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前編 春は遠く

 厳しく冷たい風はいつしか、優しく温かな風に変わっていた。

 温かな日差しは固く閉じられた蕾をゆっくりとほぐし、開花を促す。

 それはまるで、まどろむ花の精たちに春の女神が目覚めを促しているかのようだった。


「いやはや……」

 

 そんな微笑ましい風景が目に見えるような庭園において、東屋だけがなぜかまだ、冬の様相を示している。

 

「……何か?」

「いいえ。ひとりごとよ」

 

 いや、東屋は悪くない。東屋は被害を受けた側だ。お茶会をするための場所として、選ばれたがゆえに凍てつく風にさらされているのだから、気の毒な話である。


「……左様でございますか」

 

 それきり、彼は興味をなくしたかのように再び、視線をティーポットに戻す。

 まぁ、最初から興味はなさそうだったけれどね。私が何かを言ったから反応せねばならない。どうせそんなところだろう。


「どうぞ。マルレーナ様」

 

 流れるような動作で彼は私の目の前にカップを置く。ヘンドリック・ファン・ハルデン。私の婚約者様だ。


 改めて見上げる彼は、平均的な背丈をしている。私より頭ひとつ分くらい大きいかな。子どもの頃からそんなに首が痛くならなくて助かっていた。

 でも、体つきはがっしりしていて無駄がない。立っているだけで頼もしさが滲む、そんな人だった。さすが武門の家の次期当主。私の家を軍事面で支えてくれるはずの人だ。

 

 顔立ちはどちらかというと濃いめで印象深い。少しだけ鼻が低い彫刻みたいだ。短く整えられた茶色の髪は、上質な狐毛のよう。冬の女神に撫でられゆらゆらしている。よく凍らないものね。

 

 そして髪の毛よりも深い茶色の瞳は、木目のように静かで、幼い頃の私にはとても温かく、安らげる色だったのだけど、今の私には枯れ葉のように冷たく見えた。枯れ葉の下は、黒い土。

 

 身につける服はちょっと大きめで、どうやら私に合わせて少し背伸びをしてくれているようだった。財力的な意味ね。 

 デザインなどはいつも通りの、武門の家らしい簡素なものであっても色が違う。上流の証とされる、均一に染められた深い青。

 こういうところに彼の慇懃無礼さがよく表れている。これくらいやっておけば、よもや敬意が足りないだとか、無礼だとかは言われないだろう、と。

 

 まぁ、その擬態がどこまでどうなのかはともかくとして、外見上は公爵令嬢の婚約者(格下の家の貴族)を演じているのは確かだった。

 今日だって実習先のリーフェンから馬を飛ばして帰ってきてくれた。ひとえに月に一度のお茶会の約束があるからだ。休みが少ないから、仕事や勉強で疲れているから許してほしいとは絶対に言わない。お茶会のあと、またリーフェンに舞い戻らなければならないというのに。

 

「……うん。おいしいわ。やはりリックの紅茶が一番よ」 

「恐縮です」

 

 いくら私が笑顔で感謝の言葉を述べても、彼は無言で頭を下げるだけ。

 私への呼びかけも、いつの間にか敬称に変わっている。まるで、熱が冷めるかのように。


「ねぇ、リック」

 

 あまり沈黙が続くのも周囲に不審がられてしまうだろう。久方ぶりの春のお茶会だ。私は、この時期になるといつも思い出していることを彼に振ってみた。

 

「覚えてる? 春の女神の話」 

「花の精を目覚めさせるという?」 

「そう。あの話、どう思う?」

 

 覚えていてくれたことが嬉しくて、少し期待を込めた目で彼を見てしまった。

 

「……否定する材料がありません。目に見えないもののお話ですが、見えないからすなわち存在しないと断じるのは、早計に思えます」 

「……そうね。そうよね」

 

 言い方。

 

 ため息が自然に出てくる。もっとうまい答え方は、あなたの持っている台本には書いていないのかしら。

 

 確かにその温度差は、近くに、長く仕える者しか分からないだろう。

 でも、近くにいれば必ず分かる。

 そんな演技で、何がしたいの?

 そんなに疲れているのに?

 ときどき、ふらりとテーブルに手をついているの、気づいていないと思ってる?

 紅茶を淹れる手も少し震えていたよね。

 

 彼がそこまで頑張る理由って、何なのだろうか。ごめんなさいって一言頭を下げたら許してくれるって、これまでの付き合いで分かっていそうなものだけど。

 そういう機微すら見えなくなっているのか、それともやっぱりお父様(公爵家)が怖いのか。

 ……もしかして、不貞?

 まさかね。

 

 でもこれって、いつからなんだろう。紅茶を飲みながら、考えてみる。

 はっきりとした時期は分からないけれど、いきなり切り替わったということはなかったように思う。

 どちらかというと徐々に、徐々にだ。

 幼い頃を考えると、本当に変わったものだと感心するくらい。

 だってあの時、私が初めて春の女神の話をした時は、もっと寄り添った返事をしてくれたものだ。私は決して忘れはしない。


 ◇ ◇ ◇

 

「……マルはロマンチストなんですね」

 

 彼はそう言って、優しく笑ってくれた。

 それはとても温かな瞳で、当時十歳の私は、全身の全てを春の陽気で包まれたような気分になった。こんな世界があるのだと、知らず見とれてしまった。

 

 でも、その時の私にはまだ早かったのだろう。はっとして、これはからかわれたのだと勘違いして、頬を膨らませてしまった。

 

「そんなことはありませんわ。これはしぜんのせつりなのです」

 

 意地を張り、私なりに考えた理論をつらつらと述べる。もし、花や木に心がないならば、春になると同時にそれらは一斉に花を咲かせ、季節が過ぎると一斉に種を残し、散りゆくはずだ。

 でも、同じ株についた蕾でも咲く時が違う。女神や精霊を否定するなら、この違いをどう説明するのか。

 わが公爵邸自慢の庭園に咲き始めた花々を背に、胸を張って私は、得意げにご高説を唱えたのだ。


「……なるほど。それは確かに、一理ありますね」

「でしょう?」

 

 彼は笑い飛ばさず、そして否定もせず、ただ大きく頷いてくれた。家族や侍女は笑いをこらえ、あいまいな表情を浮かべるだけだったから、彼の反応は私の子供心をすごく満足させた。

 

 この時、彼は少しほっとしたような表情をしていたけれど、満足感でいっぱいだった私はそれを流してしまった。

 ここで捕まえることができていればもう少し違う未来があったかもしれないけど、十歳の子どもには無理な話だった。

 

「……それでは、東屋に行きましょうか。難しいお話をされて喉も乾いたでしょうし、美味しい茶葉を用意しております」 

「うんっ!」

 

 紳士的な仕草で手を引かれ、私は東屋へエスコートされる。

 紅茶を淹れる姿も様になっている。いい香りがこちらに流れてきた。

 

 どこへ行っても自慢できる婚約者だと思った。

 私の話をしっかり最後まで聞いてくれて、馬鹿にしたりしない。

 穏やかで優しい。

 顔もいい。少し濃いけどそれは武門の生まれらしいから仕方ない。

 

 生まれる前から決まっていた婚約者だなんて、最初はどんな人かと思っていたけれど、こんな人なら大歓迎だ。

 この人となら、私は一緒にいられると思った。

 

 ……そりゃぁね。あれから何年もの時が流れたわよ。

 大人になるにつれ、色んな出会いがあって、こんなちんちくりんなんて、と思ったとしても理解はできる。

 彼と初めて出会ってから年月は過ぎ、気がつけば私は十七歳。一応は淑女と呼ばれる年齢になったけれど、同年代の学友たちと比べて色々と足りず、未だ追いついていない部分がある。その辺りを考えればまぁ、そうなってもね、と思わないでもない。体の線がはっきり出るはずのこのドレスだって、すとんと下に降りている。

 

 でも、私が女性として魅力的ではないから無理です、とは言えないのがこの世の中というもの。

 だってこの貴族の世界で、公爵家の婿を断るという選択肢は、彼の意思に関係なく最初から存在しない。

 

 だから彼は、慇懃無礼という道を選んだのかしら。

 気持ちはないけれど、断ることはできないから。せめて敬意は示していると外部の人へのアピール?

 ……それだけではないと思うんだけどな。


 

 私が彼の変化にはっきりと気づいたのは、去年あたり。彼とは入れ替わりで王立学校に入学した頃だ。


 きっかけはある。ものすごく分かりやすいくらいに。でもそれはきっかけで原因じゃない。

 それでも彼は、現実に負けまいと頑張っていたように見えた。

 だから私は、気づかないふりをして、彼の負担にならないよう、要求は極力控え、努めて笑顔だけを見せていた。

 

「ねぇ、リック」

 

 と、昔からの愛称で彼を呼び続け、ずっと、私の気持ちは変わっていないことを示していた。

 私だけは、変わらないでいるよと。

 

 例えば、夜の街道をゆく旅人にとって、あそこに行けば必ず小さな宿場町があるんだという安心感。 

 いつでも思い直していいから。いつでも帰ってきていいから。そういう存在に、私はなりたいと思った。

 

 我ながら、いじらしいものだと恥ずかしくなる。

 でも、そう思ったのはそれまでの彼が私に良くしてくれたから。春の女神の話なんかはそのもっともたるものだ。

 

 あるいは気持ちなんて最初からなかったのかもしれないけれど、それでも良くしてもらった思い出があるから、こちらからは捨てがたいと思うからこそ、様子を見ようと思えたのだ。


 しかし、リーフェンへととんぼ返りする彼の背中はずいぶんとしょぼくれて見えた。

 

「……調べるか」

 

 少しずつ小さくなる馬上の彼をいつまでも見送りながら、私は動く決意をした。

 

 まずは、調べないと。夜道で灯りがいるように、決断するにも情報が必要だ。その上でどうするかを考えよう。


 とはいえ、どうも敗色濃厚だ。

 どこかに、逆転の一手は残されていないものかなぁ。

 私はずっと、思い、願っている。

 

 

 ◇ ◇ ◇



 一年前の話。 

 その日はとても寒い冬の日だった。

 来年の春には、王立学校に入学する。残念だけどリックとは入れ替わりだ。

 王立学校で三年間勉強をして、そのあと残りの公爵教育を少し。これでようやく晴れて結婚だ。

 

 十歳で彼と出会って、もうすぐ十六歳。

 それでも、彼の花嫁になる道筋から言うとやっと折り返しを過ぎた辺り。公爵家からの嫁入りは、なかなかに準備が必要なのだ。


 そう。この時までは、私が彼の家に嫁入りすることになっていた。

 状況が変わったのがこの年の始め。春を迎える前のことだった。

 よく咳をしているな、と心配していたお兄様が、あっけなくお亡くなりになったのだ。

 

 公爵家は上を下への大騒ぎ。

 だって、お父様の後を継ぐべき人は、お兄様だけだったのだから。


 お兄様は未婚で(婚約者はいたけれど)、当然、子どももいない。

 そして、残るきょうだいは私だけ。

 あれ?

 これってもしかして。


「……マルレーナ、すまんがそなたが公爵家を継いでくれ」

 

 お父様が疲れた顔で私の肩を叩き、無慈悲な確定が私の夢見ていた未来を粉々に砕いた瞬間だった。

 

 いい伯爵夫人になろうと頑張っていたのになぁ。

 

 公爵の跡継ぎとなることよりも、伯爵夫人としてリックを支えられなくなることの方が悲しかった。

 

 公爵家の跡継ぎに必要な教育がこれから山と積まれてゆくだろうけど、これはまぁ何とかなるんじゃないかと思った。

 我が家にはノウハウがあるし、実際にそれを乗り越えて公爵になったお父様という実例がいるから、色々と聞くこともできる。

 

 問題は、リックの方だった。

 お兄様の葬儀のあと、少しして、彼は私に告げた。

 

「……これからはマルレーナ様とお呼びいたします。次期公爵様に、もはや愛称呼びはできません」

 

 瞳を少しも揺らさず彼が言った時、私はなぜか、胸の奥に小さな引っかかりを覚えた。

 はっきりとした理由は分からない。でも、何らかの意図は感じた。それが言葉通りの意味ではなさそうだと。


 お兄様の死によって彼の生活は一変した。

 それまでの彼は自分の目の前に敷かれていたハルデン伯爵という道をただ歩くだけでよかった。

 二年間だけ、王立学校の卒業生に課された地方の公的機関での実習に励むが、それが終わればあとは粛々とハルデン伯爵としての学びだけに集中すればよかった。

 

 なのに、目の前の道がきれいさっぱり消えてしまったのだ。ある日突然。それもいきなり。

 寿命を迎えた人が、貴方の道はここまでですよ、と告げられるのとはわけが違う。だって彼の道はまだまだ続くはずなのに、消えてしまった。

 彼は、公爵家に婿入りしなければならなくなってしまった。単なる伯爵ではなく、女公爵の夫、という立場に変わってしまった。

 だってそうでしょ。私が公爵になるんだから。伯爵家に公爵が嫁ぐわけにはいかないもの。

 

 彼の周囲は、深い霧が包まれたはず。足元には荒れた土。道らしきものは見えない。おそらく、一面の荒野。どこにも道はない。

 そんな、気分だったのではないか、と後になって思う。

 

 どうしたらいいか分からず、さりとてどうにかしなければならない。

 女公爵の夫って、何をするものなのか。補佐人、あるいは代理人であるならば、相当の知識が必要だ。伯爵家の教育だけでは追いつかないのは簡単に想像できる。

 

 ならば、どうすればいい? 誰に家庭教師を依頼すればいい? 伯爵家独自の軍事教育は並行してやらねばならないのだろうか?

 考えれば考えるほど、やるべきことだけが増えてゆく。

 その様子は、見て分かったし、耳にも届いていた。

 

「……分かったわ。無理しないでね。手伝えることはあるはずだから」

 

 だから私は、彼の意思を尊重して尊称呼びを受け容れた。

 頑張る彼の負担になりたくなかった。いつも通りに色々と話をすると、何かを欲しがっているのだろうか、などと誤解して、手を煩わせてしまうことにもつながりかねない。

 私は、とやかく言わず、黙っていることを選んだ。

 

 なにしろ彼には時間がないのだ。私が今年、王立学校に入学して、卒業するまでの三年間。いや、彼の中ではプラス二年か。五年間で、ある程度の形にしておかなければならない。公爵家の婿として相応しい人間にならなければならないのだ。

 やることがとてつもなく多い彼にとって、一分一秒が大切な時間である。私にかかずらわっている暇なんてないはずだった。


 それでも、彼は頑張ってくれた。休みのたびに馬を飛ばし、戻ってきてくれた。

 最初のうちは彼も武門の家らしく、体力でカバーしていたようだったけど、夏になるころには疲労が見えるようになった。目の下にくまをつくり、ふらつくこともあった。

 彼は、女公爵の夫として、どこまで知らなければいけないのか、何ができなければいけないのか。そういうことを一切、私たち公爵家に頼らずに調べ上げ、手当たり次第に詰め込んで。やるべき範囲を明らかに超えていた。

 あまりの疲労っぷりに、何をやっているんだろうと調べてびっくりしちゃった。公爵教育の課目を、ほぼ全てやってるんだもの。よく調べられたわね。誰に教えてもらったんだろう。大きな負担になるのは当然だ。そこまでする必要はない。

 

 だから私は、お茶会はもうやめようと提案した。体力的な心配もあったし、距離の問題。呼び方を変えて心理的な距離をとった次は、物理的な距離をとりたくなるものでしょう?

 

 ここまで意地を張るのだから、存分に。

 できれば、頼ってほしかったけど。そうすればかなり楽をさせてあげられたのにな。

 例えばさっきのプラス二年。

 お金を払えば免除されるって、彼は知らないだろう。

 どこまで勉強すればいいとか、範囲を絞って楽をさせてあげられたのに。

 

「……お気遣いありがとうございます。難しいことだらけですが、やりますよ。貴女のために」

 

 彼、は笑顔で首を振った。気持ちのこもらない寒々とした笑顔。なんて完璧な拒否。

 でも、事情を知らない誰かがこの言葉を聞けばきっと、感動するだろう。突然に降って湧いた不相応な身分に、少しでも近づこうと不断の努力をする。それはひとえに、公爵令嬢への愛ゆえに、と。


「そう……無理はしないでね」

 

 それて私は嬉しかった。回数は減るものの、お茶会が続く。まだ糸はつながっているのだと思ったから。

 それに、そもそも私には彼を止める権利がない。

 彼が取り憑かれたように学ぶのは、私の家に原因があるからだ。

 だからこそ私は、それがもし呪いになっているというなら、解いてあげないといけないと思う。歩み自体を止められなくても、歩む目的を消すことはできると思う。


 

 ◇ ◇ ◇


 

 それは、私が生まれる前。

 そして、彼が生まれてすぐのころ、この国は他国と戦争をした。

 当然、この国の有力諸侯の一人として、我がメーリス公爵家もお父様が軍勢を率いて出陣した。

 

 戦というものは、相手よりも多くの兵士を揃えた方に天秤が大きく傾くものらしく、残念ながら我が国は相手より兵士の数を揃えられなかったらしい。


 そんな中でも我が公爵家の軍はとても善戦し、任された方面を粘り強く維持し、敵につけいる隙を与えず、戦線を維持し続けたとか。

 これは、全てリックのお父様のお陰らしい。

 お酒の入った時のお父様は、いつもそうやって涙を流す。

 

「お前も感謝せねばならん。今、お前がいるのはバルタザールのお陰だ。あやつがいなければ私は土の中よ」

 

 何十回と聞いた言葉。

 バルタザール様は、リックのお父様。生まれたばかりのリックを置いて出陣し、お父様に代わって作戦の立案や兵の指揮をしていたらしい。

 

 当主のくせに全てを部下に投げつけて、と思われるかもしれないけど、ハルデン家のような専門家がいる場合は、あまり口出ししない方が正解だ。

 お父様だって軍事の勉強はなさっているから、気になる点や言いたくなることもあっただろう。

 でも、下手に口を出してしまうと、部下は主君の意に沿った作戦を考えなければいけなくなる。そんな作戦が、制約なく自由に考えられたものと比べて勝率がどうなるかなんて、考えなくても分かるだろう。

 ぐっと我慢して専門家に任せるのも、主の度量ってわけ。


 そうしてお父様は頑張っていたけれど、他の戦線では不利を覆せず、気がつけば戦線を維持しているのは我が家ともうひとつ別の家の軍勢だけになってしまった。

 それは、王家直属の軍も打ち破られたということ。バルタザール様もこれはもう無理だと撤退を進言した。

 

 お父様は隣の戦線と語らい、歩調を合わせて退却した。だけど、残念ながら退却するための路はひとつだけしかなく、人の良いお父様は迷うことなく味方の軍を先に逃がしてしまった。つまり、しんがりを我が家が務めたことになる。


 お父様は、なぜかバルタザール様と一緒に一番後ろで戦ったらしい。無茶よね。

 お父様たちは頑張ったけれど、周囲の騎士たちを少しずつうち減らされ、ついにおふたりともが敵中に孤立することとなる。

 

「お互い幼いとはいえ、跡継ぎがいるのだから、まぁ死んでもよかろう」

 

 逃げ切れないと思ったお父様はバルタザール様に笑いかけたのだという。

 でも、当然、バルタザール様はとんでもないことだと首を振った。子どもはいくらいてもいすぎることはないと。

 

「おひとりでは病を得てお倒れになればそれで終わりですぞ。公爵家が途絶えてしまいます」

 

 当時はそんなことありえないと思っていたが、まさか現実に起こるなど……と、のちにお父様は涙を流すことになる。


 かくして、バルタザール様の犠牲によってお父様は辛くも虎口を脱し、無事に帰国することができた。

 お父様はバルタザール様に感謝と謝罪の気持ちを一生に渡って抱き続けることになり、その贖罪の一環として、いずれ娘を得たならバルタザール様の忘れ形見であるヘンドリックに嫁がせると宣言した。

 

 そして、私が生まれた。


 うん。重たい。

 こんな重い感情を押し付けられ、「いや婚約解消したいです」とは言えまい。

 なにより、ハルデン伯爵としてメーリス公爵に仕えている以上、リックは逆らえない。

 だから、これは呪いのようなものだと。

 

 でも、早晩、限界を迎えるだろう。

 ならば、私がお父様から怒られることで、リックを楽にしてあげたい。彼は今までとてもよく頑張ってくれた。

 

 とりあえずは情報が欲しい。

 終わらせてあげに行くつもりだけど、どこかに光は落ちていないかな、なんて。

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