6.クラヤミたちの饗宴③
「メロス」
これは何の変哲もない日常。
僕たちの住む町は戦場ではないし、アニメや漫画で描かれるようなバトルも起こることはない。あるのは弱者が弱者を痛めつけあう等身大の暴力だけだ。
「メロス、行こう」
横には永井かふかがいた。
僕にとっての”非日常”。
暗闇に喰われ続けるちょっと頭のネジが歪んだクラスメイト。あの異形の影たちと比べれば、男が女を殴り続けることなどとりたてて変わったものではない。
「…………あの人、死んでしまうよ」
「だからなに? それがあの女の選択でしょ。あいつは自分の家の布団で眠ることを選ばずにホームレスみたいに野垂れ死ぬことを選んだ。それだけの話」
女の人はもうピクリとも動かない。物理の法則に従って揺れるだけの人形と化してしまっている。あんなに殴られているのに意外と出ない血のせいで余計にそう見える。
「メロスは女の子を助けるんでしょ。メロスが助けるのはあいつじゃない」
そうなのだろう。僕はあの女の人を助けることはできない。目の前で眉を顰める永井かふかと同じように。
「えっ」
左手に握りしめた冷たくて温かいモノがフッと消える。この手を離してはいけないと知っていた。闇の中に溶けて消えてしまうことはわかっていたのに。
植込みの中に銀色に光るものを見つけると僕は掴んで宙に向かって投げつけた。
庇を沿うような軌道を描いてスチール缶が飛んでいく。僕らとはちょうど反対側の遊歩道に向かって。しかし、狙い通りの場所に落ちたとしても、大きな物音を立てたとしても、そこから先のプランは何もない。女の人がその隙に逃げてくれれば、男たちが我に返ってくれれば、そうでなければバット一本で乱入するしかないのか―――?
投げた缶はその場の思いつきとしては完璧な場所に落ちていった。三つ並んだ銀色のダストボックスの陰。投げられた方向が悟られずにかつ大きな音が出せる場所。もう一度やれと言われてもたぶん同じことはできないだろう。
「いてえ」
聞きなれた金属音は鳴らず、代わりに呻くような声が陰から聞こえた。そして、のっそりと起き出すと周囲をきょろきょろと見渡すのだった。
「誰だ、クソ」
嘘、だろ…………? なんであんなところに人が寝ているんだ? しかし、現実はそうなのだからどうしようもない。男が酔い潰れてゴミ箱の横で寝ていた。そして、僕はそこに向かって缶を投げつけた。それだけの話なのだ。
僕は呆然とその様子をただ眺めていた。男が起きても状況は変わらない。女を取り囲む連中はどうやら男が起きたことにまだ気がついていないようだ。
陰からのっそりと起き出した人影は決して大きくはない。桜の若木のような腕が腰あたりをしばらくまさぐっていたが、突然目を眩むほどの光が溢れ出した。
「誰か、いるぞ」
ようやく気がついた男たちが次々と振り向くと同じようにスマホを取り出し、LEDを点灯させる。直線的な光はナイフのように鋭く僕の眼球をえぐった。
「誰だ、テメー」
光の壁があっという間に僕を取り囲んでいた。女性を殴りつけていたときはどこか緩んでいた空気が急激に緊迫したものに変わっていく。
「なんだ、ガキじゃねえか」
無遠慮な手が僕の手や足を触り、頬を叩き、胸を小突く。スマホのシャッター音が鳴り、白い光が網膜を焼いた。ホワイトアウトした視界の外から嘲笑や唾が浴びせかけられる。
僕は連中のされるがままだった。脳の芯が痺れてしまったように完全に思考停止状態になっていた。ほんの少しだけ残った理性の欠片が遠い過去の記憶を呼び起こす。母さんが暴れ、家の中が嵐みたいになったときのことを。