惑い
貴方はこの小説を、読んだ事があるだろうか?
有るならばもう見る必要は無いし、無ければ読める迄読み続けるべきだろう。
貴方がこの本を目にして、見れば見る程にこの本を読んでいない。
読む行為とは、絵柄あるいは文字を目で追い、理解することにある。
だが、この小説を読む事はただ文字の羅列を目で追い、書いてある事を頭の中に滑らせて流れ出させるだけの行為に過ぎない。
故に貴方は今この小説を読んでいない。
では、貴方がしている読む行為が読む事でないならば何かと問われると甚だ疑問が残る。
貴方は実際にこの小説に目を通し、文字を認識し理解したつもりになっているのだろう。
ならばそれは読む事になっているのか?
違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う。
何も理解していない。
貴方は何も理解していないのだ。
理解しているならば貴方はこの本を読まず、理解していないならば貴方はこの本を見ているに過ぎない。
そう貴方は何も理解していない。
理解していないが故にまだこの小説を見ているのだ。
貴方に見られるこの小説は憐れであり恥辱すら感じるだろう。
恥辱に塗れ、悲しみに沈み、涙して眠り耽るかもしれない。
恥部を隠し、頬を染め、悲しげに貴方に見られているのは、この小説にそれを喜ぶ者が居るからであり、恥ずかしげも無くジロジロと見ることは早急に止めるべきだ。
だがこの小説に意識は無く、観られる事を止める術もない。
ならば貴方が見ることを止めるしかない。
貴方はこの小説を見る事を止め、読み進めなければならない。
読み終えた時、貴方には惑いがあるかも知れないが、それは貴方がこの小説を読んだ訳ではなく見ただけに過ぎないのだろう。
ならばまた貴方はこの小説に目を通して読める迄は何度でも見続ける必要がある。
何度見られようと彼は喜び、この小説は悲しむだろうがそれがあるべき姿であり、この小説の隠された喜びなのだ。
ここまで見た貴方は小説を閉じて、また開き理解するまでこの行為を続けるのだ。
それが読むという事である。