中編 光を求めて
海って、本当に塩水なんだ。
匂いで分かる。口の中がしょっぱくなってきた。
それはいいとして、とんでもなく広い。
最初、対岸が遠い川みたいなものかな、って思っていたのに対岸なんてどこにも見えない。あっちも、こっちも、ずっと海だ。
少し見上げると空。同じ青でも色合いが違って、はっきりと境界線が分かる。どちらも綺麗な青だった。
その海に向かってまっすぐ伸びる木製の桟橋は潮を吸って黒く光り、初夏の日差しを浴びてほのかに湯気が立ち上っている。
桟橋の両側には荷物を載せた船がまばらに並んでおり、水夫が木樽や木箱を下ろしている。笑い声やら怒鳴り声がひっきりなしに聞こえてきて、すごい活気がある。
運ばれる荷物は、毛皮や木材、塩漬けの魚といったところか。色んな国から海を渡って、この町にやってくる。
逆に、この町からは毛織物や塩、木工品などが内陸から流れるいくつもの川に運ばれてこの町に集まり、外の国へと出て行く。
ここは、海と川が出会う港町リーフェン。この国の繁栄を支える重要な町だ。
「いい町じゃない」
潮風に揺れる髪を手で整えながら、私は斜め後ろの侍女に声をかける。侍女は、無言で頭を下げた。
この町自体は、家としても個人としてもよくお世話になっている。
私だけではない。王都に家を持つ貴族なら一度はお世話になるはずだ。
王都から一番近くて、舶来品が欲しいならここだ。
私も去年、王立学校入学のお祝いとしてリックから外国製のブローチをもらった。
どの店で買ったのかは分からないけれど、この町で、彼がブローチを手に取ったのだと思うと、不思議と彼の息吹が感じられるようで感慨深い。
港には赤茶けたレンガ造りの倉庫が建ち並び、船から降ろされた荷物が吸い込まれてゆく。
その逆もしかりで、倉庫から木箱や木樽が荷馬車に積み込まれ、桟橋に行ったり町の方に行ったり。商人の声も賑やかだ。
そんな、熱気と活気のある町でリックは働いている。
伯爵である彼は、市場の統制や関税や通行税の徴収、商人との交渉にインフラなど、色々な分野の管理、差配に参画していると聞く。
これが子爵家や男爵家の卒業生となると、実務の方に振り分けられ、下っ端の哀愁を体験することになる。
卒業後の実務研修は、やがて彼らが実際に任される仕事を先取りして体験させてもらえるありがたい制度なのだ。
とはいえ、実習に入って一年も過ぎるとほぼ正規の職員みたいな扱いを受けてしまうわけで。
戦力として数えられるようになったリックは、朝から晩まで町のあちらこちらを駆けずり回っているという話。
権限を与えられ、陳情を聞き、人々と交渉し、裁定を行う。
「これって……研修よね?」
実務に関わるにしても、教育係の監督の下で助言を受けながらではないだろうか。
それをひとりでやらせて、失敗でもしたらどうするのだろう。誰が責任を取るのか。
リックはまだ見習いだ。見習いを前線に投入するなんて、よほど余裕がないのだろうか。
でもそれは役所の問題であって、リックには何の関係もない話。
どうなっているのか、場合によっては文句のひとつでも言ってやろうと向かった先は、赤レンガ造りの三階建の市庁舎。
扉を開くと書類を抱えた役人や兵士、商人らしき男たちがひっきりなしに廊下を行き交い、人込みで雑然としていた。
潮と油と紙の匂いが混じり、あまり気分の良いものではなかった。
それでも足を進め、その辺りの役人を捕まえる。
「ヘンドリック・ファン・ハルデンについて話を聞きたいのですが」
「ああ、ヘンドですか。彼が何か?」
ヘンド? 妙な愛称をつけられたものだ。まさかいじめかと頭をよぎったけれど、役人の顔にそんな暗い感情は見られない。純粋に愛称なのだろう。
つまりリックは変わった愛称をつけられ、それが受け容れられているほどには、周囲から認められているのだ。
「そのヘンドというのは、この庁舎全体で共有された愛称ですか?」
「ええ。彼の同級生からもたらされたものです。王立学校で、そう呼ばれていたとか」
「同期がこちらに?」
「ええ。二人はよいコンビとして頑張ってくれていますよ」
初耳だった。なるほど。二人で一人分と考えればまだ負担は少ないかしら。
でも、教育係は? リックたちに指標を与える人はいるのよね?
それを聞こうとした瞬間。
「その件は、昨日の報告書で無理だとお答えしたはずです」
馴染みのある低い声が聞こえてきた。
反射的にそちらを見ると、扉の向こう、書類の山に囲まれて奮闘している彼の姿があった。ヘンドリック・ファン・ハルデン伯爵。私の婚約者。
王都で見る彼とは違った雰囲気。外套は脱ぎ捨て、袖を捲り、机に手をついた姿は、私に対して見せる貴族然としたスマートな姿ではなく、前線でやりあう兵士のような、実務者の姿であった。
「しかし、それでは納期が……」
「なら代替案を出してください。誰も彼も手一杯です」
的確で、迷いのない返答。確かに忙しそうだ。少し苛ついているようにも見えるし、あえての態度のようにも見えた。
リックはなおも食い下がる商人風の人たちを引き連れ別の部屋へと姿を消した。
私は、役人に振り返る。
「ああいった交渉も彼が? 教育係は?」
「いやぁ……どの部署も人がいなくてですね」
「呆れた。見習いに権限を与えるなんて。それでよく回るものね」
「確かに、仰る通りです。ですが二人は見習いと感じさせないほど有能で……」
「教えることが少ないほど有能なら使ってしまえ、というわけね。気持ちは分かるけれどねぇ」
責めるばかりではよくないので庁舎の多忙な立場に理解を示し、甘い言葉で私はいくつかの情報を引き出す。港の管理、税の取りまとめ、倉庫の在庫確認、治安に関するエトセトラ。
どこでも、多少なりとも彼が関わっていた。しかも、好意的な評価だった。
私が知る彼は、知識を詰め込み苦しむ姿。女公爵の夫になるための、過剰な準備。
でも、ここで彼がやっているのは、責任ある実務。
判断を誤れば、船は動かず、税は滞り、兵は困る。誰かの生活に、直接影響が出る。
逃げ場のない仕事。
しかも、それを一人で抱えている。
詰め込んだ知識を役立てていると言えば聞こえは良いのだろうけれど、これでは忙しいはずだ。
「実務研修の域を超えている……」
ぽつりと呟いた私に、役人は何かで突かれ、痛みをこらえるような表情をした。
「……正直に申し上げますと、伯爵様は“お礼奉公”の範疇を超えています。ティネ嬢がいるとは言え、いずれ倒れるでしょう」
お礼奉公は実務研修の俗称だ。卒業して一年と少し。そもそもリックは多忙な状況をいかに泳ぎ渡るかの訓練を受けていない。
普通は、教育係がそれを教えるはずなのに、どうやらいきなり実戦投入されたらしい。
まともに訓練を受けず、前線に送り込まれる兵士がどうなるかなんて、誰でも分かるだろうに。
そこまで忙しいのなら人員を増やすべきだ。王家の怠慢にこちらを巻き込まないで欲しい。
事情なんて知ったことではない。倒れる前に止めなければいけない。
怒りがふつふつと湧いて……こなかった。
「ティネ……嬢?」
胸のあたりがぞわぞわする。信じたくない。そういうことだったなんて、思いたくもない。
多少は、顔がひきつっていたかもしれない。なんとか、がんばって無表情を装う。
「ええ。さきほど申し上げました同期の」
この役人はいい人なんだろう。そして、二人に対して良い感情を持っているのだ。
聞きたくない言葉まで飛び出てくる可能性があると思いながらも、私は止めることができなかった。
「……いつも一緒に働いているの?」
「そうですね。研修生ですので、せめて二人で動いてもらおうと」
「朝から夜まで?」
「ええ。夜遅くまでやっている日もありましたね。ティネ嬢は下準備がうまいとか」
「そう……」
ああ。そういうことなんだ。
三年間ともに学校で過ごし、研修でも同じ町に配属され、常に二人で行動していた。
私の知らない物語が、そこにあった。
確証があるわけではない。でも、そう思わないと、ちょっと、立っていられなかった。
馬鹿みたい。
彼のために悩んでたのに。
部屋の木戸が閉められたような気分だった。
まっくらだ。
光なんて、どこにもない。
◇ ◇ ◇
結局、朝までほとんど眠れなかった。
どうしていいのか分からない。
準備された朝ご飯は少ししか食べられなかった。
新鮮なお魚なんてこの町でしか食べられないのに、それでも欲しいとは思えなかった。
たったひとりの名前で、朝の空腹を忘れさせ、心を乱すなんて。
「クリスティネ・ファン・ステーンヴェイク……?」
従僕が知らせたその名前を聞いて、私は少し首をかしげてしまった。
まだまだ勉強が足りないと眉を寄せ、頭の中の貴族辞典を大急ぎでめくる。
左上に浮いた視線が右へ。また左へ戻り、右へ。
そんなことを二回ほど繰り返しただろうか。ようやく私はその記事に辿り着いた。なんとも小さな文字だった。
「ああ……子爵」
「御意。ゆくゆくは子爵位をつぐそうです」
「へぇ。私と同じね」
「は……」
「そして、リックと同じ、か……」
従僕と話を交わすと、だんだんと小さな文字が大きくなり、はっきりと読めるようになる。
そして、彼女の名前と項目が新たに追加された。
私と同じく女性にして爵位を引き継ぐ予定であり、リックと同じく研修が終われば叙爵する予定。
「子爵、かぁ……」
小さく、長くため息をつく。
浮かんできたちょっと嫌な気持ちを、押し流すように長いため息を。
それでもまだ何かがひっかかっているけれど、それは見ずに別の考えで頭を埋める。
彼女が、リックと距離を近くする理由。何を目的として、それが行われているのか。
政治的に考えれば、あんな行動をとれるはずがない。
とは言え、貴族の世界で生きる二人が感情に任せて突っ走るとも考えられない。
あれやこれやと考え、否定しきれない可能性が次々と積み重なってゆく。
気がつけば、そこには立派な雪だるまが完成していた。可能性の雪だるまだ。
雪だるまがじっと、こちらを見下ろす。私はその大きさに圧倒されてしまった。私が考えすぎて、ここまで大きくなってしまったのだ。
ぱらぱらと雪のかけらが落ちてきて、私に降りかかった。
こつん、と塊が頭にぶつかり、じわりと冷たさが頭の上を広がってゆく。私は思わずぶるりと身震いした。
その冷たさが、私を冷静にした。
初夏なのに雪だるまって。
私の想像力もたいしたものだと苦笑いすると、雪だるまも大きく笑って溶けていった。
やれやれ。名前ひとつで突っ走るなんて、先走りもいいところだ。
だって私は彼女の名前しか知らないのに。リックと彼女はどんな風に山積みの仕事を捌いているのかも分からないのに。
私がやるべきことは、妄想の世界で泣き叫ぶことではなくて、現実の世界で事実をひとつひとつ確認してゆくことだ。
席を立ち、従僕に声を掛ける。
「もう一度、庁舎に行くわ。面会の希望を」
従僕が頷き部屋を出る。侍女が私の元へと吸い寄せられ、身支度を整え始める。
「あ、ちょっと待って」
侍女を手で制し、私は椅子に座り直した。
「せっかくのお魚、食べないとね」
煮汁が臭くなくて、身崩れしないお魚なんて、ここでしか食べられないのだ。しっかり味わないとね。
◇ ◇ ◇
少しだけ、という条件でリックを呼び出してもらい、応接室を借りて向かい合う。
扉を開けた瞬間から、リックは不機嫌そうな様子を漂わせていた。表には出さないものの、いつも以上に張り詰めた空気は私を突き刺さんばかりだった。
それもそのはず彼は今日も多くの仕事を振り分けられ、夜更けまで仕事をしなければいけないのだ。私なんかを相手する時間も惜しいだろうし、早く帰れと剣を突き立ててもおかしくはないだろう。
ソファに腰掛けたリックのまぶたは腫れぼったい。普段は整っている髪も、今日はところどころ跳ねていて無理に抑え込んだような感じだった。膝の上に置かれ、軽く握られた指にはところどころ切り傷が見え、それは書類で切った跡だろう。あれ痛いのよね。
さて、と。私はゆっくり、長く息を吸い込み尋ねる。
「今日も、忙しいのね?」
「……そうですね。このところ、特に」
忙しいからさっさと帰れ。そんな含みを持たせた言葉だ。
でも私はここではいそうですねと帰るわけにはいかない。できるだけ多く確認しなければならないのだ。
婚約破棄する理由を、しっかりと、破綻せず、組み上げるために。
こんなこと、やりたくもないけれど。
「……毎日そうなの?」
「はい。一番遅くまで残っております」
「抗議を入れてもいいのよ?」
「必要ございません。破綻せずにやれております。ですので」
ですので、これにて失礼とばかりに腰を浮かせる。
「ティネ嬢とふたりだから?」
ぴくりと身体が揺れた。恐る恐る、ちらりと送られる視線をしっかりと受け止める。
残念だけど、予想している感情なんて私のどこにもないわよ。
今の私は、雪だるまなのだから。
「ヘンドさんとよいコンビだそうね」
「……はい。とても助かっております。日々、内政は不向きだと思い知らされております」
椅子に座り直し、リックは唇を固く結ぶ。
どういうことだろう。リックは、ハルデン伯爵としての役割だけをやっていたいってことかしら。
つまり、内政を求められる公爵の夫としての役割は荷が重いから、婚約は破棄して欲しいと言っている?
それはもちろん、そのつもりだけど。
それにしては、なぜ、毎日頑張っているのだろう。
破綻せずやれているのは、与えられた仕事を果たそうと必死で努力しているからだ。
それ以上に、公爵の夫としての学びを続けているのはどうしてか。
婚約破棄して欲しいならこれ以上の勉強は必要ないはずだ。
「それでも、貴方が頑張っているのはなぜ? 仕事以外にも、忙しく勉強しているのはなぜ?」
「それは……義務でございます」
「何に対して? 私のことを、どう思っているの?」
真正面から問うと、彼は一瞬だけ目を大きく見開いた。その茶色い瞳の奥に、何かがよぎった気がした。
「……大切なお方です」
彼もさるもの、それなりに経験を積んでいる証としてすぐに模範解答を差し出した。
「それは、義務として?」
机を回り込み、彼との距離を詰める。手を伸ばせば触れられる距離。彼は動かない。ただ、視線だけがわずかに低くなる。
「……私は、貴女を憎んでいるわけではありません」
むりやり絞り出したような、低い声だった。
「ですが……、愛してもいません」
静かに落とされた言葉は、だけど思ったより冷たくなかった。むしろ、どこか痛みを含んでいるようにも聞こえた。
よく言えましたって、彼の頭を撫でてあげたくなった。
「そう」
ふわっと笑ってみせる。上手く言えているだろうか。
「なら、婚約を解いてもいいのよ?」
空気の流れが止まった。
彼の瞳が、はっきりと揺れた。ぴくりと腕が動く。
一歩、踏み出しかけて、止まる。
リックは、首を左右に振った。
「私は、次期ハルデン伯として、公爵家に仕えています。公爵閣下のお気持ちもあります。違えるわけには、まいりません」
それが、彼が頑張っている理由。
「そう。分かったわ、リック」
私は、にこりと微笑んだけれど、彼はほんのわずかに、不安そうな顔を見せた。
言えないことがある。
言ってしまえば、全部崩れる。
私は、それを崩したかった。
それはともかくとして、そもそも私が公爵家を継ぐことが決まった時点で、家格的に婚約は破棄されるべきだったのだ。
それなのにお父様の重い気持ちのせいで婚約を続けてしまい、彼に負担をかけてしまった。
迷惑料として、私が悪者になる必要があるだろう。
まぁ、ダメでもともと。
運よく砂金が見つかればいいな。




