16 悪の花②
―――全ての始まりは10年前まで遡る。
モール型ショッピングモールがオープンしたばかり当時、佐藤千夏は大学生でカフェのオープンニングスタッフとして働いていた。既に別のカフェで働いていた彼女はスタッフリーダーであり、アルバイトのシフト管理まで任されていた。そして、施錠する店の鍵さえも預かっていたのである。
佐藤千夏には交際していた男性がいた。
その男は後に夫となるのだが、その頃はアメリカに留学をしていた。彼女はお腹の中には新しい生命が宿っていたが、異国の地で独り頑張る恋人のことを慮ってその事実を言うことができなかった。もしかしたら夏休みのときに帰ってきたときに話すつもりだったのかもしれない。
しかし、彼女は流産をしてしまった。
産婦人科を受診をしてなかったのでその事実を知っているのは彼女と相談に乗っていた親友だけ。その後、千夏さんは子宝に恵まれず、最初の子を堕ろした罰だと今も自分を責め続けている。彼女のような聡明な人でもときに考えられないようなミスをすることがある。それは間違いなくその類の悲劇だろう。
「あの場所は彼女と彼女のお子さんにとって特別な場所なんです」
晦虫は人の悪意を食べる。
しかし、悪意なんて概念は曖昧模糊なものであり、ましてやこの世の理と異にする怪物たちが考えることなどわかるはずもない。わかるのは事実だけであり、千夏さんに共棲した晦虫はそれを好物と判断したのだ。
二度の幼児失踪事件について僕と永井かふかが語ることはもうない。
もしあるとすれば、佐藤千夏がどうして閉店していた店舗の敷地に入ることができたか。おそらく10年前に受け取っていた鍵がまだ使えたからだろう。
とても信じられない話だが、
「そう? ニンゲンなんてそんなものよ。まあ、そんなクソのために自分を犠牲にするメロスが世界で一番愚かなんだけどね」
永井かふかはそう言って嘲笑うだけだった。
「どうして彼女を止めなかったんですか?」
でも、僕は人間の善意とやらどうしても信じてしまうのだ。
彼女の笑う顔が、クラヤミのなかで優しく微笑む顔がどうしても忘れることができない。
人間の心の全てが悪意だけだとは思いたくなかった。
「君はとても優しいね」
先生は僕の瞳をねっとりとした視線を見つめるとそう言った。
「…………は?」
「君はいつだって他人のために一所懸命。ちょっと前にあんなことがあったばかりなのに。先生はそっちの方が心配だな」
ひどく温かい手が僕の手を包みこむ。その感触はハッとするほど柔らかく、タオルケットのように優しい感じがした。
「答えをはぐらかさないでください」
「だって、意味のない質問に答える必要があるの?」
「意味がない?」
「ふふ、千夏を警察に突き出すつもりなんて全然ないくせに」
「―――っ⁉」
「對間瑪路主は佐藤千夏をもう赦している。だから、君は私と対峙しているわけだ」
1、2、3、4、5、6、7、8、9…………、
621、622、676、677、834…………、
白瀬夢花はまだ僕の瞳を見つめている。
世界で最も愛おしいものを見るように―――。
「先生はあなたのことがすごく心配。そんなことをしているといつか悪い狼に喰い殺されていまうわ。だから、私のことを信じて。千夏のことだって社会よりも千夏のことが大事だから何もしなかったの。私は千夏と同じようにあなたの味方でいたいの―――」
その悪い狼はアンタだろう、とは言えなかった。
言ったら唇ごと喰われるに違いないと理解していたからだ。
「共依存」と永井かふかは言った。
言葉の定義としては依存者に必要とされることに自分の存在価値を見いだし、依存関係をを続けていることをいう。その関係は無意識的なことが多いが、意識しても解消できない場合もある。僕と母さんの関係のように。
しかし、白瀬夢花の場合はそんな生易しいものではない。
差し出された他者の人生と魂を貪り食うことの快感を知っている。そのために求められれば肉体関係になることも厭わない。善行のもつ、魂が漂白されるような喜びは性交の快感すら到底及ばないのだから。
白瀬夢花の悪意は世界のどこにも露見していない。
「メロスくん、いつでも先生を頼ってね」
僕がこくりと頷くと白瀬先生はにっこりと笑った。
先生の頭の中には血のように鮮やかな花弁を咲かした晦虫が毒々しい外見を顕していた。
鼻が麻痺するような花粉の匂いはクラヤミのものか、先生のつけた香水のものか、それとも両者なのか。




