第1話
ドアをゆっくりと開く。ドアの隙間から差し込む光に眼を細める。吹き込む風が喉を通り抜け、全身の細胞一つ一つの活動を鈍くする。体を巡った空気は白い水蒸気となり、再び空に戻っていく。
「冬もすぐそこまでやってきているな」
70度くらいは角度のありそうな急な階段を降りていく。カツン、カツン と靴の音が澄んだ空気に響く。雪が積もると、この階段は天然のスケート場に変わり、毎年何人もの悲鳴を生む。
ここは日本のとある街。俺は大学に通い、家賃3万3千円の7畳ロフト付のアパートで暮らしている。特に取り柄があるわけではないが、全ての事に対して上の下ほどの成績を残してきた。比較的出来る人として、周囲の人達からは頼られる機会も多い。
家を出ると周りには多くのアパートが立ち並ぶ。綺麗で洋風のお洒落な建物もあれば、いかにも幽霊が出そうな寮など様々な品揃えだ。坂道を下るとそこには集会場があって、週末には良く地域の子供たちが集まって、懐かしい遊びをしている。
いつもと変わらない通学路。いつも聞いている音楽を口遊み、アスファルトで固められ道を歩く。ここが小説の世界もしくはゲームの世界ならば、いきなり次元のゆがみに捕らわれ、別世界に飛ばされる可能性もなくはないだろう。
そんな非現実はないと知りつつも、思いは膨張する。その世界の郷に従って暮らしていくのは、どの様な気持ちなのだろうか。きっと、友人や家族のいない世界で生きていくのはとても辛いだろう。それにもかかわらず、物語の主人公とはたくましいもので、まっ。どうにかなるか こんな感じで何の抵抗もなく、その世界に溶け込んでいく。その世界自体に現実味がないのだが、その非現実的な世界に憧れを抱く。
信号が赤に変わり、空を見上げ途方もない考えを巡らせる。学校、友人、好きな女の子、将来の夢。遠い未来に思いを馳せる。信号が赤から青に変わり、歩み始める。その瞬間、世界が反転して体の重力を失った。
「見つけた」
どこから聞こえたか正確に判断できない一言とともに、意識が闇に包まれていった。
在りはしないと信じていた非日常。刻々と俺の日常は終わりを迎えていた。
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目の前が明るくなった。見渡せばさっきまでのアスファルトに囲まれた光景とは一遍し、緑に囲まれていた。森ではなく樹海というのが正しいのだろうか。木には幾重にも蔦が巻かれ、その隙間から樹皮がこちらを覗く様に顔をのぞかせている。地面には真紅の花を咲かせた植物や見たことのない緑葉植物で覆い尽くされていた。
「そんなアニメや小説の主人公でもあるまいし、そんなわけないよな」
あまりの出来事に頬をつまむが、痛みを感じた。実際に頬をつねる場面なんてあるのだな と感嘆してしまった。
「あら。その考えはあながち間違いではないと思いますわ」
その柔らかな声に驚き、瞬時に後ろを振り向く。そもそもこんな森の中に人が居るのか疑問に思ってしまった。
「そんな恐い顔をして、こちらを見ないでくださいますか」
上品な顔立ちに腰まである金色の髪。白いワンピースに身を包んだ女性が凛と立っていた。処々に施された金刺繍が高貴さをより表現している。初対面の印象は素直に美人と思えた。しかし、一般的なヒトとは違う点があった。
「その耳の形。君は人間なのか」
彼女の耳は横に細く尚且つ先端が尖っていたのだ。
「私は人間ではありませんわ。私はエルフですの」
「エルフ?あの童話や仮想世界で出てくるエルフだって!?」
驚愕の事実に腰を抜かしそうになった。確かに耳を見た瞬間、にわかにそうではないかと感じたが、その現実を受け入れたくなかった。普段と変わらない日常だったはずが、急に目の前に、エルフです と言う人がいて、 はいそうですね と返せる可能性はゼロに近い。しかし、その現実逃避も束の間だった。
「あなたが想像している通りのエルフですよ」
満面の笑みでそう言った。なぜそんな屈託のない笑顔を向けてくるかわからなかった。俺の心情は無視され、更に言葉がこぼれる。それよりもこちらの心が読めるのか。
「ちなみに、あなたをこの世界に呼んだのは私ですわ」
静かな森にその言葉が染み渡っていく。静寂が二人の間を支配したが、恐る恐る口を開く。
「なぜ、俺をこの世界に呼んだ?」
「なぜって言われましても。あなたは元々はこの世界の住人だったのですが、やはり覚えてらっしゃらないですか」
再び考えていた回答とは違う答えだった。真逆というよりは的を射てないとさえ感じた。だが、その女性は真剣な面持ちで思案していた。
「パラレルワールドってご存知かしら。世界は決して一つではないのです。様々な世界が並行的に存在していますが、ただ行き来や存在を直接確認できませんので、一般的には認知されていませんわ」
「パラレルワールドは知っている。物理法則的には存在し、俺はその存在を信じていた」
実際に信じている。現実の中で非現実に憧れを抱く青年には、いい現実逃避の題材でもあった。一時は、大学や国の図書館に足繁く通い、一連の本を耽読した。俺の言葉を聞くなり、女性の顔は明るくなった。
「それなら話は早いですの。この世界は、ファフニール。あなたが以前暮らしていた世界は、地球と呼ばれていますわ」
彼女は続けた。
「先程申しましたように、僭越ながら私がこの世界にあなたを呼ばせて頂きました。申し遅れましたが、私の名前は、アイ・カムエル。アイとお呼びになってくださいまし。えっと……」
そこで言葉が詰まり首をかしげた。どこの世界でも悩み方は変わらない。アイは両腕を組み片手を頬に当て、うーん と唸っている。暗い顔に花が咲いた。
「そういえば、お名前を伺っていませんでしたの。お聞きしてもよろしいでしょうか?」
そういえば自己紹介もしていない事に気付く。己の動揺と混乱を実感し、少し気恥ずかしくなった。おそらく、誰であろうと、このよう非日常な状況に遭遇すれば同じはずなのだが。
「俺の名前は、佐照 杏」
これが彼女との出会いだった。
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「……杏。そうでなのですね。そういうお名前なのですの」
頬に手を当て、目を細めている。なぜ上機嫌なのか疑問にも思うが、以前の俺との関係が気になる。尋ねる間もなく、アイが続ける。
「あなた様は遥か昔この世界に住んでいましたの」
それからアイの話は10分ほど続いた。ファフニールには国が3カ国ある。古よりの歴史が残る『ベタス』、天の恵みに満ちた『カレム』、科学で技術の発達した『サンテ』。現在も国同士の力は拮抗していて緊張状態である。ちなみに、俺達がいるのはカレム北東部に位置する『緑の楽園~リデ・ルタス』だそうだ。一番の衝撃だったのは。
「えっ!? 俺がその戦いで死んだのか!?」
「申し訳ありません。私たちに力がないばかりに。ですが、今度はきっと守りますの」
「どうしろというんだ!?俺にその記憶はない。……今更。今更、俺には関係ないじゃないか!!」
自然と口から言葉が出ていた。静かな森に罵声が響き渡り、数羽の鳥が飛び立った。俺が戦死し、再びその世界に戻ってきた。なぜ という疑問が頭を駆け巡る。
「もう一度戦えというのか?何も覚えていない、戦う理由のない、この俺に!!お前達の勢力争いに加担しろとでも!?」
次から次に言葉が出てくる。アイは口を噤み、黙って聞いている。それが何を言っても無駄だと言われている気がして、余計に腹立たしかった。
「何か言ったらどうだ!!」
結果、こんな単純な言葉だった。最低だ。一方的に相手の非を並べ、正論攻め。俺の一番嫌いな短所。愛想をつかされただろう。恐る恐るアイをみるが、彼女は笑っていた。
「前世のあなたが言った通りになりましたの。ですが、ご安心なさって下さい。これをあなたに渡すように前世のあなたから仰せつかっていますの」
彼女の手には8つの剣が交差したシルバーアクセサリーが握られていた。それを俺に差し出し、受け取ってくださいの と笑顔で伝える。恐る恐るそれを受け取り、目の前に掲げる。その精巧な作りと、銀の輝きに見惚れてしまった。次の瞬間、ペンダントから光が放たれ、あまりの眩しさに瞼を閉じた。
瞼を開けると違う場所にいた。雪が積もった冬の朝の様に辺り一面真っ白で、どちらかが上で下なのかもわからない。自分が立っているかさえ認識できない浮遊感に宇宙空間を彷彿した。
「なぜ争う?なぜ戦う?国が大事か?」
声が聞こえた。厳格で重々しいが、どこか優しい声。
「誰だ!?」
「そのためには人の死は必要不可欠なのか?大切な人を失い悲しむのは誰だ?お前はそれを見過ごすのか?自身の世界に逃げ込んだままか?」
「こっちの話を聞けよ!お前は誰なんだ?ここはどこなんだ?」
沈黙が空間を支配する。どこまで続いているかわからない先を睨む。
「……わからない。戦争さえ経験したことがない」
「では、質問を変えよう。きさまは家族や友人の死を見て見ぬ振り出来るか?」
「出来るわけないだろ!!」
即答だった。誰であろうと身の回りの不幸を望みなどしない。実際、祖父母の死は大きな悲しみを生んだ。
「では、他人の死は平気なのか?世界が悲しみに満ちているのを見過ごせるのか?」
「……出来れば、出来れるならば救いたいさ。救える命なら救ってやりたい。それが普通だろ?だけど、今の俺に何が出来るというんだ!?何の力もない。前世の記憶すらない俺に」
人の不幸を見過ごせるほど悪党にはなれない。困っている人を助けたい。俺だって困った時は、誰かに助けてもらいたい。そうやって輪を作り、世界の住人になり、悲しみの世界を作りたい。
「きさまなら出来るさ。きさまは我なのだからな」
「お前が!?」
「我が名の下に命ずる。我が力を今これより以って、きさまに継代す」
「ちょっと待ってくれ!!俺は何をしたらいい?」
声が遠ざかっていく。まだ聞きたいことはたくさん残っている。追いかけようにも体が上手く動かない。
「好きにするといい。救いたいのなら救え。守りたいのなら守れ。汝の気の向くままに力をふるえ」
気付けば先程の森に戻り、俺は木に寄り掛かって座っていた。
「…………俺の守りたい者を守れか」
悪くはない。確かにそんな感情が芽生えていた。顔を上げると、満面の笑みのアイが眼に入った。アイは常に笑っている。それがなぜだか心地よかった。
「おかえりなさいませ。いかがでした?」
「前世の俺なのかな。そいつと話をしてきた」
「それであなたはこれからどうなさるつもりですの?」
目を閉じ呼吸を整え、台風の様に渦巻いていた感情を整理する。一つの決心を胸にゆっくり目を開け、アイの眼を真っ直ぐ見る。海の様な青い瞳に吸い込まれてしまいそうだ。
「俺に守れる者がいるなら守りたい。守れる力があるかはわからない。だが、戦いが原因で悲しむ人がいるなら助けたい!!見て見ぬ振りはできそうにないよ」
アイは大きく頷き、手を差し伸べてくれた。
「あなたならきっと出来ますよ」
その言葉が心強かった。
「ありがとう」
アイの手をしっかり握りしめ、体を起こす。この世界に来た時は右も左もわからなかった。今も何も理解できないが、それでも心の中に一つ揺るぎない意思が生まれた。手を空に向けて伸ばす。
「俺はこの世界を変えたい」
深い緑の森に風が吹き抜け、木々が揺れ、一筋の光が差し込み少年を照らす。その光景は青年の新たな旅立ちを後押しているようだった。