ある日の木漏れ日
「おとうちゃんに、ぶたれたんや」
少女はポツリとそう告げて、真っ赤に腫れた右頬に手を添えた。
すっかり腫れてしまった頬を冷やすために、トボトボと川を訪れた少女は、思いがけず、そいつに出会った。そいつは川の真ん中にドスンと居座っている岩に、ちょこんと座っていた。
あまりにその青年が、少女の頬を凝視してきたために、少女はなんだか何かを喋らなければならない気がして、ポツリと呟いたのである。そして、こう続けた。
「お母ちゃんは目が見えん。だから、おとうちゃんは物音をたてんとウチを殴るんや」
青年が目を見開いた。素で驚いたような顔をしている。
少女の父親の卑劣さに驚愕したのか、いったい何にそんなに驚いたのか、少女にはさっぱりわからなかったけれど、いつまでたっても変わらない青年の態度に付き合っている暇など当然なく、少女は目を細めながら川に自分の頬をくっつけた。
しばらく冷やして、そのままゴクゴクと水を飲む。青年はそんな少女の様子をじっと見ていた。
なんや、ボケ老人みたいやのう。
少女は喋らないその青年を『じいさん』と呼んだ。
いささか、失礼かとも思ったが、最初に言い間違えてそう呼んでしまったのだからしょうがない。じいさんは少女がそう呼んでも別段嫌な顔もしなかった。
顔に出ないだけで、本当は傷ついていたのかもしれない――そんな考えが浮かんでは消えて、少女はしばらく落ち込んだが――
名前を聞いてもなんもいいよれへんねんもん。しゃーなしや。
――こう思うことによって自分を慰めた。
少女はたびたびこの河川を訪れた。いつも、じいさんは岩にちょこんと座っており、少女はじいさんの近くで頬を冷やした。
今日は初めて、頬だけでなく、腕や足までぶたれたので、少女は着物の袖をまくり、足の布をたくし上げて、川に入った。
じいさんは少女が現れると、いつも驚いたような顔をしているが、今日はその比ではない。岩の上に立ち上がって、少女の痣を凝視していた。
先ほどから、腕をこちらに伸ばそうとしては、やめる、という動作をじーさんが何度かしているのを少女は目の淵でとらえていたが、気づかないふりをした。
――こいつ、優しいやつやなぁ。
少女はじーさんからは見えないように、唇を噛みしめた。
「あんな、お母ちゃんはな、おとうちゃんが好きやねん。お母ちゃんの中では、おとうちゃんは優しくってな、あたたかいねん。そやからウチもな、おとうちゃんが好きなんよ」
じいさんは、立ったまま動く気配がない。血で汚れた腕と足が綺麗になって、少女は川から上がった。血で滲んだ草履を履く。
「ちょーっとばかし濡れちまったのう。誰もおらへんかったら着物脱いだとこやけど、じいさんおるしなぁ。まぁ、しゃーないわ」
この言葉にじいさんはようやく反応を見せた。頬を真っ赤に染めて、申し訳なさそうに、少女に背を向けた。
移動せんのかい!! っていうかもう洗い終わったがな!! 今さらやがな!
少女は思わず叫びそうになった。ややあって、少女は笑い出す。高らかに、愉快そうに、それはそれは元気な声で。
しばらく経って、じーさんは反応を窺うようにそっとこちらを振り返った。
しかし、そこにはもう、少女の姿はなかった。