歯医者ですがごゆっくり
タコを噛んだら銀歯の詰め物が取れた。
鮮度が良すぎたか俺の歯が根性なしなのか、兎にも角にも奥歯がぽっかりとクレーターになってしまった。
もう、歯医者なんか久しく行っておらず、引き出しの奥から出したかつての診察券に書かれた電話番号は、現在使われていなかった。
仕方ないのでスマホで近場の歯医者を調べ、すぐに行けるか電話をした。
「──はい、八木沼歯科クリニックです」
「あ、すみません。銀歯が取れてしまったのですが、今から大丈夫ですか?」
「少々お待ち下さいませ」
電話の保留音と思われるエリーゼのためにが流れ、そのすぐ、音が止まった。
「お待たせしました。今から大丈夫です」
「分かりました。ありがとうございますこれから伺います」
「お待ちしております」
車で五分くらいの所だった。
小さな、全体的に古い印象の歯医者。
駐車場には一台赤のクラウンが停めてあり、医者は良い車に乗れて良いな、と愚痴を漏らした。
ペタペタと音が鳴るビニールの薄いスリッパを履き、内扉を開けるとベルが鳴った。
「すみません、先程電話しました田邉です」
「あ、はーい」
診察室の奥から、若い女性が慌ただしく駆けてきた。ペタペタと音が鳴らない辺り、質の良いふかふかのスリッパを履いているのだろうか。
「…………」
「……?」
その若い女性は、俺の顔を見るなり顔を止め、しばし呆然。しかし、俺が「あの」と切り出すと、女性は元に戻ったかのように手元のファイルを開き目を落とした。
「初めてですか?」
「ええ、銀歯が取れるのは初めてです」
「いえ、ココの病院は初めてですか?」
「え、あ! はい初めてです……すみません」
「ふふ」
笑われた。初めての病院で何たる失態。早く済ませて帰ってしまいたい気分だ。
「保険証をお預かりしますね」
保険証を見てしばしメモを取る女性。視線を落としたまま、口を開いた。
「お近くにお住まいなんですね」
「ええ、小さいときからこの辺に」
「この辺学校も少ないですからね、高校は沼矛高ですか?」
「ええ」
「保険証お返し致しますね。どうぞ診察室へ、奥の台へおかけ下さい」
受付の横の扉が開き、中へと通された。
外観と同じく古めかしい診察台が二台あり、手前側の診察台には、太めのオバさんが横たわっていた。
「大場さん。そろそろ固まりましたので、口をゆすいでお終いです」
太めのオバさんが高そうな赤いバッグを手に、診察室を出て行った。豚に真珠、そんな言葉が不意を突いて浮かんだが、そっと呑み込んだ。
「1180円です。はい、ちょうどお預かりします。今回で診察は以上です。お大事にどうぞ」
靴を脱ぎ診察台に座ると、目の前はブラインドになっており、僅かな隙間から赤のクラウンと俺の安っちい軽自動車が見えた。
外へ出た太めのオバさんは、赤のクラウンへ乗り、排気音全開で去って行った。
「金持ってんなぁ……」
「どうされました?」
「いえ」
女性が横に座り、俺の座席を少し倒す。
「あ、銀歯……コレなんですが」
ポケットから銀歯を取り出し差し出すと、女性が受け取りエアーを吹きかけた。
「口の中を診ますね」
さらに座席を倒され、女性の顔を上に見る姿勢となった。目が合い咄嗟に視線をそらすが、口の中を照らすライトが眩しく、何処を向いて良いのか分からない。長いまつげが印象的だった。
「あー、これですね」
「どうですか?」
「一度合わせてみますね」
取れた銀歯を持ち、クレーターの中へ。
「うーん……これはダメですね」
「えっ」
「鏡をどうぞ」
小さな手鏡を渡され、自分の口内をまじまじと見させられる。ハッキリ言ってあまり気分の良い物ではない。
「ココ、銀歯が残ってますね。取れるときに欠けたんですね」
「ダメですか?」
「作り直しですね」
なんという事だろうか。タコ如きに一矢……いや、一歯報いられてしまった。
型を取って翌週に入れる。二回も通うのは実に苦痛だ。
「それと」
「?」
「ココに虫歯が」
「えっ……」
前歯の横の横。歯の横に小さな茶色の点が見えた。
「虫歯ですね♪」
「は、はぁ……」
にんまりと、嬉しそうな笑顔が見えた。
俺はちっとも嬉しくなんかない。元来歯医者なんか大嫌いで、無人島に一つだけ持って行けないとしたら、容赦なく虫歯菌を選ぶくらいだ。
「じゃ、口をゆすいでレントゲンを撮りますね」
「…………」
席を起こされ、小さな紙コップで口をゆすぐ。
気乗りしない面持ちで、診察室の最奥にあるレントゲン室へと踏み入った。
「前、失礼しますね」
腰掛け、重い謎の巨大な前掛けをさせられる。
首の後ろでマジックテープで留める仕組みなのだが、手を後ろに回された時少しだけ良い匂いがした。
「開けて下さい」
「あー……」
「ココ、人差し指で押さえてて下さいね」
「あい」
「いきますよー」
──ブーッ。
「はい終わりです。席に戻って口をゆすいで下さい」
二度目の良い匂いで席に戻り口をゆすぐ。
診察台から伸びている作業台に、先程のレントゲンを貼り付け、女性が微笑んだ。
「では削りますね」
「え?」
少し待って欲しい。
普通削るのは先生の仕事では?
歯科助手の若い女性は、隣で吸引ノズルを持って時折口の内側をカポッと吸ってしまうお茶目をするのが仕事ではなかろうか。
「あ、あの……先生は?」
「え?」
サッと引き出しが開く音がした。
カチッと何かをはめる音がした。
トンと作業台にドリルの先が大量に置かれた。
細いやつ、太いやつ、平らなやつ……タニシみたいな渦巻きのやつは何に使うのだろうか?
──ウィィィィン
「私が先生です♪」
「は?」
口の中に嫌な音が入り込んだ。
ドリルの先端が歯に辺り、更に嫌な音が鳴る。
「あああああ……」
「痛いですか?」
「いえ……苦手なだけです」
「直ぐに終わりますので」
ドリルの先端を変え、回転音が口の中に鳴った。
──キィィィィ……。
「あああああ……」
「すぐ終わりますからね」
「あああああ……」
「すぐ終わりますよ~」
「あああああ……」
「はい」
地獄の鐘のような苦痛極まれりから解放され、喜びの顔。これで終わりかと思うと耐えた自分を褒めてやりたいくらいだ
──カチッ
待って頂きたい。
もう終わりなら何故ドリルの先端を変えた?
「あと少しだけ♪」
「…………」
「開けて下さい」
「…………」
「開けて下さいね」
「…………」
「あーん♡」
「……あ」
──ウィィィィン
「あああああ……」