四貢目
早苗がしばらく自分を失っていると、黒田はウェイターを押しのけ、今しがた座っていた席に向かって走っていった。
「……ストーカー」
その言葉を発し終えるや否や、早苗も黒田の後を追った。黒田の考えはおそらく早苗と同じだろう。文明の利器とはよく言ったもので、狡い真似をするなあ、とごちりたくなる。
「殿岡さん! 思い当たる節は」
言うが早いか、黒田はすでにテーブルの上で早苗の鞄をひっくり返していた。
踊り出ているのは花柄のポーチや同じ柄の折り財布、その他は原稿用紙や昨日の書類だけだった。
その中で神崎や春野が実際に手を触れたものといえば何があるだろうか。
「黒田さん。原稿用紙を全部チェックしてください。私は契約書と鞄を調べます」
「仕方ない。あーもうなんだってこんな」
「あっ! 黒田さん」
「はい? あ……」
早苗は人差し指をあてた口を大きく動かし、小さく呟いた。
「お、う、お、う」
母音だけで理解した黒田は、瞳を左右に揺らしながら慌てて口を塞いだ。
この手の犯罪では定石なのだろうが、いざ己の身に降り掛かるとこれ程まで窮屈な思いはない。これも筆の肥やしになるものなのか、と早苗は黒田の持つ原稿用紙を睨んだ。
それからしばらくは二人で盗聴器探しに躍起になった。スニーカーの裏や、鞄の底の鋲、果ては腕時計の竜頭まで調べる事になった。
二人がソファーにしなだれる頃、ウェイターが都合五度目となる往復を終わらせていた。六度目で最後にしてやろうと、二人は揃って頷いた。
「本当に盗聴されてるんですかね」
薄く膜が張られたカレーをつまらなそうに頬張る黒田は、早苗を待たずに続けた。会話はすでに再開されている。
「そもそも付き纏って何するんですか? それが代筆に何の意味があるのだろう」
「知りません。神崎さんに聞いてください。もう契約書にサインしちゃいましたし」
「でもその契約書も怪しいものですね。隅に小さく不利益事項が書いてあったり。よくある手ですよ」
しかめ面で憎まれ口を叩く黒田をよそに、早苗は誓約書に目を落とした。
第二項 付き纏い
一、甲は乙の日常生活における身辺監視を執行する。其の期間は平成三十年十月十五日より平成三十年十ニ月十五日の二ヶ月間とする。
ニ、一の執行期間外にも関わらず、甲の判断により期間の延長が必要だと認められる場合は、乙は其れを認め遵守する。その際、乙の申し開きは特例を除き甲は認めないものとする。
三、一の執行期間及びニの場合においても、乙の個人情報を甲が管理することを乙は認める。
四、主契約の代筆を甲が終了した日から、上記の一およびニおよび三の効力は破棄されるものとする。
要約すると、今日の十月十五日から約二ヶ月の間、神崎は早苗のストーカーになる。その期間が延びた場合は断れない。その間、プライバシーはないものと思え。しかし、神崎の代筆が完了すればその呪縛からは逃れられる、との事だろう。
「私、やるしかないんですね」
代筆は手段である。もちろん本命の目的はその先だ。
「だったら僕が一日中殿岡さんに付いてますよ」と、黒田は頬に茶色いルーを付けたまま宣言した。
黒田は早苗の六つ歳上である。大手出版社の『新樹社』に新卒で入社したプロパーだ。二年目から早苗を担当し、すでに十年である。
腹を空かせた物乞いのようにカレーをかき込む黒田の宣誓は、早苗とって心強く、そして贖罪の念すら呼び起こしてしまうほどだった。担当編集者の責務ではなく、純粋な正義感なのだろう。しかし、こんな騒動に毎度付き合っていたらひとたまりもあるまい。
早苗は目の前の男のために、その誓いを蹴った。
「決めました。ストーカーなんて所詮は臆病者のする事です。私にはもう失うものはありません。しかし黒田さんに迷惑をかけるわけにはいきません。だから私だけこのまま監視されます。黒田さんはいつも通りお願いします」
「そんな……何かあってからじゃ遅いですよ?」
「何かあったら助けを呼びますから、その時はお願いしますね」
「いや、しかしですね」
この正義感が危ういのだ。神崎が刃物を持って現れたら、黒田は立ち向かうに違いない。
「大丈夫ですよ。それとも黒田さん、神崎さんに便乗するつもりですか? これを口実にして」
早苗の持つ誓約書が空調の風に揺らいでいる。
「ばっ、なっ、そんな事あるわけないじゃないですか。殿岡さんの――」
「石田」
「もうどっちでもいいです。やっぱりなんか色々とおかしいですよ。しかもこれで代筆がうまくいかなかったりしたら、それこそ骨折り損です」
それには早苗も同意見だった。しかしある種の確信が、表立ってそれに賛同する事を許さない。赤く縁取られた眼鏡をかけた女性が微笑んでいる。
「そもそも十年前に黒田さん言ったじゃないですか。会社務めも考えておいてくださいって。何もかも失敗しても……華のOLが待ってますから」
無理に作った笑顔は黒田にはお見通しなのだろう。しかしこれは八卦の八つ当たりのようなものだ。もし当たらなくても、鞄を変えスニーカーとおさらばするだけである。そう考えると幾分肩の強張りが解けた。
笑顔を壊さず、早苗はスマートフォンを操作した。
『ごめんなさい。忘れてました。今日はこれからパンプスを買いに渋谷に行こうと思います。その後は紀尾井町のカフェにでも行きます。 石田早苗』
今一度周りを見渡した。背の高い男はやはりいない。
「僕はもう一度編集長経由で加納先生に話を聞いてみます。どこをほっつき歩いているか分かりませんが……」
「はい。是非お願いします。今度宝来屋のようかん食べさせてくださいね」
黒田は力なく「そうですね」とぽつり言った。
そのまま二人は出口に向かった。早苗がもう一度ラウンジを振り返ると、
『了解。ジジイなら新樹社だ。 K』
とスマートフォンにメッセージが送られてきた。
早苗はスマートフォンをすぐに鞄にしまい、肩を落としている黒田に「私はブラブラしますんで黒田さんはとりあえず会社に戻って報告お願いします」と伝え、足早に黒田から離れた。
シティホテルの外は凪いでいた。
熱を纏った十月らしからぬ陽光は、空調で固まった早苗の体をゆっくり溶かし、そして確実にアスファルトに吸い込まれていた。
◆
銀杏の木が繁茂した枝葉を萌黄色に染め、紀尾井町の目抜き通りに列を成している。その木群が影を落とす喫茶店で、早苗はクリームが山のように盛られているカフェオレを飲んでいた。指が所在無げにスマートフォンを弄んでいる。
華のOLなどと柄にもない台詞を吐いてしまったと後悔していた早苗の横には、渋谷のアパレルショップで買った赤いパンプスの入った箱が置かれている。
あれから神崎から連絡はない。早合点かも知れないが、予定さえ送れば干渉はしてこないのではないか、と安易な希望を抱いてしまう。
剣呑な顔付きで相手を萎縮させる神崎が、不潔極まりない出で立ちでメールを作成している姿を想像すると、苛立ちと恐怖がたちまち襲ってきた。
ニ度三度と頭を振り、邪念を振り払うため鞄に入っていた原稿用紙を取り出した。
原稿用紙の束は【秋桜の咲く夜に】と書かれた表紙に圧されている。横には『殿岡瑠璃子』と小さく記されていた。
これが最後の賭けだった。黒田と編集長にも、原点回帰を意図した恋愛小説の方向性としてコンセンサスを図ってもらえた。これが失敗したら背にある水面へ落ちてゆくのだろう。深く暗い海の底へ。
表紙を捲ると、升目調の原稿用紙が文字を浮かべていた。
早苗には、パソコンで草案を打った後に原稿用紙に起こすという特殊な癖があった。出来栄えの客観性を保つためだ、と黒田にもよく言っていた。
文字だけを流し読みしていると、上から声を掛けられた。
「あ、それ満寿屋の金赤ですね」
驚いて振り返ると、紺色のスーツを着た男が立っていた。壮年だろう。早苗より一回りは歳上に見えた。
「あ、失礼。僕も小説をたまに書くからついつい見とれちゃって。でも満寿屋の金赤を使われているなんて、もしかして名のある作家さんですか」
「いや、全然大したことないです。駆け出しっていうか、死に体というか」
男は少年のように視線を原稿用紙に注いでいる。屈託の無い、とはこの表情の事だろう。
自分の顔が知られていない事に複雑な気持ちを覚えながら、男に問うた。
「小説書かれるんですか」
割と彫りの深い顔立ちで、鼻梁の通いは一直線な稜線である。どこぞのストーカーと違い、髪も小綺麗に整えられ、髭は剃り残しも刃負けもない。いわゆる眉目秀麗な美男だった。
男は白く輝いた歯を存分にこぼし、
「ええ。本業はその営業ですけどね」
と照れたように笑った。
「じゃあ、出版社か何かの方で」
「はい。まだ出回ってない埋もれた名作を、コネと口コミで掘り起こし世に広める、そんな会社です。まだ起業して間もないですけどね。従業員も二桁いませんが」
早苗は鼓動が早くなっている事に気付いた。顔の熱は首元まで広がっているに違いない。男の端正な顔を見ることが出来なくなっていた。
「あ……そ、そうですか。はは。すごいですね。でもまさか社長さんとかじゃ」
「一応、代表をしています」
「は?」
胸ポケットから出した名刺には『安西賢治』と書かれていた。
安西は早苗の胸元まで身を屈めた。早苗の顔すぐ横で原稿用紙を舐めるように見ている。
春野とは違う、少し鋭さを帯びた匂いが体を硬直させた。大分歳上だろうが、爽やかな外見と子供のような笑顔が脳裏に焼き付いて離れない。それでいて経営者である。早苗は身を縮こませていた。
「お若いからと侮っておりました。いや、実に洗練されている文章だ。少女から大人へ脱皮しようとしている心情が素晴らしい」
「あの……」
「どうしましたか?」
意を決し懇願していた。
「私の事を知ってください」




