二曲目
それを聞いた純は大仰に驚いたふりをして、両手を拡げた。
「へえ。そいつはすげえや。日本政府さまがお認めになってるとはね。ここまで嘘並べられちゃあ、臍でしゃぶしゃぶができるぜ」
「でももし本当ならいよいよ僕たちまずくないかな。陰謀に巻き込まれているとか。ほら、フリーなんちゃら、とか」
健一は怯えた顔で事務所の壁や天井を見渡している。それを見た純も、拡げた腕を再び組み、視線だけを泳がせている。事務所を支配しているのは静寂だけだった。
智也がその後何も言わない神崎に視線を移すと、神崎もまた瞬きせずに智也を見据えていた。静寂を消したのは、視線がぶつかった神崎だった。
「高崎。てめえはリーダーだったよな。どうすんだ。話進めるか? あと数時間もすりゃああの扉も諦めんだろ。早く決めろ」
「俺は……すまん、純、健一。悪いけど付き合ってくれ。俺は……この人を信じてみようと思う。それに、さっき言ったろ」
智也は二人に片目を閉じてみせた。その意味をすぐに汲んだ二人は、疑いを顔に残しつつゆっくりと頷いた。純はわざとらしくマグカップを手に取り、「お前がそういうなら仕方ないけどよ」と溢している。
「神崎さん。すいません。先に進めてください。政府公認とはびっくりしたけど、怖いからもう聞かないです」
神崎は煙草を灰皿に押し付けた。残煙が神崎の表情を歪ませ、悪魔の微笑みのように揺蕩っていた。
「いいんだな? じゃあ仕方ねえ。請け負ってやるよ、代筆」
「はい。お願いします」
「歌詞でいいんだな」
俯いている純と健一を視線の端に捉えた智也は、小さく首を縦に振った。
「じゃあこれから条件をいくつか言うが、異論は認めねえ。さっきも言ったが、もうてめえらは受け入れるしかない。だから黙って聞け。あと、報酬は気分で変わるからな」
後ろに控えていた春野が、応接室脇にある机に移動し紙を手にしている。契約書なのだろうか。相変わらずその動静は流れるように美しかった。
春野を一瞥したあと、神崎は続けた。
「一つ目。報酬は気分で変わると言ったが、とりあえずは……そうだな、四人が今月稼いだ金をよこせ。代筆が終わってからで構わない。ひと月分ぐらいなんとかなるだろ」
何か物申したい顔をしているの純の前に、智也が手を伸ばした。
「続けるぞ。次に二つ目。これからひと月お前らに付き纏う。何も風呂場や色里までは付いて行かねえ。普通に過ごせ。制約は特にない」
「……はい」
「へっ。素直じゃねえか。最後、三つ目だ。これは保険の意味合いが強いが……今回の作詞者は松本秀治名義にしろ。そしてこれは条件じゃねえが、いわゆるお節介だ。守らなくても構わねえ。お前らが万が一レーベルに所属することになった場合、大手に行くんなら松本秀治をバンドから外せ」
秀治をクビにするのは聞き捨てならなかった。しかし、もしかしたら今日この場に秀治が来ていないことに対する嫌味なのかも知れない。神崎のこれまでの言動を思い起こせば当然の戯言である。智也は「分かりました」と短く答えた。
「ではこちらが業務委託誓約書でございます。枠内に皆様のご署名をお願い致します」
三人が誓約書の署名を終えると、春野が澄んだ声で締結後の重要事項の説明をした。内容は頭に入ってこず、地味な服装に隠れた、細身ながら健康的な美を携えた春野の全身が思考を止めていた。
複写をポケットにぞんざいにしまい、春野に連れられ三人は扉に向かった。
先程あれだけ乱暴を受けた扉は変わらずに閉まっている。恐る恐る智也がドアノブに手をかけても、万力で挟まれているかのように回らなかった。
「おい! 言い忘れてたがよ、クーリングオフなんてのはねえからな! これも公認だ」
後ろから飛んできた大声を合図に、金属質な音が扉の中で鳴った。
◆
十二月の寒空はどこまでも澄んでいる。木枯らしが防寒具の上から容赦なく体温を抜き取り、群青の夜空へそれを運んでいる。
秀治は防寒具の肩に据え付けられたインカムに口を近付け、「時間なんで交代します」と白い息を吐いた。
歩道脇にあるリュックサックの上にヘルメットを置き、誘導棒の電源を切った秀治は、そのまま地面に座り込んだ。すぐさま尻に冷たさが広がるが、それよりも棒になっている脚を休ませるほうが先決だった。
ポケットから煙草を取り出し、火をつけようとすると、横から缶コーヒーが伸びてきた。
「秀ちゃんバイトお疲れ様。もう上がりの時間でしょ」
「なんだ恵美、来てたのか。サンキュー」
缶コーヒーを数回振りプルを上げると、甘い匂いが立ち昇った。夜空に吸い込まれていく湯気を追いかけると、そこには恵美と呼ばれた女の顔があった。
「あたしもさっきバイト終わったの。今日ご飯まだでしょ? お惣菜余ったからいっぱい貰っちゃった。一緒に食べよ」
「ああ、いつも悪いな。もう腹ペコでさ」
「あたしもお腹ぺこぺこ。あ、そうだ。レジの小杉さんからみかんをいっぱいもらったから、智也君たちにも今度あげてね」
恵美は「じゃーん」と言ってみかんが詰まっている袋を秀治に渡した。
秀治は腕の時計を見た。ちょうど午後十時を回ったところだった。予定では、秀治以外のメンバーは今日神保町の代筆屋のところに向かったはずだ。智也からは夕方に約束しているのだと聞いていた。もう面談は終了している時間である。
秀治はリュックサックに入っているスマートフォンを確認することなく、恵美の手を取り家路を急ぐことにした。
秀治は恵美のアパートで同棲をしている。もともとバンドのファンだった恵美が自発的にマネージャーの真似事をするようになり、それがきっかけで男女の付き合いをすることになった。
秀治の給与は月に数度のスタジオ代と、移動で使うレンタカー代でその大半が消えていた。だから秀治は転がるように恵美のアパートに住み、恵美もまたそれを喜んでいた。
恵美のアパートは今回の派遣先からほど近い。帰宅した秀治は、恵美がもらった惣菜を頬張りながら恵美に尋ねた。恵美も解顔させながら惣菜に箸を伸ばしていた。
「なあ恵美。都市伝説って信じるか?」
「なに、いきなり。都市伝説? あたしよく分からない」
「お前に言ってなかったけど、智也たち、今日ある場所に行ってるんだ」
「んん? どこに?」
頬を惣菜で膨らませている恵美は迷い箸をしている。よほど腹がを空かせていたのだろう。これから恵美に言う事実は、その箸先の迷いとは比べものにならないほど、未知で巨大な暗闇に思えた。
「代筆……ゴーストライターって聞いたことないか?」
「あ、知ってる。小説とか楽譜とか」
「そう。智也たち、今日それをやってる人のところへ言ってるんだ」
恵美の箸が止まった。恵美はゆっくりと秀治を見た。
「まさか、代わりに書いてもらうの? セマーフォロの曲を?」
秀治は箸を置き、足を正座に組み替えた。
「ああ。その通り。黙っててごめん。色々裏方でやってもらってる恵美には悪いとは思ったんだけどさ。四人で決めたんだ」
「あんまりいい気はしないけど、みんなが決めたんなら反対はしないよ。でもゴーストライターってなんか胡散臭い気がするんだけどなあ」
恵美は表情を変えなかった。しかし、どこか落胆したように声を落とし、惣菜を箸で突いている。
恵美はバンドメンバーではないとはいえ、ライブハウスとの折衝や路上でライブを行う際の手続きなど、裏方として助力を惜しまなかった。「売れたら焼き肉死ぬほどおごってね」と口癖のように言っているが、差し入れや物販の宣伝には少なくない金額を使っている。その恵美を差し置いての判断である。恵美が疎外感を覚えるのも当然だろう。
「確かに胡散臭い。これはみんな最初思ってたんだけどさ。それでさっき聞いたろ? 都市伝説信じてるか、って」
「……どういうこと?」
「前に智也と目黒鹿鳴館に行ったときに、X-Limitedのサインを見たんだ。そこに『神保町のKさんへ。1990/9』って書いてあったんだよ」
「今ワールドツアーやってるあの?」
「そう。気になって調べたらさ、都市伝説に繋がった」
「どんな?」
「世界的ロックバンドのX-Limited、一曲だけ歌詞が変だった。その曲のリリース以降爆発的に売れた。それが九十年だった。それだけじゃない。福岡の照和も、渋谷でも、トップクラスのバンドが書いた壁書きには、必ず『K』と『神保町』がセットで書かれてあるらしいんだ」
秀治はリュックサックを見た。
「パソコンでそれを調べてたら電話が来たんだよ。代筆屋から」




