15 砂糖の灼ける匂い③
「ねえ」
帰り道、駅隣の駐輪場に向かって歩いていると後ろで不意に永井が言った。振り返ると夕陽の逆光で影になった顔が僕を見つめている。
「なんで何も言わなかったの?」
「何のことさ?」
「ふん、とぼけちゃって」
永井は僕の横にずかずかと怒ったような足取りで近づいてくるといきなり僕の耳たぶに噛みついてきた。もちろん甘噛みなんてものではないので鋭い痛みが襲う。帰った後に鏡を見たら永井の歯型が紅い痕になっていた。
「(あの子から犯人のこと聞いていたんでしょ?)」
耳元で囁く声を聞きながら憑りついた晦虫はこんな感じの声なのだろうかとぼんやり思う。永井の手がシャツの中にするりと入っていくとやがて腋を遠慮の欠片もなくまさぐる。そして、また蛇かウツボのように戻ると甲についた汗を舐めるのであった。
「ほら、やっぱり。嘘の味がする」
ピンクの舌がちろりと覗くと満足そうに笑う。
永井を放り出して夜の町を女の子を抱えて走っていたときのことだ(今、思うとパトカーや通行人に出くわしていたら完全にアウトだった)。不意に意識を取り戻した女の子が霞がかった意識の中で母親や父親の名前ではなく犯人の特徴を呟いたのだった。そして、それは佐藤千夏さんの特徴と完全に一致していた。
混濁した意識の中で浮かんでは消える自分を怪物の巣に放り込んだ魔女への憎しみ。終わらない悪夢は写真のような精緻な記憶となってあの子の中に刻まれたのだろう。しかし、家族と再会できたあの子からその悪夢をあえて他者が引き出す必要があるのだろうか?
佐藤千夏さんは今もあの家で独りで住み続けている。
どうやら5月が終わらぬうちに離婚したらしい。永井かふかとの交流は続いていて、お菓子が無料で食べられるのと殺人鬼が友達にいることを永井は喜んでいる。
「まあ、いいわ」
永井がくるりと回ると駅の方に向かって歩いていく。
「あーあ、今日はガッカリ。せっかく人殺しの魂が見られるかと思ったのに、あれじゃ悪意が足りなさすぎるわ。佐藤千夏は人殺しだけど、人殺しの魂じゃない」
「…………人殺しの魂なんて何だよ?」
僕がそう言うと永井は首だけ振り向くとやがて唇を禍々しく歪めませた。その顔は悪意に満ちていてよほど人殺しらしいものだった。
「実際に見ればわかるわよ」
記憶はリフレインする。
「今日は来てくれてありがとう」
千夏さんは僕たちを門まで見送ってくると少し寂しそうな顔でそう言った。太陽は巨大な燃える黄身みたいになっていて山々の奥に隠れようとしている。
「こちらこそありがとうございました。」
「ごめんねー、こんな遅くまで付き合わせちゃって。昔の話をしていたら楽しくて止まらなくなっちゃって。かふかちゃんもありがと。良かったらまたお菓子食べに来てー!」
永井は頭を少しだけ下げた。顔はすっかり来たときと同じ無表情に戻っている。
「こちらこそ昨日の今日で連絡して時間を作ってもらっちゃって…………」
「ううん、全然暇だったから! すごく楽しくてむしろラッキーだったから!」
女の子を生死の境に放り込んでおいてすごい精神構造である。しかし、晦虫の支配が強いときは一種のせん妄状態だといえるし、人を本当に殺せる人間にはある種の無責任さ、無関心さがあるのかもしれない。そんなうすら寒さを覚えていたが、千夏さんが次に言った言葉でそれは恐怖に変わった。
「そうだ! 夢花にもよろしく言ってね! ふふ、知ってはいたけど、あの子本当に中学校のカウンセラーをやっているんだねえ。急にクライエントの子と話してほしいとLINEで頼まれたときはビックリしたけど。あーそうそう、知っている? あの子がカウンセラーになったきっかけって実は私なの。昔から妙に相談しやすい子でね―――」




