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公認ストーカー神崎の代筆  作者: ヒョードル
第一章 小説家、殿岡瑠璃子の場合
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一頁目

 神保町を東西に流れる新宿両国線を九段下方面に向かい、ひとつ折れた小路を歩くと目的のビルがあった。


 一人の女がそのビルを見上げている。


 暦上だともう冬であるはずなのに、未だ幾ばくかの熱を帯びている街とは打って変わって、そのビルの前ではうすら寒く感じた。


 鈍色にびいろをした五階建の雑居ビルは外壁がところどころくすんでおり、入り口から覗く郵便受けの下には封筒やチラシが散乱していた。不気味を絵に書いたような佇まい、その感想が適切だろう。


 『神崎ビル』と壁面に刻字されているその建物は、あらゆる生気を飲み干し、入る者を異次元へ誘うかのような陰鬱な静けさで辺りを支配していた。


 石田いしだ早苗さなえは飲み込んだ唾の音が予想以上に大きかった事にも気を留めず、そのビルへ足を踏み入れた。


 最上階の五階にある扉はどれも汚れと錆だらけだったが、一つだけ存分に人の気配を纏っている扉があった。ノブには埃ひとつない。


 その扉には除き穴を隠すように『S & GW inc.』と質樸に書かれたプレートが貼られている。


「エレベーターが無いなんて聞いてないわよ」


 息も切れ切れに早苗が独りごちていると、扉が甲高い軋み音を響かせながら開き、室内の光が薄暗い廊下に溢れた。


 開け放たれた扉から出てきたのは細い地味な女だった。


「お待ち申しておりました。石田早苗様。いえ、殿岡とのおか瑠璃子るりこ様、とお呼び申した方が宜しいでしょうか」


 ふいに「殿岡瑠璃子」と呼ばれた早苗は、直立不動のまま「はい」と裏返った声で返事をしていた。


「ようこそおいでくださいました。お飲み物をご用意致しますので中へどうぞ」


 女に連れられ室内へ歩き出した早苗の後ろで、甲高い軋み音と金属が複雑に絡み合う音が続いた。早苗が振り返ると、扉は閉まっていた。


 早苗の心内は後に退けない覚悟だけであり、躊躇いはなかった。


 言われるがまま進んだ先は小さな事務所のような造りだった。


「こちらでお待ちください」と案内された簡易作りの応接室は、テーブルを挟んで革張りのソファーが対面している。一枚の半透明パーテーションが奥の空間との仕切りになっており、その先の全貌を覗くことは適わない。テーブルにはガラスの灰皿だけが鎮座している。脇にある机は先程の女のものだろうか、書類が山積されており、小さな花瓶に生けられた赤い花だけが唯一の色彩だった。


 早苗が絶えず視線を移していると、女がコーヒーカップを音を立てずにテーブルに置いた。


「お召し上がりになってください」


 女は黒い髪を後ろで束ね、赤く縁取られた眼鏡を掛けている。年の頃は三十過ぎたあたりだろうか。最初は地味な印象だったが、言葉遣いや挙措はえらく洗練されており、早苗は、美しい人だな、と見とれていた。


 器量良しの女から視線を外せず、「はあ」と気の抜けた返答をした早苗に、女はゆっくりと微笑んだ。


「すぐに神崎が参ります。ここでの話は守秘義務により外部には漏れません。またいかなる場合でも神崎は契約を反故にしない事をお約束申し上げます」


 その言葉を聞いた早苗は背筋を伸ばした。口に含んだコーヒーの酸味が意識を鮮明に正してくれる。


「……はい」


 女は早苗の前方にあるパーテーションの裏に向かい、小さく腰を折った。


「お願い致します」


「ああ。分かった」


 透き通るような女の声に野卑な声が答え、大きな影が動いた。


 これから会う男が今の自分にとって必要な人間であることにどうしても疑いを持ってしまう。しかし業界内での噂では、この人間こそがその筋で最も実績があると聞いている。他に縋るもののない早苗の決意が、その疑いを強引に閉じ込めていた。


「よお、待たせたな。俺が神崎千里せんりだ。あんたが依頼主の殿岡瑠璃子本人か」


 パーテーションから出てきた男は無作法に言い、まるで睥睨するかのような一瞥を早苗に向けた。


 浅黒く偉丈夫のような躰、厚いまぶた、どちらかと言うと野卑ではなく伝法に聞こえる低い声、どれも早苗が想像していた人物像とかけ離れていた。年齢など到底判別出来なかった。


 神崎は音を立ててソファーに浅く腰掛けた。


 着ている灰色のスウェットは数ヵ所穴が開いており、汚れも酷い。無精髭は頬まで蓄えられ、寝癖は怒髪天を衝く人のそれだった。


「はい。殿岡瑠璃子です。本名は石田早苗です」


 神崎はスウェットのポケットから取り出した煙草に火をつけ、気怠そうに欠伸を一つした。しかしその後は何も言わず、ただ早苗を見ているだけだった。


「それではごゆっくりどうぞ」


 一間置いて女はそう言い残し、静かに応接室脇の机へ戻った。


「ありがとうございます。あの! どうすれば」


 神崎はまだ黙ったままである。ただ早苗を見続けていた。


 早苗はその視線が怖くなり女に助けを求めようと口を数度動かしたが、女は先と同じように微笑むだけだった。


 その笑みに観念した早苗は神崎に向き直った。


「あ、あの……不肖な私の為にお忙しい中お時間頂きましてありがとうございます。……な、なかなかシックで実用的なお仕事場……ですね。ははは」


 事務所には早苗の乾いた笑い声が谺したが、神埼の視線がそれを霧散させているようだった。


 早苗は、ただじっと己を見ている神埼の鋭い視線から思惑を読み取ることができず、矮小にすら思える自分自身にやり場のない憤りを溜めた。きつく握られた拳には汗が滲んでいる。


「……せめて何か喋ってください。じゃないと帰っちゃいそうです」


 神埼が煙草を灰皿に押し当てた。


「分かった。それじゃ契約といこうか。悪かったな、何も言わなくてよ。別にあんたを茶化したり馬鹿にしてた訳じゃねえ。あんたがよっぽど焦っているのがわかったよ」


 僅かに相好を崩した神埼は、二本目の煙草に火をつけた。


「え、契約……ですか? その前に色々話をしてからじゃ」


「いいや、いいんだよそんなもん。新進気鋭の女流作家、殿岡瑠璃子さんよ。大体わかってっから。しゃあねえ、請け負ってやるよ、代筆・・


 神崎のくゆらせる煙草の煙が渦を巻いた。


「報酬は俺の気分で変わるからな」


 早苗は頷き、思い出したかのように原稿用紙の束を鞄から取り出した。

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