第三十三話『約束の場所へ(前編)』
「よく来たな、クラーラ。さぁ、上がりなさい」
笑顔でドアを開けた村の教師――セルヒイ=ボンダレンコに笑顔で頷こうとして、クラーラは動きを止めた。
ボンダレンコの背後に見知らぬ女がいることに気づいた。
栗色の長い髪を後ろに束ねた女が、にこやかな表情でこちらを見ていた。
二十代半ばと思しき美しい女。十二歳のクラーラからは十歳ほど年上に見える。
白いブラウスに紺のスカートという派手ではない装いだが、雰囲気が村の人間とは明らかに違う。
キーウなどの都会から来たのかとも思ったが、同じ国・同じ文化圏・同じイデオロギーで育った人間とは明らかに異なる何かを感じる。
「ボンダレンコ先生……こんにちは。あの……」
「あぁ、紹介しよう。この人はアメリカのNPO団体の職員でヴェロニカ=ノヴァクさんだ。一昨日からこの村に来たんだよ」
「はじめまして、クラーラ。私のことは『ロニー』と呼んで。それとも『ヴェーラ』の方がいいかしら?」
一歩、歩み出て握手を求めるヴェロニカからクラーラは左足を半歩、退いて遠ざかるとスカートの裾を両手で持ち上げ、右足を軽く曲げて礼をした。
「はじめまして、パニ・ノヴァク(ノヴァクさん)。私はクラーラ=イリイーニシュナ=クラウチューク。ボンダレンコ先生の生徒です」
時代がかった挨拶にヴェロニカが「ヒュウ!」と口笛を吹いた。
クラーラが顔をしかめたことに気づいたボンダレンコが苦笑して手招きをする。
「クラーラ、上がりなさい。お茶でも飲むとしよう」
「ありがとうございます。ボンダレンコ先生」
「私が焼いたクッキーもあるわよ。お茶を飲みながら村のお話を聞かせて、クラーラ」
クラーラはヴェロニカの声が聞こえていないふりをして玄関に足を踏み入れた。
物心ついてから何度も訪れているボンダレンコの家に入ることを、初めて憂鬱に思った。
「おいしそう……ねぇ楓ちゃん、これは何て料理?」
目の前で湯気を立てるグラタン皿に目を奪われながら、由機が尋ねた。
「オイスター・ロックフェラー。かなりアレンジしてはいるが」
「オイスター……ロックフェラー?」
由機はグラタン皿から目を離すことなく、聞き返した。
視線の先ではベシャメルソースを纏った牡蠣とほうれん草の上できつね色に焼けた粉チーズが、香ばしい匂いを立てている。
「そう、オイスター・ロックフェラー。本来なら殻つきの牡蠣に香味野菜やほうれん草のピューレなどを乗せて焼く。だからこれは、オイスター・ロックフェラー風グラタンと呼ぶべきか」
「どこの料理なの? 名前からすると、ウクライナ料理じゃないわよね」
楓が口元を緩める。
「ニューオーリンズのフランス系アメリカ人が考案した料理だ。アメリカ料理の中でも『クレオール料理』と呼ばれるものの一つにあたる」
「なるほど……アメリカの料理なんだ。そういえば楓ちゃん、前にアメリカ風のクッキーを食べさせてくれたわよね」
由機はようやく顔を上げ、楓に微笑んでみせた。
「ああ、覚えている。ユキが初めてこの家に来てくれた時だ」
楓は大きく頷いた。
「楓ちゃんは色々と作れてすごいなぁ。このお料理やクッキーとかはウクライナで覚えたの? それとも日本に来てから?」
「どちらも日本に来てからだ。幼い頃から料理は好きだったが、私の村では手に入らない食材が多かった。外国の文化に触れる機会も十分ではなかった」
楓の笑顔は苦笑に変わっていた。由機は何と声をかければよいか分からなかった。
「物心ついた頃から祖国を出たい気持ちはあった。一方でウクライナ人であること、ウクライナ・コサックの末裔であることに誇りを持っていた。自由で恵まれた暮らしをしている西側の人々を快く思わない気持ちもあった」
楓が湯気を立てるグラタン皿に目を落とした。
「この料理のレシピを教えてくれた人に会わなければ、私は日本に来ることもなかっただろう。ユキに……お祖父様に会うこともなかっただろう」
「レシピを教えてくれた人って……お料理の先生か何か?」
「違う。CIAの工作員だ」
「え……っ」
楓の口から出てきた言葉は予想外のものだった。
「えぇと……夕飯、用意してくれてありがとう。いただきます」
気まずそうにしながらも、亮介は両手を合わせて食卓を拝んだ。
食卓の上には湯気を立てるオイスター・ロックフェラー風グラタンに野菜サラダ、ご飯に味噌汁などが並んでいる。
「どうぞ、おあがりください。口の中も怪我しているだろうから、気をつけて食べてくれ」
「うん……大丈夫。うまそう」
楓が横から亮介の顔を見つめる。
「ん……何?」
「君は所謂『不良』だと聞いていた。こんな素直にやり取りができると思ってはいなかった」
「いや、その……俺は別に……」
口ごもりながら、楓の向かいに座る由機に視線を送る。
「喧嘩ばかりしてた人を『不良』以外に何て呼べばいいの?」
由機が呆れたようにため息をついた。
「その……ごめん。ゆ……宮坂。もう喧嘩はしねぇから」
「当たり前です。それじゃ……いただきます」
「いただきます」
由機に続いて楓も両手を合わせたのを見計らい、亮介が箸を取った。
「……いっっ!」
味噌汁を一口含んで亮介が顔をしかめた。
「あぁもう……大丈夫? 気をつけて」
「やはり、お粥などの方がよかったか?」
自身の顔を覗き込む由機と楓を交互に眺め、亮介が動きを止めた。
「ど……どうしたの?」
やがて、亮介がうつむいて肩を震わせた。
「りょうく……亮介君?」
「ごめん……俺、その……」
亮介は両手で顔を覆って泣き出した。
「その……なんなんだろう……ごめん、本当にごめん……!」
亮介の胸に様々な思いが押し寄せていた。
宮坂家で夜まで遊び、機十郎の用意した夕飯を三人で食べて過ごした楽しい日々の思い出が溢れ出し、胸がいっぱいになった。
自身にとって何より大切な存在とその友人達を危険に巻き込んだ後悔と自らへの怒りも加わり、感情がぐしゃぐしゃになった。
父――康介と二人で摂る夕食の一時が嫌いなわけではない。それでも、機十郎が生きていた頃の思い出はかけがえがなかった。
こうして由機と、機十郎とどこか面影の似た少女と食卓を共にしているこの瞬間が、夢のようだった。
楓が、そっと亮介の肩に手を置いた。
亮介はそのまま、泣いた。
由機はそんな二人を無言で見守っていた。
「久しぶりだな、宮坂だ。その声からすると元気そうだな、何よりだ」
機十郎は公衆電話の受話器から返ってくる怒声に苦笑した。
「信じられんのは分かるが、本当に俺だ。宮坂機十郎だ。何なら土浦の米山にでも聞いてみたらどうだ。聞けば、お前の会社は武器学校にも食材を卸しているんだろう? おい、待て待て……とりあえず話を聞いてくれないか。頼むよ」
相手が電話を切ろうとしたことを察し、機十郎はいくらか口調を和らげた。
「こっちはせっかく孫が作ってくれた夕飯を我慢して電話しているんだ。もう少し話を聞いてくれよ。あぁ……すまん。で、早速だが本題に入るぞ」
機十郎は一呼吸置いて、にやりと口元を歪めた。
「お前の会社の船は、清水港から大連やウラジオストクにも出入りしているな。そこで一つ相談だが……俺とその孫を大連かウラジオストクへ行く船に乗せてはくれんか。なぁに、夏休みに孫を海外旅行に連れて行ってやろうと思ってな。だから近いうちに孫を連れて浜松の本社へ挨拶に行く。土産は薄皮饅頭でいいか?」




