1.落ちてたノート
心は、静かだ。
風にざわめく木々のなか、一人立つ。心は、どこまでも凪いでいる。
――みなを頼む。
託された使命は果たした。
戦に民を巻き込まぬよう、みなを連れ、この山に逃し隠した。
(父さま……)
風に乗り伝わる煙の匂いに、瞑目し想う。
このくすんだ匂いは、城が燃えている証。父がいる、父と暮らした城が燃えている証。
(父さま……)
木々に遮られ、この目で見られぬことが幸い。見たらきっと、こうして立つこともできなかったであろうから。
歯を食いしばり、目が熱くなるのを抑える。
泣いてはならぬ。心を乱してはならぬ。
――みなを守れ。
それが父の願い。
――民を戦に巻き込ではならぬ。千寿、ソナタが守りぬけ。
それが父の遺した最期の言葉。攻めてきた敵に、最後までともに戦おうとした私にくだされた命。
その命に従い、私はここに立つ。
柴刈りや木の実を採りに、山に分け入る民たちが、くり返し歩いて残した轍のような、細く長い土の道。その少し開けたところに、私は立つ。
ここを。
ここを守り抜くのが私の最後の使命。
この奥には、逃げた民たちが息を潜め、隠れている。
父の居る城を陥落させた敵は、民を探して、この山にやって来るに違いない。
(影孝さま……)
城が攻められたこと。そして落城したことは、きっと影孝さまにも伝わっているはず。伝われば、彼ならばきっと、民を守るため、敵を倒しに来てくださる。
それまでの辛抱。それまで耐え忍べば。
〝千寿姫――〟
心のなか、そっと私を呼ぶ彼の声を思い出す。
影孝さま。
アナタの許嫁は、ここで戦い、アナタの助けを待っております。アナタの妻となる者として、立派に、その名に恥じぬ戦いを果たして参ります。
胸のなかで誓い、深く息を吐き出す。
山裾から響く馬の蹄と鎧のこすれる音。
その音を合図に、鞘から剣を抜き放つ。
左手に鞘、右手に剣。
武蔵坊弁慶のような強力無双ではないけれど。
それでも、この命をかけて敵と戦う。
瞼を開き、木の間から現れた敵を見据える。
馬に跨り、一際立派な鎧を纏った人物。あれが敵の将。
視線と手に、ギリッと力がこもった。
* * * *
(なんだよ、これ……)
放課後。
誰もいない教室で見つけた、一冊のノート。
タイトルもなければ、名前も書いてない、普通の、薄い灰色表紙のノート。それがポツンと、床に落ちてたから、こうして拾い上げたわけなんだけど。
(なんだこれ……)
なんかの教科ノートじゃない。
書き連ねてあったのは小説。それも、多分歴史小説とかそういうの。
それが、ちょっと硬い感じの文字で、書き連ねてある。
〝誰だよ、小説なんて書いてるやつ〟
普段なら、きっとここで「ププッ」とか笑うんだろう。小説を、それもノートに書くなんて、どんな陰キャ、根暗だよって。これで、恋愛展開とかあったら、「イターい☆キモオタ」って腹を抱えて笑うに違いない。
――けど。
(なんだ、これ……)
ノートを持つ手に力を込める。
さっきからずっと体が熱くなってきて、10月だってのに汗が止まらない。ドクンドクンと心臓の音が耳に響く。目は勝手に潤んでくるし、息を求めて開きかけた口は閉じることを忘れ震える。
(俺、これ、知ってる……)
なんかのテレビで観た、もしくはなんかで聞いた話。
違う。
(俺、これ、見たことある……)
薄暗い木立のなか。
小さな獣道のような所に立つ若い女性。
多分、今の俺と変わらないぐらいの年頃。
長い髪を後頭部で一つに束ね、袖の短い袴姿。
左手に鞘。右手に剣。
今の俺と同じように、血が沸騰しそうなほど体がざわついているのに、心は凪いだ湖面のように静かで。
ただ、ひたすらに目の前の敵だけを見据えている。
ハッとするほど美しく。冴え冴えとした剣の切っ先のような眼差し。
(アニメかゲームのキャラクター?)
それぐらいキレイな姿。
それを、なぜか俺は知っている。まるでこの目で見てきたかのように。
記憶にはないけど、でも、俺は知っている。
どうして――?
――ガラッ! ダンッ!
「ウピャッ!」
突然、荒々しく開かれた教室のドア。その音に、全身にビリビリと電気が走った。渦巻く思考から、襟首引っ掴んで戻されたような感覚。
「な、なんだよ……」
一瞬鼓動を忘れた心臓が、慌てて動き始める。
「そ、それ……」
扉を開けた人物。そいつも俺と同じように、息を荒らしている。あっちは、多分、走ってきたからなんだろうけど。
「ああ、これか」
言われ、指さされたものを軽く掲げる。
すると、そいつかズカズカと教室の中に入ってくるなり、無言のまま手のなかのノートを奪い取った。
「なにすんだよ、桜町!」
「……読んだのか?」
怒る俺に、冷静なそいつ。クラスメートの桜町。
「読んだら悪いかよ。落ちてたから、拾っただけだ」
机の中から漁って読んでたわけじゃねえ。
桜町の、銀縁眼鏡越しの視線に耐えられなくなって、プイッとそっぽを向く。
「そんなに見せたくないもんなら、ノートになんて書くなよ」
それか、ちゃんと落とさないように、自分で管理してろ。
なんで、拾った俺が悪いみたいな目で見られなきゃいけないんだよ。こういうのは、「自分の小説をクラスメートに見られて恥ずかしい!」って、お前が照れる展開じゃね? 女子なら、「きゃあああっ! 勝手に人のものを読んで! エッチ! バチーン!」みたいな。
男子校のここで、そういう展開はありえねえけど。
「――すまない。僕の不注意だった」
桜町がうなだれる。
あれ? 意外と素直。
「いや、まあ。勝手に読んだ俺も悪いし……」
ん? なんで俺、謝ってんだ?
よくわからない展開。
「読んだのは、最初だけ?」
「え、あ。うん。最初のページだけ」
続けて読みたかったけど、ページをめくるより早くドアが開いたから。
「……そっか」
桜町が、息を吐き出し、肩から力を抜いた。
「なあ、それってさ、お前が書いてる小説なのか?」
ヨッと、近くの机に腰掛け、問いかける。
「お前、すっげえな。小説を書くのもすげえけど、その文章力、マジですげえって」
「新里くん……」
「俺、小説なんて滅多に読まねえけど。それでも、グイグイ引き込まれる文章だった。映像が目の前に思い浮かぶっていうのかさ」
実際、俺には登場人物である「千寿姫」? の姿がクッキリ見えていた。彼女のまわりの木々の揺れも、鈍く輝く剣の切っ先も。風に揺れる髪も、引き結ばれたキレイな口元も。
「お前、小説家になれるよ。こんだけ上手きゃ、デビュー間違いなしなんじゃね?」
よく知らねえけど、最近はネットに投稿して、小説家になるってヤツもいるらしいし。こんなチマチマノートに書いてるより、ネットに上げたほうがいいんじゃね?
「……これは、誰にも見せるつもりはないんだ」
「へ? なんで? こんだけ面白いのに?」
かすれ、低く呟かれた声。不思議に思って桜町を見上げると、なぜか眼鏡を指でクイッと押し上げ、顔をそむけられた。
「――とにかく、拾ってくれたことは感謝する。けど、このことは、忘れてくれないか?」
なんで?
聞きたかったけれど、桜町は、ノートを持ってサッサと教室から出て行ってしまった。
今度は、静かに閉められたドア。
(なんなんだ?)
自分の小説をクラスメートに見られて恥ずかしい?
それとも、小説を書いていることを知られたくなかった? 誰にもバラされたくない?
(なんなんだ?)
そのどれとも違うような、微妙な桜町の態度。
そして。
(この動悸はなんだ?)
ノートに書かれた小説。
それを読んでから、俺の心臓、鼓動がうるさく鳴り止まない。