あとがき的な何か(活動報告と同文)
おひさしぶりです。
気が付くと、書きたくなる。そんなお話が、お百度参りです。
優しい人は絶対にいます。
辛いときに助けてくれた人を、私は大切にしたいです。私はそんな人になら、なんだってできるような気がするのです。
人の人生はあっけないもので、きっとどんなに偉い人間でも変わらず、人の人生の終焉とは“その程度”なのです。少女の心を救っていた終焉は、人の脆さに気づくとともに、悲しい人間に寄り添うことを少女の父親を見て、決意したのではないでしょうか。
あまり自信の無い終焉の頭は、本当に残念なことになっていますが……笑
少女は終焉のことを変わらず、じーさんと呼び続けました。最初にボケ老人と思ってしまったことからそれは始まったのですが、案外、少女も終焉も気に入っていたようです。終焉はその後、少女が自分のことを終焉と呼んでいたと自慢げに言っていますが、あれは終焉が間違っています。笑
忘れっぽい(忘れっぽすぎる)終焉は、あの不器用なまま、現代の女の子と恋に落ちます。(初恋はきっと、菊でしょうが)
さてさて今後は、どうなることやら。私にもわかりませんが。
終焉は、何にも影響を与えることなく、という菊との約束を破ってしまいました。ただ寄り添うだけでいいと言っていた菊でしたが、終焉が言葉を発していれば、もっと救われていたのかもしれません。あるいは、幸せな未来があったのかも。
けれど何度も言うように、人の人生とは、“こんなもん”です。
悲しいことのほうが、ままならないことのほうが多い人もいる。
私はそれを、私自身に教えるために、『ある日の木漏れ日』を書きました。
優しい人になりたいです。
優しい人は、なるものじゃないとはわかっていますが、どうしても私は、私を助けてくれた人のようになりたい。そんなことを思う今日この頃でした。
最後に。
人は忘れる生き物です。
覚えていたい大切な出来事や、忘れたくない悲しかったこと、涙が出るほど嬉しかった出来事などを人は、少しずつ、少しずつ、けれど確実に忘れてゆきます。
そんな時、私たちが忘れたくはないと願ったからこそ、日記というものが存在しているのではないでしょうか。
三日坊主な私は続いたためしがないのですが。笑
終焉という人間じゃない何かは、誰よりも忘れっぽくて、きっと誰よりも人間らしい何か、なのではないかとそう思いました。
こんな私が言うのもなんですが、過去の思い出を大切にしてほしいと思います。過去に縋り付いて、昔はああだったのに、それに比べて今はこうだとか、グチグチ言うのもよし、昔はこんなだったなぁと懐かしむもよし。きっと少年少女のまっすぐだった自分は、今の自分にとって眩しい存在でしょう。
私も今の情けない自分を思って落ち込んだりもします。
だけど、私にとって過去の自分とは、忘れたくない自分です。紛れもなく私です。
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と、そんなことを思っている私は、過去の自分の汚い部分や、悲しい思い出を忘れて、良い思い出だけを覚えているだけなのかもしれませんね。
忘れるってやっぱり、悲しいな。