第3話
朝日が葉の隙間から零れて、森の中を明るく照らしている。相変わらずアイは朝から長い髪を揺らしながら、跳ねるように歩いている。隣を歩く俺はそれとは対極の表情だろうな。……昨晩は人生初の野宿を体験した。
「ふぁああぁあ」
口から情けない声が漏れてでた。眠い目を擦り、天に向けて手を伸ばし、固まった体を伸ばす。
「あら、やはりよく眠れませんでしたのね」
「……まぁ……それはあんな体験……・初めてだったからな……」
首を捻ると、ボキッボキッ と音が鳴った。瞼を閉じ昨夜を思い出す……。
「……アイ。近すぎじゃないか」
横を見ると、アイが肩にもたれ掛っている。
「近いって、何が近いですの? 教えて頂けると嬉しいですわ」
この顔はからかっている時の顔だな。
「……だからだな。もうちょっと離れてくれないか?」
「寒いので、それは無理なお願いですの」
即答だった。俺が恥ずかしがるのを良いことに、アイは目を糸の様に細め、肩に頭をぐりぐりと埋め込んできた。髪の毛が顔にあたり、いい匂いが脳を支配していく。嬉しいか、嬉しくないかでいうと、嬉しいに決まっているさ。
「杏様こそ、嬉しいと顔に出ていますよ。私は……このままがいいです」
いつものおどけた声とは異なり、しっとりした声艶にさらに俺の心臓は高鳴った。
「……アイはずるい女だよ……俺の負けだな」
「ふふふ。ありがとうございます」
結局寄り添うような形になった。見上げると、わずかだが木々の隙間から星が見える。
「……あのさ。昔の俺ってどんな感じだったんだ?」
前世。今まで意識した事さえなかった以前の自分。少しその姿と向き合いたくなった。
「凛とした方でしたの。私たちにも優しくて、いつも笑顔の絶えない、本当に優しい過ぎるお方でした」
アイの目じりに光る何かがあった気がした。
「優しいか……アイは好きだったのか?」
自分でも何を聞いているのかと不思議に思ったが、何となく聞いてみたかった。アイは目を閉じたまま答えてくれた。
「……えぇ。とてもお慕い申していましたの」
その言葉に少し心臓が跳ねた。アイが、好き と言ったことに対して不快になった事は事実だが、口が裂けてもそれは言えない。しかしだ。俺がそんな事を考えていて、隣のエルフが気付かないわけがなかった。
「杏様、もしや嫉妬ですか?」
案の状、俺を見上げて問い掛けてきた。というか、顔が近い。もう少し近づけば唇と唇が重なるほどに。
「―――それもあるかもしれないな。それよりも……俺もそんな人間になれるのか少し不安にもなったよ……そういえば、俺の前世の名前を聞いていなかったな」
「それもそうですね。あなたの前世の名前は、『ソレア・ソレミニ』。ちなみに女性だったのですよ」
「それが俺の前世の名前なのか……覚えておくよ。教えてくれてありがとうな、アイ」
アイは頷き、目を閉じた。前世が女だったのは少し戸惑ったが、それならアイの『好き』という言葉も胸にすとんと納まった気がした。
「ソレア様は女性ということもあって、思うようにからかえませんでしたので、覚悟しておいて下さいですの」
寄りかかるアイが独り言のように呟いた。
「あぁ。お手柔らかに頼むよ」
アイは微笑むとそのまま静かになった。
不思議な事に、今日来たばかりの世界にもかかわらず、どことなく懐かしい気がする。初めての野宿とアイのおかげで緊張はしているが、それでも、旅行で海外に行った時ほど不安ではない。
「本当に、ここで生きていたんだな……」
そう実感せずにはいられなかった。自分のいた世界の両親が気にならないかと言われれば否定はできない。ポケットに手を入れ、携帯を確認するが、暗闇にぼんやりと光る画面には案の定、圏外とう文字が表示されていた。アイを起こしてもいけないから、活発に活動している小さな脳を落ち着かせ、ゆっくり瞼を閉じた。
……思い出しただけでも恥ずかしくなってきた。
「あら、そんなに嬉しそうな顔をされても困りますの」
「アイこそ、あからさまに頬を染めて、照れる振りをしなくても」
「いえいえ。ソレア様と違って、杏様は男性なのですから、これは振りではないですのよ。昨晩、一緒に寝てわかりました。この気持ちは……ソレア様に対して抱いていた感情とは……」
頬を上気させているアイは見とれてしまうほどに、本当に可愛かった。静かな沈黙が二人の間を取り巻く。
「杏様、そろそろ森を抜けますの」
口火を切ったのはアイだった。確かに周りを見渡すと、今までとは異なり、草木の高さが低くなっている気がする。
「次は街に向かうんだったよな?」
「その通りですの。森を抜けた先にある『アルクアム街道』を進むと、目的地の『ロゼイド』に到着しますの」
そう言え終えると、アイが急に走り出した。
「杏様、早く来ないと置いていきますのよよ」
身を翻し、純白のワンピースがひらひら舞う。俺を誘うその姿は、まるで森に住まう妖精のようだった。見惚れてしまったため、出遅れてしまった。
「待ってくれよ、アイ」
俺も負けじと走り出し、前を走るアイの背中を追う。飛び出した木の枝を避け、足元に転がる大木を次々に飛び越えて、アイを目指す。中学校の体育祭の障害物競争を思い出した。俺とアイとでは、その華麗さは雲泥の差で、どんどんアイの背中が遠くなっていく。
「前から思っていたけど、アイって運動神経良過ぎじゃないか?」
「これは日頃の修行の賜物ですの。杏さまにも修行してもらいますので、覚悟してください」
くすっ と笑って、更にスピードを上げていく。その小さくなる背中を追いかけるために、地面を力強く蹴る。
「……俺も強くなりたいからな。修行は望むところだ!」
「ふふふっ、それは楽しみですの。ビシバシ鍛えて差し上げますね」
その言葉に何となく恐怖を抱いたが、今は気にせずにいよう。だが、どんなにきつい修行でも耐え抜こう。何も出来ないなんて嫌だから。
ふと前を見ると、アイが光に包まれていった。その光は歩みを進めるごとに近くなっていく。横たわる木を飛び越え、光の中へと飛び込む。同時に葉がすれ合う音がした。
「―――!」
目の前の光景に言葉を失った。
「……綺麗だな」
見渡す限り緑。綺麗なライトグリーンの海のようだ。昔、アメリカに留学していた際に映画に出てきそうな広大な草原を目にしたことがあったが、それとは比べものにならないほど綺麗だ。
「綺麗ですわね。『アルクアム街道』、見ての通り、新緑の街道という意味ですの」
「よく見れば道もあるな。というか久しぶりに陽の光を浴びた気がするよ」
走ったこともあって、そのまま後ろに倒れこむと、ベッドのような柔らかい反発を背中で感じる。
「なぁ、アイ。日の光はこんなにも気持ちいいんだな」
風が草原を駆け抜け、緑の波が出来る。横を見ると、アイは一糸乱れぬ姿で立っていた。風になびく金色の長い髪が光を通し、綺麗に輝いている。
「そうですね。お昼寝にはもってこいですの。膝枕でも致しましょうか」
「さすがにそれは恥ずかしいから、遠慮しておくよ」
断ったつもりなのだが、頭の近くに座り膝を叩いて俺を誘っている。
「―‼」
気付くとアイになされるがまま、膝枕をして貰っていた。
「―――ちょっ!アイ!恥ずかしいから、やめてくれって言っただろう……」
「いいではないですか。別に減るものでもないですし、それとも杏様は私の膝枕では不服ですの……」
そんなに悲しげな顔をされると断るにも断れないじゃないか。
「……不服ではないです。むしろ嬉しいくらいです」
「ありがとうございます。ではもう少しこのままで休憩しましょうか」
空を翔ける白い水蒸気の塊を見つめる。どんな世界でも空と雲は変わらずに存在した。青い空はオゾンの色、それは生物が住んでいるという証拠であり、この世界も多くの人々の営みが複雑に重なり合って、出来上がっているのだ。
「さぁ。行こうか」
アイの膝枕とはさよならして、アイに手をさし延ばす。
「了解ですの。では、『ロゼイド』に向かいましょう」
俺の手を掴み、勢いよく立ち上がり、何かを口にした。聞こえたが、聞かなかった事にしよう。ああ、俺は何も聞いていないし、アイは何も言っていない。
「杏様。しらばくれても無駄ですの。先ほど伝えた通り、修行の一環として、走りますからね」
満面の笑みであった。
「確認までに聞いておこう。ロゼイドまでは距離にしてどれくらいなんだ」
「ざっと、十二メルキルなので、杏様の世界だと二十キロメートルだったと思いますの。ですが、準備運動に丁度いい距離ですね」
「―二十キロ…」
「おしゃべりでもしながら走っていれば、すぐに到着しますのよ。では、行きましょう」
「……おぉ」
街についた時には、俺の膝が笑っていた事は説明する必要もないだろう。