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公認ストーカー神崎の代筆  作者: ヒョードル
第一章 小説家、殿岡瑠璃子の場合
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九頁目 章末

 色彩は、応接室脇の机に生けてある一輪の花と、そこに座って書類を眺めている女の眼鏡だけだった。


 簡易的に誂われた応接室には、ほかに色彩がない。厳密にいえば、黒や茶、灰色などの色彩はあるのだが、目に入るのは緋色の花と細く縁取られた眼鏡の紅赤だけである。


 神崎は頭を掻きながら朝日に火をつけた。


「石田と黒田。てめえらが来るのは仕方ねえ。俺が呼んだんだからな。だがよ、なんであんたまでここにいるんだ、ジジイ」


「私がここに来てはいけないかね、神崎君。あの扉も喜んでいたみたいだが?」


 留紺の着流しに白い中折れ帽を被った老人は、神崎の前に置かれている箱から一本煙草を取り出し、火をつけた。桜の絵図が描かれている箱を眺めながら老人は続けた。


「やはり朝日はうまいな。文豪の筆の薫りがたまらない」


「よく言うぜ、加納のジジイ。あんたからたんまり貰った報酬じゃねえか」


 ソファーに座って煙草を燻らせている加納の横で、体を小さくしている早苗が間に入った。


「加納先生は……何ていうか、ははは。はっきり言って黒田さんの責任です」


 ソファーの横に立っている黒田が顔を真っ赤にさせながら、両手に持っている手提げ袋をテーブルに置いた。


「宝来屋のようかん、ありったけです。すみません。買った後に会社に戻ったら、運悪く加納先生にばったり会っちゃいまして。全部吐きました」


「人聞きの悪いことを言うな。だいたい黒田君が私をあれこれ疑っていたのが悪いのだろう。ふん、老害扱いしおって」


「すみません。加納先生にもいずれようかんを山ほど差し上げます。黒田さんが」


 はあ、と肩を落としている黒田を横目に、早苗は鞄から綴り紐で纏められた原稿用紙の束をテーブルに置いた。


「あれから数日、色々手直しをしていたら時間が掛かりましたが、脱稿しました」


「早えじゃねえか。ジジイも読んだのか?」


 加納は黙って煙を鼻に昇らせ、一度首を横に振った。


「俺も信頼されたもんだぜ。おい、黒田。てめえはどうだ」


「は、はい。一応読みました」


「んで、お前の目から見てどうだ」


「ええと……正直少し下品だと思いました。思いましたが、久しぶりに石田さんの小説で胸がすごく苦しくなりました。あれほど怒りを覚える主人公も初めてでした」


 黒田の目は原稿用紙に向けられている。


 神崎は原稿用紙の束を手に取り、捲ることなく「なら、いい」とだけ吐き、一番下の一枚だけを強引に取った。


「この一枚は預かっとくぜ、石田早苗。あとはいい。読むまでもねえ」


「あ、それは……。はい。分かりました」


「ちょっと! 何でですか! せっかくようかんも半分自腹で買ったのに。せめて読んでください。石田さんも何か言ってくださいよ」


 茹で蛸の顔をした黒田を制したのは加納だった。


「黒田君。どうやら私がお供をしたことで読む必要はなくなったのだろうて。素直に従って今日は帰りなさい」


「自惚れんなよジジイ」


 そう言って神崎と加納は哄笑した。


 早苗と黒田に帰るように手で促すと、渋々二人はソファーを離れた。扉の外に出るまで言い合いをしている二人を、春野が手で口を抑えながら見送った。


 扉の方からする金属の咬み合う音を確認すると、加納は浅く座り、前傾に姿勢を変えた。薄く笑っているようにも見える。


「なあなあ神崎君。今回は何をした?」


「なあに、いつもと変わらねえよ。ただあの女、今までの誰よりも簡単に引っ掛かりやがった。危うく一度髭を剃り忘れたぜ。大事なシーンだってのによ」


「ふむ。黒田君の話によると、今回は二週間と少しか。して、契約は?」


「二ヶ月だ」


 それを聞いた加納は事務所に響き渡るほどの声を上げ笑った。


「幾日残すつもりだ。もちろん続行なのだろう?」


「ああ。暇つぶしだ」


 そう言い、神崎は立ち上がり、曰くのある扉に進んだ。そして小さな覗き穴に顔を近付け、加納に聞こえるように独りごちた。


「へっ。あの女。金赤じゃなくて普通の原稿用紙買いに行きやがったみたいだぜ。黒田がそれ聞いて憤慨してらあ。あいつも自分の名前が惜しい事に気付きやがれってんだ」


 神崎の後ろからご機嫌な声がした。


「官兵衛……か。私には君の名前の方がよっぽど恐ろしいがね。そんな君にその扉を使ってもらって光栄だよ。譲った甲斐がある。乱歩の扉、いや、ふるいの錠、と君は呼ぶんだったかな」


 春野が「お疲れ様でした」と神崎に敬礼の姿勢を取り、加納に向かって、テーブルを手で示した。


「ほう、さっき神崎君が取った最後の一枚か」


 神崎がソファーに戻ると、加納が一枚の原稿用紙を手にしていた。金赤と呼ばれる原稿用紙は、春野に似ている香りを発していた。




五十一頁目、


神崎さん江。本当に有難う御座いました。これが最後の金赤になるでしょう。先日、小説家の担当者は結婚するつもりで担当になるべき、と安西さんに言われました。気付いたのはそれからです。担当者・・・は黒田さんでなければ嫌だ、と。安西さんは、引っ張っていきたい、と仰いましたが、私は共に歩みたいと心から思いました。だからあの五枚の続きが書けたのだと思います。一時でも安西さんに浮ついた贖罪として。もしかしたら黒田さんは、私と同じで未熟なのかも知れません。だから共に歩み、共に成長してゆきたいのです。私と黒田さんは、過去の亡霊である殿岡瑠璃子を捨てます。スニーカーも捨てます。石田早苗を懸命に守ってくれた黒田さんに報いる為にも、これからは石田早苗として書いてゆきます。その決意として、金赤ともお別れをします。お礼です。秋桜を一輪押します。花言葉も嬉しかったです。追伸、安西さん素敵でしたよ。割と真面目に考えちゃいました。




 朱色よりも光沢を発している罫線が入った原稿用紙には、一字も余ることなく文字が詰まっていた。


「なんとも現代人らしい恋文だな」


 加納は原稿用紙の左下に押されている秋桜を優しく撫でた。罫線の色よりも淡い、薄紫色をした秋桜の押し花だった。


「あんたもそこに自分の名前を挿れてる紙を使ってんだろ」


「名前入りの原稿用紙を使う作家は多いからな」


「まったく生娘みたいな意趣返しだぜ」


 神崎は再び朝日を一本口にし、口の端を上げた。


 その会話を聞いていた春野が、湯飲み茶碗を音もなくテーブルに置き、眉尻を下げた細い目を神崎に向けた。


「神崎様。では――」


「ああ。報酬はもう要らねえ。誓約書の原本に書いて送っとけ。しかし、またいいもん貰っちまったぜ。次世代を担う女流作家が金赤に書いた恋文かよ。しかも名入ならぬ花入だ」


 外界との交わりを断絶するモノクロのような事務所に、色彩がひとつ増えた。





第一章 了

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