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第二十一話『レンズの向こうに』

 日本国内でライセンス生産されていた三菱製ジープに自衛隊仕様の改良を加えた73式小型トラック。

 豪雨の中で道路上に佇むその車両の後部座席に、一人の少年と一頭のシェパード犬の姿があった。

 少年――水瀬晴之みなせ はるゆきは堅いシートに腰かけ、時折足元に伏せた愛犬レオンの背中を撫でては、スケッチブックの紙面にシャープペンシルを走らせていた。

 やがて黒い線と線がつながり、一台の戦車を形作る。

 砲塔を後方に向けた姿と横に向けた姿、二通りの図を描き上げたところで、外からバックドアを叩く者があった。

 視線を上げて音のする方へ振り向くと、先ほど自分達を保護した自衛隊員の上官――小三坂篤こみさか あつし2等陸曹がビニール窓の向こうから笑顔を向けていた。

 晴之が控えめに会釈をすると、小三坂はバックドアを開けて車内へと足を踏み入れた。

 雨の勢いは依然として衰えず、ドアを開けただけで凄まじい雨音が晴之の鼓膜を打つ。

「晴之君、どう? できたかな」

 車内に雨が入らぬよう素早くドアを閉めてから、小三坂は優しく声をかけた。

「……はい」

 晴之はやや緊張した面持ちでスケッチブックを小三坂に差し出した。

「おっ……これは上手だね。驚いたな」

 スケッチブックに描かれた戦車の絵を一目見るなり、小三坂は感嘆の声を上げた。

 溶接構造による直線的なフォルム。幅が狭く小さな車体には不釣り合いな、角張った大きな砲塔。マズルブレーキ(砲口制退器。発射ガスを側面に逃がし発射時の反動を軽減する部品)を砲口に装着し駐退復座器を露出させた太く長い主砲。

 筆遣いには若干の拙さが感じられるものの、モチーフとなった三式中戦車の特徴を正確に再現した完成度の高いスケッチだった。

「とても小学生が描いたとは思えないよ。僕なんかが描くより、ずっと上手だ」

「ありがとう……ございます。僕、絵を描くの好きだから……」

 晴之が照れながら頭を下げると、レオンが「キュウン」と小さく声を上げる。

「間違いない。君が見たのは、駐屯地から消えた三式中戦車だ」

 小三坂の表情が真剣なものに変わると、晴之は顔を曇らせた。

「あの……自衛隊がお姉ちゃん達を助けに行くことはできないんですか? 僕達を連れて来てくれた外人のお兄さんとお姉さんも、まだ街にいるんでしょ?」

「うん。君達を保護した後で、街から何度も凄い音が聞こえたよね。あの後すぐ僕達や他の部隊も街の中に入ろうとしたんだけど、濃い霧がかかっていて、どうしても先に進めないんだ。どうすればあの霧を抜けることができるのか、それを考えているよ」

 うなだれる晴之の肩に、小三坂が優しく手を置く。

「晴之君。僕だって君と同じだ。早く仲間を助けに行きたい。今度の休みには、班の仲間全員で海釣りに行く予定だったんだよ。こんなことさえなきゃね」

「……おじさん」

 晴之が苦しげな声を発した。

「何だい?」

「自衛隊の戦車で、あの戦車をやっつけられないんですか?」

 晴之は一息に言い切って、小三坂の顔を見上げた。

 小三坂は晴之の視線を受け止めながら、静かに首を横に振った。

「君から聞いた話は、すぐ上司に伝えたよ。他にも街で起きていることは、全部ね。でも……戦車を出すことはできないだろう」

「どうして? 自衛隊は軍隊なのに――」

「違う、自衛隊は軍隊じゃない!」

 小三坂は強い語調で晴之の言葉を遮った。

「軍隊は『やってはいけないこと』以外はやってもいい。でも、俺達……自衛隊は違う。『やってもいい』と言われたこと以外、絶対にやってはいけないんだ。総理大臣や国会が『やってもいい』と言ってくれない限り……俺達には何もできないんだ」

 晴之は苦しげに顔を歪める小三坂の目を見つめた。自分の父よりもずっと若い小三坂の顔が、急に老け込んだように思えた。

「……ごめん、なさい……」

 晴之の沈んだ声とレオンの低い唸り声を聞いて、小三坂はようやく我に返った。

「いや……君が謝ることじゃない。こっちこそ、大きな声を出して悪かった」

 晴之は小三坂としばし視線を交わした後、窓の外に目を向けた。

「晴之君。君を連れて来てくれたお兄さんとお姉さんだけど」

 小三坂は再び口調を和らげて晴之に語りかけた。

「もしかしたら、あのお兄さんなら……君の見た戦車を倒してくれるかも知れない」

 晴之は振り返り、小三坂を仰ぎ見た。冗談やその場しのぎの嘘を言っているとは思えない、真剣な表情がそこにあった。


 濃霧に覆われた阿見町あみまちの中心部。黒雲の向こうでは傾き、宵闇が訪れようとしていた。

 黒雲と稲光の下、破壊された家屋に商店、路上に散乱する家具や雑多な品々が土砂降りの雨に晒され、至る所から立ち昇った水蒸気が霧となって周囲に立ち込めている。

 そんな街の中を時速八キロで前進する、一台の戦車があった。

 茶色・緑色・カーキ色・土色の四色で迷彩塗装を施され、車体の両側面に白い文字で『霊山』と書かれた真新しい九七式中戦車。箱型の砲塔に長砲身四七ミリ戦車砲を搭載した、俗に『新砲塔チハ』と呼ばれる後期生産型である。

 機十郎の指揮する九七式中戦車――『霊山りょうぜん』は水しぶきを上げながら、川と化した道路を走っていた。

 両側にガードレールが設置された二車線道路は全幅二.三メートルの戦車が走るには十分な広さとは言い難い。それに加えてこの道路状況は、まさしく悪路そのものである。

 操縦席に座る楓は車体が道路の中央から外れぬよう、慎重に操向レバーを操っていた。

 敵がどこに潜んでいるのか、敵がどうやって行動しているのかは分からない。由機の証言と破壊の痕跡を頼りに、三式中戦車が通って来たと思われる道を辿っていた。

 車輌全体の指揮と索敵を担当する機十郎は車長用の展望塔キューポラから顔を出し、首から上を雨に濡らしながら周囲の様子を窺っていた。

 豪雨と濃霧に視界は遮られ、激しい雨音と雷鳴は他のあらゆる音をかき消さんばかりだった。

 それでも、索敵にあたっては目と耳と直感だけが頼りだ。第二次世界大戦当時の戦車には、攻撃目標を探知する為のセンサーなど存在しないのだから。

 見通しの利く範囲は半径四〇メートル足らず。視覚と聴覚、訓練と実戦で培った兵士としての勘。それら全てを駆使して、僅かな異変をも見落とさないよう細心の注意を払う。

 そんな機十郎の足元――砲塔内部の由機は主砲左側の照準器を覗き込みながら、作戦開始前に機十郎から受けた説明を脳内で整理していた。


 建物や遮蔽物の多い市街地での戦闘は、待ち伏せる側が有利となる。敵が小型で発見の難しい対戦車砲及び軽野砲で待ち構えているとなれば、猶更である。

 市街地に潜伏していると思われる火砲は四種類。日本製の九四式三七ミリ砲に旧ソ連製の53‐K・四五ミリ対戦車砲、M‐42・長砲身四五ミリ対戦車砲。そしてZiS‐3・七六ミリ野砲。

 自分達が搭乗する霊山の装甲は防盾を除き最大で二五ミリの厚さしかなく、敵の火砲はいずれも八〇〇メートル離れた距離からこれを撃ち抜く能力を持っている。

 その中でも特に大きな威力と射程を持ち、二〇〇〇メートル以上の遠距離からこちらを撃破できるZiS‐3は、敵となった兵器の中では最大の脅威となる。

 履帯キャタピラで自由に動き回ることのできる戦車の方が脅威なのでは、と由機は疑問を呈したが、機十郎はこれを否定した。

「戦車は図体も挙動も大きい。動ける場所が限られる上に日本の戦車はディーゼルで騒音も大きい。対して背も低く音も出さず、物陰に隠れた対戦車砲は遥かに厄介だ。一般的に考えれば、撃たれる前に発見することは非常に難しい」

 不安に顔を曇らせる由機に、機十郎は不敵な笑みで返した。

「なぁに、案ずるな。見つかるより前に見つければいい。撃たれる前に撃てばいい。それだけのことさ」


 ――見つかる前に見つける。撃たれる前に撃つ……そう。やるしかないんだ。

 由機は四七ミリ戦車砲の肩当てに右肩を押しつけたまま、大きく深呼吸をした。鉄と油の濃い匂いに鼻腔がびりびりと痺れた。

 鼻をつく――そう表現すべき匂いが、何故か心地良い。いつしか、濡れた制服とスカートが肌にまとわりつく不快な感覚をも忘れていた。

 装甲を通して伝わるエンジンの振動が、自らの鼓動と重なり合うような錯覚に陥っていた。

「楓! 停止だ、停止しろ!」

 機十郎が突然、砲塔の中に顔を引っ込めて叫んだ。

「承知した!」

 楓は操縦手用の覘視孔ペリスコープから目を離すことなく叫ぶと、ブレーキペダルを踏み込んで一六トン近くある巨体を停止させた。

「由機、砲塔旋回! 一時の方向だ」

 続いて機十郎はキューポラの覘視孔を覗き込みながら、由機に指示を出した。砲塔一時――前方を零時として、全方位三六〇度を時計の文字盤に例えた表現である。

「はい!」

 由機は一声叫ぶと左手で砲塔旋回ハンドルを回し、砲塔を右に三〇度旋回させた。

「射撃目標を指示する。この道の突き当たりに電柱が見えるだろう」

 機十郎が示したのは約三〇メートル前方にある丁字路の突き当たり、ブロック塀の前に立つコンクリート製の電柱だった。

「はい! 見えます」

 レンズの向こうに見える電柱はコンクリート製で、高さ一.五メートルほどの位置から上の部分に縦長の鉄製看板が巻き付けられていた。

「看板に書かれた文字が読めるか?」

 機十郎は覘視孔から目を離すことなく問いかけた。

「はい! 『ほねつぎ 折本整骨院おりもとせいこついん この先右折』って書いてあります」

 由機の視力は左右共に二.五。四倍率のレンズを通して、看板に書かれた文字がはっきりと読み取れた。

「よし、見えるなら『おり』という字の左側、『手偏てへん』の部分に照準を合わせて撃て。やれるな」

「へっ……?」

 あまりに具体的な射撃目標の指示に、由機は戸惑いを覚えた。思わず照準器から目を離し、機十郎の顔を見上げる。

「この鉄と硝煙の匂い、左側の道に対戦車砲が隠れている。このまま進めば撃たれるぞ」

 機十郎は迷いなく言い切った。

「……はい……!」

 反論などできなかった。機十郎の瞳から、有無を言わさず命令を承諾させてしまうような剛毅さを感じた。

 由機は再び照準器を覗き込むと右肩に乗せた肩当てに力を込め、機十郎の指示した電柱に照準を合わせた。更に砲の俯仰ふぎょうハンドルを回して上下の向きを調整し、射撃目標となった『折』の字に十字線レティクルを重ねる。

 一式四十七粍戦車砲は付属の肩当てに力を加えることで砲の向きを左右に微調整できるようになっている。これは日本初の国産戦車――八九式中戦車から九七式中戦車まで続く機構であり、砲手が照準器から目を離さずに素早い照準・射撃を行える利点がある。

 実際、この照準方法に慣熟していた旧帝国陸軍の戦車兵達は、移動しながらの射撃――行進射においても、目標に対する高い命中精度を発揮できたと言われている。

 面白いほどピタリと照準ができたことに、由機は内心驚いていた。

「徹甲弾を使う! 合図をしたら撃て」

 機十郎が砲弾を取り出そうと、砲塔内の弾薬箱に手を伸ばした時のことだった。

「え……っ!」

 ふと照準器から目を離した由機は、小さく声を上げた。

 機十郎が触れるより前に砲弾が弾薬箱から浮かび上がり……尾栓に吸い込まれるのが見えた。まるで、見えない手が砲弾を取り出し、装填するかのように。

 砲弾を飲み込んだ尾栓が閉鎖する甲高い金属音に、由機はようやく我に返った。

「な……何ですか、今の! 砲弾が、勝手にッ……!」

 第二次世界大戦時の各国戦車は、一部を除き殆どが手動装填式となっている。新砲塔チハの場合は車長が砲弾の装填を担当するのだが、由機の目の前で起こった出来事はまるでこの戦車――霊山が「そんなものは必要ない」と言っているかのようだった。

「……ユキ!」

 狼狽うろたえる由機に呼びかけたのは楓だった。

「楓……ちゃん?」

「今更、何を驚く必要がある?」

 楓は操縦手用の覘視孔から目を離すことなく、由機を叱咤した。

「由機、装填完了だ。撃て!」

 機十郎はまるで何事もなかったかのように指示を下した。

 自らも怪現象を目の当たりにしながら、まったく動じていない。それどころか、その口元には笑みが浮かんでいた。

「は……はい!」

 由機は機十郎の表情に一瞬だけ身震いを覚えたが、再び照準器を覗き込んだ。

 照準は既に機十郎が標的として指定した『折』の字に合わせている。距離三〇メートルは戦車砲にとって超至近距離といえる。砲弾の自由落下を計算に入れず、砲身を水平にして目標を狙い撃つ――『ゼロ距離射撃』ができる距離だ。

 機十郎の意図するところは理解している。電柱の丸みを利用して砲弾を跳飛させ、見えない場所にいる敵を跳弾で撃破するつもりなのだ。

 榴弾でなく徹甲弾を選んだのは、コンクリートの電柱に当たっても砕けない強度が必要だからだ。内部に充填した炸薬を遅延信管で爆発させる一式徹甲弾ならば確実な破壊が望める。

 ――この距離なら狙いは外さない。でも、私に撃てるんだろうか――?

 由機はごくりと唾を飲み込んでから大きく息を吸い込み、撃発機のグリップを握ったまま全身の動きを止めた。

 先ほどの燃えたぎるような闘志と怒りが嘘のようだ。射撃準備は完了しているというのに、引き金に当てた三本の指を動かすことができない。

 機十郎と楓は何も言わず、由機が引鉄を引くのを待っていた。

 沈黙の中、由機は吸い込んだ息を全て吐き出し、再び大きく息を吸い込んだ。そして何度かそれを繰り返しているうちに、いつしか車内の振動と騒音が和らいでいた。

 それに気づいた瞬間、由機は迷いを捨てた。

 ――ありがとう、もう大丈夫。やれるよ……霊山。

 由機は表情を引き締め、指先に全ての神経を集中して引鉄を引き絞った。

 轟音と共に砲口から青い炎がほとばしり、秒速八〇〇メートルを超える速度で徹甲弾が飛び出す――!

 全身を突き抜ける発射の衝撃に耐えながら、由機はレンズの向こうで爆発が起こるのを確かに見た。砲弾は狙い通りの弾道を描き、標的に命中したのだ。

 そして次の瞬間、爆炎の中から上下逆さまになった対戦車砲が弾き出された。

 太く短い砲身、上端部が波型にうねった防盾。駐屯地から消えた火砲の一つ……旧ソ連製の53-K・四五ミリ対戦車砲だ。

「砲塔零時、距離三〇! 弾種榴弾!」

 機十郎の叫びと共に弾薬箱から榴弾が浮かび上がり、尾栓に吸い込まれる。

「装填完了、止めを刺せ!」

「はい!」

 返事をした時、由機は既に照準を終えていた。

 放たれた砲弾は着弾と同時に爆発を起こし、堅牢な造りの対戦車砲を一瞬で鉄屑へと変えた。

「やったぁ!」

 思わず声を上げながら振り返った由機の視線の先にあったもの――。

 それは、尾栓から排出された空薬莢が青い炎となって一瞬で燃え尽きる光景と……白い歯を見せて笑う機十郎の横顔だった。

 それを見ても、由機はもう驚かなかった。

「いい腕だ、由機。お前になら安心して砲手を任せられる」

「……はい。ありがとうございます」

 笑みを浮かべたまま労いの言葉をかける機十郎に、由機もまた笑顔で応えた。

「お祖父様、ユキ。初戦果だな。この後はどうするのだ?」

 楓が操縦席から顔をのぞかせ、声をかけた。口角が僅かに上がっているのが見て取れた。

「左に進む。その先に敵がいるはずだ。頼むぞ、楓!」

「承知した!」

 楓は短く返事をして前方に向き直ると、ギアを前進に入れ換えて左右の操向レバーを握り、右足でアクセルペダルを踏み込んだ。

 大きな振動を伴って、霊山が前進を始めた。機十郎は再びハッチから顔を出し、周辺の警戒と索敵にあたる。

 由機は大きく深呼吸をしてから、照準器を覗き込んだ。レンズの向こう側に見えていた対戦車砲の残骸が視界から消えたと思うと、足元から耳障りな金属音と振動が伝わってきた。

 残骸を踏みつけた車体が激しく揺れる中、由機はそっと胸に手を当て……一瞬だけ目を閉じた。

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