第三十二話『暴力の足跡』
暗闇の中、鈍い音と少年達の悲鳴が連続して聞こえてくる。
テツヤは一言も発することなく、部屋の片隅でうずくまって震えていた。
それは突然の出来事だった。
部屋の電気が落ち、手下の少年にブレーカーを見に行かせた直後、何者かが室内に押し入ってきたのだった。
侵入者に手下の少年達が叩きのめされている間、テツヤはソファの陰に身を隠し、息を殺していた。
「てっ……テツヤさん、助けて! 助け――ゴハッ!」
助けを求められても聞こえないふりをして、自分だけは暴力の嵐から逃げられるように祈った。音だけで、何が起きているかは容易に理解できた。
視覚を奪われた少年達を鋭い殴打と蹴りが襲い、次々に叩き伏せてゆく――それは、あまりにも一方的な暴力だった。
やがて、一分余り続いた打撃音と悲鳴が止むと、暗闇の中に静寂が訪れた。が――。
「小僧。お前だな?」
自分だけは……テツヤの身勝手な願いは、脆くも打ち砕かれた。声のする方へ咄嗟に振り向くと、暗闇の中に光る赤い瞳が見えた。
「ヒッ……ワァァァァ!」
聞いたことのない異国の言葉を発した侵入者は、悲鳴を上げるテツヤの襟首を掴み、乱暴に引きずり起こした。
テツヤが思ったよりずっと小さなその手――しかし、込められた力はテツヤのそれを遥かに上回る。
テツヤはすぐに抵抗を諦めた。助けを乞うこともしなかった。相手の機嫌を損ねることなく気が済むまで殴られることが、苦痛を最小限にする唯一の方法だと本能的に悟った。
その直後、想像より遥かに重く鋭い拳が鳩尾に突き刺さった。
「ゴボォッ……あっが……!」
内臓が叩き潰されたような激痛と脱力感に、たまらず膝を着く。間髪入れずに、横顔へ膝蹴りが飛んで来た。
「おぁぁぁ!」
フローリングの床を滑り、壁に身体をぶつけたテツヤを見下ろす赤い瞳――。その冷たい眼光は、テツヤが見てきた人間達のそれとは、明らかに違っていた。
再び伸ばされた手が髪の毛を乱暴に掴み、もう片方の手が鉄槌となって顔面に叩きつけられる。
「ベャァァァッ!」
歯で口の中がズタズタになり、吐き気を催す赤錆の味とニオイが口と鼻に迸る。
いつ終わるとも知れぬ、悪夢のような暴力の嵐。
テツヤはひたすら殴られ、蹴られ、投げつけられ、人間としての尊厳を打ち砕かれながら、これまでの人生を振り返っていた。
物心ついた時から、誰かを泣かせてばかりだった。自身より弱い相手には暴力や罵声を浴びせなければ気が済まなかった。
弱者に苦痛と屈辱を与えて尊厳を奪い去り、足元に跪かせることが生き甲斐だった。
そんな中でも、自身より強い相手とは戦わないことだけは守り続けてきた。暴力団関係者や服役経験者には媚びへつらい、彼らの敵意が決して自身に向かないよう腐心していた。
しかし今、自身より遥かに強い相手の敵意と暴力に晒されている。
目の前にいるのは、自身に恨みを持つ誰かが放った裏稼業の人間だろうか。きっとそうに違いない。海外で軍隊経験のある、殺し屋か用心棒だろう。
テツヤはこれまでに多くの格闘技経験者と会い、服役経験者や殺人経験者とも会ったことがあるが、この瞬間に自身を襲う暴力は彼らと明らかに異なる、堅い意思を持って何人もの人間を殺してきた冷徹な力だと悟った。
どうすれば人間が死ぬかを知り尽くした人間の、緻密に計算された暴力。ギリギリのところで致命傷を与えないよう手加減し、ひたすら苦痛を与える為の知識と技術が感じられた。
テツヤはこれまでに経験したことのない圧倒的な暴力を前に恐怖し、己の行いを悔い……やがて、恐怖と苦痛で失神した。
気を失う直前に脳裏をよぎった言葉……それは『因果応報』だった。
胸が温かい。
大きな穴が空き、いつも冷たい風が通り抜けていた胸が温かく……心地よい。
温もりは胸から全身へと広がり、痛みを優しく解かしてゆく。
「じい……ちゃん……」
亮介の口から漏れたのは、この九年間で殆ど口にすることのなかった呼び名だった。
「おう」
呼びかけに応えたぶっきらぼうな声は、若々しく力強く――どこか懐かしい響きがあった。
誰かの背中に身を預け、何処かへと向かう。朧げな意識の中、遠い記憶となったかつての日々を思い出す。
由機の家で遊び疲れて眠ってしまった時は、機十郎に背負われて家路に就いた。
それほど大きくない機十郎の背中が揺り籠のようで、心が安らいだ。
母の温もりを覚えていない亮介にとって、機十郎は祖父のようで母のような存在だった。
「じいちゃん……」
「おう」
再びの呼びかけに、同じ声で応えが返ってきた。
「……なんで、死んじゃったんだよ」
ぽつりとこぼしたその言葉。九年前から、ずっと胸の中に閉じ込めていた、その言葉――。
「すまんな」
簡素な詫び言を聞いた途端、抑えていた感情が一気に溢れ出した。
「じいちゃん……! なんで……なんでだよ! なんで死んじゃったんだよ!」
「すまんな」
「じいちゃん……じいちゃん……! 俺、ずっと……! じいちゃん、じいちゃぁん……!」
泣きながら、ひたすらに呼びかける。
「すまなかったな、亮介」
困ったような声で名前を呼ばれると――安心からか、亮介は再び意識を失った。
亮介が目を開けると、そこは見知らぬ家の一室だった。茶箪笥とテレビのある六畳の和室。身体を包む柔らかな布団の感触に、自身が危機を脱したことは理解できた。
「起きたのか」
初めて聞く声だった。声のした方へ目を向けると、同じ学校の制服を着た金髪の少女が青い瞳でこちらを見ていた。
彼女が誰かは知っていた。由機と共にテツヤから目をつけられていた、海外からの転校生。噂通り、その顔は西洋彫刻のように美しく、身体つきは制服の上からでも分かる豊満さだった。
少女――楓の青い瞳を見つめているうちに、亮介は軽い恐怖を覚えた。無表情なだけではない。瞳の奥に底知れない何かがあるように思えた。
「あっ、えぇと……日本語、分かる? ここは……」
勇気を出して話しかけると、楓が微かに眉根を寄せた。
「失敬な。日本語が分からずに編入試験が受けられるものか。ここは私の家だ」
「あ、わりい……うぐっ」
慌てて起き上がろうとした瞬間、全身に痛みが走った。
「無理はするな、まだ寝ているがいい。骨折などはないようだが、全身ひどい打撲だ。今晩は泊めてやる。ゆっくり眠って身体を休めるのだな」
楓の手が肩に伸びる。豊かな胸が目の前に迫り、甘い匂いが鼻腔をくすぐった。
「あっ、おい……近いって! ていうか、その……泊めてやるって……よく知らない女の子の家で、そんなことできねぇよ!」
亮介が顔を真っ赤にして慌てると、楓は小さくため息をついた。
「私がいいと言っているのだ、気にするな」
亮介は楓の手に支えられ、再び横たわった。
「あ、その……ありがとう。ところでさ」
「ユキなら無事だ。心配はいらない」
「えっ……」
亮介の言葉を遮って言うと、楓は姿勢を正して膝に手を置き、深々と頭を下げた。
「ユキと園原君、そして私を守る為に戦ってくれたこと、心から感謝する。ありがとう」
「やめてくれよ。俺は……何もできなかったんだから」
楓は小さくかぶりを振った。
「結果はどうあれ、君が私達の為に戦い、傷ついたことに変わりはない」
そう言って楓は小さく口角を上げた。注意深く見ていなければ気が付かないほどの、微かな笑みだった。
「食事の用意をしてくる。それまで横になっていた方がいい」
席を立ち部屋を出て行く楓の背中を、亮介は無言で見送った。自分より小柄な少女の背中が、不思議と大きく見えた。
「由機、よく頑張ったな。お前は楓と園原さんを守ったんだぞ。本当によくやった」
機十郎は台所の片隅で震える由機の身体をしっかりと抱き締めていた。
「あっ……うぅ……私……私……!」
機十郎と共に亮介を保護し楓の家に運び込んでから、由機はずっと震えていた。
「大丈夫だ、何も心配はいらない。俺も楓もお前のそばにいるぞ」
そう言って、機十郎が由機の背中を優しく叩く。
由機は突然、強い力で機十郎を突き放した。
「嘘、言わないでください! 私達を置いて密航しようとしてたじゃないですか。土浦に行く時だって、私に『ついて来い』と言ってくれなかったじゃないですか! どうせ、あなたも私の前からいなくなっちゃうんでしょう? あの時みたいに――」
そこまで言うと、由機はハッとした。大事な何かを思い出しそうになり、また忘れてしまったような気がした。
「……仕方がないな」
機十郎はため息をつくと、静かに由機の肩を抱いた。
「分かった。絶対に、お前達を置いて出て行ったりしないよ。約束する」
「……本当ですか?」
「本当だとも。心配をかけてすまなかった」
由機はしばらくの間、機十郎の腕の中で何度も深呼吸をし……やがて落ち着きを取り戻すと、静かに顔を上げた。
「ニコライさん。私達の前から、絶対にいなくならないでください。ニコライさんが危ない所へ行くというなら、私達も一緒です」
涙をたたえた由機の瞳を前にして、機十郎は表情を引き締めた。
「いいんだな。お前の言葉を真に受けるぞ。もしも後になって怖気づいたら、お前とて容赦はせん」
由機は両目を拭い、大きく頷いた。
「戦争によって得るものが皆無とは言わん。戦って初めて得られる平和もある。それでも兵器は暴力を具現化したもの。それを操る者は暴力の行使者だ。戦車の轍は暴力の足跡。俺と一緒に来ることは、お前も暴力の足跡を残すことになるんだぞ」
「かまいません。私が望むものが暴力でしか得られないものだとしても、私はそれを手放したくありません」
機十郎は由機の瞳をしばし見つめた後、無言でその身体を抱き締めた。
由機の瞳が放つ光は冷たく、硬質で――数秒前とはまるで別人のようだった。




