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公認ストーカー神崎の代筆  作者: ヒョードル
第二章 ロックバンド、Semaforoの場合
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一曲目

 暖色を着ていた陽気は眠りに入り、北風が思い出したかのように空気を斬り裂いている。


 その風すら避けて通る雑居ビルは、神保町駅から九段下方面にしばらく歩き、小路をひとつ曲がったところにあった。


 鈍色のビルの周りだけが風切り音を消し、遠く聞こえる喧騒や往来の騒音を吸い込んでいるようだった。


 ビルの入り口では、老婆がパイプ椅子に座りうたた寝をしている。


「なあ、健一けんいち。ここで合ってるよな」


 三本線の入った黒いジャージーを着ている男がビルを見上げながら呟いた。


「間違いないよ。見てみなよじゅん。神崎ビルって書いてあるじゃん」


 純と呼ばれた男は壁面に打たれているプレートを見ながらビルの入り口に立っていた。このビルに入ることではなく、ビルの主に会うことを躊躇っていた。


「健一さ。後悔は……しねえよな?」


「今更なに言ってるんだよ。散々四人で話しただろ。まあ今日は秀治しゅうじがバイトで来てないけどさ」


「とりあえず中に入ろうぜ。純も健一も足が震えてるぞ」


 二人の後ろから発せられた声がビルに吸い込まれた。


 黒いレザージャケットを着た男は二人を割り中へ進んでいった。男の足は重かったのだが、それ以上に気持ちの方がいてしまっていた。半信半疑ではあるが、このビルの主は夢を叶えてくれると聞いていたからだ。


「あ、待てよ、智也ともや。まあ言い出しっぺは智也だからな。行こうぜ健一」


 智也に続いた二人は、老婆に悟られぬよう静かに続いた。


 聞いた話では、エレベーターは無く、主の神崎は五階の一室に事務所を構えているらしい。


 階段を登る間、三人は無言だった。先頭を歩く智也のレザージャケットが伸縮する音と、三人の靴の音だけが響いている。


 太ももに乳酸が溜まるころ、ようやく五階に辿り着いた三人は、ビルの入り口よりも身の凍るような寒気を覚えた。体中の血が全て失われ、細胞の一つひとつが活動をやめてしまうような悪寒である。


 智也は意に介さず少し歩き、ひとつの扉の前で止まった。


『S & GW inc.』


 扉の覗き穴はそう書かれたプレートで隠されていた。


 智也がチャイムボタンを探すため手を中空で遊ばせていると、扉の中で金属が何かから外れるような音がした。そして甲高い軋みと共に扉が開き、ひとりの女が姿を現した。


「お待ち申しておりました。Semaforoセマーフォロの皆様」


 赤く縁取られた眼鏡をかけた地味な女は、細い腕を室内に伸ばし、三人を招き入れた。


「お邪魔します」


 仄かに香る甘い匂いを感じながら、智也は二人を連れて奥に進んでいった。


 程なく、智也の後ろから金属と金属の噛み合う音が聞こえた。


「おいおい、監禁されるんじゃねえか?」


「いや、さすがにそんなことしないでしょ」


 純と健一は声を小さくし、扉を振り返っている。その様子に目もくれず、女は目尻を下げたまま「こちらへ」といざなっていた。


 少し拓けた空間には簡易的な応接室があり、向かい合ったソファーとテーブル、何の変哲もないガラスの灰皿だけがあった。半透明のパーテーションが奥にある空間との隔たりであり、その先は見えない。


 奥の空間から異様な雰囲気を察し、堪らず身を震わせてしまった智也に「今お飲み物をご用意致します。こちらでお待ちください」と女が艶のある笑みを浮かべ、どこかへ消えていった。


「なんかこう……もっと近代的な事務所を想像してたけどなあ」


 健一は室内をぐるりと見渡したあと、ソファー横に背負っていたギグバッグをゆっくりと置いた。


 ソファーは三人掛けであった。大の大人が三人も横並びに座ると窮屈ではあるが、その密着感が智也に多少の安心感をもたらせている。おそらく他の二人も同様だろう。


 しばらくして、女がテーブルに音を立てずにコーヒーカップを並べて置いた。


「お召し上がりになってください」


 黒い髪を後ろで束ね、薄い唇は目尻に向け上がっており、目尻も口の端を求めて垂れているようだった。その笑みが凍りそうだった智也の心臓に鞭を入れ、体の熱を取り戻させていた。純と健一も、智也と同じく女の仕草に見とれている。


「あ、あの……ありがとうございます。ここで待っていればいいですか」


「すぐに神崎が参ります。ここでの話は守秘義務により外部には漏れません。またいかなる場合でも神崎は契約を反故にしない事をお約束申し上げます」


 そう言った女はパーテーションの裏に近付き、「お願い致します」と小さく腰を折った。直後、「ああ、わかった」とあからさまに不機嫌な声が応接室まで響き、パーテーションの影が動いた。


 そこから現れたのは、浅黒い肌の体躯、頬まで生やした無精髭、寝相を疑ってしまうほどの寝癖、厚い瞼、主の神崎で間違いなかった。


「よお。神崎千里だ。てめえらは、ええっと、セ、セ、セミ……」


Semaforoセマーフォロです」


「ああ、それだそれ。何回聞いても覚えらんねえ。底辺のバンドなんざ興味ねえしな」


 頭を掻きながらソファーに座った神崎は、ポケットから見慣れない柄の煙草を取り出し、火をつけた。


「あの、すみません。今日俺ら――」


「おい、まず分かんねえから自己紹介しろ。今日来てねえやつもな」


 じっと智也を見据える神崎は、舞い上がる煙に瞬きひとつしない。


「あ、は、はい。ええと、まず俺がバンドのギター兼ヴォーカルの高崎たかさき智也です。一応、リーダー的なことをしてます」


「俺はドラムの樋口ひぐち純す」


「えっと……僕はベースの二宮にのみや健一です。お願いします」


 紹介順に顔を見ていた神崎は、智也に視線を戻し、「続けろ」と口で言わずに顎で指した。


「ああ、そうでした。ええと、メインギターは松本まつもと秀治ってやつなんすけど、今日バイトがどうしても抜けられないみたいで……」


 神崎は何も言わなかった。時折、視線だけ動かし純や健一を見るが、すぐに智也に戻していた。ようやく煙草が一本吸い終わるころに沈黙が終わり、最後の煙と同時に口を開いた。


「おい、亜紀。いいのか、やっちまって。はいいみたいだがよ」


「はい。構わないと思います」


 亜紀と呼ばれた女の声は近くから聞こえた。ソファーの後ろに立っていたらしい。


「ちっ。あまり乗り気じゃねえが、やってやるか」


 二本目の煙草を口にくわえた神崎に向かって、純が噛み付いた。


「おい、おっさん。ちょっと待てよ」


「あ? なんだ」


「あんたさっきから何なんだよ。人をごみみたいに見やがって。てめえはそんなに偉いのかよ! 薄汚え大人の一人だろうが。俺らだってな、選ぶ権利ぐらいあるんだよ!」


 純はメンバーの中で一番の激情家である。何も言わない神崎の視線を見ていた純にとって、居心地の悪さを怒りにその姿を変えていたのだろう。叫んだ純はテーブルを叩き、灰皿が小さく跳ねた。


「選ぶ権利……だと?」


「ああ、そうさ。確かに俺らは売れないバンドだよ。いつも同じ小さな箱で対バン組んでもらって、CDも手渡しで十枚売れたら御の字だ。客は知り合いか対バンメンバーだ。確かにあんたに比べたらちっぽけかも知れないけどよ、その態度はあんまりじゃねえか?」


「おい、純! 言い過ぎだよ」


 健一は純の腕を掴み宥めようとしているが、おそらく健一も同意見のはずである。手は純を掴んではいるが、神崎を黙って見ている。


「知らねえよ。お前もこんなやつと話して気分悪いだろ! おい智也! お前も何か言ったらどうなんだよ」


 神崎は顔色ひとつ変えず、ただ煙を増やしているだけだった。


「おい小僧ォ。ひとつ忠告してやる。お前たちが来るのは勝手だが、この事務所に入ったってことはもう全て受け入れろ。やるかやらないか決めるのはお前たちじゃねえ。ましてや俺でもねえ。もちろん亜紀は……春野亜紀は論外だ」


「じ、じゃあ誰が決めるんですか? 確かに俺が電話しましたが、純が怒るのも無理ありません」


「決めるのは……あの扉だ」


「はあ?」


 純と健一は声を重ねて振り返った。神崎は確かに扉、と言った。


「すみません、本格的に意味分からないんですが。扉って、トビラの事ですよね」


「ああ」


 智也は平静を保ったままやり過ごそうと考えていたが、突拍子もない答えがそれをいとも簡単に打ち砕いた。


「もういいや、健一、帰ろう」


 純は智也を一度見たあと、靴の踵を鳴らし、肩を怒らせて扉に向かった。健一も後ろに続き、ソファーには智也ひとり残された。


「おい、智也もこんなとこから早く出ようぜ」


 智也が扉の前まで行くと、純は扉を開け外に出ようとしていた。しかし扉は固く閉じられたままで、びくともしない。ガチャガチャとドアノブを回している純は「おい! どうなってるんだよ!」と喚きながら、終いには扉に体当たりをしていた。


「皆様、もう一度お掛けくださいませ。悪いようには致しません」


 春野が音もなく三人に近付いていた。


「……春野さん、あんたも頭おかしいよ。こんなの監禁じゃねえか」


「いいえ、この扉は手前共の意志とは別に動いております。皆様がお帰りになることを扉が許さないのです」


「また意味分かんねえ! そんなわけないだろ」


「お願いですから帰らせてください」


 純と健一は扉を開けようとしながらも、春野に懇願していた。


 それでも春野が落ち着き払っていることに疑問を持った智也は、「せめて理由だけでも」と二人の肩を掴みながら尋ねた。


「ありがとうございます。ではあちらへ」


 春野が伸ばしている手の先は、神崎が煙と戯れている応接室である。


「おい智也。お前も感じただろ。ここ・・はおかしいよ」


「とりあえず話だけ聞こう。俺たち、なんのためにここに来たんだ? いざとなったら話進めてから辞めりゃいい。クーリングオフってやつだ」


「命、狙われたり……しないよね」


 純と健一は揃って春野を見ていた。確かに命を狙うなら、こんな芝居じみたことはしないはずだ。そもそも狙われる謂れなどないのだが。


「おい! どうすんだ! 来んのか、死ぬまでそこで暴れてるか、どっちにすんだ」


 応接室から飛んできた伝法な言葉が扉を震わせた。


 三人は目を合わせ頷き、智也が「行きます」と返した。


 再びソファーに腰を下ろし、智也は頭を下げた。


「さっきはすいません。お願いに来たのは俺たちの方です。ただ、意味も分からず罵られて、勝手に話を進められるのは納得がいかないんで。だから分かりやすく言ってもらえれば、助かります」


「ふん、最初からそう言え。おい、さっきの小僧ォ。てめえも少しは頭を使って喋ろ。だからよく対バンの連中と喧嘩になんだろ」


「そんな、俺はいつも……は? なんで俺が喧嘩けんかぱやいの知ってんだよ」


 神崎は煙で輪っかを作っている。それに息を吹きかけ散らしたあと、顎をひとつ上げた。


「扉……それと、俺の眼だ。俺の名前、思い出してみろ」


「神崎……千里せんり。いや、んなことあるか。千里眼だと? 嘘っぱちだ」


 純は腕を組んで明後日の方向を向いていた。


「分かりました。百歩譲って信じます。じゃあ俺たちがここに来た理由も知ってるんですよね? 電話では詳しく伝えませんでしたが」


「ああ。全てお見通しだ。なんつっても、この眼とあの扉……日本政府公認・・だからな」

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