婚約破棄も何も、婚約していると思っているのは貴方だけな件について
十六歳の誕生日を半年後に控えた頃。
侯爵家で開かれる夜会の招待状が届いた時から、伯爵令嬢のサンドリーヌは少しだけ警戒していた。
彼女に招待状を送ったのはロッシェル侯爵夫人。ニコラ侯爵令息の母なのだが、彼女は息子に甘いことで有名なご婦人でもあった。
ここ数か月、出向いた夜会で遭遇するとサンドリーヌに小言を告げることが多い。
親戚でも何でもない、あえて言うなら見知らぬ他人のご婦人にどうしてくだらないことで注意を受けなければならないのか、首を傾げる日々を送っていた。
あえて心当たりを上げるなら、ニコラには昔からべたべたと引っ付かれて絡まれていたから、その関係かもしれないな、とその程度。
とはいえ、ニコラはどうやらサンドリーヌの妹のエリエットとずいぶんと仲良くしているようだから、矛先はそちらに向けてほしいと心から思う。
だが、現実は彼女の予期しない方向へと突き進んでいた。
侯爵家なので当然ながら伯爵家より広い広間には、年頃の令嬢と令息が集まっている。
夜会の主催である侯爵夫人の年齢を考えれば、ずいぶんと年齢層が若い。
その割に、テーブルに出されている料理やお菓子たちは流行のものではなく、年配のご婦人たちが好むものが多かった。
(流行に敏感に生きるって大変よね)
他人ごとのように、というか他人ごとなのでそんな風に考えながら、彼女はクッキーを一枚つまんだ。
さくさくとした生地は美味しいが、最近の感覚だとただの型抜きのクッキーでは時代遅れだ。
今どきの流行は造形にこだわった、目で見ても楽しいお菓子である。
(お母様に行くように言われたから来たけれど、早く帰りたいなぁ)
二枚目のクッキーに手を伸ばすか迷ってやめた。
味もさして美味しくなかったので、無理に食べる必要もない。
小腹は空いていたが、この様子だと他のお菓子や料理も期待できないだろう。
ドレスでお腹が締め付けられていて、少しだけ空腹が紛れるのが救いかもしれない。
広さだけはある会場だが、飾りつけもどこか時代を感じる。
主催の侯爵夫人のセンスが流行に乗れていないのだ。
それでも文句を口にする令嬢や令息がいないのは、ひとえに主催が『侯爵夫人』という立場だからである。
誰にエスコートされるわけでもなく、顔見知りからの挨拶に応えていたサンドリーヌは、派手な音楽がかき鳴らされたことで視線を向けた。
音楽隊の奏でるこれまた時代遅れの音楽に合わせて入場してきたのは、ニコラとエリエットだ。
とうとう婚約を発表するのだろうかとぼんやりと眺めていた彼女に、けれどなぜか会場をぐるりと見回したニコラの視線が向けられる。
そして。
「サンドリーヌ・フォレスティエ! お前との婚約を破棄して、僕は愛しいエリエットと生きていく!」
びしりと指で差されたうえで、高らかな宣言を受け、名指しされたサンドリーヌは思わず首を傾げた。
ニコラの隣には彼女の妹が勝ち誇った顔で笑みを浮かべていて、エリエットの肩を親しげに抱いたニコラはぱちぱちと瞬きをするサンドリーヌに向かって、さらに声を張り上げる。
「お前はエリエットに悪辣非道なことをしている! よって僕との婚約を」
「私、貴方と婚約しておりません」
舞台役者にでもなった気分なのだろうか。
ずいぶんと自身に酔いしれた様子でサンドリーヌからすれば意味の分からないことを喋るニコラの言葉を遮って、彼女はぴしゃりと言い放つ。
「強がりを言うな!」
「事実です」
「お姉様、婚約破棄がショックすぎて気が触れてしまったのね」
ニコラの言葉にさらに反論すれば、今度はエリエットがわざとらしく目元を押さえる。
あまりに失礼な言い回しに頭痛を覚えながら、彼女は呆れた眼差しを二人に向ける。
「そもそも、私には夫がいます」
普段からあまり外すことのないオペラグローブを左だけ取る。
左手の薬指にきらりと光る指輪を二人からもよく見えるように掲げると、二人は揃って目を見開いた。
「私の夫は彼です」
「は?」
「え?」
そのまま流れるようにサンドリーヌは奥に控えている騎士の一人を示した。
ルイ・カッセルは数か月前に大規模な魔物討伐の任で功績を上げ、国王から直々に一代限りではあるが名誉騎士爵を賜った誇り高き騎士である。
サンドリーヌが水を向けたので、ルイが静かに前に出る。
彼の前に道を開ける観衆の間を悠々と歩き、彼女の隣に並ぶ。
鍛え抜かれた均整の取れた肉体と、凛々しいながらもどこか甘い顔立ち。
ルイは自身も左手の手袋を外して、にっこりと笑顔でサンドリーヌとお揃いの指輪を薬指にはめていることを見せつける。
「お前! 浮気をしたのか!!」
だが、まだ彼らの勘違いは解けないらしい。
顔を真っ赤にしてずれた言い分を並べるニコルに彼女はため息をこらえきれなかった。
「失礼ですね、私は昔から夫一筋です」
「僕との婚約は?!」
「確かに十年ほど昔に婚約は打診されましたが、丁重にお断りしたはずです。貴方は聞いていなかったようですが」
「?!」
白けた眼差しを向けるサンドリーヌの前で、わなわなとニコラは肩を震わせている。
彼は八つ当たりをするように母を呼んだ。
「母上! 話が違う!!」
「わたくしは確かに! 婚約が結ばれたと旦那様から聞いたのよ!!」
慌てた様子で弁明する侯爵夫人を眺めながら、なるほど、と彼女は納得する。
ニコラがやけにサンドリーヌにべたべたと引っ付いていたのも、侯爵夫人が的外れな小言を連発していたのも、全て『婚約が成立している』という勘違いの果ての行動なのだ。
どこでなにがどうねじ曲がったのかサンドリーヌには不思議でならないが、どうやらロッシェル家はニコラとサンドリーヌの婚約が成立していると盛大な勘違いをしていたらしい。
馬鹿なことこの上ないし、いまだに少し信じられない気持ちがあるが、現実として彼らは勘違いされたまま十年を過ごしていたと知る。
(エリエットは私のものをなんでも欲しがるから、結婚を隠していたけれど)
唖然と騒ぎを見つめている妹の姿に、内心で小さくガッツポーズをとる。
エリエットは昔から、姉であるサンドリーヌの持ち物を何でも欲しがって、手に入らないと癇癪を起していた。
サンドリーヌが「これは大切なものだからダメ」と言葉を尽くして伝えても、両親が「新しいものを買ってあげるから」と宥めても全く無駄で、彼女はとにかく「サンドリーヌのものを奪う悪癖」があったのだ。
夫まで横取りされないよう、結婚の事実を隠していた。
結果として功を奏したらしいので、胸をなでおろすしかない。
さすがに侯爵令息のニコラを放り出して、名誉騎士爵のルイを奪おうとはしないだろう。そう思いたい。
「彼が命を懸けて魔物退治に出向いた際に、将来の約束を交わしています。私たちの結婚は、陛下の許しを得たものです」
名誉騎士爵とはいえ、地位は男爵と同程度。
伯爵令嬢であるサンドリーヌを妻に迎えるために、ルイはあえて危険な任務に就いた。その褒賞として、彼女は下賜された形になっている。
つまり、たとえエリエットがルイを欲しがってもどうにもならない。
「なんだと……?!」
先ほどから何度も目を見開くニコラに、このままだと瞳が零れ落ちてしまいそう、なんて感想を抱きながらサンドリーヌは言葉を失っているエリエットに向けてお淑やかに微笑んだ。
「エリエット、その方はきちんと貴女が引き取るのよ。こんな大騒ぎを起こした貴女を貰ってくれる殿方など、いないでしょうから」
「っ!」
エリエットが物心ついてから、大切なものはずっと奪われ続けてきた。せめてもの意趣返しだ。
にこりと微笑むサンドリーヌを心底憎々しげにエリエットが睨むが、怖くもなんともない。
「さようなら。私への用は終わったようなので、失礼いたします」
いきましょう、と隣に佇むルイに声をかけ、サンドリーヌは颯爽とその場を後にした。
▽▲▽▲▽
ルイにとって、サンドリーヌは世界一大切な女性だ。
彼女と共に伯爵家に戻る馬車に揺られながら、一つの問いを口にする。
「お嬢様、よろしかったのですか?」
サンドリーヌを「お嬢様」と呼ぶのは昔からの癖だ。
ぱち、と彼女は宝石とは比べ物にならないほど美しい瞳を瞬かせて、甘やかに微笑む。
薔薇色の頬に小さくてぷっくりとした唇。
艶やかな髪は腰まで伸ばされていて、すらりと細い肢体と合わさると、佇む姿はこの世の何より美しい。
神が下界に遣わした天使のようだ、とルイはサンドリーヌを見るたびにその美貌にうっとりとしてしまう。
「なんのこと?」
「俺は名誉騎士爵で、あちらは侯爵令息でしたから」
自嘲の意図はない。ただの事実だ。
どんなに血が滲むような努力をしても、平民の生まれのルイは侯爵という立場にはなれない。
「ふふ、なにをいっているの? 身分などより、愛する人と結ばれるほうが大切だわ」
サンドリーヌが口にした言葉を、そのままの意味で実践できる人間がこの世に何人いるだろうか。
綺麗事だと笑う人間の方が多いだろう。だが、ルイは綺麗事を綺麗事のまま実行してしまうサンドリーヌの心の清らかさにこそ、強く惹かれている。
心臓がどきどきと煩い。
馬車という閉ざされた空間では、心臓の音が聞こえてしまわないか心配になる。
そっと胸元を押さえて、騎士の礼をとる。
「余計なことを口にしました」
「それより、ルイ。私のことは名前で呼んで、ってあれほどいったのに!」
ぷう、とまろやかな頬を愛らしく膨らませる最愛の人に、ルイはついつい笑み崩れてしまうのだった。
ルイは孤児である。
物心がついた時には両親はいなくて、薄暗い路地で子供同士で寄り添いあって生きていた。
だが、彼が八歳の時に、病が流行った。
医者に掛かれるものは問題はなかったが、医者に行くどころかその日食べる者すら事欠く孤児たちは、次々と病に倒れた。
ルイの面倒を見てくれていた血の繋がらない兄と慕った少年も、逆に彼が面倒を見て妹のように可愛がっていた幼い少女も、病に倒れて儚くなった。
一人取り残されたルイがスリを働いて捕まって。
刑罰として騎士に殴られていたところに、割り込んできたのがサンドリーヌだったのだ。
『その子がなにをしたの!』
『この子供は盗みを働いたのです』
五歳程度の幼い子供だったが、どうみても貴族である彼女の格好に、騎士たちが敬語で答えるのを滲んだ視界で見つめていた。
どうせ見捨てられるのだ、とその時強く思ったことを今でも覚えている。
だが、ルイの予想に反して、彼女は『おかしいわ!』と声を上げたのだ。
『まちがったことをしたら、しかるのよ。たたいたりけったりするのはへんよ!』
彼女にとっての正しいルール。両親に愛されているからこその正義感。
騎士たちはめんどくさそうだった。貴族のご令嬢相手に下手なことを言えば首が飛ぶ。結果、冷めた様子で騎士たちは適当な理由をつけていなくなった。
その場にぽつんと残されたルイに、サンドリーヌは『だいじょうぶ?』と手を差し出してくれたのだ。
傷ひとつない、苦労を知らない手。そのときは、少しだけ憎かった。
でも、誰かの温かさに触れたくて思わず握ったのだ。
汚れたルイの手を嫌がるどころか握り返して、サンドリーヌは満面の笑みで微笑んだ。
『もうだいじょうぶよ! わたしがまもってあげる!』
年下のまだまだ幼い女の子。ルイが面倒を見ていた妹のような子供より、さらに幼く見えたのに。
彼女は太陽のように笑って、ルイの心を救い上げたのだ。
明かりの届かない裏路地で、彼は思考にふける。
とっぷりと夜の暗闇に包まれて、家々の明かりも届かないこの場所は完全な闇となっている。
(あの日から、俺にとっての女神はお嬢様だけだ)
サンドリーヌの『我儘』で引き取られたフォレスティエ伯爵家で、彼は様々なことを学んだ。
彼女の妹のエリエットは、ルイが『孤児だから汚い』と言ってかかわってこなかったのは僥倖だったといえる。
なんでもサンドリーヌのものを欲しがるエリエットだが、唯一欲しがらなかったのがルイなのだ。
そのせいで、余計に彼女はルイに依存した。暇さえあればルイの後ろをひな鳥のようについて回って、愛らしさを振りまいて、余計に彼を夢中にさせた。
彼女から受けた恩に報いたくて、必死に努力した。
マナーも教養も、伯爵家に仕える騎士や執事に師事して教えてもらい、騎士団に入団できる年齢になるとすぐに門を叩いた。
血反吐を吐きながら過酷な訓練に食らいつき、騎士団長に気に入られるように振る舞った。
全てはサンドリーヌを守る盾になるため。
魔物討伐のような危険な任務に志願したのは、無事に討伐できれば国王から直接褒美を賜れると聞いたからだった。
(お嬢様が幸せに暮らせるなら、それだけでよかったんだ)
伴侶になりたい、という下心がなかったわけではない。
だが、自身の望み以上にサンドリーヌの幸せを願う気持ちが強かった。
(旦那様と結託して、婚約を結んだように見せかける。そうすれば悪い虫は寄ってこない、そう思っていたが)
ニコラがサンドリーヌと婚約している、と勘違いしていたのは、偏に伯爵の意思によるものだった。
サンドリーヌは知らないことだが、とびぬけた美貌をもつ彼女は物心つく前から愛らしく、ありとあらゆる貴族籍の男から妻に、と望まれたという。
本当に『ありとあらゆる男から』結婚の打診があった。
上は死にかけの七十歳、下は生まれてもいない性別もわからぬ腹の中の赤子。
より取り見取りではあったが、それが幸福かといえば話は違う。
(旦那様と奥様がまともで本当に助かった)
娘の幸せを願う伯爵と伯爵夫人は、どうにか娘を守ろうとした。
その結果、男同士の友情を信じて年が同じころの息子がいる侯爵に『偽装婚約』を打診をしたのだ。
子の幸せを願う父として、侯爵は快く受け入れたと聞く。
当時五歳同士だったサンドリーヌとニコラは、婚約者に落ち着いた。
ただし『十五歳になれば自動的に破棄される婚約』として書面にもしっかりと明記されている。
なので、サンドリーヌとニコラの婚約は半年前に破棄されているのだ。
彼女には『婚約者がいる』という事実は徹頭徹尾、伏せられていたが。
サンドリーヌにもニコラにも、家にとらわれない愛する人と結ばれてほしい。
侯爵夫人を除く両家の総意であった。
なので、事情を打ち明けられていたルイは彼女に近づく令息たちの身辺調査を徹底的に行った。
(お嬢様に相応しいお相手を、と思っても、年頃の貴族の坊ちゃん方はみーんなダメ。素行が悪いし、センスがない。まともだと思っても、すーぐエリエット様に靡いていく)
サンドリーヌの周りに適齢期の令息が集まらなかったのはひとえにエリエットのせいだった。
姉のものを何でも欲しがる彼女は、少しでもサンドリーヌに気がある様子をみせた令息たちを次々と自身のものにしては捨てていたのだ。
最終的に、ニコラにまで手を伸ばすあたりが悪食の極みだった。
(一度でも他の女に靡いたやつに、お嬢様は任せられないね)
そんな理由から、陛下に「望むものをなんでもいうが良い」と言われたときに思わず「サンドリーヌお嬢様に釣り合う身分が欲しい」と口にしてしまった。
「フォレスティエ伯爵家長女の伴侶となりたい、と申すか」と問い返されて「お嬢様が望むのでしたら」とさらに続けた。
サンドリーヌの意思を確認したうえで、正式に二人は結ばれたのだ。
(エリエット様を警戒するお嬢様が、婚約者すっ飛ばして結婚を打診してきたときは、さすがに驚いたけど)
感謝しなければならないのだろう。
サンドリーヌからすれば『奪われる前に』という危機感の表れだろうが、ルイとしては大変美味しい思いが出来ている。
(後始末までしておかなきゃな)
勘違いも甚だしい傲慢な侯爵令息と、姉のものを奪い続けた女狐から、愛する妻を守らねばならない。
暗闇で顔を隠すためのフードを被りなおして、ルイはにぃっと口元を歪めた。
ガタガタと石畳を馬車の車輪が走る音が響く。
手で遊ばせていた小石を素早く彼は馬車をひく馬の前に投げた。
驚いた馬が前足を立たせる。御者が慌てる声が響いて――馬車が激しく揺れた末に横転した。
(アンタたちが悪いんだ。お嬢様に恥をかかせようとするから)
光の当たらない暗闇から、大騒ぎになった表通りを眺めて、彼はそっと息を吐く。
罪悪感など盗みをしていた頃に亡くしている。ルイが生きるための指針は一つ。
『サンドリーヌに害があるかないか』だけ。
(殺しはしない。だが、同様に二度と表舞台にも立たせない)
馬車の事故は悲惨だ。命が助かっても、腕や足が折れれば社交の場には出ていきにくくなる。
治ったとしても、痕が残るのは確定だ。
たとえ奇跡的にかすり傷だったとしても『偶然の不幸』がこれからも彼らを襲い続けるだろう。
(お嬢様はこんな俺にも微笑んでくださるから)
太陽があるところには必ず闇があるものだ。サンドリーヌが天真爛漫に笑っていられるように、影に徹するのがルイの役目。
(あーあ、お嬢様を抱きしめたいなぁ)
内心でぼやいて、彼は夜の闇の中に姿を消した。
『馬が道端の小石に躓いた不幸な事故』の結果は、――御想像にお任せするとしよう。
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