三曲目
「……向こうから掛かってきたの?」
「俺が一人でいるときにな。女の人からだったんだ。何かご用命はございませんか、って。どうせ間違い電話か怪しい宗教の勧誘かと思ったからすぐに切ったんだよ」
「非通知だったの?」
「東京の市外局番だった。非通知じゃなかったんだよ。だからネットでその番号を検索したらさ、一件だけ検索結果に上がったんだ。気味の悪いホームページだったよ。灰色の背景に一行だけ赤く文字が書いてあった。“代筆はS&GWまで”って」
その時、一陣の木枯らしが窓を大きく揺らし、冬の空気を切る風と共に葉叢の擦れる音が遠くに消えていった。
恵美は一瞬驚いていたが、構わずに自分のスマートフォンを手に取った。手ずから検索するつもりであろう。
「番号教えてよ。あたしも見るから」
秀治は小さくかぶりを振った。
「智也にこのことを伝えて、期待半分に電話をかけさせたんだ。一応アポはもらったらしい。だけど、なぜかその後は検索しても何も出てこなくなった。もちろん電話も繋がらないよ」
一瞬、幻覚でも見ていたのかと何度も目を擦ってみたが、幾度試しても、終ぞその薄気味悪いホームページを拝むことは適わなかった。
しかし、有名バンドや老舗ライブハウスに紐付くアルファベットと神保町の地名、それが都市伝説としてひっそりと語られていると秀治が知ったとき、突然掛かってきた電話と代筆のその存在が、裏付けのない期待感として秀治と智也に一本の細い藁を与えたのも事実だった。
秀治は今一度リュックサックに目をやり、しばらくの間、ぼんやりと眺めていた。
智也からは「代筆屋だと言うのは間違いなさそうだから話だけは聞いてみる」と言われ、純と健一を同行させる旨も聞いた。はたして都市伝説は存在した、と喜ぶことすらなく、莫逆ともいえる仲間を巻き込んだ無知な水先人として烙印を押されることからの逃避が、スマートフォンの確認を躊躇わせていた。
恵美はスマートフォンを持つ手を箸に替え、秀治の顔を覗き込んだ。
「なんか怖い顔してる秀治。あまり意味が分からないけど……とりあえず食べてから考えようよ。腹が減っては戦はできぬ、飯を食わねばギターも鳴らぬ、でしょ。明日にでも智也君に結果聞いてみたら?」
秀治は無理に顔を崩し、惣菜に箸をつけた。食欲は嘘のように失せていた。
夜の風が木造のアパートを再び押し始めている。季節外れの台風のように啼いている風は、このまま二人をどこか遠くへ飛ばすためだけに吹いているようだった。
風と共に去るはずの憂鬱は、恵美のスマートフォンの振動によって巨大な巖の重さを持ち、秀治の体を強張らせた。
『秀治は近くにいるか? 何回電話しても出ねえんだ。いたら伝えてくれ。やばい奴だった、とりあえず神保町には近付くな、と。詳しくは今度話す 智也』
◆
閑散としたフロアに純の声が響いていた。周りには誰もいない。神田警察署の二階で長椅子に腰掛けながら、智也は黙ってその怒号を聞いていた。
「だからさ、ストーカーに遭ってるんだって! 監禁もされたんだ。俺らを守ってくれよ」
「何度も言ってるでしょ。どこでどんな事をされたの? 待ち伏せ? 脅迫? どうやって逃げてきたの?」
腹周りがすっかり冬眠準備に入っている男は、辟易した表情で純と智也を交互に見ていた。腕には『地域安全』と書かれた腕章を付けている。
「だからさ、ドアが勝手に……ストーカーはまだだよ。これから一か月だよ。分かんねえかな」
「何? ストーカーから言われたの? 直接? 一か月だけ?」
生活安全課と書かれたプレートの下で純が振り返った。眉をハの字に垂らした純は地団駄を踏んでいる。この押し問答はかれこれ三十分を超えていた。
助けに入りたいのだが、言えば言うほど埒の明かない支離滅裂な相談は、却って警察官の心証を悪くさせ、得ることは不可能に思える。智也も窮していた。
「君達は……バンドをしていると言ったね。何しに神保町に行ってたの? スコアブックか何かを買いに?」
「だから! 神崎って人に会いに来たんだよ。そのためにわざわざ神保町くんだりまで来たって言ってるの! その神崎ビルっていうのが神保町にあるの!」
話を聞いていた署員が「まあまあ」と落ち着くように手を上下させていると、奥から別の男が現れた。白髪混じりの癖っ毛を撫でて後ろに流しており、ひときわ貫禄を纏っていた。
智也はすぐに長椅子から立ち上がり、純の腕を掴んだ。
「なんだよ智也! こいつら見た目で俺らを判断してるんだぜきっと。お前もそう思うだろ」
智也は奥から現れた男を極力見ずに頭だけを振った。このままでは在らぬ疑いを持たれかねない。続々と別の署員が来る様子を想像した智也は、純を握る腕に力を込めた。
近付いてくる男は純を凝視している。その姿を確認した純は、智也に抵抗してポケットに手を入れた。
「あ、あんたお偉いさんか? 聞いてくれよ。ストーカーだストーカー。ほら証拠の紙だってある」
純がポケットから手を抜こうとした瞬間、男は「その紙を出すな!」と大声で叫んだ。
「ああ、林課長。すみません、この人がストーカー被害に遭ってるって言い張るんですよ。色々と意味不明で」
その言葉を手で御した男は、睨むでもなく純を見た。そしてその手はそのまま純に向けられた。
「やめなさい。その紙は出してはいかん」
「な、なんだよ。あんた課長さんだろ。見るだけ見ても――」
「いや、やめなさい。その紙を出したら……私達は見てはいけないんだ。その紙は」
課長と呼ばれた林は、おそらく警部か警部補だろう。貫禄を漂わせているそんな男が、平静を繕ってはいるものの額に汗を浮かべている。事件性を疑っているわけではなさそうだった。純はその姿を見るなり言葉を詰まらせた。異様な雰囲気を察したのだろう。
「すまない。君達にいくつか聞きたい」
林はゆっくりと、そしてはっきりと尋ねてきた。応えたのは智也である。
「はい、なんでしょうか」
「君達さっき、神保町の神崎ビル、と言ったね」
「はい」
「神崎という人に会った……と。そしてドアが勝手に閉まり、監禁された」
「こんな成りじゃ信じてもらえないでしょうけど。大体その通りです」
林は長くため息を吐き、項垂れると共に目を伏せた。その弱った姿と質問を勘繰るに、不審者発見の由、身柄拘束で来た応援ではなさそうだった。
「少し外してくれ」
林は肥えた署員の肩を軽く叩いた。
その男がいなくなるのを確認した林は口を開いた。林から出た言葉は、神崎の言葉を覆すものではなく、むしろ信憑性という追い討ちをかけるものであった。
「神崎……いや、あの人の事は知っている。さっきの彼のような枝葉は知らないが、私を含めて署の幹部連中は皆知っている。辛いかも知れないが承知してほしい。上からのお達しだ。あの人のやる事は総て看過しろ。こういう命令なんだ」
「上って……署長とかですか?」
聞かずともおおよその検討はつく。しかし、否定の言葉を望んでいるのも本心だった。
「どこまで話していいやら。いや、君達はあの人に会っているんだったね。ならば隠しても見られるのだろうな、あの人に。他言は絶対にしてはいけないよ。これは神田警察署、いや、警視庁どころの話ではないんだ」
「まどろっこしいなあ。早く言ってください」
「国家公安委員会だ。私や署長クラスでは手に負えん」
眉唾という言葉がある。眉に己の唾をつければ物の怪の類いに化かされずに済む、という迷信に端を発する諺である。神崎ビルでは十二分に唾をつけたはずだった。甘言以外も全て疑い、その足で神田警察署へ直行した。しかしその頼みの綱ですら、狐に拐かされ、その棲家で身を寄せ合っている丁稚のように思えた。むろん、奉公先は神崎という妖狐である。
純は「あっ」と何かを思い出した。
「じゃあさ、林課長さん。クーリングオフって言葉知ってるよな。今回ある契約を強引にさせられたんだけど、もちろん解約できるよな。これは権利だと思うけど――」
「いいや、すまない。解約も撤回もできない。消費者庁に楯突くことはできないんだ。分かってくれ。ただ――」
林は大粒の脂汗を首まで滴らせシャツの襟元を変色させているが、悲壮な顔ではなかった。
「君達はあの人に選ばれた、ということだ。選ばれた人に会えるなんて僥倖かも知れないな。都市伝説をこの目で見たような気がするよ。引退したら妻にだけでも自慢してみるか」
二人は神田警察署を後にした。帰りがけに林から、「おそらくだが、いつか契約してもらえて良かったと思える日がくるはずだ」と敬礼付きで言われた。




