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公認ストーカー神崎の代筆  作者: ヒョードル
第一章 小説家、殿岡瑠璃子の場合
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三頁目

「名前を捨てろって……どういう事ですか!」


「ん? そのままの意味だが」


 早苗には、神崎の口の端が片方だけ吊り上がっているように見えた。


 目の前に置かれた紙には目もくれず、突如沸き出た感情が頬から耳に渡るのを感じ、いきおい立ち上がった。


「何故ですか! これは、高校生の頃文芸賞の選考を初めて突破した時から使っているペンネームです。これは変えられません! 黒田さん……黒田も編集長もこの名前は大いに気に入ってくれてます。名前なんて関係ありません! 変えなきゃならないならこんな契約要らないです」


 言い終わると、早苗は下唇を噛み、再び握られていた拳に力を込めた。腰を降ろそうにも硬直した足腰は石灰で固められたように動かず、顔だけが重力に逆らえずにゆっくりと足元に向けられていった。


 早苗の目に、くたびれた靴が映った。


 高校三年生の頃、大賞を獲った際に早苗の母親からプレゼントされたスニーカーだった。取材で現地に赴く事が多かろう、と授賞式の翌日に渡されたスニーカーは、軽い上に頑丈な造りだったため、幾度の実地取材にも履いていた相棒のようなものだった。


「あんたにしてはいい名前ね。どっかのお大尽さまの箱入り娘って感じで好きよ」


 母親はそう言ってスニーカーを渡してきたのだ。以来、継ぎ接ぎをして未だに履いている。


 田舎にいる母親の破顔している姿を思い出していると、ふいに視界が歪んだ。


 何が起きたのか早苗にはすぐに分かった。目の前の男が今は憎かった。何も知らないくせにしゃあしゃあと罵詈ばりし、早苗自身の十年を、編集者の仲間たちが後押ししてくれている作品を、母親が買ってくれたスニーカーの傷を、全て馬鹿にされたような一言だった。その思いが雫となってスニーカーに滲みを作っていった。


 涙は止まらなかった。


「石田早苗。何か勘違いしてねえか? あんたには書くなって言った。じゃあ誰が書くんだ。言ってみろよ、ほら」


 早苗は口腔内に鉄の味を感じていた。どうやら唇を強く噛み過ぎているのだろう。やけに塩辛く感じるのは涙のせいだろうか。


「代筆屋さん……です」


 神崎の顔は見れなかった。未だに口の端を上げているのは想像するに易いのだが、早苗にとっては悪魔のそれにも思えた。


「そうだ。俺だ。わかるな」


 どうする事も反論する事もできずに、ただ立ち尽くしながら時間が過ぎるのを早苗が待っていると、横から甘い香りと数枚のティッシュが差し出された。


「お使いください。暖かいココアでもお持ちいたしましょう」


 春野だった。早苗がティッシュを掴むのを認めたあと、春野は早苗の腰と肩に細い手を添え、体をソファーにゆっくりと座らせた。


「今は忍びましょう。いずれはご理解頂けます。神崎にお任せください」


 春野はそのまま別室へ去っていった。


 濡れた睫毛まつげ越しに神崎を見ると、バツが悪そうに口を歪めながら、爆発した頭を掻いていた。


「つーかよ。人の話を最後まで聞きやがれってんだ。言葉が足りなかったみたいだが――つまりあれだ。俺が書く間は名前を貸せって事だ。だからその間は名乗るな」


 その言葉を聞き終わり、早苗はしばらく深思していた。開いていた口に早苗がようやく気付く頃、小さく音をたててマグカップがテーブルに置かれた。コーヒーの漆黒ではなく、茶褐色だった。


「これでいいんだな、亜希」


 春野はただ「はい」とだけ首を縦に振るだけだった。


 一頻り髪を掻き乱した神崎は最後に「俺が呼んだらすぐ事務所に来い」といい、パーテーションの奥へ姿を消した。


 その後、業務委託誓約書に本名・・と個人情報を書き、春野から締結後重要事項の説明を受けたが、その間早苗は目の焦点すら定まっていなかった。


 全てが終わると、早苗は春野に両手で体を支えられながら出口に向かった。件の曰く付き扉は図ったかのように金属同士の擦れる音を奏で、開錠した。早苗は扉には見向きもせず事務所を出た。


 それ以降の記憶は無かった。


 翌日、早苗はスマートフォンの着信音で目を覚ました。


 目をしかめスマートフォンを耳にかざすと、聞き慣れた声が響いてきた。


「殿岡さん! 無事ですか」


「あ、おはようございます黒田さん。どうしたんですか」


「どうしたんですかじゃないですよ。昨日神崎さんの事務所行ったんですよね? その後殿岡さん何度も電話したのに出ないし、やばい事件に巻き込まれちゃったのかと心配しましたよ」


 早苗は黒田の言葉を左耳から出しながら、部屋を見渡した。


 鞄は床に投げられ、中に入っていた原稿用紙や厚表紙本が顔を覗かせている。服を脱いだ形跡がないので、どうやら着替ずにベッドに突っ伏したのだろう。


 原稿用紙だけでも片付けようと鞄を持ち上げると、『業務委託誓約書』と書かれた複写用紙がはらりと落ちた。早苗の個人情報の写しの下の方には、三つの項目が書かれている。


「――そうしたらですよ。編集長が僕に言うんです。だからあれほど――」


「黒田さん!」


「はい? 殿岡さん、聞いてます?」


 早苗は閉じられていたカーテンを開けた。


「これからは石田早苗と呼んでください」


 携帯電話越しでは黒田の表情は分からないが、それでもこの間がその想像が正しいのだと結論付けている気がした。


「……どういう事ですか」


「これから会いましょう。そこでお話しします」




 ◆




「そんなの横暴だ! なんてひどい話だ」


 黒田は上気した顔に青筋を立ててシティホテルのロビーラウンジに怒りを散らしていた。


「ストーカーを認めろ? 文字は書くな? 名前は捨てろ? 報酬は……か、か、から……身体でいい? 許せない!」


「いや、だからここはシティホテル――」


「関係ありません。僕が間違ってました。僕が編集長と加納せ……加納の言うことを鵜呑みにしたからです」


 黒田は使い古された鞄を強引に掴んで立ち上がり、いきおい走り出そうとしていた。


 早苗は「待って」と黒田の腕を強く掴んだ。


「でも……」


 黒田を見据える早苗の指は固く、黒田が観念した形になった。


「黒田さん、座ってください」


 黒田がソファーに出戻っても早苗はまだ黒田の腕を掴んだままだった。


「私たち、もう十年ですよね」


「え、ええ。それぐらいになりますか」


「なら分かりますよね。私が今何を考えているのか」


「分からない……と言ったら嘘になりますね」


 早苗は黒田の腕を離した。黒田は掴まれたところを擦っている。


「もう何をやっても無理。いくらあれこれ手法を変えても、しょせん付け焼き刃。あの頃の殿岡瑠璃子にはなれない。そして……」


「そして?」


「神崎さんじゃなくて、神崎さんを心底信じてる春野さんを信じてみようと思うんです」


「ああ、殿岡さんが……じゃなかった、い、石田さんがさっき言っていためっぽう綺麗な人ですよね」


 早苗はあの不気味な事務所での出来事を思い出していた。仄暗い建物、曰く付きだと春野が言っていたあの扉や、余計な色彩が一切合切取り除かれていた地味な調度品、そんな中、早苗が一番気になっていたのが、神崎と春野の関係だった。溜飲と言ってもいいぐらいだ。


「はい。いい匂いがする素敵な女性でした。私の意を汲んでくれる、大人の女性です。とても折り目正しい方だと思います」


「いや、だからって当の神崎は聞く限りまともなやつじゃないですよ。怪文書とか殺害予告まで代筆してると思いますがね」


 黒田はもともと紅顔こうがんなのだが、それもあって顔全体が紅く染まっていた。


 たまらず早苗は吹き出していた。


「はははっ。黒田さん、ごめんなさい。笑っちゃいけないですよね」


「と……石田さん、何が可笑しいんですか。僕はあなたのためを――」


 そんな黒田の顔で更に笑った早苗は、やや経ってから深呼吸をした。


「ごめんなさい黒田さん。本当にありがとう。でも、どちらかというと神崎さんが春野さんの事を信頼している風に見えたので。だから春野さんを信じてみます。あと加納先生と編集長も」


 昨日の事は、後半はもやがかかっていてはっきりとはしないが、それでも何か変われる予感のようなものはあった。だからこそ徒花あだばなを咲かす事はない、と早苗は確信していた。


 一方の黒田は根負けしたのか、鞄を力なくソファーの横に落とした。


「わかりました」


「わがまま言ってすみません」


 ようやく歯をこぼした黒田は、手帳を見ながらため息を付いた。


「じゃあ連載のコラムはなんとか編集長に掛け合います。うまく調整してくれるでしょう。書き下ろしの方はまだ時間がありますが日延べですね」


「本当に迷惑掛けちゃってごめんなさい。でも落ち着いて考えてください。あの加納先生直々の提案ですよ? 編集長もどうにか勘案してくれるに違いないですよ」


「確かに……そうですよね。さっきは呼び捨てにしちゃったなー。ははは」


「本当ですよ」


 ラウンジに響いた二人の笑い声を、早苗のスマートフォンの電子音が遮った。


 目尻から流れる笑い涙を拭きながら、早苗がスマートフォンを見ると、メールの文字がディスプレイに浮かんでいた。


『予定はメールしろっつったろ。呑気にホテルでカレーなんぞ食いやがって。次からはちゃんと送りやがれ。 K』


 早苗は血の気が引いたように固まった。急激に腕が粟立つ感覚も同時だった。


 急いで周りを見渡しても、無精髭や、爆発した髪の毛を蓄えた偉丈夫は見えない。


 ならば、と静止する黒田を振り切ってラウンジの出入り口まで走り、ロビーを見渡した。しかし細身か腹の出た中年のサラリーマンぐらいしか男はいなかった。


 後を追ってきた黒田は早苗の異変を察し、「神崎ですか」とスマートフォンを覗いてきた。


「そうです」と黒田にメールを見せていると、ウェイターが急ぎ足で寄ってきた。


「ご注文のカレー、席にお持ちして宜しいですか」


 早苗はスマートフォンを握りしめた。

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