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第十一話『食のよろこび』

 鶏のもも肉とむね肉を包丁で一口大に切る。余分な脂身は適度に取り除き、醤油と日本酒にすりおろした生姜の搾り汁を加えて作った、シンプルなたれに漬け込む。

「ふぅ……」

 一キロ近い鶏肉を処理し、由機は手の甲で汗を拭った。

 時刻は午後七時になろうとしていた。太陽は山の向こうへと姿を隠し、辺りはもう薄暗くなっている。

 今晩は普段の量の倍近い、五人分の食事を用意することになった。

 昨日、買っておいた鶏もも肉の残りと酒蒸し用に用意していた鶏むね肉を全て投入することで、今晩の夕食は買い出しに行かず用意することにした。

 由機は水道の水で手を洗いながら後ろを振り向き、居間の向こうにある中庭の様子を窺った。

「駄目だな、こいつは。砲塔の旋回装置が錆びついて、旋回ハンドルがビクともしない。主砲はかなりマズイな。動くか試そうと肩当てにちょいと力を加えただけで、いや~な音がしたぞ」

 懐中電灯を手にした機十郎が戦車の砲塔左側にある砲手ハッチから顔を出しながら、車外の楓に声をかける。

 機十郎と楓は戦車の点検を二人がかりで行っていた。

 当初、台所の手伝いを申し出た楓だったが、由機はそれを丁重に断り、一人で夕食の用意をすることにした。

 一人で考える時間が欲しかった。

 本当は、呑気のんきに夕飯など食べている場合ではないのかも知れない。庭にあるものが何かを考えれば、すぐ警察に通報して撤去してもらうべきなのかも知れない。

 ……しかし、そうなればあの戦車が出現した状況を説明しなければならない。

「お祖父様、足回りも駄目だ。履帯りたい懸架装置けんかそうちも、錆で固着してしまっている。エンジンがかかっても、これでは動かしようがない」

 砲塔上の機十郎を見上げながら、楓が言う。

 機十郎が日没を待って戦車の点検を始めると、楓もそれを手伝い始めたのだった。

「今はここまでにしておこう。エンジンや駆動系まで見てたら夕飯に間に合わなくなるからな」

「はい、お祖父様」

 二人のやり取りはまるで息の合った上官と部下のようで、楓は機十郎の発する専門用語をも理解しているようだった。

 由機は二人に背を向けながら、昨日研いだばかりの包丁で玉ねぎを刻み始めた。

 まるですぐ後ろで機十郎と楓が話しているかのように、由機の耳には二人の話し声がはっきりと聞こえていた。


「これで終わり……っと」

 由機はバットに残っていた最後の鶏もも肉を鍋に投じ、一息ついた。

 一八〇度に熱した油の中では衣をつけた鶏肉が音を立てている。

 揚がったそばからバットに敷いた金網に載せて油を切り、油を落としたものを大皿に盛ってゆく。

 一キロもの唐揚げを作るとなれば、この動作も容易ではない。

 注意深く揚げ上がりを見ていると、廊下から台所へ向かって来る足音が聞こえてきた。

「香ばしい匂いだな。今日の夕飯は唐揚げか」

 振り返った先では機十郎が笑顔を向けていた。

 薄緑色の立襟型シャツにカーキ色の乗馬ズボンという軽装で、先ほどまで身に着けていた上着とベルト、拳銃などの装備品は仏間にまとめてある。

「あ、はい……」

 由機がとりあえず返事をすると、機十郎は軽い足取りで料理を載せたテーブルに近づいた。

「からっと揚がって、うまそうだ。どれ、味見してみよう」

「あ、ちょっと!」

 機十郎は由機の制止を無視して湯気を立てる唐揚げをひょいとつまむと、そのまま口に放り込んだ。

「むほッ! あふ、ほふッ!」

 揚げたての唐揚げの熱さに、機十郎が小さな悲鳴を上げる。

「ああ、もう……お行儀悪いことするからですよ。子供じゃないんですから」

 由機は呆れ顔でグラスに蛇口から水を注ぐと、そっと機十郎に差し出した。

「はふッ! ははっ……ふまん、ふまん」

 機十郎はバツが悪そうに笑いながらグラスを受け取ると、大きく喉を鳴らして肉を飲み下した。

「……ふむ……」

 そして目を閉じながらグラスをあおって水を一口含み、口の中を万遍なく冷やす。

「あ……味は、どうですか?」

 由機の問いかけに、機十郎は満面の笑みを見せた。

「実にうまい。香ばしい揚げ上がりで、中まで味が程良くしみている。味付けは醤油に酒、生姜だな」

「……あ、ありがとうございます。よく分かりましたね」

 由機が小さな驚きを含んだ声を発すると、機十郎はもう一口水を飲んでから言葉を紡いだ。

「……わかるさ。小枝子さえこの作る唐揚げと同じ味付けだ。あいつの料理手帳、見つけてくれたんだな」

「え……」

 由機はしばし間を置いてから、小さく頷いた。

「はい。五年も前ですけど……大掃除の時に、物置部屋から見つけて」

 そして鍋に向き直り、ほどよいきつね色になった唐揚げを一つ取り出して網の上に上げた。

「……そうか。もう出来上がりだな、楓を呼んで来る」

 機十郎は呟くように言うと踵を返し、台所を後にした。

 由機は一瞬だけ機十郎の後姿に目を向けたが、すぐに揚げ物をしていることを思い出して再び鍋に向き直った。


「……おいしそうだ」

 居間の食卓に並べられた料理を前に、楓が感嘆の声を洩らした。

 鶏の唐揚げを主菜とし、副菜はポテトサラダに小松菜とえのきの煮浸し。箸休めにかぶの浅漬けを添え、味噌汁の実は茄子と豆腐。これが今晩の献立である。

 大皿に盛ったポテトサラダにはサニーレタスとプチトマト、食卓の中心に鎮座する唐揚げにはパセリとくし型に切ったレモンを添え、彩りを加えた。

 奇をてらうことなく、台所にある材料のみで食卓が映えるものを用意したいと考えた結果だった。

「ありがとう、三宝荒神さん。お口に合えばいいんだけど」

 由機が来客用の茶碗にご飯を盛りながら応えた。

「はい、どうぞ」

「ありがとう、宮坂君」

 多めにご飯を盛った茶碗を楓に渡すと、楓の隣に座る機十郎が何かに期待したような目を向けていることに由機は気づいた。

「……何ですか?」

 戸惑いがちに由機が尋ねる。

「俺には言ってくれないのか? 『お口に合いますかどうか』って」

「さっき、つまみ食いした時に『おいしい』って言ってたじゃないですか」

 由機はため息交じりに茶碗を取り、杓文字しゃもじでご飯を盛りつけた。

「違う! 俺は『おいしい』じゃなくて『うまい』と言ったんだ」

「意味は同じじゃないですか……」

 由機は呆れ顔で、ご飯を山盛りにした茶碗を機十郎に差し出した。

「すまんな。お……これは、俺が使っていた茶碗。取っておいてくれたんだな」

 機十郎は両手で九谷焼くたにやきの茶碗を受け取ると、懐かしそうにそれを見つめた。

「え、はい……」

 由機は短く答えると、自分の茶碗にご飯を盛りつけた。

「宮坂君、用意してもらうばかりで申し訳ない。今日は、君に迷惑をかけ通しだ」

 楓が微笑みながら、小さく頭を下げた。

「え……そんなことないわ。私も、三宝荒神さんと一緒に夕飯が食べられて嬉しいし」

 由機が恥ずかしそうに目を伏せると、機十郎が勢いよく手を挙げた。

「何ですか?」

 ご飯を盛った自分用の茶碗を食卓に置きながら、由機が尋ねる。

「お前達。何故、苗字で呼び合っているんだ?」

 機十郎は由機と楓の顔を交互に見ながら問いかけた。

「え…………」

 由機と楓は同じタイミングで声を発した。

「お前達は従姉妹じゃないか。それに『宮坂君』と言ったら、ここにいる全員がそうなるぞ。二人とも、俺の孫なんだからな」

 機十郎がそう言って微笑むと、由機と楓は顔を見合わせた。

 ややあって、楓がおもむろに口を開いた。

「……お祖父様の言う通りだ。私のことは、『楓』と呼んでくれないか」

「え……」

 食卓に、しばしの沈黙が訪れた。

「だから、君のことを……『ユキ』と呼んでもいいか?」

 楓はそう問いかけると、恥ずかしそうに目を伏せた。

 由機はためらいながらも、小さく頷いた。

「……うん。楓……ちゃん」

 由機に名前を呼ばれた瞬間、楓は小さく飛び跳ねるように身体を弾ませた。

「ど……どうしたの?」

「も、もう一度……呼んでくれないか、ユキ」

 楓が頬を赤らめ、目を潤ませながら言う。

「え、うん……楓ちゃん」

 由機に再び名前を呼ばれ、楓は静かに目を閉じて胸に両手を当て――。

「……今日は、私の人生で最良の日だ」

 そう言って微笑んだ。

「……楓ちゃん……」

 同じく頬を赤らめながら顔を伏せる由機の前に、麦茶を満たしたグラスが差し出された。

「あ……ありがとうございます」

 よく分からずに由機がグラスを受け取ると、機十郎は楓にもグラスを差し出した。

「……お祖父様?」

 機十郎は不思議そうに自分を見つめる由機と楓を交互に見てから、自らもグラスを手に取った。

「乾杯しよう。今日は、本当にいい日だ」

「あ……はい!」

 由機は微笑みながら頷き、楓に視線を送った。

「うん」

 楓が返事をするのを待ってから、機十郎は手にしたグラスをゆっくりと掲げた。

「では……乾杯!」

「乾杯!」

 由機と楓の声が一つになる。二人は照れくさそうに笑い合い、軽くグラスを合わせた。

 それを満足げに見守っていた機十郎が、まず楓と、続いて由機とグラスを合わせ、二人に目配せをしてから勢いよくグラスを呷る。

 由機と楓もそれに続いてグラスを傾けた。

「……くはーっ! 一仕事終えた後の麦茶は……格別だ」

 グラスの中身を一気に空にした機十郎が幸せそうに言う。

「……もう一杯、飲みますか?」

 由機が困ったように笑いながらピッチャーを手に取ると、機十郎はにっこり笑ってグラスを差し出した。

「いただこう」

 そしてグラスが琥珀色に満たされるのを満足そうに見届けた後、今度は控えめにグラスを傾けて一口だけ麦茶を飲み、静かにグラスを置いた。

「孫に飲み物をいでもらうというのは、いいものだな」

「あ、どうも……冷めないうちに、どうぞ。楓ちゃんも」

 感慨ひとしおといった機十郎の表情に妙な気恥ずかしさを覚えながら、由機は二人に箸を取るよう促した。

「……そうだな。では……いただきます」

 機十郎が綺麗に指先を揃えて手を合わせ、落ち着いた口調で食卓を拝む。それまでの慌ただしい姿が嘘のような厳粛さだった。

 機十郎が食事前の挨拶を終えると、楓がそれに続く。

「いただきます」

 白く美しい指先を揃えて食卓に向かう楓の横顔には、まるで観音像のような美しさが感じられた。

 由機は二人の美しい所作にしばし見とれたが、やがて自らも手を合わせて食卓を拝んだ。

「……いただきます」

 由機が挨拶を終えるのを待って機十郎が箸を取ると、由機と楓は同時に箸を取った。

「うまい。茄子か……ちょうど今が旬だな」

 味噌汁を一口啜り、機十郎が言う。

「うん。茄子の味噌汁というのは初めて口にするが……おいしいものだな」

 機十郎に続いて、楓が味噌汁の椀を手にしながら感想を述べた。

「よかった。お口に合ったみたいで」

 由機が控えめに微笑みながら応える。

「ふぅむ……これは、うまい米だな。コシヒカリやササニシキじゃない……あきたこまちでもない。何という米だ?」

 箸に取った米の粒を興味深そうに眺めながら、機十郎が由機に尋ねた。

「『ひとめぼれ』です。康介おじさんからいただいたんですけど」

 由機は機十郎に答えると、自らも茶碗に箸をつけた。

「ひとめぼれ? 康介が作っていたのはササニシキだろう。何かあったのか?」

 機十郎は怪訝そうな顔をしながら、箸を口に運んだ。

「……一昨年は記録的な冷夏だったんです。康介おじさんの田んぼも、その時に被害を受けてしまって。去年からササニシキをやめて、ひとめぼれを植えるようになったんです。それで、うちに持って来てくれたんですけど」

 由機はややトーンを落とした声で、経緯を説明した。

「なるほど、それは大変だったろうな……そういえば、亮介の奴は元気にしてるか?」

 機十郎の言葉に、由機は思わず箸を止めた。

「亮介君とは……もう何年も話してません」

 機十郎も箸を止め、きょとんとした表情を見せた。

「『亮介君』……?」

 由機はしばらくためらっていたが、小さくため息をついた後で再び口を開いた。

「私にはよく分からないんですけど……九年前から、急に私を避けるようになって。小学五年くらいから柄の悪い人と付き合い始めるようになったんです。それからはずっと、口を利いてません」

 由機は吐き捨てるように言うと、ポテトサラダを口に運んだ。

「……そうか」

 機十郎は考え込む素振りを見せたが、それ以上追及しようとはしなかった。

「ユキ。このポテトサラダはとてもおいしいな。マッシュポテトと他の野菜がよく馴染んでいて、塩加減もちょうどいい」

 食卓の雰囲気がやや暗くなったのを察してか、楓が由機に語りかけた。

「ありがとう。人参は一度茹でて、胡瓜は薄切りにしたものを塩水に晒してから混ぜてるの。刻んだ野菜をそのまま入れると水気が出るし、味が馴染まないから」

 作り方を説明する由機に、楓は小さく口角を上げて微笑んだ。

「どれ、俺もいただこう」

 二人のやり取りを見て、機十郎が笑顔でポテトサラダを口に運ぶ。そして二、三回口を動かしたところで、顔から笑みが消えた。

「……どうしたんですか?」

「お祖父様?」

 由機と楓に声をかけられた機十郎は、口に入れていたものを飲み下してから助けを求めるような視線を由機に送った。

「な、何ですか?」

「由機。このポテトサラダ……玉ねぎが入ってるのか?」

「……入ってますけど」

 戸惑いながらも由機がそう答えると、機十郎は寂しそうに視線を落とした。

「入ってるのか。そうか……」

「好き嫌いはいけませんよ。それに、ポテトサラダはみじん切りの玉ねぎを入れることで風味が豊かになるんですから」

 機十郎は小さく頷くと、麦茶を一口飲んだ。

「ユキの言う通りだ、お祖父様。このポテトサラダは玉ねぎが入っているからおいしいのだぞ」

 由機と楓の二人にたしなめられ、機十郎は観念したように再びポテトサラダに箸をつけた。

「……孫に好き嫌いを窘められるというのも妙な気分だが……考えてみれば、大人は自分の食べたいものしか食べないくせに、子供には『好き嫌いはよくない』などと言う。勝手なもんだな」

 そして箸に取ったポテトサラダを一口食べ、苦笑した。

「味付けは申し分ない。食材の持ち味を活かしつつ、料理として綺麗にまとまっている。玉ねぎにも……まあ、食べているうちに慣れるだろう」

「ふふっ。テレビ番組のリポーターじゃないんですから」

 由機が思わず吹き出すと、楓もそれに続いて笑顔を見せた。

「……俺は、ふざけているつもりはないんだが……」

 一人、不満気な表情を浮かべる機十郎を挟んで、由機と楓は苦笑しながら顔を見合わせた。

「お祖父様。大丈夫だ、分かっている」

「そうですよ。分かってますから」

「……うーん。何やら納得がいかん気もするが……まあ、いいか」

 やがて、機十郎も困ったように微笑んだ。

 由機は機十郎、続いて楓に微笑んでみせると唐揚げを一つ取り、かじった。噛み締める度に肉汁が迸り、たれの風味が口の中いっぱいに広がる。

 ……それは普段の唐揚げよりも、ずっとおいしく感じられた。

 庭に鎮座する戦車のこと、自分の隣で笑う青年のこと。考えなければいけない、話し合わなければいけないことは山ほどある。

 しかし、それでも今は余計なことを考えず、ただ食事を楽しみたかった。

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