36話:げに恐ろしきは我が故郷
トレヴィブルク公国を出ると、ついに私の故郷、フリース=ホラント大部族領に入る。
あまりいい思い出は無い。しかしながら、私は決着をつけなければならないと考えていた。
過去との決別である。母はどうしているだろうか、未だにあの宿屋を経営しているのだろうか。
今のところは別に嫌いな訳では無いし、憎んでいるわけでもない、困窮していたのは事実だし、仕方なかったと思っている。
「アーデルヘイトさん」
足を止めていた私にルーナが声をかける。
「やはり、嫌ですか」
「嫌ってわけじゃないわよ……でも、心の準備が必要なのは確かね」
そう答える私の顔を見て、彼女は……彼女の表情がわからない! いい加減銀仮面外して欲しい。
「そうですか、では急ぎましょう。そろそろ日も暮れます」
そう言って私の手を引っ張る。その大きな手は、とても暖かく感じた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
村に辿り着く、私の故郷の村、名もなき小さな村だ。街道に面しているので旅人が立ち寄ることもある、そんな普通の村だ。
私は……怖くなってフードを深く被った。男たちに、見られている気がする。いや、自意識過剰だろうか。
村は平和だった、特に変わった様子もない。村の中は懐かしい匂いがした。この匂いは嫌いだ、嫌なことを思い出すから。
村人たちの視線が痛い、私のことを覚えているのだろう。
私が歩くたびにひそひそ話をしているような気がする。
「大丈夫ですか?顔色が悪いですよ」
「……大丈夫よ、気にしないで」
心配をするルーナにそう答え、私たちは宿へと向かう。
この村には一つだけしか宿がない、私と母が営んでいた宿だけだ。
そこに向かうまでの間、村人の視線はずっと私たちを追っていた。
まるで監視されているような気分になる。
「巡礼団ってだけで目を引きますよ、アーデルヘイトさん」
「そう、そうよね、きっと、そう……」
自分に言い聞かせるようにつぶやく。
宿が見えてきた、その途端、足が動かなくなった。恐怖で動けないのだ。
身体が震える、呼吸が荒くなる、心臓の音がうるさい。
私は、私が思っている以上に、弱いのかもしれない。
その時、ぎゅっと手を握られた。ルーナの手はとても暖かかった。そのまま私を抱きかかえると、走り出す。
「院長、我々は野宿します!」
「それがよかろう」
「ちょ、ちょっと!ルーナ!」
「大丈夫です、何も問題ありません」
私は震えながら、彼女にしがみつくことしかできなかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
夜になり、辺りは静まり返っている。そんな中、私たちは焚火を囲んで座っていた。
パチパチと燃える炎を見つめながら、私は深呼吸をする。
そしてゆっくりと口を開いた。
「ねぇ、なんであんなことをしたの?」
するとルーナはきょとんとした仕草をして、答えた。
「だって、あのままじゃあなた、動けなくなっていましたよ」
確かにそうだ、その通りだと思う。だけど、いきなりお姫様抱っこされるのは恥ずかしいものがある。
「そうね……」
「それに、こうすれば少しは落ち着くでしょう?」
彼女は、いつもの銀仮面を外していた。もはや醜いと呼べる部分がなくなった顔がそこにあった。綺麗な顔だ、思わず見惚れてしまうほどに。
そんなことを考えていたら、いつの間にか私の顔をじっと見つめられていたことに気が付いた。慌てて顔を背ける。
「ルーナ、あなたが羨ましいわ。あなたの傷はきれいサッパリ消えてしまった」
「あら、珍しく無神経ですね」
彼女はニコリと微笑む。
「ごめん……」
「いえ、いいんですよ。気のおけない仲じゃないですか」
そう言って彼女は再び微笑んだ。私はバツが悪くてそっぽを向く。
しばらく沈黙が続いた後、ルーナが再び口を開く。
「でも、私は怒っているんです……アーデルヘイトさん、あなたの母親に」
その言葉を聞いた瞬間、心臓がキュッと締め付けられるような感覚がした。
「あなたとあなたの尊厳を辱めた、母親に対してです」
彼女の目は真剣だった、本気で怒っていることが伝わってくる。
「でも、ルーナ。騎士の世界では違うかもしれないけど、庶民の間じゃそう珍しいことじゃないのよ」
私は言い訳をするように言った。小さな宿や酒場では妻や娘、親族の女性を客にあてがうのはそう珍しくはないことである。
客の許可も得ず無理矢理部屋に押しかけてくることさえある。その方が稼げるから。私もやったことがある。
だから私もそれを否定するつもりはないし、むしろ当然だと思っている部分もある。
しかしながら、ルーナは納得していない様子であった。
「だとしても、あなたは傷ついているではないですか」
その言葉に、私は黙り込むしかなかった。
しばらくして、ルーナは再び話し始めた。
「アーデルヘイトさん、私は私の親友を傷つけた、あなたの母親が殺してやりたいぐらい憎い」
「私は……私は救われたから、傷ついているだけなの……」
幼馴染に連れ出されずにずっとあの場にいたら、きっと私は傷つきはしなかった。ただ黙って受け入れていただろう。
「ルーナ、あなたが言っていることは騎士の道理で……」
「ええ、そうですとも」
ルーナは吐き捨てるように言った。その声は怒気を孕んでいるように聞こえる。
「尊厳を、奪われたのならば、取り返さなければならないのです」
そう言うと彼女は立ち上がり、私に背を向けた。その背中は小さく震えているように見えた。
それから暫くして、彼女はこちらを振り返った。いつもの笑顔に戻っていたが、その目からは涙が溢れ出ていた。
「……すみません、少し取り乱しました」
私は何も言えなかった、彼女が泣いているところなんて初めて見たからだ。
彼女は涙を拭わない、きっと銀仮面をずっとつけてたから拭うという行為を忘れてしまっているのだろう。
「ルーナ、私は……私はどうしたらいいのかしら……」
「私はあなたが、尊厳を取り戻したいと考えるなら、そのお手伝いをしたいです」
彼女は優しい声で言った。だが、それはとても難しいことだと感じた。私にはそんな自信がなかった。
「……明日にでも、母と話してみる、怖いけど、それから決めても遅くはないと思うし」
「まぁ……いいでしょう」
ルーナは少し不満げな様子だった。
「さて、そこにいるのは誰でしょう?」
彼女は銀仮面を被り直すと、突然そんなことを言い出したので、周りを見回す。
人影が現れる、焚き火の明かりに照らされて現れたのは、見窄らしい服装をした懐かしい顔によく似た青年であった。
「あなた……ニック……?」
コクリと頷く彼の首には、奴隷の証である首輪がついていた。
 




