。かわりに、必ず妻にしてくださるとお約束いただいていた。
(それがこんなことに……)
お優しい影孝さまのことだ。きっとあちらの城で、お心を痛めておいでだろう。
軽く目を閉じ、思いに区切りをつける。
「では、貴方さまは、この地の平穏を守ってゆかれるのか?」
「当たり前だ」
「……そうか」
こちらの問いかけに、短く答えた男。
民にとって、暮らしが平穏であれば、誰が主であっても関係ない。私の父の死を嘆き悲しんでくれる者もいたが、それもこの男の統治が父より上手であったら、薄れ、忘れ去られる感情だろう。
民にとって大事なのは、豊かに平和に暮らしていけることであって、その暮らしを保障してくれる領主なら、誰であっても構わないのだ。
少なくとも、新たな領主となったこの男は、民の暮らしを大事にしてくれそうだ。略奪狼藉が行われず、復興を第一に考えているあたり、領主として問題ない人物足り得るのだろう。
(なら、私の役目は終わった)
父から命じられたのは、民を守ること。だから――
「何をする、姫!」
男が叫ぶ。
私が取り出したのは、懐剣。鞘から抜き払い、切っ先を喉に突きつける。
「やめろっ!」
喉を突く覚悟。
一瞬の躊躇い。懐剣を奪おうとする男の動き。
その僅かな差で、手にした懐剣が弾き飛ばされる。
「――――っ! 離せっ!」
懐剣を取り戻そうともがく私に、男がのしかかる。
懐剣を。懐剣を持って、この喉を貫いて……。
「せっかく助かった命を無駄に散らすつもりかっ!」
助かった命?
助かりたいなどと思ったことはない。私の命は、あの山中で終わるはずだった。
あそこで、敵を一人でも多く蹴散らし、父に命じられたように民を守り抜き、影孝さまに「あっぱれ」と思っていただけるような華々しい最期を遂げるはずだった。
なのに、なのに――っ!
「自害などさせぬっ!」
舌を噛み切ろうとした口腔に、男の指が侵入する。
「ングッ……ゴホッ、エホッ、カハッ」
喉の奥を押さえつける指先に、えずきむせ返る。
息を取り戻したくて、喉の気持ち悪さを消したくて、体を丸め、何度もむせる。
「姫はなにか、勘違いしているな」
シュルっと解かれた腰帯。それが頭上に掲げられた両手を縛り上げる。
「俺が善意でお主を助けたと思っているのか?」
腰帯がなくなったせいで、はだけた小袖。それをさらに開き、私の素肌を空気に晒す。
「な、にを……」
何を言ってるのだ、この男は。
目ににじむ涙。拭うこともかなわないまま、男を睨む。
けれど、心が怯える。どうしようもなく怖い。
「真野康隆の娘。お主には、俺の妻となり、この地を治める扶けとなってもらう」
「だ、誰が、お前の妻になど……っ!」
「なかなか気丈な娘だな。悪くない。悪くないが、少しはたおやかなところも見せてみろ。でないと、俺の気が変わって、領民をなぶるかもしれんぞ。お前の代わりに、娘たちを一人ずつ凌辱していこうか」
「ひ、きょう、なっ……!」
「なんとでも言え。叫べ。大人しく従っておけば、それなりにかわいがってやる。そうすれば、案外俺も油断して、寝首を掻く機会があるかもしれんぞ」
新しい領主として、少しでも品格ある者だと思った己が悔しい。
男に組み伏せられた体。締め上げられた腕。矢傷のある肩。そして心。何もかもが痛い。痛くて仕方ない。
暴れても、男の力に敵わない。自分にのしかかる男に、されるがままに足を開かされる。
やめて。助けて。
叫びたい衝動をグッと抑える。叫んだところでどうにもならない。助けなど来ない。誰も助けてくれない。
だから。
「ああ、いいな。俺を睨むその目。そうだ。せいぜい俺を憎め。お前を蹂躙する俺のことを! その怒りに満ちた目を、体を屈服させる楽しみがある! 俺を憎め! 憎んで寝首を掻くぐらいの気概を見せろ!」
「いやあああっっ!」
体を貫かれる痛み。切り裂かれ、焼きごてを当てられたような衝撃。
目に溜まった涙が溢れこぼれ落ち、絶叫が室に響き渡った。