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第二十四話『上を向いて歩こう』

 聴こえてきたのは小鳥のさえずりだった。どこか嬉しそうなその声に、雷雨が去ったことを知る。

 暗がりの中で目を覚ました槙野まきのは横になったまま辺りを見回した。そこは使い込まれた小型のトラクターと様々な農機具が置かれた、物置小屋の中だった。

 身体を包んでいる農業用のビニールシートを取り払おうと右手に力を入れた瞬間、鋭い痛みが走る。見れば上腕部には包帯が巻かれ、三角布で首に固定されている。

 知らぬ間に怪我をし、傷の手当てを受けたようだ。仕方がないので左手を床について上半身を起こし、身体を包んでいたビニールシートを取り払う。

 槙野は静かに立ち上がり、左手で額を押さえた。自分は何故、こんな所にいるのだろう――。

 行方不明の少年を保護する為に少女と二人で街へ入り、互いに連絡を取りながら探索を続けているうちに、どこからともなくディーゼルエンジンの音が聴こえてきたことは覚えている。

 しかし、その後がどうしても思い出せない。かぶっていた鉄帽はどこへ行ったのだろう。自分はいつ怪我をしたのだろう。一体、何があったのだろう――。

「そうだ……由機さん!」

 自分に起きたことよりも、共に街へ入った少女の安否が気にかかる。

「……由機さん、こちら……あっ」

 肩から外したトランシーバーに呼びかけようとして、電源ランプが消えていることに気付く。電源スイッチは『ON』になっているのだが……。

「あ……あれ……?」

 すぐにスイッチを入れ直すが、ランプは点灯しない。それを何度か繰り返した後、通信を諦めて物置小屋から飛び出した。

 民家の庭を抜け玄関を出たところで、槙野は足を止めた。

 空を覆う黒雲が二つに割れ、カーテンが下りるように夕陽の光が差し込んでいた。そして、ちょうど雲の割れ目に吸い込まれるように上空まで黒煙が上がっている。大規模な火災だと一目で分かった。

「あれは……飛行場か!」

 反射的に足が動き出したが、すぐに踏み止まる。

 火災現場の状況を確認することも大事だが、彼女を探すことが先だ。

 元陸軍中尉を名乗る青年と同じ目をした、美しく優しい少女。彼女を守り、街に消えた少年を保護することが自身に与えられた任務だったはず。

 槙野は額の汗を拭い、呼吸を整えると、住宅街に向かって踵を返した。

「槙野さん!」

 痛む右手を押さえながら足を踏み出すのと同時に、どこからか澄んだ声が聞こえてきた。

 咄嗟に振り返った槙野の目が、こちらに向かって駆けてくる人影を捉える。

「……由機さん!」

 黒髪をポニーテールにまとめ、高校の制服を着た少女。それが由機だと分かった瞬間、槙野は思わず駆け出していた。

「由機さん……! よかった、無事だったんですね!」

「はい。おかげさまで」

 由機はそう言って、困ったように微笑んだ。

「すみません。連絡しようと思ったんですが、無線機が壊れてしまって。自分と一緒に戻りましょう。本隊と連絡が取れないまま捜索を続けるのは危険ですから」

「大丈夫ですよ、槙野さん。晴之君は見つけましたので」

 由機は笑顔を崩すことなく言った。

「え……見つけた?」

「はい。先ほど祖父が小三坂さんの所まで送って行きました。ですから、もう心配はいりません」

 予想外の言葉に、槙野はしばし無言で由機の笑顔を見つめた。

「あの……それよりも、腕のお怪我は大丈夫ですか?」

 ややあって、槙野の視線に耐えかねたように由機が問いかけた。

「……大丈夫です。由機さんが介抱してくれたんですね」

「いえ、私はその――」

 由機が言い終わる前に、槙野は深々と頭を下げた。

「すみませんでした、由機さん」

「あの……顔を上げてください、槙野さん」

 槙野は顔を上げようとはしなかった。

「……自分が由機さんを守らなきゃいけないのに、こんな……!」

「えっ……」

 槙野は頭を下げたまま、言葉を続けた。

「教えてください。自分が気を失っている間に……何があったんですか?」

 由機はしばしの沈黙の後、槙野の両肩にそっと手で触れた。

「顔を上げてください、槙野さん。患部を下にすると良くないですよ」

 心地よい声の響きに、槙野が自然と顔を上げる。

「……ごめんなさい、槙野さん。私は何もしていませんし、何も分からないんです」

 その笑顔は穏やかでありながら、どこか超然としていた。

「そう……ですか」

「槙野さん。地図と無線機をお返しします。ありがとうございました」

 由機は小さく頭を下げ、コンビニエンスストアのビニール袋を差し出した。

 槙野は無言でそれを受け取ると、自らも小さく頭を下げた。

「槙野さん。私はこれで失礼します。小三坂こみさかさんに、どうかよろしくお伝えください」

「はい。由機さん……ありがとうございました。お気をつけて」

 やがて槙野は踵を合わせて背筋を伸ばすと、腰を曲げて深く頭を下げた。無帽での最敬礼だった。

「こちらこそ、お世話になりました。槙野さんも……どうかお気をつけて」

 由機は自らも姿勢を正して深く頭を下げ、礼に応えた。

「それでは……さようなら!」

 由機は明るい声で別れの挨拶をすると、再び一礼して踵を返した。

「さようなら、由機さん。お元気で!」

 槙野は地面にビニール袋を置き、空いた左手を大きく振って由機を見送った。その姿が遠ざかり完全に見えなくなるまで、槙野は手を振るのをやめなかった。

 自分が気絶している間に起きたこと……あの少女は間違いなく、それが何かを知っている。

 そして、恐らく彼女は……戦えない自分達の代わりに戦ってくれた。

 だからこそ、引き留めてはいけない。何が起きていたのか聞いてしまえば、あの少女の平穏な日常を奪うことになるだろう。

 だから何も聞かない。引き留めもしない。それが自分にできる、せめてもの恩返しだ。それが、自衛官の判断として正しいのかは分からないが――。

「……またいつか、会えるといいな」

 槙野は日の落ちかけた空を見上げて呟くと、振り返って足を踏み出した。


「あの……ニコライさん」

 街灯の消えた道を歩きながら、由機は疲れた声を発した。

「何だ、由機?」

 由機と楓の前を歩く機十郎が普段と変わらぬ調子で聞き返す。

「土浦駅前まで……あとどのくらいですか?」

「お店の営業時間に間に合うのか、お祖父様? 私達は、すき焼きが食べられるのか?」

 由機に続いて楓が詰問する。明らかに苛立ちを含む声だった。

 槙野の無事を確認した由機は機十郎・楓と合流した後、夜陰に乗じて警察と自衛隊の警戒網をかいくぐり、土浦市街へと向かっていた。停電は未だ復旧せず、周囲の家屋も灯りが消えたままである。

「ふぅむ……今は七時四〇分を過ぎたあたりか?」

 二人を先導する機十郎が呑気な声で尋ねた。

「七時四二分です」

 由機はデジタル腕時計の文字盤を見ながら、素っ気なく答えた。

「それじゃ、無理だな。中心市街まであと三〇分はかかる。警察と自衛隊の目をかい潜りながら来たせいで、思ったよりも時間がかかったからな」

 機十郎はこともなげに言い放った。

「え……」

 由機と楓は同時に声を発した。

「よくよく考えりゃ、停電もまだ復旧していないようだし、雷雨も止んだばかりだ。駅前の店も軒並み休業かも知れんなぁ……って」

 機十郎は足を止めて後ろを振り返った。

「……どうしたんだ、お前達?」

 由機と楓が共に膝を抱えて道端に座り込んでいた。

「私、もう歩く気が失せました」

「同じく」

 二人はうつむいたままで答えた。

「やれやれ……困ったな」

 機十郎は小さくため息をつくと刀袋を肩から外し、二人の近くに腰を下ろした。

「私、お腹が空きました」

「同じく」

 由機と楓は恨みがましい目を向けながら、機十郎をなじった。

「俺も腹が減った。戦闘を行ったのは久しぶりだからな」

「戦闘……」

 由機は小さく呟いて、深く息を吸った。

 ――そうか……私達は戦ったんだ。

 あの出来事は、本当に自らが体験したことなのだろうか。そう思わずにはいられない。

「そうだ、私達は戦った。そして勝った」

 由機の心の声が聞こえたかのように、楓が呟いた。

「……うん。勝ったんだよね」

 目を閉じると、飛行場で見た光景がまぶたの裏にはっきりと映し出される。

 三式中戦車を撃破した直後、格納庫で起きた大爆発。爆炎は一条の光となって天を衝き、空を覆う黒雲を切り裂いた。

 それは、文字通り地上に光が戻った瞬間だった。間もなく雷雨は去り、街と外界を隔てていた濃霧は急速に晴れていった。

「……凄い光景だった。一生、忘れられないだろうな」

「そうだな。私もだ」

 楓が小さく頷き微笑んでみせると、由機も笑顔でそれに応えた。

「勝てたのは、お前達のおかげだ。こいつも、そう言っているぞ」

 機十郎はそう言って脇に抱えた刀袋を指差した。

「刀の声が聞こえるんですか、ニコライさん?」

 由機が疑いの眼差しを向ける。

「俺がそう思っただけさ」

 機十郎は平然と答えた。

「もう……適当なこと言って」

「危うく信じてしまうところだったではないか」

 非難の言葉を口にしながらも、由機と楓は笑っていた。

「まあ……戦闘が終わってもこいつが戦車のままだったらどうしようかと思っていたが、こうして鞘に納まってくれてホッとしたよ」

「私、そんなことまで考えてませんでした。目の前のことで、とにかく頭がいっぱいで」

「私もだ。とにかく、勝つことだけを考えていた」

 機十郎は苦笑した。

 戦闘の後、周囲の状況を確認しようと三人が車外に出たところ、九七式中戦車――『霊山りょうぜん』は青い光を発して軍刀に戻ってしまった。

 あたかも、「これで自分の仕事は終わった」と言わんばかりに。

「何はともあれ、これで物的証拠はなくなった。風呂に入って制服も洗濯してしまえば硝煙反応も残らない。あれをやったのが俺達だということは、まず分からんだろう」

「小三坂さん達は、私達が街に入るところを見てますけど……それはいいんですか?」

 楓が無言で頷き、由機の言葉に同意する。

「心配はいらん。連中にしても、警戒線の中に民間人を入れてしまったことを表沙汰にしたくはないだろうからな。双方の利害が一致すれば、話は全て丸く収まるさ」

「そんなに上手くいくんでしょうか?」

 機十郎は大きく頷いてみせた。

「道交法違反に器物損壊、銃刀法違反に放火……俺達の罪状は、ざっとこんなところだ」

 機十郎の発した物騒な言葉に、由機は思わず唾を飲み込んだ。

「だが、あの場所に俺達の戦車……霊山が存在したことを証明するものは何もない。霧の中で何が起きたかを知るのは俺達だけだ。お前が助けた坊やも、霊山の姿を見ていないわけだしな」

 由機は口を開きかけたが、無言で眉をひそめた。

「由機、そんな顔をするな。お前と楓は、あの街を救ったんだぞ。それに、責任は命令を下した俺にある」

「……それは違うぞ、お祖父様」

 沈黙を保っていた楓が厳しい口調で反論した。

「誰一人欠けても、あの戦闘に勝利することはできなかった。あの街を救ったのは、お祖父様を含む私達全員だ。その功績だけでなく責任もまた、私達全員にある」

「楓……」

「そうですよ。手柄は私達に押し付けるくせに、責任は独り占めなんて不公平です」

 機十郎はしばし無言で由機と楓の視線を受け止めていたが、やがてにやりと笑って草の上に寝転んだ。

「手柄を押し付けてはならぬ、責任を独り占めしてはならぬ……か。お前達は面白いことを言うな」

「茶化さないでくださいよ、真面目な話なんですから」

 機十郎が大きく手を振ってみせた。

「茶化してなんかいないさ……そんなことより、お前達も寝転んでみろ。とても心地いいぞ」

「え……っ」

「分かった」

 嫌がる由機を尻目に、楓は平然と地面に身体を投げ出した。

「楓ちゃん?」

「ユキも、さあ」

 楓に促され、由機は恐る恐る湿った草の上に背中を預けた。

「あっ……」

 由機は小さく声を漏らし、動きを止めた。

「どうだ、由機?」

「……綺麗……」

 そう答えるので精いっぱいだった。

 宝石の欠片かけらを散りばめたような、満天の星空が広がっていた。夜空を走り地上に注ぐ天の川が、まるで天地をつなぐ柱のように見えた。

「こんな美しい星空は……日本に来て初めてだ。いや、生まれて初めてかも知れない」

 楓が空を見つめながら、嬉しそうに言った。

「雨が空気を綺麗に洗い流してくれたからな。停電のおかげで星の光を遮るものもない。ここまでの星空は、滅多にお目にかかれんぞ」

「不謹慎ですよ、『停電のおかげで』なんて」

「そうだぞ、お祖父様。その言い方はよくない」

 二人にたしなめられ、機十郎は困ったように微笑んだ。

「すまん、すまん。とにかく……今はこの眺めを楽しむとしよう」

「……そういえば、昨日は七夕でしたね。色々あったせいか、すっかり忘れてました」

「タナバタ……確か、ヴェガとアルタイルの物語だったな。離れ離れの男女が、年に一度だけ会えるという」

 楓はそう言って、ヴェガ・アルタイル・デネブ――これら三つの一等星が形作る『夏の大三角形』を指差した。

「そうだ。織姫と彦星は年に一度の逢瀬を終えて、また離れ離れになってしまったんだな」

 機十郎が言い終わらないうちに、由機が噴き出す。

「……そこは笑うところじゃないだろう。さっき、人のことを不謹慎だとか言わなかったか?」

「だ……だって、急に柄にもないこと言い出すから……!」

 堪え切れなくなったのか、由機は腹を抱えて笑い出した。それに釣られて楓が笑いを漏らす。

「あははっ……確かに。ユキの、言う通りだ……!」

「楓ちゃん……」

 由機と機十郎は初めて楓の笑い声を聞いた。一人だけ仏頂面だった機十郎は由機と顔を見合わせ、やがて自分も声を上げて笑った。

「……ところで」

 ひとしきり笑った後で話を切り出したのは由機だった。

「笑ったら、またお腹が空きました」

「早く夕飯を食べに行こう、お祖父様。すき焼きはまたの機会でいい」

「そうだな」

 機十郎が微笑みながら腰を上げると、由機と楓もそれに続いた。

「どうか、開いている店がありますように」

 由機は両手を合わせて天の川を拝んだ。

「きっとあるさ。夕飯を食べて、どこかで宿を取ろう。風呂にも入りたいからな」

「できれば、身体を洗ってから食事にしたいところだが」

「私もできればそうしたいけど……うっ」

 ポニーテールに纏めた髪の匂いを嗅いだ由機の表情が凍りつく。

「どうしたのだ、ユキ?」

「……凄い、火薬の匂い……」

 由機に釣られて楓と機十郎も髪や服の匂いを嗅ぐ。

「……火薬だけではない。機械油の匂いもひどい」

「やれやれ。やはり風呂に入るのが先だな」

 三人は顔を見合わせて苦笑した。

「食事つきの旅館があればいいですけど……街に着く頃には夕食の時間も過ぎてるでしょうね」

「まぁ、あれこれ言っていても仕方ない。とにかく歩こう」

「そうだな。お祖父様、引き続き先導を頼む」

 機十郎は刀袋を肩にかけ、ガッツポーズをしてみせた。

「任せろ」

 機十郎の笑顔は明るく温かく……この上なく頼もしかった。

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