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15 砂糖の灼ける匂い①


   15 砂糖の灼ける匂い


 その晦虫は自分のことをニンゲンだと思っていた。

 なぜなら、■■■という名前があるから。

 名前を持っているのはニンゲンだけだし、名前を持つためにはニンゲンの名付け親がいる。


 ■■■の願いはニンゲンの母親に会うことだった。

 でも、会えない。ニンゲンの身体を持っていないからだ。どうやら■■■はずっと昔にニンゲンの身体を持っていたらしいが、それを喪ってしまっていたらしい。

 子守歌のように母親が語る昔話で■■■はよく知っていた。

 諦めきれない■■■はやはり同じように諦めきれない母親の心に棲んでいる。

 生きとし生けるモノ全てを妬み、破滅を希う青い鬼火を餌にして。

 ■■■の母親はとてもよい親だった。 

 食餌はいつまでも尽きず、怪物の身体はどんどん大きくなっていく。食餌が絶えないように母親はいつまでも鬼火を燃やし続けた。

 そして、いつか母親の心を突き破りかけたとき、母親はついに見つけてしまった。

 我が子に会う方法を。


「これ、美味しいですね」


 永井の声にハッと我に返る。

 目の前のテーブルには置ききれないほどのお菓子が並んでいる。クッキー、マドレーヌ、シフォンケーキ、フィナンシェ、マカロンどれも手作りの焼き菓子で濃厚なバターと甘い砂糖の香りで満ちている。


「ほらほら、メロスも食べなよー」

「あ、う、うん…………」


 永井は自分が食べていたクッキーの皿を持ち上げると僕の目の前に突き出してきた。砂糖の焼けた匂いを嗅いだだけでお腹がいっぱいになってくる。仕方なしに一つ手に取ったものの、ぱさぱさと口の中の感触があるばかりで味はまったくしなかった。


「どうかな?」


 佐藤千夏(ちか)さんはテーブルの上で指を組んで僕を見つめている。

 高校まで吹奏楽部をやっていたという千夏さんの指は細くて長い。しかし、程よく筋肉がついているうえに日にも焼けているので虚弱な印象は全く受けない。そして、その指が、手が、小さな女の子を深淵が広がる顎に放り込んだのだ…………。

 テーブルの下で永井が僕の足をぎりぎりと踏み潰しながら僕にだけ聞こえる声で「吐くなよ」と囁いた。

「おいしいです」

「ふふ、中学生だといつもお腹が減って仕方がないんじゃない。ほんと、いくらでもあるからバンバン食べていってねー」

「はい」


 愛想笑いを浮かべると僕はコーヒーカップに口につけた。普段はコーヒーなんてほとんど飲まないし、ましてやブラックなんてまず選択肢としてない。しかし、このときだけは口の中の砂糖が浄化されるようで美味しくさえ感じた。


「千夏さんは本当にお菓子がお上手ですね。何処かでお店をやっているんですか? というか、あったら通いますよ」


 永井はマドレーヌを一飲みで食べきるとそう言った。そして、牛乳のたっぷり入ったコーヒーもやはり豪快に飲み干すのだった。その食べっぷりに千夏さんは嬉しそうに目を細める。


「お店はやっていないけど、作業所で障がい者の人にお菓子の作り方を教えてるの。ここにあるのはそのための試作品。でも、やっぱり作るのは好きだから一度作り出すと止まらなくなっちゃって、えへへ」

「そうなんですかー。でも、千夏さん、お子さんはいないんですか?」


 ―――っ! こいつ!?

「この家の子供だったら、これ毎日食べられるんじゃないですか? いいなあ」


 千夏さんは困ったように微笑む。永井の方を見ていたが、彼女は永井を見ていない。彼女は見つめていたのはこの世界の更に遠くの彼方だった。


「うーん、子供はいないんだ。一度だけ妊娠したけど、それっきりご縁がなくて、ね」

「…………ごめんなさい」

「ううん、いいのいいの! ごめんね、空気読まなくて! 別に今の時代よくあることだから。化学物質がね―――」


 殊勝な顔つきでふんふん頷いているが、話は右から左に聞き流しているに違いない。その証拠に永井の口の中は常に何かお菓子が入っていた。


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