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佐藤くんのこと  作者: ぎあ
1/1

その1

ーー灼熱地獄。

サンダルに足を突っ込んでとろとろと家から出た私の脳裏にそんな言葉が浮かんだ。ここ数日の間、クーラーのガンガン効いた家から一切出ていなかったせいもあって下界の暑さは常軌を逸しているように感じられた。マジかよ。こんな暑い中で野球とかやってる奴らマジかよ。

「あち〜」私は誰にもなくそう呟くと、草いきれが立ち込める線路沿いの道を、さながらゾンビのように歩いた。「う〜う〜」私はゾンビ映画が好きだ……私はゾンビ映画が好きだ!

カンカンカンカンという音がして、遮断機がもうすぐ電車が来ることを告げる。私は憂鬱な気分になる。この音を聞くたびに私はこの土地に生まれたことを後悔する。なんどこの音のせいでテレビ鑑賞を邪魔されたことかーー『犯人はーーあなたでガタンガタンガタンガタンガタン』などということはざら。

「死にたい」私は死にたくもないのにそんなセンチメンタルティックなことを呟く。このスペルを詠唱すると不思議なことに気が楽になる。なんだか自分がドラマの中の人になったみたいで。でもなんだか今日はあんまり気分が晴れなかった。そこらへんに転がっていた石ころをぽーんとけりとばす。ころころころと石ころは線路沿いの草むらの中に消えていった。私は真っ直ぐに石ころを蹴ることすらできない女であった。

「やあ」

声が聞こえた。咄嗟に後ろを振り返る。

そこには一人の男の子が立っていた。

「佐藤くん!」

私はつい叫んでしまう。佐藤くん。佐藤くんが立っていたから!

佐藤くんはもしゃっとした髪型をしていて、たぶん寝起きなんだとおもう。上下は藍染の着流しみたいな服を着ていて、どことなく明治時代の文人みたいだった。明治時代の文人がどんな格好をしていたのかはよく知らないけど。眼鏡の奥からこちらをじっと見つめるその眼差しは灼熱の太陽のごとく熱かった。私はぽっと頬が火照るのを感じた。やや! これはもしかしてもしかしてトキメキという奴ではーー?

「散歩」

「え」

「散歩してるの」

それは私に対して放たれた質問なのだろうか。それとも今散歩してんだよねという報告なのだろうかーー。ど、とっち……? イントネーションが少ないからわからないよ! しかし答えは二つに一つ! 私は前者を選んだ!

「うん!」

「そうか」

「うん!」

そう言うと佐藤くんは踵を返してすたすたと歩いていってしまう。待って! と声が出そうになったが、もしかするとこのあとようじがあるのかもしれないし、もし仮にそれで嫌われてしまったら本末転倒だ。それだけは避けなければならぬ。しかしながらせっかくこうして佐藤くんと邂逅できたこの幸運をそう簡単に手放していいのか、私。と、そうこうしている間に佐藤くんは数十m先の踏切をてくてくと渡りはじめていた。佐藤くんはずっと本ばかり読んでいるくせに歩くのが速い。

気付くと私は佐藤くんのことを追いかけていた。気づかれないくらいの速度で一歩一歩、やや駆け足気味に追いかける。見逃してはならないし、気付かれてもいけない。心臓がバクバクと音を立てているのがわかる。ーー気になる。佐藤くんのことが気になる。本当はずっと気になっていた。一年生の頃から。ずっとずっとずっと……。

そして今。

私は佐藤くんのあとを追いかけていた。降り注ぐ太陽の日差しがやけに強くなってきた。午後だ。


佐藤くんが水を飲んでいる。公園で。

私はそれを茂みの中からひっそりと眺めている。完全に危ない女だ。もし見つかったらきっと引かれてしまう。惹かれるのではなく引かれる。それはなんとしてでも避けなければならなかった。だから、

「こんなところでなにしてるの?」

と尋ねる無垢な短パン少年の質問に対しても黙秘を貫かなければならないのであった。しかしながら少年はなかなかどうしてしつこい。「あの人のこと好きなの」

「……そ、そんなことないよ」私は佐藤くんから目を離さずにそう答える。背中にじわっと汗が広がる。「これは……研究よ」

「自由研究?」

「……そ、そう! それ!」

「夏休みの自由研究なんて8月後半になってからやるもんじゃないの?」

「少年……それは人生失敗するタイプの人間だよ!」

「じゃあどうすれば成功なの?」

少年はなかなかどうして哲学的なことを言う。しかしながらその少年の問に対する明確なアンサーを私はもちあわせていなかった。むろんお金持ちになることとか、美人の奥さんを貰うこととか、そうした月並みなことを言うことも出来たが、おそらく少年の求めている回答ではないだろうし、中途半端なことを言って煙に巻くのは性に合わなかった。しかし気の利いたことを言おうとして佐藤くんを見失ったらそれこそ本末転倒なのでここは適当に「模索中……」と回答。実際問題、十六歳の小娘ごときに幸せの定理なるものを明示できるわけがないのであった。

ただーー今こうして佐藤くんのことを追いかけている間は、少なくともーー幸せーー。

「なんだか恋する乙女って感じだねえ」少年はおっさんのような口調でそう言うと、ポケットからのど飴を取り出し、口の中に含んだ。「ま、これ舐めてがんばりなよ」そう言うと私に向かってのど飴を差し出した。「水分補給になるかどうかは分かんないけど何も飲まないよりはマシ」

「ありがとう少年!」私は少年に倣ってのど飴を口の中へ放り込んだ。舌の上でコロコロと転がすと、蜂蜜のとろとろとした甘みが口の中に広がった。「おいしいよ!」

「そんなことよりいいの?」

「へ?」

「行っちゃったよは、例の彼」

そう言うと少年は顎で先程まで佐藤くんがいた場所を指し示した。慌てて視線をあげると、佐藤くんがいなくなっていた。

「少年! また今度!」

「がんばってね」

「がんばる!」


「むり」

私は自販機に寄りかかりながらそう呻いた。

佐藤くんを見失ってしまった私は、あれからあてもなく走り回った。しかし、佐藤くんは一向に見つからなかった。

蝉がジュージュー鳴いている。車はドドドド走っている。日差しはやや西に傾きはじめ、太陽は最後の力を振り絞るようにその熱量をあげていた。

私は口の中に残っていた飴の欠片をガリッと噛み砕いて咀嚼した。しかしながら水分は補給されなかった。ポケットから小銭を取り出し、自販機に投入する。ミネラルウォーターを選び、ガゴン。キャップを勢いよく回して一気に飲む。

おもえば。佐藤くんとの初めての出会いも、このミネラルウォーターからはじまったんだよな。私はふっとそんなことをおもいだした。あれならもう二年。佐藤くんは未だに私にとっての憧れで、佐藤くんにとっての私は取るに足らない存在でしかなかった。もしも両想いならーーと、そんな夢想をしたこともあったけれど、それはきっとないとおもう。悲観的ーーにおもえるかもしれないけど、私の中でそれは限りなく客観的な主観だった。

きっとーー佐藤くんにはやるべきことがあるのだろう。こうして炎天下の中、行動しているのだから。私には言えない秘密だってあるのかもしれない。例えば彼は地球の平和を守るために戦う戦士で、夏休みの空いた時間を利用してこうしてたたかっている……もしくは彼は夏休みパトローラーのひとりで、夏休みの平和を守るために日々暗躍する組織の一味だったり……と、貧困な想像力をなんとか駆使して佐藤くんのことを考えようとはするのだけれど、いかんせん佐藤くんのことを私は知らなすぎた。何が好きで、何が嫌いか、そういった基礎的な知識も皆無だし、そもそも満足に話すことすらできない。恋は人を臆病にするものだとしたら、今の私は恋という病にかかり、人の世を忍んで暮らす夜光虫、と言った有様であった。そんな夜光虫が急に一念発起して外の世界へ飛び出したところでうまくいくわけがないのだーー。

と、元来の落ち込みやすさを遺憾無く発揮してしまった私はとりあえず今日は帰ることにした。そろそろアイスも食べたくなってきたころだ。急いては事を仕損じる。故に私はコンビニへ向かったのであった。


「それで諦めて帰っちゃったわけ?」

ハーゲンダッツをぺろぺろと食べている私に向かって姉の神楽はそう言い放った。まゆがつり上がっている。小指でトントンとテーブルをつつきながら。

「うん」

「はー。あんたさあ、なんでいつもそんなにぼーっとしてんの。もうちょっとしゃきっとしなさい」

「だってー」

「だってもへちまもあるかぁ! あのね、幸運の女神の前髪はちゃんと掴まないとダメ!」

「そんなことしたら可哀想だよ。痛いって」

「比喩よ比喩! だいたい女神なんていないから!」

「いるよ」

「どこに!?」

「ここに」私は姉を指さす。

「……ッ!! あ、ありがと……」姉の顔は瞬く間に紅潮した。チョロい。

「ところでお姉ちゃんの方はどうなの」私はきゅうりの浅漬けをぽりぽりと咀嚼しながら尋ねる。

「ダメ。全然連絡来ない」

「なるほど」

そう言うと姉はテーブルに突っ伏して、「あっくんのばかぁ……」とぼそぼそと呟いた。こういう落ち込みやすいところはやっぱり似ているなあと私は人事のように思う。味付けいまいちだな、これ。

「だいたいあっくんがわるいんだよ。ぜんぶ」

「ごちそうさま」

「ちょっと話聞いてよ!」

「なにゆえ」

「大事な姉が恋の悩みを抱いて悶えてるんだよ!?」

「お姉ちゃんなら大丈夫」

「なにゆえ!?」

私は姉の問に答えずに食器を流しへ置きに行った。

姉が彼氏と喧嘩することはそう珍しいことではない。一週間に一回はしているとおもう。山勘ではあるが、あと二時間後には仲直りしているとおもう。とても幸せなカップルだと思う。喧嘩するほど仲がいいとはよくいったもので、彼女らのためにその言葉はあるのではないかとついついおもってしまう。

それにしてもーー私は居間で「もうダメだ〜」と相も変わらず呻き続ける姉の声を聞きながらおもう。

佐藤くんは、一体何者なのだろう。

と。


「飲む?」

新学期早々、私の隣に座っていた男の子はそう言い放ち、飲みかけのミネラルウォーターをぐいっと差し出した。私はそのとき机に突っ伏し、これからの人生と繰り返される日常について考察を広げていたところだったので、最初その飲みかけのミネラルウォーターを差し出すという行為が誰に向けられて行われているのか、ピンと来なかった。その行為が私に対して行われていることに気づいた瞬間の驚きと言ったらない。あわあわあわと私はみっともなく取り乱してしまい、机の上に散らばっていた教科書を使ってバリケードを作成した。「誰ですかあなたは!」

「おれ? おれは佐藤だよ」

「佐藤? 誰ですか。知りません」

「はっはっは。なんともまあガードの硬いお嬢さんだなあ」

「なんなんですかその太平楽とした態度は。いいですか。飲みかけのミネラルウォーターを相手に飲まさせるということは」

「ということは?」

「……関節キスをするということに……い、言わせないでくださいよ……恥ずかしい」

「秋月はおもしろいな、やっぱり」

「やっぱりって……佐藤くん私と話したことないですよね?」

「あるよ」

「え?」

「まあいずれわかるよ。いずれ」佐藤くんはそう言うと、ふらふらと教室を出ていってしまった。佐藤くんと入れ替わるようにたくさんの生徒達が教室へ帰ってきた。

しかし佐藤くんはいつまでたっても帰ってこなかった。


「やはり佐藤くんは、人ではない?」

姉とのたわいもない応酬を終えた私はお風呂に浸かりながらそんな突拍子もないことを呟いた。ふっと煙のように消える佐藤くんは、きっと人ではない、という仮説だ。むろんこんな仮説は砂上の楼閣のようなもので、ふっと息を吹きかければ消えてしまう類のものだろう。そもそもの話、根拠というものがない。証拠もなければ確証もない。そうした類の戯言だ。

しかしながらーーぶくぶくぶくぶくと水中で息を吐き出しながら私は思う。佐藤くんが人でなかったとしたら、世界はもう少しだけ素晴らしく見えるかもしれない。ひょっとすると佐藤くんは私の退屈な日常を帰るためにやってきた使者であり、それはつまり私にとっての救世主とも言える存在かもしれない。

だとしたら素敵だ。

この上なく素敵だ。

「あんた風呂長いね」

と、そんな幸せな思考は姉の無粋な一言によって遮られた。姉は私が幸せな想像にふけっていると、いつもこうして余計な一言を口に出す。テレパシーでも使っているのかしらとついつい邪推してしまうほどに。

「お姉ちゃんだって長いよ。昨日四時間入ってたじゃん」

「あれはいいの。あっくんと仲直りした記念」

「何回仲直りすれば気が済むの? ハリネズミなの? ハリネズミ同士なの?」

「ジッレンマ〜」

「かっわいた〜みたいに歌わないでよ」

「まあまあお嬢さん。そうかっかなさんな。シワが増えてしまうゼ」

付き合いきれない。

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