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公認ストーカー神崎の代筆  作者: ヒョードル
第一章 小説家、殿岡瑠璃子の場合
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五頁目

「つまり、小説を読んで力になってくれ、ということですか?」


「初対面で図々しいのは百も承知です。のっぴきならない事情がありまして……」


 椅子から立ち上がった早苗は安西に向き直ったものの、パンプスの入った箱を見ながら答えた。


「やはりあなたは作家さんですね。のっぴきならないなんて言葉、あなたのような若い女性から聞くことなどありませんから」


「……そうですか。でも切羽詰まってるのは事実なので」


 ははは、と笑う安西のげんは紳士だった。そして、立ち上がってから気付いたのだが、上背がかなりあった。顔を確かめようと見上げた早苗は自然と上目遣いになってしまい、目が合った途端に顔を背けてしまった。赤く染まった片頬を安西も見ているに違いない。


「もちろん構いませんが。とは言っても、まだ警戒はされているようですね」


 警戒ではない、と言いたいが、脳が動悸に追い付いていない早苗は、黙るほかなかった。


「ではお近づきの印と、突然ナンパをしてしまったお詫びとして食事などいかがですか? 他意はありません。もちろん僕がご馳走します」


「え? ナンパ? いつナンパしたんですか?」


「いやだなあ。今さっきですよ。満寿屋の金赤を出しに僕が声をかけた。本当は僕が釣られたんですけどね」


「でも、ナンパのお詫びで食事だなんて、変な誘い文句ですね」


 やけに女慣れしているなと思った。しかし、嫌味はない男だ。下心も感じられない。そもそも仕事内容と肩書を聞いてすり寄ろうとしたのは早苗自身である。そして、久しく覚えていない感情が芽吹いた早苗にとって、断る理由が見つからなかった。


 無精髭と、重力に逆らった寝癖が早苗の脳裏に蘇ったが、安西の健康的な笑みがそれを彼方に追いやった。


「いかがですか? あなたのお話も聞かせてください」


「是非お願いします」


「ありがとうございます。いつなら空いてますか? 僕も予定が色々と……」


 安西は慣れた手付きで手帳をめくり始めた。盗み見た手帳の中はぎっしりと付箋が貼られている。


「あ、そっか。お忙しいですよね」


 まだ語っていない事情に斟酌をしたのは安西だった。「あれ? たまたま・・・・明日空いているなあ。明日の夜に神谷町は?」とのわざとらしい主導に早苗は、「はい!」と大きくうべなった。


 それを合図に二人揃って喫茶店を出た。


「そういえばお名前、原稿用紙が重なって見えませんでした。伺っても?」


 いつの間にか斜陽に変わっていた鋭い陽光は、銀杏の影を安西の口元に揺らしていた。


「殿岡瑠璃子です」





 ◆





 約束の神谷町駅に着いた早苗はスマートフォンを見た。今朝神崎に送ったメールの返信を確認するためだが、返信はなかった。安堵と罪悪感が胸を圧迫するが、今は割り切ることにした。


 神谷町駅を出て桜田通りを三田に向かい、飯倉の交差点を下った途中に店はあった。「創作料理のお店ですからテーブルマナーは不要ですよ。リラックスしてください」と合流した安西に言われたが、早苗の焦りを消すにはまるで不十分だった。


 動物のマスコットが描かれたシャツに、チェック柄の薄い上着を羽織っただけの早苗は、例のごとく傷みを隠しきれていないスニーカーを履いている。


 ファミレスか大衆居酒屋だろうと高を括っていた早苗の前には、煉瓦造りの瀟洒しょうしゃな建物がライトアップされていた。背後では橙を灯した東京タワーが天に向かって伸びている。


「やっぱりやめましょう。今日お腹が痛くて」


「大丈夫ですよ。個室を予約してありますから」


 大きなブランドショップの手提げを持っている安西は、たじろいでいる早苗を中にエスコートした。何をしても何を持っても絵になる男は、昨日よりも鋭さの少ない、早摘み果実の爽快感溢れる香りで早苗の鼻をくすぐった。


 個室に入るなり原稿用紙と厚表紙本を取り出した早苗を、安西は笑いながら優しく制した。


「まずは頂きましょう。あと、昨日は申し訳ありませんでした。あの殿岡瑠璃子さんだとは露知らず、名のある作家ですか、などと無礼な物言いをしてしまって」


 背筋を伸したまま腰を折った安西は、首を左右に振る早苗に対し柔和な声でやおら続けた。


「お酒はお好きですか? 好みがあれば仰ってください。大概のものはありますから」


 原稿用紙と厚表紙本を胸に抱えたまま、「甘いやつ、フルーツ系を……」と答えたが、はたして声は届いたのだろうか。どうにも体が固まってしまっている。


 その後は、アルコールが入っているかもどうかも分からない飲み物や、聞き慣れない単語を冠した料理を口にしながら、他愛のない会話に終始した。


 安西は独身で、四十五歳だと言った。小説はジャンル問わず読むが、好むのは恋愛小説らしい。曰く「色恋は他のどの衝動よりも強く儚いもの」だからだそうだ。


 早苗の小説も過去に読んだらしい。歯が浮いて全部抜けてしまうほどの世辞も衒いなく付けられていた。


 話題が一段落ついた頃、瞼に重みを感じた早苗が切り出した。


「それでもう後がないんです。自分が一番分かっていますから。それで――」


 早苗の頭にアルファベットが浮かんだ。


「それで?」


「はい。それでこれからどうしようと悩んでいるところに安西さんに声を掛けてもらって」


 神崎の事は伏せた。現実味を帯びた話ではないし、代筆のことを安西に告白したら、全て水泡に帰す恐れがあった。


「なるほど。渡りに舟だったって事ですね」


「正にその通りです。今、ネームバリューはもう無いに等しいです。這い上がろうにもどうすればいいか分からないんです」


 指に顎を乗せた安西は、なるほどなるほど、と唸っていた。


「別に大ヒットを望んでいるわけじゃないんです。ただ自信が欲しくて」


「担当……黒田さん、と仰っいましたよね」


「はい。そうです。何か?」


「彼とはうまくやれてますか? いえ、もちろん担当として」


 早苗は「はい、とても良くしてもらってます」と答え、鞄に目を落とした。厳密には、鞄の中にあるスマートフォンを見ようとしたのだが。


 神崎からのメールにばかり留意していたので、黒田からのメールはお座なりだった。内容は見なくても分かるのだが、ほとんどが早苗の身を案じるものだった。


「もしかしたら黒田さんから連絡入ってるかも知れないので、確認してもいいですか」


 どうぞ、と手で返事をした安西は、仄かに血色がよくなっている。


 鞄から取り出したスマートフォンは未読メールを知らせるランプが点滅していた。


『加納先生に昨日会えた事伝えるの忘れてました!うまく言い包められましたが、石田さんの身の安全は保証できるみたいです。とりあえず一安心ですね!でも何かあったらすぐ言ってください!寝てなかったら起きてますから! クロダ』


 昨日話していたばかりだというのに、妙に懐かしく感じた。目の前にある黄色の飲み物にアルコールが入っていたのかも知れない。それも手伝ってか、早苗は、ふふふっ、と大きく息をこぼした。


「黒田さんからですか」


「はい。そうです。笑っちゃいますよね。あの人、寝てなかったら起きてますから、って」


 その言葉を聞いた安西は笑顔を消し、テーブルの上で手を組んだ。そして声を低くして言った。


「殿岡さん。黒田さんと手を切れますか」


 早苗の緩んでいた顔が硬直し、思わず聞き返していた。


「黒田さんと手を……切る?」


「はい。そうです。聞く限りでは、その方はもしかしたら殿岡さんの足枷になっているかも知れない。一番の懸念材料である可能性が高い。意味が、分かりますか」


「はい。でも手を切る必要はないかと……。本当に良くしてもらってるし、調べものもしてくれるし。可能なら黒田さんも連れて安西さんの会社に行こうと考えていましたし」


「殿岡さん。単刀直入に言います」


 安西は目を逸らさなかった。自然、早苗も視線を外さずに頷いた。


「僕と結婚してください」


「けっ、結婚?」


 耳を疑った早苗は、自分でも分かるほどの素っ頓狂な声を上げていた。


 出会って二日、本名すらまだ教えていない間柄で、ましてや、これからビジネスの話をさあしようという場面でのプロポーズだった。青天の霹靂ですら薄らいでしまう。


「はい。僕は真剣です。流石に、火急に婚姻届とは言いません。当然ビジネスファーストです」


「いやいやいやいや」


 早苗はかぶりを振り続けた。


「では僕の意見の後に返事をください。それでもだめなら納得して身を引きます」


 安西は冗談を真顔で言う人間ではない。二日しか付き合いはないが、実直さや誠実さではひとかどの男だろう。


 早苗は今年で二十八である。ひと昔前ならとうが立つと揶揄された歳だ。それこそ、殿岡瑠璃子と名乗るお大尽の一人娘がオールドミスになろうものなら、三つ指をついて籍を入れるだろう。しかしそんな時代は今は昔である。いくら好条件でも火急すぎる、と早苗は逡巡していた。


「少し急すぎませんか? 確かに結婚願望がないわけではありませんが……。それにしても早すぎると思います」 


「作家の担当者は――」


 一つ区切った安西の目は真っ直ぐだった。


「結婚するつもりで作家のパートナーたれ。これが定説です」


 早苗はその瞳に押し負け、手に持っていたスマートフォンを鞄にしまった。


「普通のビジネスパートナーじゃいけないんでしょうか」


「それも可能です。しかし昨日あなたの原稿を読んだ時、考えたんです。いや、直感で感じたんです。生涯を掛けて引っ張ってあげたいと。公私共にサポートしたい、と」


 渾身の気迫みなぎる告白だった。


「それで、これ。気の利いたものではないんですが。最初のプレゼントです」


 安西は有名ブランドショップの手提げを足元から上げた。


「これは?」


「殿岡さん、昨日カフェに靴忘れたでしょう。隣に置いてあるのに持って帰らなかったから、忘れたんだなと思いまして」


 昨日、確かに早苗はパンプスを喫茶店に忘れていた。帰宅し初めてその事に気付き、喫茶店に架電した時にはもう無かったそうだ。


「じゃあこれは……」


「出た後に気付きまして、カフェにすぐ取って返したんです。しかし別の人が持って帰ってしまったらしくて。だから新しく買いました。もしサイズが違っても交換はできるみたいです」


 渋谷で買ったパンプスの数倍は値の張る一品であることは容易に想像できた。


 ここまで殊勝な振る舞いを受けたのは初めてだった。


「そんな……悪いですよ」


 早苗の言葉に重なるように鞄が震えだした。メールの着信を知らせるバイブレーションが空気も震わせている。


 スマートフォンを確認せずに、


「少し時間をください」


 と早苗は言った。

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