ある日の木漏れ日2
あぁ、そうか、じーさんは人間とちゃうんか。誰にも見えんのか。
あぁ、そうか、じーさんはウチみたいに寂しい奴にしか見えんのか。
***
「毎日、菊は川でひとりぼっちで何してるん? おとうちゃんが心配しとったで」
そんな母親の言葉を、少女は嫌な汗を掻きながら聞いた。
――ひとりぼっち? じーさんと一緒や。
――おとうちゃんが心配? んなアホな。
少女は朝げの支度をしていた。父親は朝市に、川で捕った魚を売りに行っている。
「水遊びや。楽しいねん」
少女は笑ってそう言った。
おとうちゃんまで目ぇ悪うなったんやろか。もうちょいいい感じに悪なってウチを殴らんくなったらええなぁ。
そんなことを考えていたせいだろうか。バチがあたったのだろうか。少女の父親はすこぶる機嫌が悪い様子で帰ってきた。
母親は気づいてないようだったが、少女は目に見えてわかった。
だって、握られている――――魚がいつもより多い。
今日は一段とヒドイに違いない。少女は恐怖で身を固くした。
少女は、魚をいろりで塩焼きにした。父親は母親のぶんの魚の骨を抜いてやった。母親はにっこり笑って、父親にお礼を言う。
この時だけだった。少女が父親の優しげな表情を見られるのは。父親を好きでいられる大切な瞬間だった。
少女はあわとひえでつくった、極限まで水を加えて量を多くした雑煮をよそう。母親に一番多く、栄養のありそうな場所を、次に父親に多く、少女の分は二人に比べ微々たるものだった。
父親は母親が食べるのを手伝った。少女はそんな二人を正座をして見守った。
「菊ちゃんも食べとる?」
「……ああ」
こんな母親の質問に答えるのはいつも父親だ。
「おいしいなぁ」
少女は空の自分の茶碗を握りしめながら、しみじみと幸せそうにそう告げた。
母親が食べ終わると、今度は父親が食べ始めた。少女はその様子をまたもや正座をして眺める。少女がようやく食べ始めたのは、二人分の茶碗が空になった頃だった。
「うっ……、痛い、ゆるして……ごめんなさい! 明日はウチがお魚いっぱい売ってくるから、おねがい、ぶたんといて! おねがい!」
殴られている間、じーさんの顔しか浮かばなかった。
何をするでもない、ただ傍にいてくれるだけでウチは勝手に救われとったんや。
見返りの無いやさしさが、愛しかったんや。
あからさまなやさしさは怖かった。やさしくあろうとしているじーさんが、うれしくてうれしくて、いつも、泣きそうだった。
少女は傷だらけの自身の体を引きずりながら川へと向かった。
早く。
早く。
会いたい。
会いたい。
どっかりと居座っている岩の上に、――あぁ、おった。おったおった。
ちょこんと座っているじーさん。
なんや間抜けな姿やのう。
口元が緩む。あぁ、こんなにも―――
――見ただけで、その姿を目に入れただけで、こんなにも元気が出る。
思わず駆け出しそうになって少女は、すっころんだ。
その拍子に、どでかい壁のような男にぶつかった。強面のその男は、ギロリと少女を睨み付けてから、相手がただの娘だとわかって、見る間に優しげな顔に変わった。
「おっちゃん、ちょっと聞いてええかのう」
「なんや、嬢ちゃん傷だらけやないか」
ひげ面の男は、いぶかしげな顔をしつつもうなずいた。
「あそこの川の真ん中にある岩の上になんけ見えるか」
「岩? そんなもん俺には見えんわ」
――――あぁ、そうか。
ありがとうなー、と少女は言うと川と男に背を向けて歩き出した。
あぁ、そうか、じーさんは人間とちゃうんか。誰にも見えんのか。
あぁ、そうか、じーさんはウチみたいに寂しい奴にしか見えんのか。
「なんや、ちょぉーっとばかし、みじめやのう」
少女は、はははと愉快気に笑った。
ウチが、幸せになったらじーさんが見えんくなるんかなぁ。さびしのうなったらウチは、じーさんに会えんのか。
少女は傷だらけの自分の体を見つめる。
「みじめやなぁ」
少女はしばらく川を訪れなかった。