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公認ストーカー神崎の代筆  作者: ヒョードル
第一章 小説家、殿岡瑠璃子の場合
2/14

ニ頁目

 早苗はテーブルに積んだ原稿用紙の束の上に厚表紙本を乗せ、神崎の方へ差し出した。


 神崎の目には真贋を見抜く能力がある、早苗はそう聞いていた。しかし、果たしてそのような能力が本当にあるのか疑念は消えない。早苗は意を決して神崎を見据えた。


 ぶ厚い瞼ではあるが、ただの寝起きのようにも見える。充血した瞳や、その爆発したような髪を交互に見るにつけ嫌疑は晴れない。しかし肝要はこの束である。安堵を求めるのはまだ先だった。


「直近の原稿を全部持ってきました。上梓予定の書き下ろし短編の原稿とデビュー作も。これが私の全てです。後生のお願いです。私を、殿岡瑠璃子を助けてください」


 気が付けばテーブルにぬかずいていた。


 頭を垂れたまま、早苗は専属契約をしている出版社の編集担当者に言われた言葉を思い出ししていた。


「殿岡さん、週刊夕日ゆうひの連載、見送りになりました。デスクの判断です。力及ばずすみません」


 シティホテルのラウンジで深々と頭を下げる担当者の声は、早苗の心に黒く刺々しいしこりを与えた。


 担当者の黒田くろだ寛治かんじは、専属契約した十年前から苦楽を共にし、辛酸も一緒に舐めていた頼もしい存在であった。イメージに合致した書き下ろしを脱稿した日は共に泣いて喜び、しかしそれ以上に方向性の食い違いや推敲内容で言い争った事の方が多かった。それでも早苗にとっては良き兄貴分のような存在だった。


 某有名文学賞を史上最年少で受賞し、時の人になり持て囃された時は重版の連続で、早苗にとって爛々とした日々だった。


 しかし、年々発行部数が落ち、初版で終了となるケースが増えていった。中には絶版した書き下ろしもある。最近では返品率の話は敢えて触れないよう気を遣われる始末であった。


「やめて。顔を上げてください。自分でも薄々感じてましたから。書いても書いても本屋に積まれる想像ができなくて。ここらへんが潮時なのかなって」


 その時である。思い詰めた顔をした黒田が、か細い声で提案を持ち掛けてきたのだ。


「人に……会ってくれませんか」


「誰ですか? 別に構いませんが」


 目の前の男は、連載ご破談を告げた時よりも強く唇を噛んでいる。言い淀んでいる事は早苗の目にも明らかだった。


「黒田さんが仰るなら誰でもお会いしますけど。ただ、何となく分かります。あの、アレ……って事ですよね? ええと……その、別の意味での専属契約って言うか」


 早苗は股に力を込めた。こういう話は何度か聞いた事があった。それこそ連載予定が頓挫したゴシップ系週刊誌の見聞ではあるが。おそらく黒田も苦渋の選択だったのだろう。でなければ、あれだけ語気を強くして文章に指摘を繰り返してきたこの男が、こんな弱々しい醜態を見せるはずはないのだから。


 そう諦観した早苗に目を寄越した黒田は、慌ててかぶりを振った。


「いえいえ! 違う! 違います! そんな破廉恥な事お願いする訳ないじゃないですか! 殿岡さんにそんな愛人だなんて」


「しっ。声が大きいですよ。ここはシティホテルなんですからね」


 黒田は辺りを覗い注目されていない事を確認すると、真っ赤に染まった顔を早苗に近付けて小さく呟いた。


代筆屋・・・ですよ」


「代筆屋? 代筆って、ゴーストライターって事?」


「はい。実は編集長から哀願されまして。どうやら、加納かのう遼山りょうざん先生が言い出したらしいんですよ」


 加納遼山は、齢八十を超える老体ながら未だ文壇に立っているビッグネームである。輝かしい受賞歴の中には紫綬褒章も入っている傑物だ。早苗から見れば雲の上の存在だった。


「加納遼山先生って、あの? なんであんな人が」


「うちの編集長、加納先生を担当してるじゃないですか。あの先生、宝来屋のようかんを買いたいものだから打ち合わせにかこつ出版社うちによく来るんです。いつものように黒ようかんを食べながら談笑している時、殿岡さんが話題になったみたいで」


「何て?」


「怒らないでくださいね。――片目の開かない若者がいる。もしかしたら考えないといけないかも知れない、と」


 そこで担当の黒田に話が回り、初めて神崎千里の名前を聞いたそうだ。加納をして「筆を教わった」と言わしめた男の名として。


 その件の男が目の前にいる。それだけではなく、原稿用紙を見ている。早苗が殿岡瑠璃子として書いた小説を読んでいるのだ。


 日本の文壇の頂点に立っている加納遼山、その最高峰の文聖が心酔してやまない神崎は、早くも三本目の煙草を紅く光らせていた。


「おい亜希あき。黒田っつったか? 電話してきた野郎は」


 神崎は伝法な物言いで言葉を投げた。


「はい。殿岡瑠璃子様のご依頼、確かに黒田寛治様からお電話で承りました」


 早苗は窮屈な体制を戻し振り返った。女は相変わらず微笑みを続けていた。


「記憶では、加納先生から伺ったと聞いております」


「へっ。加納のジジイも早く逝っちまえばいいのによ。後進の前で仁王立ちしてらあ。そら目障りだよな? どうだ?」


「えっ、いや、私はそんな……素晴らしい先生だと思います」


 唐突に話を振られた早苗は、自分がここにいて本当に良いものかどうか、そこに疑いが変わっていた。何せあの加納遼山をジジイ呼ばわりである。邪険に扱うにも程がある。


「まあ心配すんな。俺が請け負ったら問題ねえ。もそう言ってら。なあ亜希――あ、悪いな。あいつは春野はるの亜希あきっつーんだ。秘書兼雑用だ。面白え名前だろ」


 春野は立ち上がり、手を前に組み腰を曲げた。綺麗な敬礼の姿勢だった。


「申し遅れました。私は春野亜希と申します」


 そう言い再びデスクに戻った春野は続けた。


「あのも人を選ぶ些か特殊な扉でございます。いわゆる曰く付き、と呼ばれるのでしょうか」


 神崎は不気味な笑顔を作りながら厚表紙本を開いている。それはデビュー作であり、殿岡瑠璃子最大のヒット作であった。


「扉……ですか」


「まあ気にするな。今度教えてやるよ。これ、少し借りるぜ」


 神崎は煙草をくわえたまま、パーテーションの奥に引っ込んでいった。原稿用紙も残さず持っていったらしい。


 神崎の姿が見えなくなると早苗は深く息を吐き出し、冷めたコーヒーをゆっくり嚥下した。


 早苗は当初、この提案には乗り気ではなかった。ゴーストライターを使うなど、今は枯れそうだがかつては世を席巻した自身の矜持が赦さなかった。小説家の名折れだと黒田を非難した。


 しかし黒田は言った。


「ゴーストライティングではなく、代筆です」と。


 何が違うのか早苗には分からなかったが、黒田はこうも言った。


「加納先生曰く、文筆家としての新たなる開闢かいびゃくを与え、後にも先にもただの一回のみであつたが、その一回で天地返しをしてしまつた代筆屋は誠に奇才だつた」と。


 つまり、一回は目をつぶれと。


 しかし、本当にゴーストライター、もとい、代筆屋に依頼をしてよいものか、早苗は未だに図りかねていた。アドバイスを求めるだけならまだしも、いわんや代筆など愚の骨頂である。


 早苗が思い耽っていると春野が近付いてきた。それにしても美しい。神崎は春野について、秘書兼雑用と言った。この女目当てにここへ来る依頼者も実は少なくないのではないか。こんな野暮な邪推が浮かぶまでに、早苗の心中は幾分落ち着きを取り戻していた。


「殿岡瑠璃子様。落ち着かれましたか? 替えのコーヒーでございます。今しばらくお待ちください」


 春野は音を立てずにコーヒーカップを入れ替えた。


「あ、すみません。ありがとうございます。えっと……春野さん、でしたよね」


「はい。いかがなされましたか?」


 早苗はパーテーションを一度見やった後やおら立ち上がり、春野の肩口で小さく訊ねた。微かに甘い香りが早苗の鼻腔を震わせた。


「これからどうしたら宜しいのでしょうか。まだ待ってればいいのですか? 改めて黒田ともう一度伺ったほうが――」


「いいえ、殿岡様。それは適いません。これから神崎が殿岡様と契約を結びます。それに――もまだ帰るな、と」


 早苗に倣い、小さく返した春野は入り口の扉を目で示した。思い返せば、この中に入った時も扉が勝手に錠をした音を早苗は聞き逃していなかった。


 簡易的な応接間から輪郭確かに覗かせる扉は、何の変哲もない、ただの扉に見える。


「おーい、悪いな時間食っちまって。ちょっと座ってくれや」


 パーテーションの奥から声が飛んできた。先程より若干声色の機嫌が良い。


「ではどうぞ」


 細くしなやかな手でソファーに促された早苗は神崎を待った。


「それにしてもあの黒田って野郎、なんつー奴だ。こんな小娘の一人ぐらいで俺を使いやがって。こりゃ加納のジジイも今度叱っとかねえとな」


 ぶつぶつと呟きながら再びソファーに体を預けた神崎は、厚表紙本を開きながら続けた。


「お嬢ちゃん。おっと悪い。えーと、石田早苗……だったな」


「はい。しかし、殿岡瑠璃子名義で――」


「そうだな。じゃあこれから契約だが、条件をいくつか言う」


「はい」


 早苗は一つ唾を飲み込んだ。このビルに入る時もそうだったが、この建物全体に神通力のようなものが働いていて、馴れない者の体を押し潰すような見えざる圧力が地の底から湧いているようだった。


「まず一つ目。報酬は全て終わってからでいいし、金銭は取らねえ。お前さんが払いたくなったらで構わないが、今のお前さんが一番大事だと思う物をよこせ。別に車でも金塊でもなんなら身体でも構わん」


 身体という単語が神崎の口から出た瞬間、早苗は頬に熱を覚えたが、「はい」と一つ頷いた。


「二つ目。これからふた月ほどお前さんに付き纏う。別に風呂場まで一緒に行くわけじゃねえ。いつも通り生活してくれりゃいい。ただし、出来る限り文字は書くな」


 これには首を縦に振るわけにはいかなかった。


「それは無理です! そんなストーカー紛いな事、承諾できません。それにニヶ月も書かなかったら仕事が……」


「安心しろ。お前さんの前には姿を出さねえからよ。それと、仕事と言ったが、今のお前さん……いやあんた、今何を書いている。書き下ろし予定は一本、それも首の皮一枚でどうなるか分からねえ。他には下らん週刊誌のふざけた恋愛コラムだ。無くなって困るもんでもねえだろう。それによ、俺が代筆してやるんだ。多少の辛抱ぐらいしろ」


 ぐうの音すら出ない。幾度も小説で書いた描写がまさか自分に向けられるとは早苗も想像だにしなかった。口から出るのは「はい」という言葉だけである。


「とりあえず、毎朝その日の予定をメールで知らせろ。嘘は付くなよ。まあ俺の名前の意味を少し考えりゃそんな事はすぐにしなくなるだろうがな」


「神崎……千里、さん。はい」


「よーしいい子だ。最後。三つ目だがな」


 早苗はこの言葉に一番驚いた。


「殿岡瑠璃子。この名前を捨てろ」


 春野亜希が『業務委託誓約書』と書かれた紙をテーブルに静かに置いた。

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